第五話
「お兄さん。上がりますので、お願いできますか?」
僕はかけられた声とは反対方向を見つつ風呂の戸を開け、それからすぐにいったん部屋の外に出た。そして、「お待たせしました。入って来てください」と許可が下りてから部屋に戻る。
「面倒を言って、すみませんでした」
言いつつ、彼女はしきりにワンピースの下を気にしているようだった。薄手で白色の、しかも体にフィットするタイプのワンピースなので、どうかすると下に穿いているトランクスのゴムの辺りの形状がくっきりと浮かび上がって見える。
「……下、見えます?」
頷く。
「うう……」
彼女がワンピースの上から腰の辺りを押さえながら俯く。
「緩い?」
「いえ、さほど。……色々とお気遣いいただき、ありがとうございました……」
「どういたしまして」
うなだれるように肩を落とした彼女は、用意しておいたドライヤーに手を伸ばした。
「――あ」
呟きが彼女の口からもれる。
「どうしたの?」
「あの……。何か小さめの袋をいただけませんか?」
「袋?」
「……はい。できれば、ビニール袋と紙袋を両方いただけたらありがたいです。……捨ててもいいようなものでかまいませんので」
ビニール袋と紙袋……。ビニール袋の方はコンビニで買い物をした時のものがあるが、紙袋は――文庫本二冊を買った時のものでも大丈夫だろうか。
「何に使うの?」
用途を聞いてから袋を選んだ方がいいだろう。
「…………」
「何を入れるの?」
聞こえなかったのだろうかと思い、僕はもう一度同じ趣旨の質問をした。
すると、彼女の頬がうっすらと色づき始めた。何かの衝動を堪えているように唇を一文字に結んでいる。それから、きつく僕を見据えたかと思うと、ふいに途方に暮れたような表情になった。そして最後、諦めたように力なく言った。
「……汚れものを入れようと思いまして」
汚れもの? 使ったタオルは洗濯かごに入れるよう言っておいたはずなのだが……ああ、使用済みの下着のことか。彼女がちらっと目を遣った先には、洗濯かごに折りたたんで入れられたバスタオルと普通のタオルの二枚があった。おそらく、それらの下に、先ほどまで彼女が穿いていた使用済みの下着が置かれているのだろう。
「……迷ったのですが、結局お風呂場で手洗いをしてしまいまして……」
「それで、袋に入れたいと? でもビニール袋で密閉してしまうと、雑菌が繁殖しやすくて衛生的じゃないと思う」
「……そうですね……、ごめんなさい……。……こっそりドライヤーで乾かそうかと思っていたのですが、人さまのドライヤーで、というのもマナー違反かと思い直しまして……」
「ドライヤーだと下着が傷むんじゃないかな。普通に干せばいいと思うよ。乾燥機はないから室内干しになるけど」
他の洗濯物に関しては、まだ朝早いから洗濯機は回せない。帰ってからにしよう。
「これを使ってくれたらいいから」
僕は百均で買った洗濯バサミつきのハンガーを示しながら言った。
「……はい。ありがとうございます……」
彼女の瞳がうっすらと濡れているように見えたが、窓から差し込んでいた陽光の加減だったのだろう。
*
彼女は言われた通り白い小さな下着を干してから、髪を乾かすために再びドライヤーを手に取り、くるりと僕に背を向けて座った。その背中を見ながら考える。あのドライヤーは、はたして他の人間の目にはどのように映るのだろう、と。
宙に浮かんで見えるのか。それとも、ドライヤー自体が見えないのか。もしかすると、僕自身がドライヤーを使っているように見えるのか。
僕は改めて考える。彼女の存在について。一番納得できるのは、彼女が僕の想像の産物だということ。僕の目にしか見えないのは、彼女が僕の頭の中にしかいないから。その理由で全てが解決する。世の中の、僕以外の全てが乱されない答え。
マンホールの中にはもともと誰も何もいなくて。自動販売機で買った水とア○エリアスは僕が自分で飲み干して。自転車の荷台に乗せていたのは空気だけで。通行人の女性の帽子を持ち上げたのはただの風で。ホットミルクを飲んだのも僕で。二人分の目玉焼きを作ったのは僕で。それを二人分食べたのも僕で。
いや、もしかしたら、二人分作っているつもりで、実際には一人分しか作っていないのかもしれない。作っていたとしても、食べきれず、自覚しないままに捨てているのかもしれない。それでいて僕の目にはそのシンクに捨てられた残飯は映らないのかも、しれない。
奇妙なのは、たとえその答えが正答だったとしても一向に構わないと思える自分自身。
彼女が実際にはいないのだとしてもかまわない。僕にとっては、僕一人にとっては、こんなにも確かに彼女は存在するのだから。
でも僕は、決してその可能性を口に出さない。
もしも僕が『君などいない』と言えば、彼女を傷つけるから。
彼女が傷つくから。
彼女を傷つけるくらいなら、死んだ方がましだった。
「お待たせしました。それでは、行きましょうか」
