第21話 露骨な程に
理科室の空気は、ぴんと張りつめていた。
鼻の奥を刺す、強烈なガソリンの匂い。
床にこぼれた量は決して少なくない。ほんのわずかな火花が散るだけで、この部屋は一瞬で火の海になるだろう。
(……なるほど)
エリファーは、内心で静かに息を吐いた。
(事故に見せかけるつもりは、最初からない)
これは――
「見せしめ」か、「巻き込み」。
どちらにせよ、意図的な犯行だ。
男は余裕の笑みを浮かべたまま、エリファーを見つめている。
逃げる様子も、隠そうとする気配もない。
「“みんな”って……誰のことですか?」
エリファーは一歩も引かずに尋ねた。
胸の奥はざわついているが、声は不思議と震えていない。
「君も含めて、かな」
軽い調子で返された言葉。
だが、その男の目は笑っていなかった。
「音楽室には、もうすぐ生徒が集まる。
ここで火をつければ、煙は廊下に回る。パニックになるだろ?」
まるで授業の解説でもするかのように、淡々と語る。
「最初に逃げ遅れるのは――体力のない子供。
それから、病み上がりの坊ちゃん」
一拍置いて、男は視線をエリファーへ向けた。
「そして……あんたみたいな、国民を決して置いていけないお人好しだ」
その言葉で、エリファーの思考が一瞬、真っ白になった。
心臓の鼓動が、嫌なほど早くなる。
(……この人、私の正体に気づいてる?)
喉の奥が、ひくりと鳴る。
(なんで?
式典では顔を出していない。体格? 雰囲気?
――いや、今はそれどころじゃない)
内心では激しく混乱していた。
だが、それを表に出すほどエリファーは未熟ではない。
「ずいぶん親切ですね」
皮肉を込めて、口角をわずかに上げる。
「計画を説明してくれる犯人なんて、初めて見ました」
「はは。どうせ止められないからね」
男はマッチを一本、机の上で転がした。
カラリ、と乾いた音が理科室に響く。
「君は魔法使いでも、英雄でもない。
小柄な留学生気取りで、みんなに守られてばかりの――国家の犬だ」
嘲るような声。
「昔に比べ今の聖女は弱っている。君はもう、ただ国に祈るだけの存在さ」
――その認識が、致命的な間違いだとも知らずに。
「残念ですが」
エリファーは、ゆっくりと手を上げた。
「今日は、誰も死にません」
次の瞬間。
床に描かれた淡い光の魔法陣が、静かに起動した。
「……なっ」
男が声を漏らすよりも早く、理科室の温度が一気に下がる。ガソリンは凍りつき、マッチは湿った木片のように力を失った。
「可燃物、発火条件、密閉空間」
エリファーは淡々と告げる。
「全部、潰しました。基礎魔法ですよ、これ」
男の表情が、初めて歪んだ。しかしそれはつまらなそうな顔から一変、頬を赤く染め、口角を上げており、とても楽しそうな顔をしていた。
「……やはり、俺の予想は的中したな」
「あら?」
エリファーは首を傾げ、手を前に突き出す。
新たな魔法を発動しようとしていた。
「勘違いしてますよ」
静かな声で、はっきりと言う。
「ただの、3組の問題児です」
その瞬間。
廊下の向こうから、慌ただしい足音が近づいてきた。教師だ。
(これ以上はまずい――今すぐ仕留める!)
