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第十九話

 あれから二週間が過ぎた。右手の再検査に来るよう言われていた僕は、一人、再度病院を訪れていた。当然彼女も一緒に来るものだと思っていたのだが、


『すみません。病院では、お父さんと顔を合わせることになるかもしれないので……』


 言葉を濁し、彼女は曖昧に微笑んでみせた。それでも僕が怪訝な顔をしているのを見ると、言葉を補ってくれた。


『まだ、気持ちの整理がつかなくて、会いにいけないんです。お父さんのことは、生きていてくれたことがわかったから、もうそれでいいと思っています。正直、会うのは、怖いんです。お父さん自身が怖いし、お父さんに会っても私を認識してもらえないのも、怖い。私が呼びかけても返事をしてもらえないし、そこにいるのに見てももらえない。それは、辛いです。だからまだ、会えません。おばあちゃん、にも――。ただ、もしかしたら、おばあちゃんには私の姿が見えるんじゃないかと思うこともあるんです。認知症が進んだおばあちゃんは、どこか違う世界で生きているみたいに見えていましたから。生きていた時の私が声をかけても返事をしてはもらえませんでしたが、今の私ならもしかしたら見えるんじゃないかな、なんて』


 彼女は、あは、と小さく笑った。


『そんな馬鹿なことを、ちらと考えました。そんなこと、あるわけないんですが。でも、実際に会って確認するまで、「もしかしたら」っていう可能性は残されているんですよね。「もしかしたら、私に気付いてもらえるんじゃないか」という可能性。その可能性だけは、まだ私から奪われてはいないんです。だから、気持ちの整理がついたら、施設にいるおばあちゃんに会いに行くかもしれません。おばあちゃんを見限っておきながら、すごくむしのいい話ですが』


 それから、知っていることを増やしたくないのだとも彼女は言っていた。


 彼女はここ一月以内の新聞紙を、広告の間に挟んでまとめて縛り、押し入れにしまっていた。テレビやネットで見るのは主に娯楽を目的とした情報のみ。だから僕たちは、事故についても、その後のことについても、知っていた以上のことは何も知らない。必然誰が彼女を撥ねたのかも。


 『知りたくない』と、そう彼女は言っていた。彼女の決めたことならば、僕は従うのみだ。いらぬ詮索はすまい。この病院で彼女の父親に会ってしまったとしても、だから声はかけまい。――だが、そもそも、その父親は実在するのだろうか? 幾度となく浮かべた疑問が、また頭を過ぎっていく。


 彼女が傍にいてくれないと、僕の意識はこうもたやすく体から離れてしまう。けれどその離れた意識はふわふわと浮くのではなく、地に足を着けたまま、周る。自分の体を中心にして、その体をかすめるようにすぐ傍を、延々に延々と、くるくるとぐるぐると。

 現実の体ならば三半規管に異常を来たして周ることを強制終了されるところだが、意識に歯止めは効かない。だから僕は彼女との会話を思い出すことで、僕の意識を体の中に招き寄せる。彼女のなんでもない言葉が、僕をこの体に繋ぎ止める手綱となる。


 まだだろうか。まだこの地の文は続くのか。僕のモノローグだけが続いていくのか。

 もしも僕の人生が一冊の本ならば、地の文はすべて削り取って行間紙背まで彼女の言葉で埋め尽くしてしまいたい。僕の入る隙間など、詰めて詰めて、それこそページ番号程度の面積にしてしまってかまわない。


 僕の番号札は『外科三十六番』。今掲げられている『診察中』の数字は十七番。あの数字が僕の手の中の数字と一致し、そして一つ過ぎれば、この札は彼女と会うための許可証に切り替わる。

 後二十人分の時間。それは永遠に比べれば瞬きの間だが、瞬いている間、僕は世界を見ることができない。暗い。暗くて何も見えない。次の世界に切り替わらない。停止し続ける。


