第四話
「お兄さん、起きてください」
誰かが僕の肩を揺さぶっていた。
「そろそろ起きてください。学校に遅刻してしまいますよ?」
長い黒髪が僕の頬に当たっていて、僕はぼうっとしたまま右手を伸ばし、その髪を指に絡めてみた。寝ぼけていた僕は、その行為を猫の毛を指の間で梳いているように思っていたのだろう。その毛の質感に違和感を抱いて、そこでようやく僕ははっきりと目を覚ました。
「おはよう」
「おはようございます……。なんでしょう。今愛玩動物扱いされていたような微妙な気分になりました」
「昔飼っていた猫かと思って」
「まさしくペット扱いだったわけですね。まあそれはそれとして、そろそろ離していただけませんか? 髪を触られたままでいるのは、ちょっと落ち着きません」
「ああ……、ごめん」
謝りつつ、ほとんど無意識に絡めたままだった手を離す。
「お兄さん。その指――」
彼女が少し眉を寄せて僕の指を見ていた。
「だいぶ腫れていますね。ちゃんと手当てしてもらった方がいいと思います。学校より先にまず病院でしょうか?」
鈍い痛みを発している指を今更のように思い出した。マンホールの蓋を開けようとした時にできた怪我。
僕は彼女にこくりと頷いてみせた。もともと、今日は大学は休むつもりだった。彼女のためになすべきことをしてからでないと、悠長に講義を聴いている心の余裕はないだろうとの判断から。必要な物があれば買いに行ったり、彼女が望むのなら身元の調査をしたり、やることは色々とありそうだ。
その意を彼女に告げると、彼女は心配そうに「大丈夫なんですか?」と確認してきた。
「今日はそこまで重要な講義はないから」
ほとんどの講義でほぼ皆勤賞なので、単位の心配もない。
「まずは」
僕は身を起こしながら、少しためらった後訊いた。
「お腹は空いてない?」
「実は少し空いています。食べられるかどうかはわからないのですが」
「じゃあ、用意するよ」
「あの、私がしましょうか? その指は、あまり動かさない方がいいと思います。これもまた、私にできるのならば、ですが」
「でも、君も手が傷だらけだ」
さすがに血は止まっていたが、それでも、ペットボトルの蓋を開ける事もできずにいたほど、傷だらけだ。
一秒、二秒、彼女と見つめ合った後、
「じゃあ、お互いに、できる範囲でできることをしよう」
そう提案すると、彼女はかすかに笑って、頷いた。
経過を語らず結果だけを述べるなら、トースト二枚と少し固めの目玉焼き、その彩りとして洗っただけの菜っ葉が二枚、それとカフェオレ。それが僕たちの朝食だった。
「美味しいよ」
「……」
「美味しい」
「……お兄さんは、目玉焼きは半熟がお好きなのでしょう?」
「昨日の朝まではそうだった。でもこれからは、僕が一番美味しいと感じるのはこの固さの目玉焼きだ」
「今お兄さんがイタリアの男性に見えました」
前述の会話の少し前、僕は何を作るか思案し、冷蔵庫を眺め渡し、トーストが二枚残されていることを確認した。冷凍したご飯もあるが、後一食分だけしかストックがなかった。
「パンでいい?」
「はい、特にこだわりはありません。トーストと目玉焼きの組み合わせですか?」
「うん。それでいい?」
「異存はありません。では、私が目玉焼き作成を担当させていただきますね」
「ありがとう。じゃ、これを使って」と渡した卵とフライパンとバター。
「サラダ油ではなくバターなのですね。少し意外です」
「油は切らしてるから」
買い出しに行かないと、色々と足りない。せめてベーコンエッグにしてあげたかったのだが、ベーコンは僕の中で高級品に分類されていて、常時冷蔵庫の住人でいることは不可能だった。一枚もない。
彼女は淀みなく流れるような動作で、フライパンを火にかけ、切ったバターをフライパンになじませ、卵を二個割り入れ、白身のふちが少し固まるのを待ってから少量の水を入れ、蓋をした。
『注視していると彼女も気になるだろう』と、僕は目の端でちらちらとそれらを確認していた。ここまで順調にこなしているのだから、この先も大丈夫だろう。そう判断して、僕はトーストの焼き加減に目を遣った。
「お兄さん」
その一瞬の間に、事態は変わっていた。
「すみませんが、フライパンの蓋を開けてくださいませんか?」
「……?」
疑問が表面をかすめたが、言われるがままに蓋を開ける。そこにあったのは、半熟を通り越し、黄色く固まった目玉焼き。
