第二十話
アパートに帰りつき、ドアノブに手を伸ばす。
ほんの二週間前、この扉を開けて外に出る事を怖れた彼女がいた。蓋を開けて自由になることを拒んだ彼女がいた。その彼女の恐怖と不安と躊躇は、今の僕と少しは重なるのだろうか? それともまったく別のものなのだろうか? 僕は僕で彼女は彼女なのだから、重なり合うことなどありえないはずなのだが。
そう、ありえない。この扉の向こうに彼女がいるはずがないのと同様に。なぜなら、彼女を創り出した僕自身が『いない』ことを理解してしまっているのだから。
でも、いるか、いないか、扉を開けるまではわからない。希望と絶望は同じ扉の先に在る。
このままそっとしておこうか? 触れずにいれば、永遠に変わることなくそこに在り続けるんじゃないだろうか。
――いや、開けるべきだ。彼女は扉を、開けたのだから。
僕がここで開けることを拒むなら、僕は彼女の姿に何も学ばなかったことになる。彼女の行動を、彼女がいたことを、彼女がそこにいたことの意味を、僕自身が否定してしまうことになる。それは、駄目だ。
思うと同時、ドアノブを捻っていた。目をつぶって、ドアを開ける。瞬間生まれた暗闇の中、僕は光を求めた。
求めた。求めた。存在の全てをかけて、僕は光を求めた。
そして、光は彼女の形に収束していった。
「お帰りなさい、お兄さん」
目を開ける。開いた扉の先には、中腰で僕を迎える彼女の姿があった。その足元に、影はない。
「あは、は……。みっともない姿でお出迎えしてしまい汗顔のいたりです。あのですね、これはですね、そのう……階段を上るお兄さんの足音が聞こえてきましたもので、『ここはお兄さんにドアを開けられる前に私の方から開けて新妻風にお出迎えして笑いを取るべきか』と考え行動に移そうとしましたところ、寸前『もし冗談と受け取られず「僕は君に迎えられるために帰って来たんだ」とか真顔で言われてしまったらどうしようか』という不安が過ぎり、『大人しく普通に迎えよう』と結論した私は部屋の奥に引っ込もうと体を戻しかけていた、という微妙なポーズだったりするので、見なかったことにして記憶から消去していただきたく……わあっ!?」
彼女は僕の腕の中で、目を白黒させていた。
「わきゃっ!? 肺がっ、肺がつぶされますっ。ただでさえ一気喋りで酸欠で息苦しかったのですよっ!? 息ができませんんっっ」
もがく彼女に、僕は力の調整の仕方を慌てながらもかろうじて思い出し、ようやく腕の力を緩めた。
「ごめん。会いたかったから」
会いたかったから。ただひたすらに会いたかったから。再び彼女を創り出すほどに。
現実と正気に抗い、僕は勝利をおさめたのだ。この世界でなら、僕は神にだってなれるだろう。
「ええ、そうでしょうとも。私を圧死させかねないほど会いたかったのですものね」
彼女は言いつつ右手で僕の胸を強く押し、僕の腕を外させた。
「お兄さんがここを出られてから一時間半経過です。今までで最長記録です。帰ってきたらこうなるんじゃないかとは送り出す前から予想はついていましたよ」
彼女はさりげなく髪に手をやり、横髪と掌で僕の視線から顔を隠した。
「『五分と離れていられない』と常時ほざいていらっしゃったお兄さんからすれば大躍進です。まあ、お兄さんにしては頑張ったんじゃないかとは思いますよ、と上から目線で言ってみたりします。それはともかく」
彼女は微妙に顔を隠したまま、僕の右手を引き寄せた。
「一時間半という時間は、少し早すぎます。この右手、本当にお医者様に診ていただいたのですか? 私恋しさに――」
そこまで言ってから、少し間を置いて、「私恋しさに、診察待ち中に耐えきれず勝手に帰って来てしまったのではありませんか?」と早口で言い切った。見なくともわかるのは、彼女の頬が赤くなっているだろうこと。
「診てもらっていない」
「ほらやっぱり……っ。駄目じゃないですか」
「今度、別の病院に診てもらいに行こう。外科なら他にもあるから。そこになら、君も一緒に行けるから」
「そろそろ私離れをしていただけませんか? 私は別に、消えたりしませんから。そんなに心配なさらないでください」
「絶対に?」
「『絶対』という言葉を軽々しく使いたくはありません。でも、可能な限り、そうします」
「うん」
頷く。そして見つめる。ほんの瞬きの間も目を離していたくなかった。彼女はたぶん、僕が見ている時しか、存在しない。
「……まあ、できるだけ……。はい、善処します。……。あの、早く扉を閉めて上がってくださいませんか。ちょっと、落ち着きません」
「うん」
開けた扉を、閉める。この扉の先に続く世界そのものを断ち切るかのように。
そこに躊躇は微塵もなかった。
*
「いらっしゃいませ、お二人様ですか?」
「いえ、一人です」
大学から自転車で十五分の場所にある喫茶店。今までにも数度訪れた場所。弁当に飽きた時、僕はたまの贅沢として二ヶ月に一度程度ここを利用していた。
「そちらの方は、お連れ様では?」
店員が訝しむように僕の後ろを見た。
「いえ?」
彼女以外の連れなどいない。その彼女はちゃんと僕の左隣に立っているので、
「僕一人です」
目の前の店員にとっては僕一人のはずだ。
彼女を否定する言葉など吐きたくなかったが、彼女が僕にそう言うよう望んでいたので、渋々のすり合わせだ。
「失礼しました。喫煙席でしたら空いておりますが、禁煙席でしたらしばらくお待ちいただきます。どうなさいますか」
午後の一時少し前だった。腹が空いているし、混んでいるようだし、早く食べられるなら喫煙席でもかまわない。ただしそれは、僕一人なら、だ。
「私はかまいませんよ?」
僕は軽く首を横に振ってから、
「禁煙席でお願いします」
「……。まあ、お兄さんも非喫煙者ですから、受動喫煙はしない方がいいっちゃいいんですがね」
やはり少々過保護です、と彼女は呟きを漏らしていた。微笑みそうになるのを、僕は顔の筋肉を引き締めて堪える。
「かしこまりました」
壁に添って設置されたソファーを示しながら「ではこちらでしばらくお待ちください」と一礼した店員は、首を曲げ、もう一度僕の後ろを眺めた。だがそれも一瞬で、すぐに顔を戻し、店の奥に消えていった。
「? なんでしょう? こないだも同じようなことがありませんでした? かと言って私の姿が見えているわけでもないようですし……。軽く怪奇現象だったりするのでしょうか。うわ、やめてください。実は私、幽霊のくせにその手の話は大の苦手なのです。特にシャンプーの泡を流してる時怖くなるんですよ。あの時って滅茶苦茶無防備じゃないですか。目を開けて確かめたくっても泡が流れ込んで来て目にしみるから、開けて確かめることもできませんし。恐怖だけがどんどん募っていくんですよ」
「じゃあ一緒に」
「入りませんから。お兄さん、この頃親父化起こしてますよ」
ごめんね、と答えながら微笑みの萌芽を喉の奥で押し殺し、彼女を誘いソファーに座る。僕の左隣に座った彼女の確かな重みを宿してスプリングが軋み、その振動が伝わって来る。少し遅れて、右隣からも。そこで僕は、ようやくその存在を思い出す。だがそれが彼女の目に映っていないのなら、問題はない。
ソファーの足元には二つの影が蟠り、そして僕は左だけを見つめていた。




