エピローグ
燃え堕ちていく王城の姿は、今でも眼球に焼き付いている。
ミシェルの目前に広がるのは瓦礫ばかりだ。色鮮やかだった街は崩れ、白く美しかった王城は灰色の残骸へと成り果てていた。見上げた視界を埋め尽くすのは空の青さばかりだ。昔、幼いミシェルが見上げた先にあったのは、家族の笑顔であったり花々に飾られた王城であったりした。だがその全ては七年前に燃え尽きている。
「ミシェル」
後ろから呼び掛ける声に、ミシェルは振り返る。そこに薄く微笑んだアーサーの姿があった。
馬車を停めた場所からここまでは随分と長い距離があった。この辺りは随分と瓦礫で溢れ返っている所為で、馬車では来られないのだ。そうだというのに、アーサーは一人で行くと告げたミシェルの傍を離れようとはしなかった。それが彼のやさしさであり、思い遣りであることを、ミシェルは知っている。
コーデリアリアが亡国と化して、七年。ようやくミシェルはこの地を再び訪れた。
かつて色鮮やかだった城下町はモノトーンの瓦礫へと変わっていた。あの日王城を焼いた炎は城下にも移ったのだ。そうして燃え尽くされた王都の中心に建っていた王城もまた、跡形もなかった。ただ重なり合う瓦礫の残骸から、この場所がかつて自分の暮らしていた王城であることをミシェルは知った。
母の好きだった薔薇園も父の玉座もない。シリルや姉たちと戯れた庭も、何もかもなかった。
「ここに、庭があったはずだわ」
ミシェルは瓦礫がない空間で足を止める。追いついたアーサーの隣で、ミシェルはその場にしゃがみ込む。そうして彼女は雑草すら生えていない、黒い土に触れた。
「僕はこの場所で君と出会ったんだ」
アーサーの声にミシェルは顔を上げる。青空を背に立つ彼は周りを見回した。
「君はここでシリルと花冠を作っていたよ。彼と笑っていて、随分と楽しそうだった」
「……そう」
土に触れた指先から感じたのは、硬い砂の感触だった。土、というよりも、石を砕いてできた砂に近い。指先に触れているのは、土の上に積もった細かい瓦礫の破片なのだろう。
コーデリアはどこにもない。あの日は元には戻らない。それを確信して、実感して、ミシェルは立ち上がる。
ミシェルが閉じた瞼の裏に浮かぶ光景がある。コーデリアで過ごした楽しかった日々。その全てを奪っていった赤い炎。シリルと互いだけを支えに、全てを偽って、ミシェルは生き、そして――アーサーに出会った。
瞳を開いたミシェルは直ぐ傍にあるアーサーの手を取った。ぎゅっと彼の手を握る。
「わたしは、独りじゃないわ」
「ミシェル……?」
「ずっと、独りじゃなかった」
アーサーはミシェルの独白を問うようなことはしなかった。ただ黙って、彼はミシェルの指に自らの指を絡ませる。その手の体温を感じながら、ミシェルは言う。
「毎日、シリルが傍にいてくれた。騎士団に入ってからも、ルイスも……それにエリオットも傍にいてくれたわ」
報復を糧に生きていた。だがミシェルは決して独りではなかった。そしてこの七年間はきっと少しも孤独ではなかった。
エリオットは地下牢へ閉じ込められている。太陽の光が一切入らない、暗い牢の中にいる彼にミシェルは一度だけ会いに行った。力なく笑った彼は、それでもミシェルが知っているエリオットだった。笑顔が多く、ふざけた話ばかりをする、少し出不精で、けれど相手を思い遣れる、やさしい人だった。
彼は自らに与えられる刑を待っている。それがどんなものであっても、自らの罪を全て受け入れる覚悟があると話していた。それから、ごめん、とミシェルに謝っていた。その一言に詰まったたくさんの想いを、ミシェルはただ黙って受け止めた。そうすることで、彼の心が少しでも軽くなることを願った。
「エリオットは死なせないよ」
アーサーが呟くように告げた。自分の心が彼に聞こえたのかと驚いて、ミシェルはアーサーを見上げる。ミシェルの視線の先で、空を見上げたアーサーが真剣な表情をしていた。その横顔を眺めるミシェルの視線に気付くと、彼女に目を落としたアーサーがふっと息を吐くように笑った。
