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ムネモシュネの箱 ― 73Hzの永遠 ―  作者: 大西さん
第一章「フリマアプリの誘惑」
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第22話「朝食という儀式」

凛は寝巻きのまま、キッチンに立った。


冷蔵庫を開ける。ゴムパッキンが「プシュッ」と音を立て、冷気が顔にかかる。庫内の蛍光灯が、貧相な食材を容赦なく照らし出す。


卵6個入りパック(残り2個)。 牛乳1リットル(半分くらい)。 賞味期限が2日過ぎた納豆。 しなびたレタス、葉の縁が茶色く変色している。 開封から1週間経ったハム、パッケージの隅が少し乾燥している。


それだけ。


凛は卵を取り出した。冷たいプラスチックケースが、手のひらにひんやりと触れる。


フライパンを火にかける。コンロの点火スイッチを押すと、「カチカチカチ」という音の後、ボッという小さな爆発音とともに青い炎が立ち上がる。


油を引く。透明な液体が、フライパンの表面に広がっていく。


ジュー――


油が温まる音。それは、この静かな部屋で唯一の生命の証だった。


卵を割る。殻にヒビを入れ、親指で押し広げる。黄身がフライパンに落ちる瞬間、「ジュワッ」という音とともに、白身が放射状に広がった。端から白く固まり始める。


凛はぼんやりとそれを見つめていた。


卵が焼ける音。パチパチという小さな泡の弾ける音。油が跳ねて、フライパンの縁に当たる音。


それだけが部屋に響く。


テレビもつけていない。音楽もかけていない。ただ――静寂。そして、卵の焼ける音だけ。


目玉焼きが完成した。白身の表面には、油で揚げられた部分が薄茶色の斑点となって浮かび上がっている。黄身はまだとろりとしている。


皿に移す。陶器が擦れる音。


食パンをトースターに入れる。タイマーを2分にセット。「カチッ」という機械的な音。


2分間、凛は何もせず立っていた。キッチンの窓から差し込む、鉛色の光。それが白いシンクの表面に反射し、妙に冷たい印象を与える。


チン――


トースターの電子音。パンが焼けた。


取り出すと、熱い。指先が軽く火傷しそうになる。皿に乗せ、マーガリンをナイフで塗る。半分溶けたマーガリンが、パンの表面に不均等に広がっていく。


テーブルに座る。一人で。


いつものこと。でも――今朝は、その「一人」が、いつもより孤独に感じた。


凛は目玉焼きをフォークで切った。黄身に刃先が触れた瞬間、薄い膜が破れて、とろりとした黄色い液体が流れ出す。それが白身と混ざり合い、皿の上で小さな池を作った。


口に運ぶ。噛む。


でも――味がしない。


舌の上には確かに卵の質感がある。柔らかい白身、とろりとした黄身。だが、味覚が働かない。まるで舌が麻痺しているかのように。


何を食べても、最近味がしない。


ただ――口に入れて、噛んで、飲み込む。機械的な動作。生きるための栄養補給。それだけ。


パンも同じだった。マーガリンの油っぽさも、パンの香ばしさも、何も感じない。


凛は水を飲んだ。コップの中の水は、冷蔵庫で冷やしてあったもの。喉を通る時の冷たさだけは分かる。温度は感じる。でも――味はしない。


食事を終えた。所要時間、12分。


皿をシンクに置く。洗わない。後でまとめて洗う――いつもそう思う。


シンクには昨夜の食器も残っている。コンビニ弁当のプラスチック容器。使い捨てフォーク。カップラーメンの空き容器。


全部、後で洗う。


いつもそう思う。でも、結局洗わない日もある。

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