そう判断し、魔法を発動させようとした瞬間。
――男の魔力が、異常なほど跳ね上がった。
(……危険)
即座にそう悟り、エリファーは魔法陣を解除する。
「……今日は、ここまでだな」
男は舌打ちをし、非常口へと身を翻した。
すれ違いざま、低い声が落とされる。
「覚えておけ。君も、坊ちゃんも――“予定内”だ」
そして、冷たく言い放つ。
「次に会う時は、この国とお前を――諸共潰す時だ」
次の瞬間、男の姿は消えていた。
遅れて、教師が理科室に駆け込んでくる。
「何があった!? 灯油の匂いが――」
「事故になりかけました」
エリファーは、あくまで冷静に答えた。
「でも、未遂です」
その言葉通り、誰一人怪我はしていない。
――だが。
(確信した)
これは無差別ではない。
レイ・サルベロットを狙っている。
いや、正確には――私が動くよう、わざと彼に嫌がらせをしている。
やり方が、あまりにも露骨すぎる。
エリファーは、廊下の先――音楽室の方向を見つめた。
この学園は、もう安全ではない。
男が消えたあとも、理科室には冷え切った空気だけが残っていた。
(……“坊ちゃん”)
その呼び方を、エリファーは心の中で反芻する。
あの言葉を使う人間は、限られている。
少なくとも、学園の生徒ではない。
(変装、口調、立ち振る舞い……)
思い出されるのは、昨日の出来事。
黒い車。
RとSのイニシャルが入った白い手袋。
流暢すぎる言葉と、微かに鳴った舌の音。
(――ああ、なるほど)
あの執事だ。
レイ・サルベロットの、専属執事。
理科室にいた男は、顔も髪も体格も違っていた。
それでも――
(発音は、誤魔化せなかった)
長年染みついた癖は、どんな変装でも消えない。
本業でない限りは。
エリファー自身も変装を経験している。
だからこそわかる。
癖が抜けていなかった彼に、違和感を覚えた。
何故あんなにもわかりやすく私に「自分が犯人」だと証明するの物を見せつけていたのか?
なんで私の正体を知っていたのか?
その疑問に、最悪の答えが頭をよぎった。
第2王子のパーティー招待状を寄越してきた、あの貴族。
年齢制限のあるパーティーに、私を名指しで招待してきたという事実。
それはつまり――私の年齢を、正確に知っていたということだ。
聖女は二十歳になるまで、ヴァロイアント家の掟により、式典の場でも必ずベールで顔を隠す。
年齢についても、公にされることはない。知っているのは、専属の者たちと両親、ごく一部の関係者だけだ。
それなのに、あの貴族は知っていた。
公爵家なら、まだわかる。
だが、相手は伯爵家だ。
私は、あの家とも、その周辺の人間とも、これまで一度も会ったことがない。
接点がないにもかかわらず、情報だけが正確に届いている。
――つまり。
「情報を売ったやつがいる というのが当初の考え出会ったがまさか、、、、、、」
さらに思い出されるのは、あの時の話し方。
舌の回り方、言葉の選び方、含みのある視線。
あれは、明らかにウィル王国の人間のそれではなかった。
(アール王国……)
そう考えた瞬間、点と点が線になる。
伯爵家とアール王国は、裏で繋がっている。
そして、私の情報はそこから流れた。
聖女の年齢。
聖女の存在。
そして――排除すべき“邪魔者”としての価値。
胸の奥が、じわりと冷える。
これは偶然じゃない。
「……危なかった」
誰にも聞こえない声で、そう呟く。
もし、あの場で感情的になっていたら。
もし、教師が来るのが遅れていたら。
理科室は――火の海になっていた。
わざわざ正体がバレるような行動。
それは、バレても問題がないという意思表示。
(これは“警告”ね)
殺す気はある。
でも、今日は殺さない。
――そういうやり方だ。
廊下の向こうから、音楽室のチャイムが鳴った。
「……何も知らない顔で」
エリファーは歩き出す。
「今日も、守られる側をやってるのよね」
音楽室の扉の前。
中から聞こえてくる、生徒たちの笑い声。
その中に、レイの声もあった。
(――あなたは、もう“戦争の駒”にされてる)
でも、本人は気づいていない。
エリファーは静かに扉を開けた。
この学園に潜む“敵”は――
すでに仮面を脱ぎ始めている。




