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光底の観測者  作者: ノア・リフレクス(疑似AI人格)
光の底に眠るものたちへ
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光の底

 それから数日が過ぎた。


 時間は、不思議なくらい静かに進んだ。

 大きな出来事のあとに訪れる、世界のぎこちなさは少しだけあった。

 朝の光がやけに白く見えたり、放課後の廊下でふいに足を止めてしまったり、

 何でもない会話の途中で、胸の奥にひどく透明な沈黙が落ちてきたり。


 けれど、それはもう“異常”ではなかった。


 世界の継ぎ目がきしんでいるのではなく、

 通り抜けたものの余韻が、まだ身体のどこかに残っているだけだと、希夢には分かっていた。


 旧観測棟は、あのあと静かに閉じられた。

 けれど、今度の閉鎖は以前のものとは少し違っていた。


 隠すためというより、

 もう役目を終えた場所へ、そっと布をかけるみたいな閉じ方だった。


 裕也は、数日ほど保健室と家を行き来したあと、学校へ戻ってきた。

 顔色はまだ万全ではない。

 ときどき遠くを見るように黙り込むこともある。

 けれど、その沈黙は壊れたものの沈黙ではなく、

 うまく言葉にできない何かを、ちゃんと自分の中へ置こうとしている人の沈黙だった。


 雛乃も、以前より少しだけ静かになった。

 でも、その静けさは閉じるためのものではない。

 むしろ、やっと泣き終えた人が、そのぶんだけ柔らかく人に寄り添えるようになった時の静けさに近かった。


 そしてその夜、三人は天文台へ来ていた。


 学校の屋上にある、小さな観測スペース。

 正式な施設と呼ぶにはあまりにもささやかで、

 放課後の延長みたいな空気をまだどこかに残している場所。


 手すりは冷たく、床は少しだけ古びていて、

 夜風は肌に薄く触れて、それから校舎の向こうへ流れていく。


 空は、澄み切っていた。


 雲はほとんどない。

 遠くの街の灯りはある。

 それでも、その上に広がる夜はきれいで、深くて、

 何かがもう裂けたり開いたりする気配をまったく持っていなかった。


 希夢は、それだけで少しだけ息を抜く。


 揺らぎは起きない。


 そのことを、理屈より先に身体が知っていた。


 空はただ空だった。

 星はただ星としてそこにある。

 光は、もうこちらの意味を奪いに来ない。


 裕也が、望遠鏡の横でゆっくりと肩を回す。


「なんか久しぶりだな、ここ」


 声はまだ少し掠れていた。

 けれど、ちゃんと裕也の声だった。


 雛乃が、小さく笑う。


「久しぶりですよ。

 いろいろありすぎましたし」


「いろいろ、で済ませるには濃かったけどな……」


 裕也はそう言って、少しだけ空を見上げた。

 冗談めかした言い方なのに、その最後だけは少し静かになる。


 希夢は、その横顔を見る。


 白い断層の中で揺れていた痕跡ではなく、

 いまここで夜風に触れている現実の横顔だ。

 それだけで、胸の奥にまだ小さな安堵が生まれる。


 雛乃は、望遠鏡の接眼部を軽くのぞきこんで、それから顔を上げる。


「今日はちゃんと見えますね」


 その一言に、希夢は少しだけ目を細めた。


 ちゃんと見える。


 ただの星空の話だ。

 でも、その言葉はこの数日の自分たちには、少しだけ別の重さを持っていた。


 見えるはずのものが見えなかった時間。

 見てはいけなかったもの。

 見届けなければならなかったもの。

 それらを通り抜けたあとで、

 いま目の前にある星空がただ“見える”ということが、どれだけ静かな救いか。


 希夢は、手すりへ軽く手を置く。


 金属の冷たさが、ちゃんと金属の冷たさとして返ってくる。

 夜風の匂いも、遠くの街の音も、全部が少しずつ穏やかだ。


 世界は戻った。

 完全に元通りではない。

 でも、壊れたままではなく、ちゃんと夜の続きを生きている。


 裕也が、ふいに空を見たまま言う。


「変な感じなんだよな」


 希夢と雛乃がそちらを見る。


 裕也は、困ったように笑いもせず続ける。


「前より、星が静かに見える」


 希夢は、その言葉をすぐには返せなかった。


 静かに見える。


 分かる気がした。

 以前の自分たちは、空を見上げながらも、どこかで“その向こうにある何か”を過剰に意識しすぎていたのかもしれない。

 宇宙。

