第十七話
最後にゴミ箱の上に空っぽになったトレイを返そうとする。
トレイが左手の指先から離れた瞬間、左膝がかくんと折れた。次いで右膝。力の入らなくなった両脚は上体を支える役割を放棄し、僕はゴミ箱の前で尻餅をついていた。
ドサッと、本を詰めた段ボール箱を落としてしまった時のような重い音を立てていたのに、打ちつけた尻にも、とっさに体を支えようと床に叩き付けた左手にも、痛みはあまり感じなかった。ただ、右手の人差し指だけが痛い。
痛い。
バンドで固定された指が、燃えるようにうずく。彼女がここにいたことの最後の証が。
痛くて痛くて、死にそうだ。
この痛みから逃れる方法は、おそらくただ一つだけなのだろう。
僕はなんとか立ち上がり、窓に向かった。窓に向かうその方向にだけ青信号が点っているように感じられていた。窓の鍵が開いてくれるか、それだけが気がかりだった。
鍵が右手の中で回る。開いた。半回転したその鍵に口付けしたいほど嬉しかった。後はここから身を投げるだけだ。
なのに、身を乗り出そうとした僕を遮るものがあった。後ろから服をつかまれ、引っ張られる。振り向くと、青ざめた彼女が立っていた。
「お兄さんの馬鹿……っ」
唇をわなわなと震わせて、彼女はもう一度言った。
「お兄さんの馬鹿っ」
僕は夢の中を漂っているような不思議な感覚で彼女の顔を眺めていた。
「何してるんですかっ、いったい何してるんですかっ。馬鹿じゃないですかっ、いえ馬鹿でしょうっ? ほんとにっ、なんでこんな馬鹿なこと……っ」
『夢のような』、ではなく、本当にこれは僕の見ている夢なのだろう。
知らぬうちに、僕は正気と狂気の境目を踏み越えて、現実の中に夢を見るようになったのだろう。でなければ、ここに彼女がいるはずがない。
僕は微笑んで彼女に言った。
「僕は君に、結婚を申し込んでいたから」
「……はあ?」
「僕が鬼籍に入ることで、籍を入れようと思ったんだ」
「意味が、わかりません」
「僕が鬼籍に入る、つまり僕が死ぬことで、幽霊である君と籍を入れる、つまり君と結婚したということになるんじゃないかな、と思ったんだ」
「意味がわかりません」
彼女は低い声で再度言い、それからパンッと、僕の頬を叩いた。そして、
「行きますよ」
僕の左手を取って確かな足取りで店の外に向かって歩き出した。
僕は幼児のように彼女に手を引かれて歩きながら、小首を傾げた。
「泣いてるの?」
僕が問うと、彼女はすんと鼻を鳴らしてから、僕を睨んだ。僕を睨みつけるその目には、涙が盛り上がっていた。今にも零れ落ちそうなそれを、
「そりゃ泣きますよ。悪いですか」
彼女は顔を少し上向けることで堪えていた。けれど、歯を食いしばり、一瞬顔を歪ませた彼女は、次の瞬間には堰を切ったように涙を溢れさせた。
僕をじっと見据えたまま、涙を流し続ける。
彼女が泣いている。
胸に緩やかな、甘く切ない痛みが走った。
僕はおそるおそる、彼女に手を伸ばした。そして頭のてっぺんに左手を置き、子どもの頃にミィ相手にそうしたように、頭を撫ぜた。柔らかな黒髪が、掌の下で踊る。その手の甲に、ぽつりと冷たい何かが落ちた。少し遅れて気が付く。それは、僕自身の涙だった。
「ごめんね」
それから、
「ありがとう」
「絶対……に。も、う絶対に、死のうとしない……で、ください」
彼女は何度もつっかえながら、そう言った。
「私のせいで、死んだり、しないでください」
「うん」
頷く。
「『うん』だけじゃ駄目です」
彼女は頭に載せられた僕の左手の袖口を、下からぐいと引いて言った。
「ちゃんと約束してください」
「うん」
頷く。
「約束する。君のために、死んだりしない」
彼女はことんと、僕の胸に顔を押し付けた。そしてそのまま、涙が止まるまでそうしていた。
*
「今更もいいとこですが、私に話しかけるなら携帯持っててくださいね。さっきは注目を浴びるどころじゃありませんでしたよ。あの時私がお店から連れ出さなければいろんなところに通報されそうな勢いでした。それに、清水の舞台程度の高さすらないあんな場所から飛び降りたって、怪我するだけですよ。お兄さん、考えが足りなさすぎです」
僕は微笑んで彼女の言葉を聞いていた。彼女の話してくれる言葉は単語の一つ一つまでがいとおしく、聞くごとに宝物が増えていくようだと思った。
「なぜそこで笑いますか……」
彼女にじと目で睨まれ、僕は顔の筋肉を意識して引き締めてみた。
