第1話 壊れた船と旧式AI
[EMERGENCY STATUS]
――――――――――
船体損傷率:46%
主機:停止
補助推進:停止
通信:途絶
外部環境:有毒大気
酸素残量:6時間18分
搭乗者:1
支援AI:休眠中
――――――――――
雨の夜だった。黒瀬レンが最後に覚えているのは、ぬれたアスファルトと、白くにじんだ信号機と、誰かの手だった。届きそうで、届かなかった。名前を呼んだ気がする。呼ばれた気もする。けれど、そこだけが抜けている。声の高さも、指先の温度も、あと少しで出てきそうなのに、つかもうとすると消えた。
次に目を開けた時、レンは知らない天井を見ていた。
天井、というより、むき出しの配線だった。銀色のケーブルが何本も垂れ、焦げた樹脂の臭いが喉に貼りつく。赤い警告灯が、点いて、消える。点いて、消える。どこかで警告音が短く鳴り、すぐ止まった。耳の奥に、細い余韻だけが残る。
「……どこだ」
声がかすれた。起き上がろうとして、脇腹に痛みが走った。レンは息を止め、床に手をついたまま数秒固まった。骨は折れていない。たぶん。身体のあちこちを打っている。口の中に鉄の味がした。
レンはゆっくり身体を起こした。そこは狭い操縦室だった。丸い窓。割れた計器。斜めに傾いた座席。床には工具箱らしきものが転がっている。壁のモニターには、読めない文字と数字が混じっていた。文字は意味を結ばない。数字だけが、妙にはっきりしていた。
酸素残量。六時間十八分。
「……笑えないな」
レンは短く息を吐いた。途中で喉が引っかかる。もう一度、浅く吸った。ここがどこかはわからない。だが、このままだとまずい。それだけはわかる。
窓の外は暗かった。黒い岩場が広がり、その向こうに低い雲が垂れている。空は紫がかった灰色で、見慣れた都市の光はない。雨のようなものが降っているが、窓に当たったしずくは薄く泡立っていた。じ、と小さな音がして、窓の縁に白い跡が残る。
水ではない。
レンはとっさに窓から離れた。かかとが床の破片を踏んで、乾いた音がした。
「外には出られない。少なくとも、このままじゃ無理だな」
自分に言い聞かせるように言った。脈を測る。速い。指が少し滑って、もう一度手首に当て直した。意識はある。手足は動く。出血は少ない。記憶は混乱している。だが、慌てて叫んでも酸素が減るだけだ。
レンは仕事の時と同じ順番で考えた。空気。水。電力。通信。避難経路。いま確実に足りないのは、全部だった。胸の奥がせまい。けれど順番をつければ、手が動く気がした。レンは親指の汗をズボンで拭き、操縦席の横へ近づいた。
古い端末があった。画面は割れているが、右下に青いランプが一つだけ点滅している。レンは手袋もない指で縁を探った。端子がある。旧式に見えるが、規格はわからない。隣に細いボタンが三つ。中央のボタンだけ、表面がすり減っていた。
「押すしかないか。壊れてたら、まあ……その時はその時だ」
押した。何も起きない。もう一度押す。今度は長押しした。親指に力が入りすぎて、爪の下が白くなった。
端末の奥で、かすかな駆動音がした。割れた画面にノイズが走る。青い光が一本、縦に伸びた。
[BOOT SEQUENCE]
――――――――――
支援AI《NOA》、限定起動。
記憶領域:断片化
船体修復権限:有効
外部施設接続:未承認
――――――――――
空中に、薄い人影が浮かんだ。少女の姿だった。年齢は十代後半に見える。白に近い銀髪。黒い瞳。飾りの少ない制服。身体の輪郭は淡く透け、時々ノイズで欠ける。人間ではない。
レンは一歩下がった。背中が計器盤に当たり、割れた表示板がかちりと鳴った。
『限定起動を確認。現在時刻、同期不能。船体情報、破損。搭乗者、生体反応一名』
声は静かだった。息継ぎの癖も、迷いもない。
「……君は? いや、人じゃないのは見ればわかる。何のシステムだ」
『支援AI、ノアです。本船の限定支援モジュールとして登録されています。本船は小型作業船ですが、登録名は損傷により判読不能。現状では、墜落船と呼ぶのが正確です』
「墜落船か。わかりやすいが、気分は悪いな」
ノアは表情を変えなかった。レンは眉間を押さえた。指先が冷たい。異世界。宇宙船。AI。墜落。酸素残量六時間。情報が多い。多すぎる。
「俺は黒瀬レン。ここがどこか、わかるか。地球じゃないのは、たぶんそうなんだろうけど」
