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第十六話

「何を言いたかったの?」

「――え?」 

「今の話で、君は僕に何を言いたかったの?」

「なにって――、え? 私がお兄さんに身の上話をした理由、ですか?」

「そう。君はそれを話して、何をどうしたかったの?」

「そんなの……。ただ聞いていただきたかったからです。なぜ私がこんな、他の人には見えない存在になっていて、マンホールの中に閉じ込められていて、しかも記憶を失っていたのかについて答えが出たから、お兄さんにご報告したのです」


 僕が黙って彼女を見つめていると、彼女は段々、追い詰められるように戸惑いを深めていった。


「それはもちろん、自分一人で抱えていずに誰かに話して楽になりたかったからという自分勝手な理由はあります。お兄さん以外に、私の話を聞いてくださる方はいませんもの。お父さんにさえ私の声は届きませんでした。……おばあちゃんにはどうなのかわかりませんが」

「それだけなの?」


 彼女は眉宇をひそめて僕を見上げた。


「お兄さん、ひょっとして、怒ってらっしゃいますか?」


 怒っている?


「私が、愚痴を延々続けてきたからですか?」


 僕は怒っているのか?


「なぜお兄さんはそんなに不快そうなのですか? 確かに愉快な話ではないのですからしょうがありませんが、なぜそこまで、責めるような眼差しを向けられるのですか?」

「……ごめん、わからない。僕は今、そんな顔をしているの?」

「はい、はっきりと」


 僕は戸惑いつつ自分の顔に触れてみた。でも手の平が伝えてくる情報では、僕には汲み取れなかった。


「僕にその自覚はない。でも君にそう見えるのなら、それは、君が僕にそうであることを望んでいるからじゃないかな」

「私がお兄さんに望んでいる? 私がお兄さんに、怒っていただきたいと思っている?」


 頷く。


「僕は君を肯定する。君の行動、君の意思、君の感情、その全てを否定しない。僕は君が望むよう振る舞う。少なくとも、そうでありたいと望んでいる。だから、もし僕が君に対して怒っていて、君を責めているように感じられるのなら」

「――怒られたいと、責められたいと、私自身がそう思っている……? ということですか?」


 頷く。


「僕は君の心を映し出す鏡のようなものなんだろう」

「白雪姫に出てくる魔法の鏡のように、ですか?」


 彼女はくすっと笑おうとして失敗したような表情になった。


「私は……私……、わかりません。いいえ……いいえ」


 そして横に首を振った。


「仰る通りなのかもしれません。私は責められたいんです。私は怒られたいんです。誰かに思いっきり、怖くて思わず泣きだしてしまうくらい一方的に怒られたいんです。……それで、その後で」


 彼女は自分で自分の腕を抱き、まるで雨に打たれているように、小さな体を更に縮こめるようにして言った。


「その後で、――許されたいんです、きっと。『もういいよ』って、『許してあげる』って、そう言ってもらいたいんです」

「そう」


 頷く。


「僕は何を責めればいい?」

「……私がお父さんを傷つけたことを」

「それから?」

「私がおばあちゃんを見捨てたことを」

「他には?」

「私が本当はお母さんを許せないでいることを」

「それだけ?」

「私が、私を車で撥ねた人を『人殺し』にさせてしまったことを」

「君を殺した人なのに、恨まないの?」

「恨んでいないと言えば嘘になります。この先もっと恨むかもしれません。でも、どこの誰かも知らない人を恨み続けるのは難しいです」

「その人がどこの誰かを知りたい?」


 彼女は横に首を振った。


「知りたくないです、ごめんなさい。知らないでいたいです。その人の人生まで、私は背負いたくないです」

「そう」


 頷く。


「責められたいことはそれで全部?」

「いいえ――」


 彼女は息を吸い込んで、吐き出しながら言った。


「私が本当は、それら全部に対して、『私のせいじゃないのに』って思ってることを。『私は悪くない』って、本当は、今でも思い続けていることを。怒ってください、責めてください、なじってください」

「そう」


 頷く。


「君は馬鹿だ」

「馬鹿ですか」

「この馬鹿」

「はい」

「大馬鹿野郎」

「野郎ではありませんが」

「ごめん。どう罵倒すればいいのかわからなくて、こんな言葉しか出ない。馬鹿とか阿呆とか間抜けとかしか。それで、一番ましなのが『馬鹿』かと思って」

「お兄さんのボキャブラリーはどうなっているのですか?」

「行間紙背を読むことができなかったから国語の点数はよくなかったけど、漢字の読み書きはできる方だった。語彙は貧困ではないと思う」

「語彙が豊富なことと口に出る言葉の数は比例しないということですか」

「そう。だからこんなふうに、君の期待に応えることさえできない」

「いえ――充分です」


 彼女はなぜか小さく、けれど本当に満足そうに微笑んだ。そのまま消えてしまうのではないかと危ぶまれるほど、満ち足りた微笑みだった。それからふ、と小首を傾げ、


「お兄さんは私に対してささいなことで謝ってばかりです。それに私もなんだか『ごめんなさい』ばかりですね」

「そう言えば」

「お兄さんのせっかくのお名前に対して申し訳が立たないのではありませんか?」


 ()(あり)。人から感謝されるよう、願いを込めて付けられた名。


「覚えていてくれたの?」


 名前も、そこに込められた意味も。


「一昨日聞いたばかりですよ?」

「一昨日……」

「ええ、一昨日です。一昨日の今頃は、まだ出会ってもいませんでした。何か変な感じですね。もう昔を懐かしんでいるような。うん、やっぱり変な感じです。私は実はけっこう人見知りするタイプで、打ち解けるまでに時間がかかるものなんですが。時間はあくまで目安でしかないのでしょうか?」

