第161話 戻れる時間を作った
基地の外部扉が開く前に、レンはガタの右輪へ手を当てた。
整備台の継ぎ目を越えた時の振動が、黄色表示の横へ細い波形で残っている。昨日より悪くはない。だが、荷を積んで急旋回すれば、帰りの分まで同じとは限らなかった。
「通常巡回の荷だけ載せる。予備電池、牽引索、限定工具」
『右側を軽くしてください』
「分かってる。電池は左、工具は中央」
ガタの荷台で固定具が二度鳴った。レンは防塵外套の面体を閉じ、首、手首、腰の封止表示を順に押す。外套フィルタは一巡分を越えて残り、携行水もある。基地へ戻るための余力を使い切らないよう、ノアが装備欄の下へ白い帯を引いた。
『本日の目的は全地点の実走計測です。基地、E-03、保守棟、通信塔を通過し、区間時間と外套負荷、車輪負荷を記録します』
「通過だけじゃない。戻れる時間まで決める」
『はい。帰還余力を先に確保します』
外部扉が開き、乾いた風が面体を叩いた。粉塵の向こうへ、基地から伸びる白い経路線が低く浮かぶ。レンは時刻表示を細かく刻まず、扉を出た瞬間に一巡計測だけを開始した。
E-03までの道は、もう未知ではなかった。
ガタは浅い車輪跡を選び、右輪を硬い砂へ載せないよう少し左寄りに走った。レンも歩幅を急がず、外套の吸気音と靴底の沈み方を覚える。速く着くためではない。同じ条件なら、明日も同じ余力で戻れる速さを探すためだった。
『右輪、黄色。振動、開始時より少し上昇』
「速度を一段落とす」
『到着が遅れます』
「壊れて止まるより短い」
E-03の橙色の誘導灯が粉塵の奥から現れた。低い外壁の内側では水循環が細く鳴り、予備電池の維持充電表示も点いている。レンは補給ケースを開けず、外套の負荷とガタの受電口温度、基地までの通信状態だけを記録した。
「通常巡回の中継確認。ここで一度、帰還余力を見直す」
『基地直帰なら十分です』
『右輪も戻れます』
「保守棟へ進む」
E-03から保守棟へ向かう地面は、風で車輪跡が半分消えていた。白い経路線は残っているが、昨日までの最短線は浅い窪地を横切っている。ガタの前輪がそこへ入った瞬間、右側の車体が沈み、荷台の工具袋が固定具を打った。
ごつ、と鈍い音が外套越しに響いた。
『右輪、振動上昇』
「止まれ」
レンはガタの右側へ回り、砂へ膝をついた。タイヤの下に硬い異物はない。窪地へ吹き込んだ細かな粉塵が、表面だけ乾いた膜を作り、その下で深く崩れていた。
「短いけど、ここは通常経路から外す」
『迂回すると区間時間が延びます』
「延びた分を正しい時間にする。短縮巡回では通らない」
牽引索を前部固定環へ通し、レンが斜め前から引く。ガタは左輪を先に回し、右輪の駆動を抑えた。砂が低く崩れ、黄色表示が一度だけ橙へ近づいたが、車体は窪地の縁へ戻った。
『脱出。右輪、黄色へ復帰』
「急旋回なし。迂回線を出して」
ノアが窪地の北側へ緩い弧を描いた。数分余計にかかっても、硬い地面を選べる線だった。レンはそこを実際に歩き、ガタの右輪が同じ振動域へ戻るまで見届けた。
保守棟の外壁へ着くと、吸気口の低い唸りが砂の音へ混じった。下層の補助電源は安定し、E-03へ送る最低配分にも乱れはない。レンは側面入口から配電室まで降り、階段、固定板、退避灯を通過確認した。
『基地から保守棟までの通常区間、登録可能です』
「まだ帰りを走ってない。往路だけで決めるな」
『条件付き記録にします』
配電室を出る時、レンは壁際の部品棚へ視線を止めた。回収予定の小型接点箱が一つ、赤い札を付けたまま残っている。基地で分解すれば通信塔の停止接点に使えるが、今日は手を伸ばさなかった。まず一巡を終えなければ、持ち帰る余裕が本当にあるか分からない。
保守棟から通信塔へ向かう頃には、風が強くなっていた。
外套の面へ砂が流れ、視界の下半分が白く曇る。レンは歩調を落とし、経路線からガタ半車身分だけ風上へ寄った。塔へまっすぐ近づく線より遠回りになるが、塔身から落ちる粉塵の帯を避けられる。
『外套吸気負荷、上昇』
「フィルタ交換域までどれくらい」
『通常帰還分を残して、現地作業は短時間です』
「今の風なら、だな」
『はい。粉塵が一段上がった場合は、通信塔からE-03へ直接退避してください』
『その道は下りです』
「ガタの緊急帰還はそっちだ。俺は基地直帰じゃなく、E-03で外套を立て直す」
通信塔の足元へ着いた時、先端光は消え、冷却も停止後の静かな温度を保っていた。レンは塔身へ触れず、受電口、現地停止器、外部映像の三点だけを確認する。基地から見えている表示と現物は一致していた。
ここで通常巡回の最遠点まで来た。
『現在条件で基地へ通常帰還できます。E-03退避なら余力は大きく残ります』
「短縮巡回を作る。通信塔は外して、基地、E-03、保守棟、基地。停止確認が必要な日は通常。補給と配電だけなら短縮」
『登録候補を作成しました』