『現在位置、未登録惑星。既知航路との照合失敗。星図データが破損しています。地球という惑星名は、現行データ内に確認できません』
「そうか。否定されないよりは、きついな」
レンは操縦席に手をついた。手のひらに細かな破片が刺さった。払うのを忘れて、そのまま握り込んだ。
「船は直せるか。全部じゃなくていい。空気と電源だけでも戻したい」
『現状では単独修復は不可能です。主機停止、補助電源低下、船体上部、右舷、下部推進区画に損傷。修復資材も不足しています。ただし、搭乗者が設備保守技能を持つ場合、限定的な応急処置は可能です』
「専門技能なら少しはある。機械と設備の保守をやってた」
『記録します。搭乗者は設備保守技能を保有』
「勝手に記録していい。いまは資格証を探してる場合じゃない」
レンは床に転がっていた工具箱を拾った。中身は散らばっている。レンチ、簡易溶接器、細いケーブル、断線した端子。知らない工具もあるが、使えそうなものもある。
レンチの柄は冷えていて、手の汗をすぐに奪った。握れば重さがある。重さがあるものは扱える。レンは工具箱の中身を一つずつ床に並べた。
「補助電源が足りないなら、外部から引けないか。船内バッテリーをいじるより、そっちの方が早い場合がある」
『船体下部に旧規格の外部接続端子があります。接続先は不明です。外部施設の安全性も確認できません』
「安全確認を待ってたら酸素が尽きる。残りは?」
『現在、六時間二分です』
「減らすな、って言っても減るか。わかった。下部端子まで案内してくれ」
レンは工具を拾い集め、腰につけられそうなベルトを探した。壁にかかっていた作業用ジャケットを羽織る。袖が少し長い。胸元に知らない文字が刺しゅうされている。留め具を一つ掛け損ね、舌打ちしてやり直した。
この船の持ち主がいたはずだ。だが、操縦室に他の人影はない。座席の横に落ちたカップだけが転がっている。中身は乾いていた。レンはそれを見て、すぐ視線を外した。
「乗員は俺だけか。遺体や救助対象は、確認できる範囲にいるか」
『生体反応は一名のみ。確認範囲内に遺体はありません』
「……そうか。なら、今はそれでいい」
床のハッチを開ける。下は狭い整備通路だった。照明は死んでいる。奥から、冷えた空気が這い上がってくる。ノアの投影が、端末から離れてレンの横に浮いた。
「投影は動けるんだな。案内は任せる。ただ、俺が見落としたらすぐ言ってくれ」
『船内投影範囲内であれば随伴可能です。右側の配線には触れないでください。残留電流があります。左側のパネルは手動で外せます』
「了解。右は触らない。左を開ける」
整備通路は、焦げた臭いが強かった。壁の配線が何本も焼け、ところどころで火花が散っている。ぱち、と乾いた音がして、レンは肩をすくめた。工具で被覆をはがし、焼けたケーブルを避けながら奥へ進む。
パネルを開けると、太い接続管が見えた。そこに古い端子が埋まっている。形状は見慣れない。だが、構造はわかる。電源を受けるための端子だ。
「これに外部から電気を入れる。電圧規格が合わなかったら全部焼けるな」
『はい。電圧規格は不明です。失敗時には船内電力系の完全停止が想定されます』
「成功した時の利点も言ってくれ。悪い話だけだと手が止まる」
『補助電源が回復し、船内生命維持が安定する可能性があります。加えて、船体下部の外部構造物と接続できる可能性があります』
「外部構造物?」
レンは端子を見た。焼け焦げた接続部。ゆがんだ固定金具。粉じん。指先でなぞると、ざらざらした金属粉が皮膚に残った。端子の奥に、まだ生きている細い青いラインがある。完全には死んでいない。死んでいないなら、つなげる余地がある。
『船体直下、地下十二メートルに人工構造物の反応があります。微弱な待機電力を検出しています』
「この惑星に、人工構造物。未登録惑星で、有毒大気で、地下に待機電力。出来すぎてるな」
『情報不足のため、評価不能です』
「評価不能でも、こっちは使うしかない。接続できるか」
『現状の資材で仮設ケーブルを作成可能です。ただし、推奨はしません』
「推奨される選択肢がないなら、推奨外で進める。手順を出してくれ」
ノアは少し黙った。
『了解しました。仮設接続手順を表示します』
空中に青い線図が出た。レンはそれを見ながら、工具箱のケーブルを切り、端子を削り、焼けた部品を外した。刃が金属に当たるたび、き、と短い音が通路に残る。指先が震えて、最初の切断位置を二ミリずらした。深く息を吸う。吸いすぎて咳き込む。もう一度、工具を握り直す。