「僕は」

「はい?」

「僕は、君と出会った瞬間にこの世に生まれたような、そんな気がしている」

「…………。沈黙以外の何を以て対処すればいいのやらわかりません」

「君と出会うまでどうやって生きて来たのか思い出せない」

「私の『記憶喪失』が今度はお兄さんに移りましたか?」

「好きです、結婚してください」

「ごめんなさい」


 彼女は呆れたような顔で僕をまじまじと見つめた。


「お兄さんは性急すぎます。この状況で『ありがとうございます』はさすがに言えませんよ?」

「だってもう、言えないから」


 僕は彼女を指さした。彼女の影の不在を指摘したあの時のように。


「この先もう、君は聞いてくれないから」

「お兄さん……?」


 自分の体を見下ろした彼女は、一瞬止まり、それから顔を上げて僕を見た。

 彼女と目が合い、僕は頷く。


「私の体が……透けています」


 まだらに透けて、その部分はどんどん広がって来ている。


「これって……いわゆる成仏ってやつですか!?」

「たぶん」


 僕に自分の罪を告白する度、彼女の体は少しずつ形を失っていっていた。謝るごとに、許されていったのだろう。誰にかはわからない。神様にか。それとも彼女を縛りつけていた罪の意識からか。


「そんなっ! 待ってくださいっ。そんな急にっ。私まだっ、まだ心の準備がっ」


 彼女はどんどん薄くなっていく自分の体を、服に移った火を消すように手当たり次第にバシバシと叩いていた。それから、そんな彼女を見つめているだけの僕を、責めるように見た。


「お兄さんはなんでそんなに落ち着いてらっしゃるんですかっ。私のことが好きだったんじゃないんですかっ!? なのになんでそんなにっ、あっさり受け入れてしまってるんですかっ」

「好きだから」

「お兄さん……」

「君が好きだから。それ以外にどう答えたらいいのか、僕にはわからない」

「……馬鹿……。お兄さんは馬鹿です」

「うん」

「大馬鹿野郎です!」

「うん」


 なぜ彼女は、そんな泣きそうな顔をしているのだろう。彼女を縛っていた様々なものから解き放たれ、これでもう、苦しむことはないというのに。これ以上留まって、そのタイミングを逃してしまったらどうする気だろう。


「その蓋」


 僕はすっと、人差し指で今度は別の物を指し示した。オレンジジュースのコップについていた、プラスチックの透明な蓋。


「その蓋を、開けてごらん。今ならきっと、開けられるから」

「蓋を、開ける……」

「そう。たぶんだけど、君に『開ける』という行為ができなかったのは、『開けてはいけない』と、君自身が強く思っていたから」


 父親から逃れて自由になることを願ったために父親を死なせてしまったと思い込んでいた彼女にとって、それは許されない行為だったのだろう。でもその彼女の意思に反して、僕はマンホールの蓋を開けて、彼女を助け出してしまった。


「だから君は、今度は自分の意思で、自分の手で蓋を開けるべきなんだと思う」 

「…………っ」


 彼女は僕を睨みつけ、奪い取るようにコップを持った。そして、引きちぎるように勢いよくその蓋を開けた。開けて、


「お兄さんの馬鹿ぁっ」


 僕に蓋を投げつけた。


「私だって……っ」


 叫ぶように言ったその言葉を、だけど彼女は唇を噛みしめるようにして途切らせた。

 そして、僕に向けて、


「ありがとう、ございましたっ」


 大きく礼をした。


 『私だって』――、その後何と言おうとしていたのか、もう訊くことはできなかった。

 上体を戻そうとした彼女の体は、そこで完全に見えなくなってしまったから。

 見えなくなり、なくなった。


 視界から彼女が消えた瞬間、空間が僕に対して迫ってくるように感じられた。四方から圧迫され、心臓が生き急ぐように忙しく鳴っていた。反対に、僕の体の外は耳鳴りがするほどの静けさに包まれていた。


『この世界は私には広すぎたんです』

 なぜか彼女のその台詞が頭の中で繰り返される。突然突き付けられたこの感覚がなんなのかわからず、僕は這うように席を立ち、その場を離れようとした。


 テーブルの上の痕跡。トレイの上の食べかけのポテト、ハンバーガーの包み紙、二つのコップと、二本のストロー。それから、足元に転がった蓋。

 その全部を寄せて集めてゴミ箱に捨て、後には何も残らなかった。

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