「そう言ったら、ルイスに随分と苦い顔をされた。……それでも、僕は彼に生きていてほしい、と思うんだよ」
死罪に処するべきだとかつての国王の側近は声を上げていた。それが妥当な刑であることを、ミシェルもルイスも、そしてアーサーさえも分かっていた。それでもアーサーはその声に決して首を縦に振ることはなかった。影で愚王と罵られても折れることのなかったアーサーの尽力を思うと、ミシェルは何とも言えない気持ちになる。きっとアーサーは自らの骨をどれだけ折ってでも、エリオットの命を護るだろう。
「……私は、貴方のその甘さに救われたのね」
ぽつり、とミシェルが零せばアーサーが小さく笑った。その笑い声はおだやかで、ミシェルの胸をあたたかくする。
「今度はシリルも連れて来よう。きっと彼も本当は一緒に来たかったはずだから」
「……ええ」
頷いたミシェルはアーサーに笑い掛ける。その彼女の顔を見て、アーサーも笑みを濃くする。
「帰ろう、ミシェル。あまり遅くなるとシリルが心配するよ」
帰ろう。
アーサーから紡がれたその言葉が、すとん、とミシェルの胸に落ちた。そして自分が帰る場所は、いつからか彼と同じところになっていることにミシェルは気付く。
「ええ」
帰る場所がある。その幸福を噛み締めるように、ミシェルは笑顔で頷いた。
ヴァルナーの宮殿の前で馬車が停止する。既に夜が更け、城下には人の影がなかった。灯りはついていたが、宮殿も同じように静寂に包まれていた。
ミシェルは先に馬車を降りたアーサーに差し出された手に自らの手を添えながら馬車から降りる。地面に足をついたミシェルが顔を上げると、扉の前に見慣れた姿を見付けた。
「シリル」
「ミシェル様……」
ずっとそこで待っていたのだろうか。ミシェルの姿を見て、どこかほっとした表情をしたシリルを見たミシェルはそう考える。
ミシェルはアーサーから手を離すとシリルの傍に寄った。そして目前に立った彼女にシリルは微笑む。
「おかえりなさい、ミシェル様」
「ただいま」
ミシェルはにっこりと笑って、彼の右手を掴んだ。やはり冷え始めた夜の風に長らく当たっていたのだろう、彼の手は少しミシェルよりも冷たい。その彼の右手を両手で包み込んで、ミシェルは彼に声をかける。
「コーデリアに行って来たわ」
「はい」
「何もなかったけれど、とても懐かしかったの」
あの国で、ミシェルはシリルに出会った。何もかも昔と違ったというのに、コーデリアの空気はなぜか今でもミシェルを懐かしさで満たした。幸福だった日々が過去である、と受け止められたのはアーサーが隣にいたおかげだろうか。
「今度はシリルも一緒に行きましょう?」
「俺も、ですか」
「そうよ。シリルも一緒に。あの場所は、貴方の家でもあったんだから」
今度は花束を持って行こう、とシリルに声を掛けながらミシェルは彼の手を引いて宮殿の中へと足を踏み入れる。きっと昔のミシェルにはそう言って彼に微笑みかけることなんて、できなかった。
ミシェルは強くなったのだろう。報復のためにシリルと生きたこの七年間も、アーサーに出会ったことも、エリオットやルイスの哀しみに胸を痛めたことも、その全てがミシェルを強くしたのだ。
「シリルだけずるいな」
その声と同時にミシェルの左手が掬い取られた。目を向ければ、笑顔のアーサーがミシェルと手を繋いでいる。
右手をシリルと、左手をアーサーと繋いだミシェルは困ったように笑う。
「これじゃあ私は何もできないわ」
「それでは俺が――」
「手を離したら駄目よ」
「……」
ミシェルが顔を覗き込めば、シリルは困ったように眉間をきゅうっと絞る。その顔が愛しくて微笑めば、隣から手を引かれた。
「だめ」
そう口にしたアーサーが拗ねたような顔をしている。
「……何よ」
「僕以外の男に、そんなに顔を近づけるなんて」
「……」
相変わらずのアーサーの台詞に、呆れてミシェルは何も言えなくなる。そうしていると、廊下の角から現れた人物がいた。
「何してるんだ、お前たちは」