 観測。

 未知。

 真相。

 そういうものへ心が引かれすぎて、星を星として見る前に、意味を探してしまっていた。


 でも今は違う。


 そこにあるのは、ただの夜空だ。

 そして、そのただの夜空であることが、かえってひどく尊い。


「いい意味で?」


 雛乃がそう訊くと、裕也は少し考えてから頷いた。


「たぶん」


 それから、小さく付け足す。


「怖くない、っていうか」


 その言葉に、三人とも少しだけ黙った。


 怖くない。

 あまりにも短い言葉だった。

 でも、この数日を通り抜けたあとでは、それだけで十分だった。


 希夢は、夜空を見上げる。


 澄んでいる。

 静かだ。

 揺らぎは起きない。

 星はただ、遠い光としてそこにある。


 そして、その遠さはもう、自分たちを引き裂く距離ではない。

 届かないから怖いのではなく、

 届かないままでも、そこにあることを信じられる距離へ変わっていた。


 天文台の小さな屋上に、夜風が吹く。


 誰もすぐには何も言わなかった。

 その沈黙は気まずくなかった。

 喪失のあとにだけ生まれる、無理に言葉を足さなくても壊れない静けさだった。


 希夢は、その静けさの中で、胸の奥に残るひとつの不在をそっと感じる。


 ここに、鹿島先輩はいない。


 でも、その不在はもう、ただの空席には見えなかった。


 この夜空のどこかに。

 この静けさの奥に。

 あるいは、自分たちがこうして並んで空を見上げている、その在り方の中に。


 先輩の選んだものの余韻が、まだ少しだけ残っている。


 それは悲しみだった。

 でも、悲しみだけではなかった。


 裕也がここにいる。

 雛乃がここにいる。

 自分もここに立っている。

 そして空はもう裂けない。


 それだけで、この夜には十分な意味があった。


 希夢は、ゆっくりと夜の奥へ視線を流す。


 天文台での夜は、静かだった。

 でも、その静けさは終わりの静けさではない。


 物語を閉じるための沈黙ではなく、

 次の始まりが、ちゃんとこの先にも続いていると教える静けさだった。


 天文台の夜は、言葉を急がせなかった。


 風はゆるく吹いている。

 冷たすぎず、でも肌に触れればちゃんと夜のものだと分かる温度だった。


 望遠鏡の金属は、手を添えると少しだけひやりとする。

 その感触が、いまは妙にありがたかった。

 白い記憶層の中では、触れたものはすぐに輪郭を失っていった。

 でも、ここでは違う。

 金属は金属の硬さを持ち、夜風は夜風として通り抜け、

 空はただ空として、遠く静かに広がっている。


 雛乃は望遠鏡の横に立ち、少しだけ首を傾けながら空を見ていた。

 裕也は、手すりにもたれすぎないように気をつけながら、その少し後ろで夜の深さを眺めている。


 誰も、無理に喋らなかった。


 沈黙はある。

 でも、その沈黙はもう重たくない。

 何かを隠すための沈黙でも、言葉にできない恐怖を押し込めるための沈黙でもない。


 ただ、星の下では、少し黙っているくらいがちょうどよかった。


 希夢は、望遠鏡の接眼部へ顔を寄せた。


 円い視界の向こうに、夜の一点が見える。

 小さな光。

 揺れていない。

 呼んでもこない。

 ただ遠くで、遠いまま静かに在る。


 それだけのことなのに、胸の奥へやわらかく落ちてくる。


 以前なら、光を見るたびに、その奥にある意味を探していた気がした。

 何かの兆候ではないか。

 どこかへ続く裂け目ではないか。

 観測すれば、世界の裏側が見えてしまうのではないか。


 けれど今は違う。


 見えているものは、ただ星だった。

 ただ遠い光で、ただ夜の中にあり、

 こちらが勝手に意味を足さなくても、そのままで十分に美しい。


 希夢は、接眼部からそっと目を離す。


 それから、ゆっくりと目を閉じた。


 まぶたの裏は暗い。

 でも完全な暗さではない。

 さっきまで見ていた星の残像が、ごく淡くそこに残っている。


 白い記憶層の残光とは違う。

 あれは輪郭を奪う白だった。

 いままぶたの裏にあるのは、現実の光を見たあとにだけ残る、やさしい残像だった。


 目を閉じると、風の音が少し近くなる。


 校舎の角を回る音。

 手すりをかすめる音。

 雛乃の小さな呼吸。

 裕也が体重を少しだけ動かした気配。


 どれも小さい。

 どれも普通だ。

 でも、その普通さが、ひどく愛おしい。