ドライヤーを切って僕を振り返った彼女に、僕は微笑を返し、頷いてみせた。
*
「お兄さん。私、思ったのですが」
アパートの階段を降りながら、彼女が切り出した。
「うん?」
頷くように聞き返す僕の手には携帯電話。『人前で私と会話するなら、通話中を装った方がいいですよ』との彼女の忠告に従って持っている物。
「私の姿は他の人には見えません。私が着ている服も履いているサンダルも見えていないのでしょう。ならば、このお借りした下着は……、私が穿いているこのトランクスは、いったいどうなるのでしょう。…………」
「…………。さあ、わからない」
うかつなことは言えなかった。
「もしやすると、今、私はこのアパートの階段を怪談のメッカにしているのかもしれません。『宙を漂うパンツ』という名の怪談の……」
「…………」
「…………」
「……君が身に付けた時点で、他の人からは見えなくなるのかも」
「天狗の隠れ蓑のように?」
「ように」
「見えない上に触れられない?」
「そう、かもしれない」
「そうだとしたら、天狗の隠れ蓑よりもハイクオリティですね。あちらは見えなくなるだけですから。まあ、私の方の場合、触れても気づかれない、なわけですが」
頷く。
「思ったのですが」
「うん?」
「私、今なら下着泥棒し放題ですね。誰にも見えないし、気付かれません」
僕は頷くだけだった。
後はただ、無言。
*
「ちょっと待ってください! なぜお兄さんは当然のように高級デパートの女性用下着売り場に直行しようとなさっているのですか!?」
「君の下着を買うために」
トランクスのままいさせるわけにはいかなかったので、病院よりも優先してみた。
「私の姿は他の人には見えないんですよっ? お兄さん一人が買っているように見えるのですよっ? せっかく街中まで来たのですから、そこらへんのコンビニか量販店にしておきましょうよっ。男女兼用下着か、いっそ男ものでも私は全然かまいませんからっ。なのになぜ自らそのような死地に赴こうとなさるんですかっ。羞恥心というのは人間にとってこの上なく大切な感情だと私は思うのですよ!?」
「直接肌に身につけるものだから、質がいい方がいいと思って」
「お兄さんは診察代にも困るような貧乏暮らしの大学生なんじゃなかったんですかっ」
「十年満期の貯蓄性の保険を解約してきたから大丈夫。ちなみにそれは、『このお金で成人式で立派な羽織袴を着ておくれ』と、僕が十歳の時におばあちゃんが僕を被保険者としてかけてくれたもの」
「お兄さんはまだ十九歳なんでしょう!? ちゃんと満期まで置いといてくださいっ。って、うああ……、もう下ろしちゃったんですよね……。まあ私は、テレビで報道される『荒れる青年たちの成人式』の影響か、袴の男性に対してはあまりいい印象を抱いていないのですが……。それでも式典用の礼服を私の下着なんかに貶めないでくださいよ……」
「僕は君の下着に対する礼節の方を優先したいんだ」
「意味がわかりません……。ちなみにおばあさまはご健在で?」
「僕の成人を待たずに亡くなった」
「よけいにやめてくださいっ。故人の意向を無視するにもほどがありますっ。そしてこれだけ申し上げているのになぜお兄さんは委細かまわず女性用下着売り場に向かう足を動かし続けてらっしゃるんですかっっ」
遠慮がちな彼女のため、僕は少しばかり強引に買い物をした。彼女は最初は気乗りしないふうだったが、下着売り場に着くと即座に必要な下着数点を指さして選んでいたので、やはり本当は欲しかったのだろう。選択を誤まらなくてよかった、とほっとした。
*
「はあ……。どっと疲れました」
病院の受付の前に置かれたソファーに沈み込むように座り、長く息をつく彼女。
「何かもう……、色々疲れました。夢落ちだったりしてくれませんかね、この現実……」
その彼女の下着はもう穿き替えられているはずだ。先ほどデパートの中の婦人用トイレで、他の女性が出入りするのにあわせて彼女もトイレに滑り込み、中で着替えて来たのだ。
――つかの間思考を巡らせるが、それはそれほど難しいことではなかっただろうと推測する。彼女が着ているのは丈が長めのワンピースだ、下着の穿き替えだけならば数秒で済む。例えば僕は水泳の授業で水着に着替える時には腰にバスタオルを巻き付けていたものだが、ワンピースであれば、おそらくあれよりよほど簡単に下着の着脱ができるだろう。そこまで考えが及んで、安堵した。
ちなみに、彼女は買った下着が入っていた袋――より正確に言えば、下着を購入した時の袋に先ほどまで彼女が穿いていたトランクスを入れたもの――を今手に持っているのだが、その袋に注視する人は誰もいなかった。彼女が身に付けるだけでなく、彼女が持っているだけで、周囲からは袋ごと見えなくなるらし――
「――いい加減…………受付を済ませてきてはいかがですか?」
そう僕を促す彼女の口調は、何故か冷凍庫で凍らせていたゼリーのようにひんやりとしていた。