ルイスだった。心底呆れたようにため息をついた彼を見ると、アーサーは嬉しそうに笑う。そして空いている左手でルイスの右手を何の躊躇もなく掴んだ。途端にルイスが顔を歪める。
「おい、触るな」
「いいじゃないか。たまには」
アーサーは振り払おうとするルイスの手をなおも掴んで、笑みを深めた。
「僕は今、とても気分が良いんだ」
「……そんなんだから、お前は男色だと噂を立てられるんだ」
そんなルイスの声を無視してアーサーはルイスと手を繋いだまま歩き出す。
こんな時間にも関わらず、彼は仕事の書類をアーサーの執務室へ届けてきたのだと言う。近々アーサーの側近として働くことになるだろう彼の仕事は山のようにあるのだろう。だが一方のアーサーは明日からの仕事のことなど忘れたように、気分よく言う。
「これからマルヴィナも誘って、夜宴を開こうか」
「今から?」
「うん」
あまりにも素直に頷いたアーサーにルイスが眉を寄せる。ミシェルも注意しようと口を開きかけた、その時。
幸せそうに、アーサーがため息をついた。
「僕には、君たちが、いてくれる」
細められた彼の瞳が真っ直ぐ前に向けられる。
「明日も、明後日も、明々後日も、ずっとそうであるように、僕はこの国を護りたい」
「できるわ」
確かな思いで、ミシェルは告げた。アーサーの目がミシェルに向けられる。その瞳を真っ直ぐに見詰めて、ミシェルは断言した。
「貴方になら、きっとできる」
ミシェルの言葉に、アーサーは小さく口を開いた。だが何も言わずに、ただささやかに微笑んで瞼を伏せた。そのまま立ち止った彼の手がミシェルとルイスから解かれる。
シリルから手を離すと、ミシェルはシリルとルイスと顔を見合わせた。三人で肩を竦めると、初めにシリルが口を開いた。
「マルヴィナ様なら先ほどお見かけした」
「……え?」
「それならまだ起きているんじゃないのか」
「夜宴は無理でもお茶会くらいはできるわね」
ほら、とミシェルは呆然としているアーサーの手を掴む。
「アーサー、早く行きましょう」
そう言って手を引くミシェルの前を歩き出しながら、ルイスが言い捨てる。
「早くしないと、夜が明けるぞ」
「でも……」
濁すアーサーが戸惑う顔をしている。その顔が珍しくて、ミシェルは笑いを耐えながら言った。
「それとも明日も明後日も明々後日もずっと一緒なら、今日じゃなくてもいいのかしら?」
「良くないよ」
アーサーの否定は早かった。いつもの笑顔を取り戻した彼を見ると、シリルが廊下を曲がろうとする。
「それではマルヴィナ様に声を掛けてきます」
「俺も行こう」
ルイスもシリルと共にマルヴィナの部屋へと向かう。二人が背を向けて離れたことを見届けていると、ミシェルの手がアーサーに引かれた。
「それよりも、」
ミシェル、と耳元で呼びかけるアーサーの顔を驚いて見上げると、彼は悪戯な微笑を浮かべていた。
「手を引くのは、僕の役目だよ」
そう口にして、アーサーはミシェルの手に指を絡める。そうして歩き出した彼の隣にミシェルは並ぶ。その耳に届く声があった。
「ああ……僕はきっと君に飽きられても君を手放せないよ」
前を向いたままアーサーは碧い瞳を細める。その憂うような仕草一つだけでも、ミシェルの心は大きく揺れる。恋よりも愛よりも、ずっと深い想いがミシェルの胸に満ちていく。
「……私だって」
そう呟いた声は小さすぎて、きっと彼には届かなかっただろう。前を向いたままの彼の横顔を見上げて、ミシェルはそうであることを願う。
彼はこれからもたくさんのものを背負っていくのだろう。それは国であり、人であり、時に言葉にし難いほどの痛みかもしれない。その全てを分かち合うことはできなくても、彼の支えになれたらいい。
ミシェルは強く彼の手を握り返す。そしてその手を握り返してくれる彼の手がある。
過去は消えない。時にミシェルの過去は彼女を傷付け、アーサーの過去は彼を傷付けるだろう。けれど、大丈夫、だとミシェルは思う。互いがいれば、きっと乗り越えていける。
「貴方に出会えて、よかったわ」
何度口にしても足りない。そう思って微笑むミシェルの耳に、僕も、と囁く彼の笑い声が届いた。
完