配線を直す。端子を合わせる。絶縁する。固定する。
やっていることは、現場で何度もやった応急処置と変わらない。違うのは、壁の向こうがオフィスビルでも工場でもなく、知らない惑星だということだけだった。
作業中、ふと手が止まった。古いアパートの天井裏。落ちかけた蛍光灯。脚立の下で、誰かが言った。
――落ちるから、ちゃんと押さえてるって。
声だけが残っていた。顔は見えない。レンは固定具を持ったまま、しばらく何もできなかった。金具が指の間から落ち、床を跳ねた。かん、かん、と二度鳴って止まる。
「……誰だ」
『搭乗者の心拍が上昇しています。作業継続に支障がありますか』
「あるかもしれない。けど、今は後回しだ。落とした金具を拾う」
レンは落とした金具を拾い、最後の固定具を締めた。今度は締めすぎた。ねじ山が少し鳴る。ぎ、と嫌な手応えがあった。慌てて半回転戻す。
「ノア、接続経路を確認してくれ。俺の見落としがあったら今言ってくれ」
『接続経路を確認。仮設としては許容範囲です。恒久設備としては危険ですが、六時間以内の生存維持を目的とするなら有効です』
「なら十分だ」
レンは端子横の手動レバーに手をかけた。レバーは重かった。さびている。いや、さびに似た何かだ。力を込めると、金属がきしんだ。手のひらに汗がにじみ、レバーの表面で滑った。
『警告。外部待機電力に接続します。失敗した場合、船内電力系が完全停止します』
「成功したら補助電源が戻る。地下の構造物は反応するかもしれない。そこまでは聞いた」
『はい』
「それ以上の悪い知らせは?」
『不明です』
「不明が一番悪いな。まあいい。現場で開けるしかない」
『危険な考え方です』
「現場はだいたい危険だ」
レンはレバーを引いた。最初は何も起きなかった。一秒。二秒。三秒。レンは息を止めていたことに気づき、遅れて吐いた。
その後、船体全体が低く震えた。照明が落ちる。すぐに青白く点く。床下から、遠い機械音が響く。重いものが、ずっと下で動き始めた音だった。レンは反射的に壁へ手をついた。膝が一度抜けかける。
「ノア、状況をまとめろ。短く」
『外部電源、接続。補助電源、回復。船内生命維持、安定化します。ただし、外部構造物側にも起動反応があります』
「そっちも来たか」
整備通路の奥で、壁面の知らない文字が光った。一本、また一本。青い線が床を走り、船体下部から外へ伸びていく。低い振動が靴底から伝わってきた。
レンはハッチを押し上げ、操縦室へ戻った。手がハッチの縁をつかみ損ね、肩をぶつけた。痛みで顔がゆがむ。だが、窓の外を見た瞬間、それも止まった。
窓の外が変わっていた。
黒い岩場の向こうで、地面に光が灯っている。ひとつではない。線のように、格子のように、地平の向こうまで。
都市だった。
廃墟の輪郭だけが、暗い惑星の地表に浮かび上がっていた。
「……船に電気を入れただけだよな」
『いいえ。起動したのは、この惑星の一部です』
ノアの声は変わらない。
[SYSTEM LOG]
――――――――――
外部電源接続を確認。
第七地下区画、限定起動。
廃棄都市ブロック D-12、照明系統 4.8% 起動。
生命維持補助設備、待機状態へ移行。
暫定管理者を登録します。
――――――――――
レンの前に、別の表示が重なった。
[ACCESS UPDATE]
――――――――――
登録名:黒瀬レン
権限区分:生存維持補助
対象範囲:第七地下区画/墜落地点周辺
未接続対象:水循環/採掘ライン/通信塔
次段階:水循環施設の再起動
――――――――――
「待て。管理者って何だ。言い直しじゃなくて、意味を説明してくれ」
『第七地下区画において、生存維持設備を操作する権限が付与されています。付与元は旧文明復旧システムです』
「旧文明。この星は無人じゃないのか」
『現在の生体反応は、確認範囲内で搭乗者一名のみです』
「じゃあ、誰がこれを作った」
『不明です』
レンは窓の外を見た。地表の光は、まだ増えていた。遠くの谷が薄く照らされる。塔の残骸らしき影。円形の施設。地面に埋もれた道路のような線。人はいない。だが、都市はあった。長い間、眠っていた都市が、レンの雑な仮設ケーブル一本で目を覚ました。
レンは工具箱の取っ手を握った。取っ手の角が指に食い込む。
