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第三話

 自転車をたどり着かせた先は、どこにでもあるような学生向けの安アパートだった。

 大学から自転車で二十分。二階建てで、一階に三室ずつの計六室。風呂とトイレ付で三万七千円。ここの二階の角部屋で、僕は一人暮らしをしていた。


 自転車をアパートの狭い駐輪場に押し込んだ後、僕が促さずとも、彼女は黙ってついてきた。

 一人暮らしの男の部屋に、何の抵抗もなく。

 抵抗を覚える事も、拒絶する意思も、彼女の中には湧きあがる余裕もないのだろう。

 今の彼女は考える事も何もかもを放棄している。ただ流されて、ここにいる。

 たとえ他の人間は彼女に触れられたことにすら気付かなくとも、僕には彼女の薄い胸に触れることさえ可能だと言うのに。


 ぶり返すように思い出す。

 さっき、自転車の後ろに乗せて走っている時に、わずかな段差に乗り上げた。あやうくバランスを崩しかけたその時に、あるかなしかのふくらみが僕の背を押した。彼女が体勢を立て直すまでのほんの一瞬だったが、それが、僕が初めて彼女の肉を意識した瞬間だった。


 彼女の影の不在に気付いたのは、彼女がマンホールを出た直後だった。その非現実さは、彼女に対し、半透明の膜か何かを通して見るような存在の希薄さを僕に感じさせていた。だが、彼女の柔らかさを感じた瞬間の高まり――ずくんと、一瞬で高まった肉欲は、そんな夢想的な希薄さを払拭させた。

 『性は生に直結している。性は生の象徴である』。そんな認識を反転させるような、衝動。


 いや、待て――。何を言いたいのか、自分自身分からなくなってきた。実際、僕は何を言っている? まったくもって意味不明だ。まるで思った端から忘れていくように、文脈につながりがない。僕は今、混乱しているのか? いや、興奮しているのか?


「お兄さん?」


 部屋の扉の前で鍵を取りだしたポーズのまま固まっていた僕は、訝しげに僕を見上げる彼女の一言に我に返った。ごぼごぼと沸騰した湯に水を差されたように、感情の表面は静まった。


「入らないのですか? ここがお兄さんの部屋なのでしょう?」


 平坦な声で彼女は問うた。そしてすぐ後、何かに気付いたような表情で、


「――もし何か不都合があるようでしたら、私はここで待っていますが? 部屋を片付けたいのならそうしてきてください。隠したいものがあるのなら収納してきてください」


 何かを含んだ声音でそう付け足した。


「それとも、私はどこかに行ってしまいましょうか? ここでお別れして、さよならと手を振りましょうか? それでそのまま出会ったことさえ忘れてくださってもかまいませんよ。お兄さんは私を見つけただけで、私に対しそれ以上の責任はないのですから」


 言って彼女は、小さく笑った。


「私は今、自己否定の極致なのです」


 そんなふうに笑わせたいわけではなかった。だから言葉で否定するよりも先に、カチャリ、と鍵を開けて、彼女の前に扉を開いてみせた。僕が先に入り、扉はそのまま開けておく。


 笑みを消し、無の表情を浮かべた彼女は、黙ってスルリと猫のように入ってきた。

 彼女はしばらく部屋を眺め渡して、取り立てて言及するほどのものも見いだせなかったのか、曖昧に首肯した。そして僕に向き直り、


「――さて、何をしましょう?」


 問われ、僕が首を傾げると、


「私は何をしたらいいのかわかりません。何をすべきでないのかもわかりません。だから、お兄さんが決めてください」

「……」

「お兄さんの好きにしてください。私は、お兄さんの言いなりになります。エロいことをなさろうと思うなら、どうぞご自由にです」

「……」

「お兄さんは、出会いがしらに私に何を要求していましたっけ? ああそうです、確か、『結婚してください』でしたよね。いいですね、しましょうか。ただ、するのはかまいませんが、どうやってするんですか? 私には戸籍も名前も印鑑もお金も何もありませんが? あるのはこの身一つですが?」

「……」

「なんですか、その痛ましいものを見るような目は。言いたいことがあるなら言ってください。ここなら人目を気にする必要などないでしょう? 思う存分思いの丈をぶちまけてくださいよ。別に極度の対人恐怖症だとか硬派を気取った無口だとかいうわけじゃないんでしょう? お兄さんは、私が他の人には見えない存在なのかもしれないと気付いていて、人目を気にして必要最小限にしか喋らなかっただけなんです。そして私自身に私の影のことを気付かせまいと、ぎりぎりまで指摘せず――、まるで私が、普通の人間であるかのように振る舞って。――私を、人間として扱って。上から目線で、余計な、気遣いを」