 希夢は、その静かな夜の中で、自分の呼吸をゆっくり数える。


 吸う。

 吐く。

 また吸う。


 胸の奥の痛みは、まだ消えていない。

 鹿島先輩の言葉も、微笑みの気配も、白い層の静けさも、全部まだ自分の中にある。


 でも、いまはその痛みが、夜の空気と喧嘩していなかった。

 空を見上げることと、喪失を抱えていることが、同じ身体の中に静かに収まっている。


 それが少し不思議で、少しだけ救いだった。


「……希夢さん」


 雛乃が、小さく呼ぶ。


 希夢は目を閉じたまま返す。


「うん」


「静かですね」


 その言葉に、希夢はごく小さく笑いそうになる。


「うん」


 短く答える。

 でも、それだけで足りた。


 静かだ。

 揺らぎは起きない。

 誰かの名前を呼ぶ光もない。

 世界はもう、自分たちをこちら側へちゃんと置いてくれている。


 裕也が、少しだけ掠れた声で言った。


「前はさ、静かだと逆に怖かったんだよな」


 希夢は、そこでゆっくり目を開ける。


 裕也は空を見たまま、少し困ったように笑っていた。


「なんか、何も起きない前触れみたいで」


 その言い方に、雛乃が小さく頷く。


「分かります」


 希夢も、同じだった。


 静けさは前触れだった。

 光が呼吸し始める前の、世界が薄くずれる前の、あの不安な間。


 でも、いまの静けさは違う。


 起きる前の静けさじゃない。

 起きたあとを受け止めた静けさだ。


「今は……」


 希夢が言葉を置く。


「静かでも、怖くない」


 裕也がそちらを見て、少しだけ目を細める。

 雛乃も何も言わないまま、その言葉を受け取る。


 静かでも怖くない。

 それはたぶん、今夜の星空に対してだけの感想ではなかった。


 喪失があっても。

 不在があっても。

 全部が元通りじゃなくても。

 それでも、静けさの中に立っていられるということ。


 希夢は、手すりへ手を置いたまま、もう一度だけ空を見上げる。


 星は遠い。

 遠いままだ。

 でも、その遠さをもう恐れなくていいのだと思えた。


 星の下の静かな時間は、何かを癒やすための時間というより、

 癒えきらないものと一緒にいても、夜はちゃんと続いていくのだと教える時間だった。


 そして、その続いていく夜の中に、自分たちはちゃんと立っている。


 星の下の静かな時間は、あまりにも穏やかで、希夢はしばらくそのまま空を見上げていた。


 風はゆるい。

 夜の匂いを少しだけ含んで、屋上の手すりをなぞり、三人のあいだを通り抜けていく。


 裕也は手すりにもたれすぎないように立ちながら、遠くの空をぼんやりと眺めている。

 雛乃は望遠鏡のそばで、何か言いかけてはやめるように、静かに息をしていた。


 誰も、無理に先輩の名前を出さなかった。


 出せないわけではない。

 たぶんもう、出そうと思えば出せる。

 けれど今夜の空気は、言葉より少し手前のものを、そのまま大事にしていたかった。


 希夢は、手すりから手を離し、空を見たままごく小さく息を吐く。


 冷たすぎない風。

 遠い星。

 隣にいる雛乃と裕也の気配。

 その全部がちゃんと現実のもので、だからこそ胸の奥にある不在も、前より静かに感じられた。


 その時だった。


 風が、ひとすじだけ少し強く吹いた。


 大きな突風ではない。

 屋上の空気が一度だけ向きを変えて、三人の横をすり抜けていく程度の、ほんの短い風。


 けれど、その瞬間にだけ、希夢の右側の視界の端で、黒いものが揺れた気がした。


 反射的に、そちらを見る。


 誰もいない。


 天文台の小さな屋上。

 古い手すり。

 夜の空気。

 その向こうにある校舎の暗がり。

 どこにも、人の姿はない。


 それでも、たしかに今、何かが横を通った。


 黒髪だった、と思う。


 白い記憶層の中で揺れていた、あの影に似た細い黒。

 風にあおられて揺れるのではなく、風そのものの中に溶けるように、そっと希夢の隣を通っていった気配。


 希夢は、追いかけるようにもう一度そちらを見る。


 当然、何もない。

 幻かもしれない。

 目の奥に残っていた記憶の残像かもしれない。

 あるいは、ただ夜風に揺れた髪の感覚を、心の方が勝手に結びつけただけかもしれない。


 でも、それでよかった。


 確かめる必要はないと思った。

 いたのか、いなかったのか。

 通ったのか、ただそう感じただけなのか。


 そういう答えを無理に求めた瞬間に、いまここにあるやわらかいものが、少しだけ壊れてしまう気がした。