 この暗闇に耐えられないのなら、無理にでも本物の彼女について来てもらうべきだったろうか。

『今からでも来てほしい』

 もしアパートに固定電話を引いているか、もしすでに彼女用の携帯を購入していたならば、僕は誘惑に負けて電話でそう彼女に頼んでしまっていただろうか。


 彼女が僕を送り出した時の表情が頭を過ぎる。『気をつけて行ってきてくださいね』と僕を見上げる彼女は、玄関に置かれた自分のサンダルから無理に目を離そうとしているように見えた。最後まで迷っていたのだろう。その彼女の葛藤を、僕はこの焦燥感のためだけに無視してしまっていただろうか。


 いや、それはできない。考えるまでもなく、そう考える。僕は彼女の意思を尊重する。僕のエゴの方が彼女の意思に勝ってしまうのなら、僕は僕の意思ごと僕を消去するだろう。


 ならば僕は願うだけだ。ただひたすらに願うだけだ。

 言葉を。どうか僕に彼女の言葉を。

 一心不乱に言葉を求め、そしてまた読み終えたページのコピー&ペーストを繰り返す。


 **


「お兄さん」


 記憶と地続きの声が背後から聞こえた。それが記憶の中の彼女からではなく耳から直接注がれた音声だということに気付き、小さな混乱が僕を襲った。うたた寝をした後目覚めた時のように、切り替えがうまく行かない。

 

 僕が今いるここは……、そう、アパートではなく病院の待合室だ。僕はとっさに、声をかけられた背後の方ではなく診察室の前に置かれた案内板を見ていた。『診察中 二十一番』。まだ僕の手の中の数字には至っていない。


 ――では、今現在アパートで僕の帰りを待っているはずの彼女は、僕を追ってここまで来たのだろうか。追って、来てくれたのだろうか。


 だけど僕のそんな思考は、感情は、感動は、声の主を見た瞬間に途切れて途絶えた。


「よかった、やっぱりお兄さんです。私の夢じゃなかったです」


 そこには零れんばかりの笑顔の少女がいた。


「私一人が見た夢だったらどうしようかと、今の今まで不安でした。でも、やっぱりいらっしゃいました。ここで待っていればお会いできると期待して、ずっと、本当にずっと、お待ちしていたんです」


 点滴の管に腕を繋がれ、車椅子に体を預ける一人の少女が。


「あは。お兄さん風に言うなら、『私はあなたと出会うためにここにいたんだ』でしょうか? 覚えていらっしゃいますか? お兄さんの台詞のもじりですよ。『君は僕の君で、ここは君と僕がいるところで、君は僕と出会うためにあそこに閉じ込められていたんだ』が元ネタです。お兄さんの言葉、私、ちゃんと覚えていますから。……まあ、種を明かせば、なんのことはない、二週間後に再検査に来られるはずだと知っていたのでこうして待ち伏せしていたわけなんですが。……あの、お兄さん? ……えっと」


 僕はただ一点を凝視していた。視線の先、病院のおぼろな光源の下、車椅子の影に紛れながらも、それでも確実に、少女自身の影があった。


 少女はつられるように足元の影に目を遣ってから、納得したように僕に頷いた。


「はい、あります。お兄さんと同じに、影があります」


 少女は自分の左胸に手を当てて、


「影があって、体があって、私がいます。生きていたんです」


 確かめるように頷きながら言った。


「お恥ずかしい話ですが、私、『死んだ』とはやとちりの勘違いをしてしまっていたようなんです。『幽体離脱』って言うんですかね。なんだか『記憶喪失』と同列に胡散臭くて笑っちゃいそうな言葉ですが、それしか当てはまる言葉がなさそうなんです」


 照れたように笑いながら、少女は説明を続ける。


「私、ハンバーガー屋さんであのようなお別れをした後、自分が成仏したと思っていたのに、目が覚めたらここの病院のベッドに寝かされていたんです。看護士さんの話によると、私は事故の後、ずっと意識が戻らず眠り続けていたんだそうです。私の体はずっとこの病院にあったそうなので、だからお兄さんと会った時の私は、たぶん幽体とか生き霊とか、そう呼ばれる類のものだったのだと思います。事故の衝撃で魂だけが体から切り離されたのか、……『私なんかいなくなればいい』というあの時の強い思いが関係していたのか、自分のことながらよくわかりませんが……」


