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ムネモシュネの箱 ― 73Hzの永遠 ―  作者: 大西さん
エピローグ「73週後」
181/181

第180話(最終回)「最期の冬」

2027年12月15日 水曜日。


凛はもう立てなかった。部屋の隅で横になっている。


外は雪。冬の雪。静かに降る。


でも美しい。窓から見える白い世界。


凛は静かに微笑んだ。


「きれい……」


もう怖くない。もう苦しくない。


ただ静かに終わりを待っている。


「みんな……」凛が囁いた。「そろそろかな……」


「そうかもね……」声が答えた。優しく。


「怖い?」


「怖くない……」凛が答えた。「みんながいるから……」


「そっか……」


「凛……」美波の声。「よく頑張ったね……」


「うん……」凛が微笑んだ。「頑張った……一人で……」


「偉かったね……」香織の声。「お母さん、誇りに思うわ……」


「ありがとう……お母さん……」


「凛……」隆の声。「お前は強かった……最後まで個を守った……」


「守れなかったよ……」凛が泣いた。「みんな消えた……」


「でも……」隆が言った。「お前は生きた……ちゃんと自分として……それが大切だ……」


凛は涙を流した。でも幸せだった。


みんなと話している。最後に。


でもその前に。


凛は最後の力を振り絞って、ペンを握った。そばにあったノート。破れかけたページ。


震える手で、書き始めた。


『これを読んでいるあなたへ。


私の名前は、佐々木凛。


これを書いているのは――いつだろう。日付の感覚が、もうない。カレンダーは数ヶ月前に破り捨てた。時計も、とうに止まっている。


ただ、季節だけは分かる。雪が降っている。東京の空から、静かに、白い雪が降っている。


人は、何のために記憶するのだろう。


何のために、過去を残そうとするのだろう。


私は、25歳だった――いや、今も25歳なのだろうか。もう分からない。


人間の脳が、どうやって自己を認識するのか。どうやって、「私」という感覚が生まれるのか。


それを、知りたかった。


でも、知りすぎた。


私たちは、記憶したかった。愛した人を、忘れたくなかった。美しい瞬間を、永遠に残したかった。


だから、記録した。


ビデオテープに。カセットテープに。MDに。フロッピーディスクに。


私たちは、知らなかった。


記録されたものは、ただの情報じゃないことを。


私たちは、記録に溺れた。


記憶を、外部化しすぎた。


個を、失った。


それが、終わりだった。


疲れた。


もう、ペンを持つ手に、力が入らない。


外は、まだ雪が降っている。


きれい。


でも、寒い。


とても、寒い。


誰か――


誰か、いませんか――』


凛の手からペンが落ちた。


ノートは床に落ちた。開いたまま。最後の言葉が書かれたまま。


凛の視界が暗くなっていった。


「もうすぐ……」凛が呟いた。「終わる……」


そして凛の意識の中で、無数の光が輝いた。


母が子を抱きしめる瞬間。恋人が初めてキスをする瞬間。老人が妻の手を握る瞬間。


子供が花を摘む瞬間。料理人が料理を作る瞬間。画家が絵を描く瞬間。


音楽家が演奏する瞬間。科学者が真実を発見する瞬間。教師が教える瞬間。


医師が命を救う瞬間。農夫が畑を耕す瞬間。漁師が海を見る瞬間。


無数の、人生。無数の、瞬間。無数の、愛。無数の、夢。


すべてが一瞬、凛の中で輝いた。まるで無数の星のように。


美しい。儚い。でも確かにあった。確かに輝いていた。


「みんな……」凛が最後に呟いた。「きれい……みんなの人生……こんなに美しかった……」


涙が一筋、凛の頬を伝った。


「ありがとう……みんな……」


そしてその輝きが消えた。一瞬で。


まるで花火のように。夜空を照らして、そして消える。


凛の呼吸が止まった。心拍も止まった。


静寂。完全な静寂。


凛は死んだ。


そして凛の中にあった数十億人の記憶も一緒に消えた。


真理子。美咲。隆。香織。美波。田中教授。そして無数の人々。


すべての記憶が消えた。永遠に。


誰も覚えていない。誰も知らない。


人類がいたことを。文明があったことを。愛があったことを。美しさがあったことを。


でも確かにあった。輝いていた。


一瞬、美しく輝いていた。


その事実だけは真実。


たとえ誰も覚えていなくても。たとえ誰も知らなくても。


確かにあった。


外では雪が降り続けている。静かに。


白い雪が凛の部屋に舞い込んでくる。


凛の遺体を覆い始める。まるで優しく眠らせるように。


ノートも雪に覆われていく。最後の記録も。


やがて凛の姿も見えなくなる。白い雪の下に。


そして世界は続く。


人類がいなくても。記憶がなくても。


地球は回り続ける。太陽は昇り続ける。雪は降り続ける。


美しく。静かに。永遠に。


ただ誰もそれを見ていない。誰もそれを感じていない。誰もそれを記録していない。


でもそれでも世界は美しい。


たとえ見る者がいなくても。


人類は輝いた。


一瞬だったけど、確かに輝いた。


愛した。創造した。生きた。


記録されなくても。記憶されなくても。


輝いた事実は消えない。


それだけは――


真実。


【ムネモシュネの箱 ― 73Hzの永遠 ― 完】

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