「すみません。固焼きになってしまいました」
そんなことは、気にしなくていいけど。
「私には――私の手では、フライパンの蓋を開ける事が、できませんでした」
「――手が、痛くて?」
「痛いのは痛いです。でも、我慢できないほどの痛みではありません。なのに、やろうとしてもできないんです」
彼女は唇を固く結んで、フライパンの柄を持って、皿に目玉焼きを移した。それから、フライパンをコンロに戻し、蓋をした。
「こうやって蓋をすることはできるんです。でも、蓋を持ち上げようとすると、指に力が入りません。まるで――、そう、まるで、マンホールの蓋を開けることができなかった、あの時みたいに」
硬い表情のまま、彼女は次にインスタントコーヒーの瓶の蓋に手をかけた。けれど、蓋を回せない。一度僕が蓋を緩め、もう一度彼女に差し出す。でも、無駄だった。
彼女は顔を上げ、周囲を見渡した。それから、ゆっくり冷蔵庫に体を向け、右手を伸ばした。
「…………」
結果は同じだった。冷蔵庫の扉を開けることもできなかったのだ。
『マンホールの蓋』。それから、僕が開けてあげた『水とア○エリアスの蓋』。
おそらく今彼女の頭の中にも同じ映像が再生されているのだろう。――開ける事ができない――。まるで、『開ける』という行為の一切の権利が彼女から剥奪されているかのように。
『何故』とも、『どうして』とも、彼女は言わない。言ったところで、答えは出ない。彼女の唇が、ますます固く結ばれていく。そして突然、勢いよく顔を上げて僕を見た。いや、僕の向こうを……?
僕の向こう。そこには――、トイレの扉があった。
彼女はその扉を、一心に見続ける。扉の向こうにあるものに、魂を吸い取られたかのように。
彼女はふらふらと扉に向かい、ドアノブに手をかける。右手をかけ、左手をかけ、両手に全ての力をかけて、ドアノブを捻ろうとする。
「う……ううう……、ううううううう……」
彼女の口から断続的な呻きが漏れる。
「ううううう……あああああっ」
ドアノブにかけた手はそのままに、彼女の体が崩れ落ちた。
「……君っ」
「トイレに入れません」
僕は――これほどまでの絶望を目の当たりにしたことがない。
「トイレに入れませんっっ」
これほどまでの慟哭を耳にしたことがない。
「私はこれからどうやって用を足せばいいのですか…………っ」
「僕が君の代わりにトイレの戸を開けるっ」
彼女の手を包み込むようにして、一緒にドアノブを捻った。
「便器の蓋が持ち上げられないのなら、蓋は常に開けたままでおいておくっ」
言い放ちながら、僕は勢いよく蓋を開ける。
「ですがっ、ですがっ、それでも用を足した後トイレの扉を開けて外に出られないのなら、私はどうすればいいのですかっ」
「僕がいる。僕を呼んでくれたら、いつでも開けに来る。君がトイレに入っている間、僕が必ずぴったりそばについているから、だから、安心していいんだ」
「心底やめてください。死んだ方がましです」
彼女は唐突に冷静になって言った。
「できないことを嘆いてもしょうがありませんね。できることを、探していきましょう。トイレの件は……まあ」
彼女は思案気にあちこちに視線を飛ばした後、「そうですね。とりあえず、それで」と、冷蔵庫に取りつけられているキッチンタイマーを指さした。
「私がトイレに入る時は、必ずキッチンタイマーを五分にセットしてから入ります。お兄さんは、タイマーが鳴ったらトイレの扉を開けに来てください。それから、すみませんが、お兄さんもトイレを使った後の扉は閉めずに少しだけ開けておいてください。使用中は、もちろん閉めていてくださってかまいませんので」
「五分?」
僕はよくわからず首を傾げた。
「トイレにこもっている時間によって大か小かを判断されたくないからです。だから毎回必ず五分にしておきます」
僕の目を見ず怒鳴るように言い切る彼女の頬は、うっすらと赤く染まっていた。
そんなこんなで、朝食を口にした時目玉焼きはすでに冷え切っていたのだが、冷めていても、固くても、彼女が作ってくれた目玉焼きはとても美味しかった。目玉焼きとはこんなにも美味しい料理だったのか。目をひらかされる思いだ。彼女は僕に新鮮な感動を与え続けてくれる。けれど、なぜ僕が素直な感想を口にすると、彼女は「やめてください」と言うのだろう?
