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ムネモシュネの箱 ― 73Hzの永遠 ―  作者: 大西さん
プロローグ「記録された夜」
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第20話「26年後へ」

2000年1月15日 土曜日


柳沢正臣が失踪した。


研究室からすべての記録を持って。VHSテープ、カセットテープ、MD、フロッピーディスク、8mmフィルム。そして――『ムネモシュネ』の箱。


すべてが消えた。


大学は大騒ぎになった。だが、正臣の行方を知る者は誰もいなかった。彼は煙のように消え、二度と姿を現さなかった。


唯一残されたのは、地下保管庫に隠された『ムネモシュネ』の箱だけ。それは今も、暗闇の中で静かに鼓動を続けている。


2000年6月3日 土曜日


結城香織が女の子を出産した。


予定日より2週間早い出産だった。陣痛は23時間続き、香織は死ぬほど苦しんだ。だが、赤ん坊の産声を聞いた瞬間、すべての痛みが消えた。


小さな命。2850グラム。健康な女の子。


名前は――りん


澄んだ、凛とした。そんな意味を込めて。


出生届の父親欄は、空欄のままにした。


隆は、法的には凛の父親ではない。そして、香織はそれでよかった。この子を、記録の呪いから遠ざけるために。


母子家庭として、二人で生きていく。


香織は大学を辞め、小さな音楽教室を開いた。ピアノを教えながら、凛を育てる。


普通の人生。それが香織の願いだった。


2005年 春


凛が5歳になった年。


佐々木隆が目覚めた。


実験から5年間、彼は意識不明の状態だった。病院のベッドで、ただ呼吸をしているだけの肉体。医師たちは植物状態と診断し、回復の見込みはないと告げた。


だが――4月の朝、突然目を開けた。


看護師が悲鳴を上げた。5年間動かなかった患者が、突然起き上がったのだから。


隆は周囲を見回し、最初に発した言葉は――


「凛」


なぜか、娘の名前を知っていた。


一度も会ったことがないのに。


記録の中に香織の妊娠の記憶が残っていたのか。それとも、隆は最初から香織が妊娠していることを知っていて、ただ言わなかったのか。


真実は誰も知らない。


だが――隆は娘に会おうとはしなかった。


彼は病院を抜け出し、姿を消した。そして、ただ一つだけ、香織にVHSテープを送った。


ラベルには、震える文字で「凛へ」と書かれていた。


香織はそのテープを見なかった。見ることが怖かった。中に何が記録されているのか、想像するだけで恐ろしかった。


彼女はそのテープを、押し入れの奥深くに隠した。段ボール箱の中、古い衣類の下。そして、凛には何も言わなかった。


2010年 冬


柳沢正臣、死亡確認。


北海道の海岸で、遺体が発見された。死因は凍死。孤独な死だった。


彼のそばには、古いノートが一冊だけあった。最後のページには、こう書かれていた。


「記録は完成した。だが、私は何を成し遂げたのだろう。永遠を作ったのか、それとも――地獄を作ったのか」


2015年 夏


凛が10歳になった年。


隆が再び失踪した。


彼は一度だけ香織に電話をかけてきた。だが、何も言わず、ただ凛の声を聞きたいと言った。


香織は電話を切った。


そして、隆は二度と現れなかった。


2018年、隆の死亡が確認された。東京湾で発見された遺体のDNAが、隆のものと一致した。


凛は、父親の死を知らなかった。


2024年11月1日 金曜日


誰かが、フリマアプリに出品した。


ユーザー名:marie_1985


その名前には意味がある。marie――真理子。1985――美咲が生まれた年。


だが、出品者は正臣ではない。正臣は2010年に死んだ。


では、誰が?


その謎は、今も解けない。


出品されたのは、VHSテープ1本。


ラベルには「呪い」と書かれている。


それは美咲の記録だった。だが――そのテープの音声トラックには、もう一つの記録が混入していた。


隆の声。


二つの記録が重なり合って、一つのテープに。


そして、そのテープは26年の時を超えて、ある女子大生の手に渡ろうとしていた。


2025年11月27日 木曜日 午後11時47分


東京、世田谷区。築30年のワンルームアパート、3階の一室。


佐々木凛、20歳。東京心理学大学、心理学部2年生。


彼女はベッドの上で、スマートフォンの画面を見つめていた。


フリマアプリ『レトロマーケット』。marie_1985の出品ページ。


「記録されたビデオテープ」


価格:500円


凛の指が「購入する」ボタンに触れた。


なぜ買おうと思ったのか、自分でも分からない。


ただ――何か懐かしい気がした。


見たこともないのに。聞いたこともないのに。


まるで、このテープが自分を呼んでいるかのように。


凛の心臓が鼓動を刻む。


ドクン…ドクン…ドクン…


73回/分。


隆と同じ。美咲と同じ。


血は、嘘をつかない。


画面が光る。


「注文が確定しました」


その瞬間――


26年前の記録が、再び動き始めた。


美咲の意識。隆の意識。そして真理子の意識。


三つの魂が、一つのテープの中で、時を超えて蘇り始めた。


地下保管庫の『ムネモシュネ』の箱が、突然激しく振動し始めた。


ドクンドクンドクンドクン――


292回/分。


四つの心臓が鼓動している。


真理子、美咲、隆、そして――凛。


まだ見ぬ四人目。記録された者たちの末裔。


凛はまだ知らない。


自分の父がそのテープの中にいることを。 自分が記録された者の娘であることを。 そして、自分の運命が26年前からすでに決まっていたことを。


73Hzの周波数が、時空を超えて伝播し始めた。


物語は、本当に――今、始まる。

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