 少女は視線を落とした後、また微笑んで言った。


「あれだけ騒いでお兄さんの生活かき乱しといて本当に申し訳ないんですが、こうして生きていました。まあ御覧の通り満身創痍で達者なのは口だけという状態なので大目に見てやっていただければなぁ~と。……御寛恕いただけます? ……あの、お兄さん、何かコメントをいただけませんか? 私一人喋っていると少しむなしくて多少不安なのですよ?」


 逃げなければ。


「あ、今の私の姿はちゃんと他の皆さんにも見えているのですよ。ですからご安心ください。お兄さんと人前で携帯抜きで会話をしても怪しまれることはありません。……それとも、怒ってらっしゃるのですか? ……あんな、別れ方をしたから。――お兄さんを置いて、行ったりしたから」


 一刻も早くこの場から逃げなければ。


「お兄さんっ?」


 僕は少女に背を向け、上体を前のめりにしながら駆けだした。それ以上少女の声を聞かずにすむよう、両手で耳を塞いで、何かを叫びながら病院から外へ飛び出した。

 だけどそこで立ちつくした。


 どこに行けばいい。どこに行けばこの現実から逃れられる。


 それは自分自身の足から伸びる影から逃れようとするのと同じほどに、術のないことに思えた。たとえ夜闇に紛れて影を消しても、そんなのはただの一時的な延命措置に過ぎない。光は容赦なく欺瞞を打ち砕き顕わにする。


「お兄さんっ、待ってください、お兄さんっ。お願いです、逃げないで」


 だらりといつの間にか両脇に垂らしていた僕の両手はとっくに耳栓の役割を放棄していた。少女の声が、遮られることなく直線に耳に届く。 


「私、これでも、ついこないだまでけっこう、な重病人だった、のですよ?」


 車椅子で追いかけて来た少女は、荒い息を吐きながら切れ切れに言った。


「あまり無理な、運動は、命の負担です」


 追いついてきた現実が容赦なく可能性の芽を潰していく。もう無理だ。もう僕は認識してしまった。ごまかすことはできない。


「なんで、逃げたのですか? なんで今も逃げたそうにしていらっしゃるのですか?」


 ハンバーガー屋で僕のもとに帰って来てくれた彼女。僕と共にベーコンを、サラダ油を買った彼女。この二週間、僕と共にいてくれた彼女。そして今この時もアパートで僕の帰りを待ってくれているはずの彼女。

 ――それらは全て、偽物だ。一人になることに耐えられなかった脆弱な僕の心が生み出した、幻だったのだ。


「なんで口を利いてくれないんですか? なんでそんな……責めるような目つきで私をご覧になるのですか?」


 夢の中『これは夢だ』と認識した途端夢から覚め始めるよう、幻は幻であると認識した瞬間、存在できなくなっただろう。


『幻なのではないか』『幻であってもかまわない』


 確かに僕はこれまでそう思い続けてきた。でも、それはあくまでもただの想像であり、はっきり認識することとはまったく違ったのだ。


 車椅子の少女の影を認識したあの瞬間、僕の部屋に、動くものは何もなくなっただろう。彼女を創り出したのは僕で、彼女の存在をこれまで維持してきたのも僕なのだから。その僕が気づいてしまった以上、幻は存在し得ない。


 影のない彼女はもういない。


「……私が生きていたことは、お兄さんにとって不都合でしたか?」


 目の前の少女が、彼女を殺した。


「やっぱり……、影がある私では、他の人と見分けがつかないのですか? だから私には、もう何の価値もないのですか?」


 僕が、彼女を殺した。


「それとも……、やっぱり生霊だった私が、お兄さんの心を操っていたんですか? 傍にいてくれたのは、お兄さんの意思ではなかったんですか?」


 少女は泣きそうな声で、縋るように言った。


「そのどちらであったにしろ、今の私は、お兄さんにとって拒絶の対象でしかないのですか?」


 少女の言葉に興味はなかった。ただ、ここに留まることで先延ばしにしていたかった。アパートに戻り、彼女がそこにいないという事実を確認することを、少しでも先に延ばしたかった。