わずかに朱を散らした顔を悔しそうに歪める彼女を眺めながら、僕はまた首を傾げた。
*
「さて、これからどうしますか?」
「君はどうしたい?」
「何かをしたいです」
「何か」
それはきっと、『何もしたくない』だった昨夜の彼女の口からでは決して出てこない言葉だったろう。
「お兄さんの方は、まずお医者さんに行くべきだとは思いますが」
ああ、そう言えば。
言われて思い出した。僕は痛みに対して鈍い方なのだろうか。あまりそういう自覚はなかったのだが。
「どこか知っている病院はありますか?」
「総合病院が、近くにあることはある、……けど」
費用のことを考えると、正直あまり乗り気ではない。
「このまま自然に治癒しないかな」
「さあ……。でも、その変形した指のまま固定してしまったらどうします?」
「……診療代が」
「払えないのですか?」
「払えない、ことはない。貯金を下ろせば」
彼女は軽く頭を振り、髪の位置を直してから、言った。
「やっぱり、行かれた方がよろしいのではないかと思います。体は、大切にしてあげてください。せっかく生きてるんですから。これからも、生きていくんですから」
「……ごめん」
生きている体。それはどれだけ欲しくとも、彼女には得られないものなのだ。
「いえ、すみません。押しつけがましいとわかってはいるのですが」
「いや、こちらこそ。うん、体は大事にする。もう僕一人の体ではないんだし」
「あの……、その言い方はちょっと違うのでは。いえまあ、今現在お兄さんに戸の開け閉めまで頼りっ放しなのですから、確かにお兄さん一人の体ではないんですが。……なんと申しますか、その……。なんでもないです」
「そう?」
「はい」
「じゃあ、病院の前に治療費を下ろしに銀行に行く。それから病院の後で買い物に行く。それでいい?」
「ええ。……あ」
「なに?」
「あのですね」
「うん?」
「シャワーを浴びてから行きたいです」
「ああ。気がつかなかった、ごめん」
昨夜は僕だけがシャワーを使ったのだ。彼女は穴から助け出された後、風呂も、着替えもしていない。
「いえ。ただ、そうなると……、このワンピースはともかく、同じ下着を入浴後にまた身につけるのは、やっぱり気が進みません。我慢しようと思っていたのですが、夏場ですし、どうにも……。で、ですね、申し上げにくいのですが、先にちょっと下着を買いに行かせてもらえませんか? それと、そのためにお金も貸していただきたいです。……貸してくださいと言いながら、返せるあてもないわけですが……」
「下着か……。この近くには買えるところがないんだけど」
「そうなんですか?」
確認する彼女に、僕ははっきりと頷いてみせる。
「そうですか……。じゃあやはり我慢します。ん……、シャワーも、ではやめておきますね」
この暑い中、それでは彼女が可哀そうだ。
「僕の下着を貸そうか?」
そう僕が申し出ると、彼女は濁点の付いたような発音で「え……」と言った。
「え、と……ですね。あの……。それはちょっと、申し訳ないので」
「遠慮しないで」
「……サイズが合わないのではないかと思いますし」
僕は少し考えた後、
「緩かったら、安全ピンで留めればいいんじゃないかな」
解決策を思いつき、そう笑顔で言った。
「…………わかりました。御厚意に甘えさせていただきます」
「じゃあ、この中から選んで」と引き出しの中のトランクスを見せる。彼女は栗の渋皮を食べてしまったような表情で、縦じまの一枚を選んだ。
「それでは、お借りします」と神妙な顔で丁寧に一礼する彼女に、タオルと探してきた安全ピンを手渡し、先に風呂の中を一度見てもらって、シャワーの使い方やシャンプー等、簡単に説明をしておく。
「狭いけど」
「いえ、充分です。では使わせていただきますね。……重ね重ね申し訳ありませんが、お風呂から上がる時はお呼びしますので、お風呂の戸を開けに来てください。……できれば、その際、中を見ないようにお願いします」
小さく頷いてみせる。
待っている間、僕は窓の外の電信柱を眺めていた。
ただただ何も考えず、目を閉じても詳細に脳裏に描けるほどに、電信柱だけを眺めていた。