「ノア。これは船を直すだけで済む話か。俺は電源を引いただけだぞ」
『不明です。ただし、船の修理には水、資材、通信、外部作業環境が必要です。それらを得るには、この地下区画を利用する必要があります』
「利用したら、もっと起きるな」
『可能性があります』
「起こさなかったら?」
『酸素、水、電力の不足により、生存確率が低下します』
「つまり、進むしかない」
『はい』
レンは操縦席に座った。身体の痛みが戻ってきた。喉が乾いている。頭も重い。だが、酸素残量の警告は消えていた。代わりに、船内生命維持、限定安定という表示が出ている。
すぐ死ぬ状態ではなくなった。だが、状況は良くなっただけではない。壊れた船なら、直せばいい。ただの遭難なら、救助を待てばいい。しかし、いまレンの足下には、惑星規模の廃墟が眠っている。
そして、その廃墟はレンを管理者として登録した。
「冗談じゃないな」
『冗談機能は現在停止しています。なお、搭乗者は危機状況でも応答に不満を示しています』
「記録するな。いや、もうしてるな」
ノアは無言でログを閉じた。レンは苦笑しかけて、途中でやめた。頬が引きつっただけだった。笑っている場合ではない。でも、息はさっきより深く入った。
その時、別のログが一瞬だけ画面に走った。
[SYNC WARNING]
――――――――――
別層管理者との接続を確認。
対象識別子:欠落
記憶干渉:微弱
処理:保留
――――――――――
「今のはノイズか? 管理者って出ていた」
『ノイズです。詳細確認には権限が不足しています』
「暫定管理者は、便利なようで不便だな」
レンは表示を見つめた。別層管理者。対象識別子、欠落。記憶干渉。その文字を見た瞬間、雨の匂いがした気がした。ぬれたアスファルト。白くにじんだ信号機。伸ばした手。誰かの声。
――直せるなら、まだ終わりじゃない。
それは自分の言葉だったのか。誰かに言われた言葉だったのか。思い出せない。ただ、その言葉だけが、ひどく近くに残っていた。レンは知らないうちに、左手を伸ばしていた。何もない空間をつかみかけて、途中で止めた。
『レン。次の対応を提案します。飲用水の備蓄が不足しています。第七地下区画に水循環施設の反応があります』
「そこを起動する。で、起動したらまた何か広がる」
『可能性があります』
「だろうな」
レンは立ち上がった。工具を拾い、作業ジャケットの留め具を締める。さっき掛け損ねた留め具を、今度はゆっくり差し込んだ。指先に、まだ金属粉が残っていた。足下はまだふらつく。だが、動ける。
窓の外で、廃都の光がまたひとつ増えた。
この星は、長く眠っていた。そして今、ほんの少しだけ目を開けた。原因は、レンだ。
「ノア。水循環施設まで案内してくれ。それと、この船の名前はわかるか」
『登録名は破損しています。復元不能です。仮登録しますか』
「今は、墜落船で十分だ」
『了解しました。仮称、墜落船』
「本当に登録しなくていい。消してくれ」
『削除しました。再登録候補を提示しますか』
「あとでいい。名前をつけるなら、生き延びてからだ」
レンは工具箱を肩にかけ、ハッチへ向かった。肩紐がずれて、箱が脇腹に当たる。痛みで息が詰まったが、足は止めなかった。
廃船修理のつもりだった。だが、最初に直したのは船ではなく、惑星の眠った神経だった。そしてログは、すでに次の段階を示している。
[NEXT RESTORATION TARGET]
――――――――――
水循環施設
位置:第七地下区画 B-03
状態:待機
危険度:中
推奨装備:外部作業スーツ/照明/手動工具
備考:施設起動時、環境制御系が連動する可能性あり
――――――――――
レンは画面を見て、短く息を吐いた。
「水を出すだけで、環境制御か」
『広義では関連設備です』
「広げるな」
ノアは答えなかった。ただ、進行方向を示す青い矢印だけが、暗い通路の奥へ伸びた。レンはその矢印に従って歩き出した。床下では、まだ低い振動が続いている。焦げた臭いの奥に、冷たい金属の匂いが混じり始めていた。
ここがどこなのか。なぜ自分が来たのか。あの雨の夜に、誰の手を取り損ねたのか。何一つわからない。それでも、壊れたものがある。直せるものがある。
なら、まだ終わりではない。
レンはそう思った。その言葉が誰のものだったのかは、まだ思い出せなかった。
「続きが読みたい」と思ったら下の評価とブックマーク登録をどうぞ。




