第22話「朝食という儀式」
凛は寝巻きのまま、キッチンに立った。
冷蔵庫を開ける。ゴムパッキンが「プシュッ」と音を立て、冷気が顔にかかる。庫内の蛍光灯が、貧相な食材を容赦なく照らし出す。
卵6個入りパック(残り2個)。 牛乳1リットル(半分くらい)。 賞味期限が2日過ぎた納豆。 しなびたレタス、葉の縁が茶色く変色している。 開封から1週間経ったハム、パッケージの隅が少し乾燥している。
それだけ。
凛は卵を取り出した。冷たいプラスチックケースが、手のひらにひんやりと触れる。
フライパンを火にかける。コンロの点火スイッチを押すと、「カチカチカチ」という音の後、ボッという小さな爆発音とともに青い炎が立ち上がる。
油を引く。透明な液体が、フライパンの表面に広がっていく。
ジュー――
油が温まる音。それは、この静かな部屋で唯一の生命の証だった。
卵を割る。殻にヒビを入れ、親指で押し広げる。黄身がフライパンに落ちる瞬間、「ジュワッ」という音とともに、白身が放射状に広がった。端から白く固まり始める。
凛はぼんやりとそれを見つめていた。
卵が焼ける音。パチパチという小さな泡の弾ける音。油が跳ねて、フライパンの縁に当たる音。
それだけが部屋に響く。
テレビもつけていない。音楽もかけていない。ただ――静寂。そして、卵の焼ける音だけ。
目玉焼きが完成した。白身の表面には、油で揚げられた部分が薄茶色の斑点となって浮かび上がっている。黄身はまだとろりとしている。
皿に移す。陶器が擦れる音。
食パンをトースターに入れる。タイマーを2分にセット。「カチッ」という機械的な音。
2分間、凛は何もせず立っていた。キッチンの窓から差し込む、鉛色の光。それが白いシンクの表面に反射し、妙に冷たい印象を与える。
チン――
トースターの電子音。パンが焼けた。
取り出すと、熱い。指先が軽く火傷しそうになる。皿に乗せ、マーガリンをナイフで塗る。半分溶けたマーガリンが、パンの表面に不均等に広がっていく。
テーブルに座る。一人で。
いつものこと。でも――今朝は、その「一人」が、いつもより孤独に感じた。
凛は目玉焼きをフォークで切った。黄身に刃先が触れた瞬間、薄い膜が破れて、とろりとした黄色い液体が流れ出す。それが白身と混ざり合い、皿の上で小さな池を作った。
口に運ぶ。噛む。
でも――味がしない。
舌の上には確かに卵の質感がある。柔らかい白身、とろりとした黄身。だが、味覚が働かない。まるで舌が麻痺しているかのように。
何を食べても、最近味がしない。
ただ――口に入れて、噛んで、飲み込む。機械的な動作。生きるための栄養補給。それだけ。
パンも同じだった。マーガリンの油っぽさも、パンの香ばしさも、何も感じない。
凛は水を飲んだ。コップの中の水は、冷蔵庫で冷やしてあったもの。喉を通る時の冷たさだけは分かる。温度は感じる。でも――味はしない。
食事を終えた。所要時間、12分。
皿をシンクに置く。洗わない。後でまとめて洗う――いつもそう思う。
シンクには昨夜の食器も残っている。コンビニ弁当のプラスチック容器。使い捨てフォーク。カップラーメンの空き容器。
全部、後で洗う。
いつもそう思う。でも、結局洗わない日もある。




