エピローグ
さて、今日も今日とてストーカーです。
お兄さんからひたすら無視し続けられるといういじめを受けている私は、なんの遠慮も躊躇もなく、露骨に後をつけまくっています。ですのに、たとえお兄さんの運転なさる自転車の荷台に乗っかったって気付かれない自信がありますよ、こんちくしょう。
あの人には、今の私の姿はほとんど認識されていないようです。『人の見分けがつかないから私のことも見分けられない』というよりは、なにか心の中で折り合いをつけて私の存在自体を排除しちゃったっぽいです。
でもま、見るだけで、声はかけていないのですが。声をかけるのは、なんかアウトな気がするのです。
彼は、今も私の視線の十メートルほど先で、『ああ、幸せな人ってこんな顔して笑うんだなぁ』って――。そうしみじみと私の目には霞がかかって見えるような笑顔こさえて、目の前を見つめて口元を綻ばせていらっしゃいます。
彼の目には今も私が、見えているのでしょうねぇ。
ただしそれは、影の無い、私ではない私なのです。たぶん。
病院で一方的に手ひどく拒絶された私は、退院後、記憶を頼りにお兄さんのアパートを探し、なんとかやっとこさたどり着きました。そして尾行しつつお兄さんを観察する内、大方の事情を把握したのです。
何故ってあの人、何もない空間に、世にも幸せそうな笑顔を向けているのですから。
ちょうど今みたいに。
ほんと、こんな嫌な私を元ネタにしていますのに、あの人本当に、世界中の幸せを凝縮したような顔を向けてらっしゃるんですよね。
幻を相手に。
『純粋』と言う表現を、なんの衒いもなく素で言えそうな感じで。
『目の中に入れても痛くない』って感じに溺愛してくださって――と、そこまで考えて、変な想像が頭を過ぎりました。
『僕は彼女が目の中に入れても痛くないほど――いや――、待て、僕の目の中なんかに入れられたら、彼女が不快な思いをするだろう』
この愛情表現に関し、そんなふうに真剣に考え込んでいるお兄さんの姿が浮かんだんです。だってあの人、そういうどうでもいいことにこだわりそうですから。
本当に、どうでもいいことに。
世界中の人たちが手を打って足を鳴らして囃し立てそうなくらいどうでもいいことに、こだわって。
でも、あの人にとっては、それは『世界の全てと等しいくらい大切なことなのだ』と、そう大真面目に主張されてしまうんだろうなあ――と、想像してしまいました。そしてその想像は、ただの想像よりもはるかに実感の重みを宿していたのです。
じわりと。頭蓋骨の中限定で熱が渦巻いて、その結果どろりと溶かされた内容物が出口を求めて眼窩に集結でもしたんでしょうか。目が熱いんですよ。じわりと。じわじわと。最後にはぶわっと。熱くて熱くて熱いです。
春の日差しとか散りゆく桜とか通学路の両端に続いているコスモスの群れとか雪の上に幾重にも刻まれた轍とか、そういうものを目にした時のように抗いがたいなんらかのなにがしかの感情が私を打ちすえて、そろそろギブアップです。あっぷあっぷ。
もういいや。
私はくるりと踵を返して、とてちてたと歩を進めました。とりあえず、おうちに帰ります。
おばあちゃんのとこに寄って、なんとなく日課になっている根競べのような無言のにらめっこを終えてから、私を引き取ってくれた伯母さんの家に、帰ります。
ではさよならと垂らした手の先っちょだけを後ろ手に揺らしてから、空に向かって宣言してみました。
とりあえず、今日を生きていきます。
明日も明日とてストーカーするために。
了