「……でも、私は私なのに……っ。ちっとも違わないのに……っ」


 それでも。

 それでも、と、記憶に残された彼女の言葉と共に思い直す。アパートの扉を開けるまでは、まだ可能性は残されている。いるか、いないか、確立だけで言うならば、それは扉を開けるまでは半々だ。

 彼女がまだそこにいる可能性。その可能性だけはまだ僕から奪われていない。


 アパートに、帰ろう。僕はぼんやりそう決意した。そして足は惰性のように従った。

 無言のまま、歩を進める。目指すのは自転車を停めてある駐輪場。


「待ってください! 行かないで!」


 悲鳴のような懇願が少女の口から発せられる。


「お願いです、何か言ってください。なんでもいいから、何か言葉をかけてください。無視しないでください。お願いです、一人にしないで。一人にしないでっ」


 かまわず、僕は停めていた自転車を引っ張り出し、跨ろうとした。だが車椅子で僕の前に回り込んだ少女は、通せんぼのように僕の前に陣取っている。

 僕は無言のまま、一度自転車から降り、そして少女の座す車椅子を側面から蹴り上げた。点滴と共に呆気なく倒れた車椅子からは、少女の体がどうと投げ出された。


 心は凍てついていて、硬い。一時的に感情が麻痺しているのだろうか、自分の行為に、何も感じなかった。まるで白黒の無声映画を見ているようだ。ただ、『薄い紙を蹴り上げたようだ』と、それだけ思った。


 固まって停止した少女の向こう、病院の鼻先での騒ぎに気付いた白衣の人物が血相を変えてこちらに走ってくるのが見えた。捕まればアパートに帰れなくなる。僕の中に焦りが生まれた。


 僕が動くのを見て、少女は倒れたまま体を庇うように両手を上げて縮こまった。点滴の針が抜けたためだろうか、その腕を鮮度の高い赤い血が伝うのが見えた。


 僕が再度自転車に跨るのを見た少女は、上げていた腕を下ろして地面につき、這いずるように体を支え、叫んだ。


「お父さんは、死んでいましたっ」


 一センチ、二センチ、両腕で下半身を引きずり、僕ににじり寄ってくる。


「私が病院で目撃したお父さんは、許されたいと願う私の心が作り出した幻でしたっ。お父さんはやっぱり、死んでいたんですっ」


 幻は――。幻は、やはり消えるのか。

 初めて少女の言葉が意味を持った。首筋を、ぬるりとした手に掴まれているように感じた。


「蒸発したお母さんは、どこにいるかもわからないままです。おばあちゃんは私を私だとわかってくれません。こうなる前は親切にしてくれていた伯母さんは、私を持て余して、重荷に感じています。私を拒絶するようになりました。誰も私を見てくれません。話を聞いてもくれません。誰も私に話しかけてくれません」


 少女はまだ血の流れている右腕を僕に向けて伸ばし、僕のズボンにすがろうとした。


「お願いです、お兄さん。無視しないでください。何か言ってください。一人は嫌です。もう嫌なんです。嫌、見捨てないで。ごめんなさい、ごめんなさい、許してください、ごめんなさい」


 少女の手が届く前に、自転車を漕ぎ出す。

 片腕での漕ぎ出しに危うく傾きかけたが、なんとかもち直す。


「お兄さんっ」


 去り際、少女の横を通り過ぎる時、少女の望むよう、僕は一言だけ言葉をかけた。


「僕は君なんか、知らない」


 少女がどんな顔をしたかは見えなかったが、どうでもよかった。

 走り出した自転車の荷台は軽く、風が耳元を流れていくのを感じた。

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