 彼女はきつく僕に据えていた視線を、片手で目を覆うことによって遮断した。


「なんでお兄さんが私に八つ当たりされてるんですか。なんでお兄さんは一言も文句を言わないんですか」


 手で顔を隠したまま、肩を小刻みに震わせる。


「――ごめんなさい。私、自棄になっています。混乱しています。怒ってます。不安です。その感情の矛先を、お兄さんに向けているんです。こんな怒り、理不尽です。なのに。わかってるのに、止まりません。喋れば喋るほど嫌な人間になっていく気がします。そしてそう言う端から、『自分のこと、「人間」なんて表現していいんだろうか』とかなんとか、嫌な疑問がわきあがってきて、よけいいらいらするんです。私が、お兄さんのこと、名前で呼ばないのも。『お兄さんには名前があるのに私にはないなんてずるい』って。羨ましくって。お兄さんに嫉妬して。そんな馬鹿な理由で、かたくなに『お兄さん』って呼び続けてるんです。なんでこんなくだらない――。もう、もう嫌です、こんな自分も、こんな状況も」

「――何か飲む?」

「……はい?」

「紅茶はないけど、珈琲ならある。それから牛乳とミネラルウォーター」


 僕は玄関のすぐ近くにある冷蔵庫の扉を開け、中身を彼女に示した。


「どれがいい?」


 彼女は目にあてがっていた手をおろし、僕と冷蔵庫の中を交互に見つめた。


「……じゃあ、牛乳を」

「このまま? それとも温める?」

「……ホットで」

「その辺に適当に座って待っていて」


 食卓にも勉強机にもなる卓袱台の辺りを示しつつ言った。

 カーペット敷きの部屋なので、座布団やクッションのような気の利いたものは置いていない。女の子に対して少し申し訳ないかとも思ったが、直に座ってもらうしかない。


 言われた通り正座した彼女は、しばし無言で、僕が片手鍋に牛乳をあけ、造りつけの狭いガスレンジで温めるのを見ていた。


「砂糖は?」

「……少しだけお願いします」


 塩の横に置いてあるタッパーを開け、スプーンに半分ほど取る。


「これくらい?」

「……はい」


 その分量でいいか確認してから、牛乳に混ぜ、彼女の前に置いた。彼女はしばらくためらった後カップに手を伸ばし、両手で包むように持ち上げ、口にあてた。

 カップを少し傾けて、飲む。二口、三口。


「温かいです。……甘くて、美味しいです」


 抱え込むようにカップを持つ彼女の顔を、牛乳のほのかな湯気が包み、湿らせる。


「君は、勇気がある」

「……勇気? なんの、勇気ですか?」

「不安だっただろうに、その牛乳を飲むことができた」

「何を大げさな。普通に飲んだだけじゃないですか。もしかして、賞味期限をだいぶ過ぎてる牛乳だったんですか?」

「いや、期限まで後二日ある」

「なら全然大丈夫じゃないですか。それともひょっとして、いかがわしい目的でこっそり薬でも混ぜたのではないかとお兄さんを疑えばよかったのですか?」


 ああ、そうか。彼女はそんな心配もしなければならないのか。

 思い至らなかった自分を申し訳なく思いながら、「違う」とかぶりを振った。


「では何が不安だと?」

「君は、カップを持つこと、牛乳を飲むこと、その温度や甘味を感じることができた」

「そんなの、できて当たり前じゃないですか」

「そう。当たり前」


 人間ならば。


「でも、やってみるまで、それが本当にできることなのかどうか君には確証がなかった」


 水を飲むことができることはわかっていたが、それ以外のことはまだ可能かどうかがはっきりしなかったはずだ。

 僕が自動販売機で買って彼女に渡したミネラルウォーターとア○エリアスを、あの時彼女は飲むことができた。手が傷むせいで蓋を開ける事はできなかったが、ボトルを持って、その中身を飲み干すことはできた。

 でも、それ以外は?


「当たり前だと思っていることを、当たり前にできないかもしれない。だから、すごく不安だったんじゃないかと思った。でも君は、ホットミルクを飲むことを選択した。自分の意思で選ぶことができた。だから君には勇気があると言った」

「――そんなこと、別に不安でもなんでもなかったです。お兄さんは気を回しすぎです。あと、気を回す方向がずれています」

「『できない』ことに脅えて何もできないでいるより、ずっと勇気がある。どこまでができてどこからができないことなのか、今はまだ手探り状態だけど。こうやって、知っていくことはできる。今何もわからなくても、これから知っていくことはできる」

「あの、お兄さん。人の話聞いてます?」

「今、何をどうしていいかわからなくても、これから決めていくことはできる。だから、『僕の好きにしろ』とか、『言いなりになる』とか、そんなこと、言わなくていいんだ。君は君の意思で選んで、行動すればいい。僕も協力するから」

「はあ、まあ、……では、お気持ちだけいただいておきます。せっかくのホットミルクが冷めちゃうともったいないので、しばらく静かに飲ませてくださいね」


 僕が見つめていると、彼女はついと顔をそむけた後、僕に背を向け、顔とカップを隠すようにしながら飲んでいた。その姿は、拾ったばかりのまだ人に慣れていない猫のようで、微笑ましかった。