「もう……私は今自己嫌悪の極致ですよ。全部、お兄さんのせいです。さっきの私の状況を説明いたしますと、お兄さんの目にはもう見えていなかったかもしれませんが、私はまだあの場にいたんですよ。体が無数の糸に解けて空気に混ざっていくように広がろうとしていたんです。思考もばらばらになっていって、もう何も考えなくてすむと安堵していたんです。なのにその私の前で、お兄さんが、あんなことするから。お兄さんが、新たな罪悪感を私に植えつけたりするから。糸はまた収束して、私になっちゃいました。ありていに言えば、成仏しそこねたんです」
「後悔、してるの?」
彼女の過去は判明したけれど、依然状況は、変わっていない。僕にしか声が届かず、僕にしか見られず、僕にしか認識されない。生きているわけでもなく、かといって完全に死んでいるとも言い切れない、中途半端な存在のまま。そんな状態が、この先も永遠に続くかもしれない。
「後悔なんか……、しないはずないでしょうっ」
ふくれっつらで前を向いていた彼女は、勢いよく振り返った。長い髪の毛の先が僕の脇腹に当たる。
「すでに後悔でいっぱいいっぱいですよっ。後悔の海で航海できるほどですよっ。こうなることくらい悔やむ前からわかってましたよっ。全開に前悔してたんですよっ。ん、んん……っ、こんなくだらない、最低ラインさえクリアできていない駄洒落以前の駄洒落を連発するなんて、私的にかなり屈辱です。言葉が思うがままにならなくてもどかしいかぎりです。もはや自分が何を言っているのかわかりません」
思いが溢れているのにうまく言葉に変換できない。相手に伝えられないもどかしさ。それを僕はよく知っていた。
「そういう時は」だからこれは、自分自身を肯定する言葉なのかもしれない。「黙っていたらいいんじゃないかと思う」
彼女の言葉を聞けないのは惜しいけれど。
「黙れと仰る」
「黙っていてもいいんじゃないかと思う。少なくとも僕は、ミィと一緒にいる時、沈黙に追い立てられるようなことはなかった」
「ミィさん? 聞くからに人外で、明らかに猫科なお名前ですが?」
「そう」頷く。「昔飼っていた猫」
「そりゃ猫は……喋りませんよね」
「そう」頷く。「猫も、その猫に対する人間も」
「…………」
そうしてしばらく無言で歩いた後、「…………あ」と、足を止めた。
「どうなさいました?」
「自転車」
「……ああ、そう言えば乗って来てたんでしたね。とにかく一刻も早くあの場を離れようとしたために忘れていました。うーん、でも、今戻るとまずいかもですよ? 店員さんに見つからないにしても、出て来たお客さんと鉢合わせしてじろじろ見られるか目を逸らされるかするかもです。ですから少なくともお客さんが回転してからの方がよろしいかと。もうすでにけっこう歩いて来てしまっていることですし、どこかで時間をつぶして、それから取りに行き来ましょう。それとも、今ダダダッと行ってさっと取ってこられますか?」
「このままもう少し歩いていたい」
「わかりました」
彼女の横に並んで、彼女と共に歩を進めたい。でも、どこに行けばいいだろう。どこにでも行ける気はするのだけれど。
「ああそう言えば、ベーコンとサラダ油が切れていたんでしたね。どうします? 買い物を済ませてきましょうか」
「そうだね」
答えは簡単に出て来て、その簡単さに拍子が抜ける。
「あ、でも油は持つのが重いですね」
「いや、それくらい片手でも大丈夫」
ふと気付いて、彼女の手を見る。彼女は視線を感じてか、微笑んだ。
「大丈夫です」両の掌を胸の前に上げて、くると回転させて見せる。「私にもいくらかは持てますよ」
刻まれていた無数の傷が、こころなし薄らいでいるように見えた。
「以前と比べて、できることはかなり増えていると思います」
彼女は涙の名残を顔に宿したまま、それでも少し誇らしげに言った。
「お兄さんの負担になることはいくらか減ったと思います。例えば、もうトイレのドアの開け閉めをお兄さんに頼らなくてもよくなりました」
「……ちっ」
「『ちっ』っ? 今『ちっ』って仰いましたか!?」
「人生に絶望した」
「早っ!? いえむしろ遅っ!? 今更その程度のことでですか!?」
「絶望とは望みを絶たれるということだ」
「返り点を用いての漢文的説明までっ!?」
「行こうか」
「……そうですね」
日はそろそろ中天に達し、僕の足元には濃く短い影が出来ている。それは壊れたインクジェットプリンターが用紙の余白につけてしまった染みのように、誤った場所にある余計なもののように感じられた。