「緊急帰還は二本に分けない。最寄りがE-03ならE-03、保守棟内なら基地側入口へ戻って基地。名前は一つ、分岐条件を付ける」
『右輪異常、外套負荷上昇、通信低下のいずれかで緊急帰還へ移行。通信塔周辺からはE-03を優先します』
『急旋回はしません』
「それも入れろ」
帰路はE-03へ直接下った。往路より硬い地面が続き、ガタの右輪は黄色のまま振動を増やさない。誘導灯が見えたところで、ノアが緊急帰還線を白く固定した。
E-03では水を一口だけ使った。外套の吸気負荷は風の弱い外壁内で下がり、ガタも充電ステーションへ短く接続する。何を一巡分置くべきかは決めず、使った水量と受電時間だけを次の測定欄へ送った。
「ここから基地へ戻る。短縮巡回の帰路と同じ線を使う」
『了解しました』
基地へ向かう途中、最初の窪地を避けた迂回線へ入った。往路で増えた数分は帰路でも同じように増えたが、右輪の振動は上がらない。外套のフィルタも帰還余力の白い帯を残し、基地の外部扉まで持った。
扉が閉じると、外の砂音が急に遠くなった。
レンは除塵を終える前に、運用図へ三本の線を重ねた。全地点を通る通常巡回。通信塔を外し、E-03と保守棟を回る短縮巡回。現在地と異常条件から、基地またはE-03へ戻る緊急帰還。最短ではなく、外套と右輪に帰りの余力を残せた実走線だった。
「通常巡回の帰りだけを切り出して」
『通信塔からE-03、E-03から基地。迂回線を含む実走値です』
「工具を片づける時間を引く。風が今より強くなった時の減り方も引く」
白い帰還帯が短くなった。さらに右輪を黄色のまま戻す低速区間を重ねると、通信塔に残せる部分は半分ほどになった。レンは端を丸めず、最も遅かった区間を基準に置いた。
『通信塔での現地作業は、一時間弱まで。粉塵または右輪振動が上昇した場合は、その時点で終了します』
「それなら、工具を出して一件終わらせて、片づけて戻れる」
『帰還余力を残して可能です』
[GROUND ROUTE OPERATION]
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通常巡回:基地・E-03・保守棟・通信塔を実走
短縮巡回:補給・配電確認用として登録
緊急帰還:基地またはE-03への条件分岐を登録
区間時間:迂回後の実走値を登録
右輪条件:黄色・急旋回禁止・軟地回避
外套条件:粉塵上昇時は滞在枠を短縮
最大滞在:帰還余力を残して確定
――――――――――
『従来の確認作業より、通信塔現地で使える時間が増えました』
表示された余裕は、立って眺めるだけならもっと長かった。だが、工具を広げ、片づけ、E-03か基地へ戻るところまで含めれば、使えるのは確定した作業枠だけだ。それでも、異常がないことを確かめてすぐ引き返していた昨日までとは違う。
レンは除塵を終えた外套を脱ぎ、交換フィルタを付けた。ガタの右輪を冷ましてから、限定工具へ固定具用の清掃棒と予備の割りピンを加える。
「もう一回、短縮じゃない。登録した通常経路で通信塔まで行く」
『右輪は走行可能です。休止後の振動は開始時相当です』
『外套フィルタも交換後なら、確定した作業枠を使用できます』
「通信塔の現地停止器を直す。昨日、外装が砂で戻り切ってなかった」
再出発後、レンは時計を何度も見なかった。E-03で帰還余力を確認し、保守棟では配電状態だけを通過確認する。通信塔へ着くと、増えた滞在枠を開き、現地停止器の外装を外した。
押し板の裏へ細かな砂が入り、戻しばねの片側に固まっていた。レンは吸引袋で砂を取り、軸を清掃棒で通す。摩耗した割りピンだけをその場で交換し、外装を閉じた。
「現地停止、押す」
押し板は途中で引っかからず、奥まで沈んだ。基地端末の塔側受電が即座に遮断表示へ変わり、レンが手を離すと押し板も元の高さへ戻る。
『現地停止器、全行程復帰。基地表示と一致しました』
レンはもう一度だけ押し、同じ動きを確認した。工具を並べてから片づけるまで、ノアの帰還余力表示は白いままだった。
『現地作業、完了。通常帰還可能です』
『工具袋、右へ寄っています』
「中央へ直す」
レンは工具袋を積み直し、ガタの右輪へ余計な荷重がかからない位置で固定した。持ち出した物は、交換した小さな割りピン以外、同じ数だけ荷台へ戻っている。
E-03へ戻っても、外套を緊急交換する必要はなかった。水と充電を使わず、状態だけを確認して基地へ向かう。次に測るべき在庫は、そのまま残っている。
基地の外部扉を越えた時、三本の経路表示は消えなかった。通常巡回の線の横に、通信塔現地停止器の修理完了が一件追加される。戻るために削っていた時間が、初めて外で仕事を終える時間へ変わっていた。
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