 昔飼っていた猫を思い出す。

 彼女が着ているワンピースのように白い猫だった。耳は薄いピンクで、金色の目をしていた。

 元捨て猫で、拾って来た当初は、人間の手の届かない食器棚と壁との間に入り込んで出てこなかった。

 狭い隙間を覗き込むと、部屋の明かりの届かない薄暗闇の中、赤色に変じた一対の瞳が光っていた。

 拾ってから一週間もすると段々人慣れしてきて、餌を置いておくと周りを警戒しつつも出て来て、僕が同じ部屋にいても食べるようになった。でも僕がじっと見ていることに気付くと、今の彼女のようにふいっと向こうを向いて、僕から餌を隠すようにして食べるのだった。


 追憶に任せていた身をふと現在に戻すと、すうすうという寝息が耳に届いた。見ると、卓袱台の向こう側のベッドに右肩をもたれさせ、彼女が眠っていた。温かい飲み物で体の内側から温められたことで緊張の糸が緩んだのだろうか。


 猫と彼女が重なって見え、過去と現在とが一瞬混じり、僕はぼんやりとまどろむように思考した後、立ち上がった。


 声をかけてみたが目覚める気配はない。肩を叩いてみても起きる様子はない。よほど疲れていたのだろう。電池が切れたように意識を手放し続けている。

 ためらった後、ベッドの掛け布団をいったんどかし、それから彼女の脇と膝の下に腕を差し入れ、抱え上げた。


 マンホールの穴の中から引き上げた時とは違う。意識を失った体は思った以上に重く、そして思っていた以上に柔らかかった。

 焦って、半ば放り投げるように彼女をベッドに横たえた。そして僕の目から覆い隠すように掛け布団を彼女の上に広げる。

 離した後も、腕に感触は残り続けた。


 思い出すな。

 しっとりと、吸いつくような、からみつくような。

 思い出すな。

 熱い、柔らかい、

 思い出すな。忘れろ。そうだ、すり替えろ。記憶を上書きしろ。

 あそこにいるのは女の子じゃない。猫だ、白い猫だ。あそこにいるのは、かつて僕が飼っていた猫なんだ。


 猫だ。捨てられていた猫だ。怪我をして、脅えて、人間を警戒して、でも僕に見捨てられれば飢えて一人ぼっちで死んでしまう。僕しか頼る相手がいない、僕だけの猫だ。


 僕は風呂に飛び込んで、冷たいシャワーを浴びた。


『お兄さんの好きにしてください』


 耳によみがえる彼女の声を、シャワーの勢いを強くして聞こえなくしようとする。 


 記憶も何も持たぬまま、自分が何かもわからぬまま、自暴自棄に言った彼女のあの言葉。

 どう見ても十代前半の、おそらくなんの経験も持たないだろうあの少女にとって、そんな行為――出会ったばかりの男との性行為――そんなものが、恐怖や嫌悪を伴わないわけがない。けれどそれらをはるかに上回る恐怖が彼女にああ言わせていたのだろう。


 僕に見放されたら、彼女はこの世界のどこにも居場所がなくなる。

 誰にも見られず誰にも知られず誰とも話せず。

 僕が見つけるまで、マンホールの中――あの光の届かない地面の下で、必死に叫び続け、それでも誰にも顧みられなかったあの悪夢のような時間が、これから先も続いていくことになる。


 一人でい続ける事の恐怖を、彼女はすでに知っている。その骨身に刻まれた恐怖を再度味わうくらいなら、自分の体を僕に差し出すことなど、おそらく比較にならないほど容易なことなのだろう。


 薄く笑いながら挑戦的に僕を睨みつけていた彼女の――その全身が僕に訴えているのを、あの時の僕は感じていた。『なんでも言うことをきくから、一人にしないで』と、そう泣き叫びながら僕に請うているのを、僕は確かに聞いていた。


「傷つけるな」


 頭から冷水を浴びながら、僕は自身に言い聞かせるように呟いた。

 口の中に入り込んだ水を飲み下し、もう一度呟く。


「絶対に。彼女を傷つけるな」


 僕が彼女を傷つけるなら、僕は僕自身を、決して許さない。



 二十分くらいこもった後風呂から出ると、彼女は先程とは違う姿勢で眠っていた。こちら側を向き、膝を抱えるように背を丸めている。僕は意識して、その姿に猫を重ねる。


 猫。名前はミィだった。時折ひげをピクピクと揺らしながら、僕の布団の上であんなふうに丸まって眠っていた。


 さっきの衝動が蘇らないことを用心深く確認してから、僕は一歩彼女に近寄った。

 安心しきって僕のそばで眠っていたミィのように、穏やかで安らかな寝息。


 何か神聖なものを眺めているような、不思議な感動が胸を満たしていくのを感じた。目が潤んで、彼女の姿がぼやける。誰かに、何かに感謝したいような、祈りたいような。


 僕はその場に膝を折って、何かわからぬものに対して頭を下げていた。

 得難い奇跡のようなこの光景を守るためなら、僕は僕の全てを捧げたっていい。

 もしも、こんなちっぽけな僕の存在と引き換えに、守らせてくれるのなら。


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