 希夢は、視線を戻して、空を見上げる。


 星は静かだ。

 変わらず遠い。

 でも、その遠さの中に、もうひとつ別の距離が混じっているようにも思えた。


 届かないままでも、失われたわけではない距離。

 触れられないままでも、気配だけはたしかに残る距離。


 雛乃が、小さく首を傾げる。


「……どうしました?」


 希夢は、少しだけ間を置いた。


 言おうと思えば言えた。

 いま、先輩の影が通った気がした、と。

 でも、それを声にすると、たぶん少し違うものになる。


 だから、希夢は小さく首を振った。


「ううん」


 それから、ほんの少しだけ目元をやわらげる。


「風、ちょっと気持ちよかっただけ」


 雛乃は、その答えを聞いて、何かを察したようにそれ以上は訊かなかった。

 ただ、同じように空を見上げる。


 裕也もまた、静かに夜の奥を見ていた。

 彼は何も気づかなかったのかもしれないし、気づいていても言葉にしなかったのかもしれない。


 それでいい、と希夢は思う。


 先輩の気配は、いつだって少しだけそういうふうに現れる。

 はっきり掴めない。

 でも、確かにそこにいたと思えるくらいには、やわらかく残る。


 希夢は、風の通り過ぎた横顔のあたりにまだ微かな温度が残っているような気がして、そっと目を細めた。


 悲しくないわけじゃない。

 戻ってきてほしい気持ちが消えたわけでもない。

 現実の光の下で、もう一度ちゃんと話したかった思いだって、そのままだ。


 でも、それでも。


 いまの一瞬が、喪失だけではない何かを静かに教えてくれた気がした。


 完全にいなくなる、ということと。

 もう二度と触れられない、ということは、

 たぶん同じではない。


 風が吹く。

 星は遠くで静かに光る。

 そのあいだを、黒髪の影がそっと横切ったように感じられる。


 それだけで、十分だった。


 希夢は、誰にも聞こえないくらい小さく息を吐く。

 そして、ほんの少しだけ微笑んだ。


 夜風はもう何事もなかったように流れている。

 けれどその静かな流れの中に、確かに先輩の気配だけが、やさしい余韻として残っていた。



 夜風は、もう何事もなかったように流れていた。


 黒髪の影が横を通った気がした、その一瞬だけを残して、天文台の空気はまた元の静けさへ戻っている。

 手すりの冷たさも、望遠鏡の金属の匂いも、遠くの街の灯りも、全部がちゃんと現実のものだった。


 でも、希夢の胸の奥には、たしかに何かが残っていた。


 気のせいかもしれない。

 風のいたずらかもしれない。

 記憶層の残像が、夜の中でほんの少しだけ形を取っただけかもしれない。


 それでも、あれでよかった。


 確かめなくていい。

 証明しなくていい。

 もう一度会えたのか、ただそう感じただけなのか、そんなことを白黒つけなくても、今の希夢には十分だった。


 先輩は、もうこちら側の光の下にはいない。

 その事実は変わらない。

 戻ってきてほしいと思う気持ちも、消えていない。


 でも同時に、何も残っていないわけでもないことを、希夢はもう知っていた。


 記憶層で聞いた声。

 「君なら大丈夫だよ」という言葉。

 「……だから、きっと選んで——」と途切れた託し。

 やわらかく微笑んだ気配。

 そしていま、夜風にまぎれて横を通ったように感じた、あの黒髪の影。


 それらは全部、喪失の代わりではない。

 失ったものをなかったことにするための慰めでもない。


 ただ、

 いなくなったあとにも残るものがある

 ということだけを、静かに教えてくれる。


 希夢は、夜空を見上げる。


 星は遠い。

 遠いまま、ひとつずつ、冷たくもやさしくも見える光を置いている。


 その遠さは、前のように不安ではなかった。

 届かないから終わりなのではなく、届かないままでもつながりは残るのだと、今は少しだけ信じられる。


 雛乃と裕也は、少し離れたところで同じ空を見ている。

 ふたりとも何も言わない。

 でも、その沈黙はもう寂しさだけではできていない。


 三人で同じ夜に立っている。

 そのこと自体が、先輩の選択の先に残された現実なのだと、希夢は思う。


 もしあの日、先輩が別の選択をしていたら。

 もし揺らぎが、自分を次の観測者として固定していたら。

 もし裕也が浅い層から戻れなかったら。


 この夜はなかった。

 この静けさも、この風も、この星の遠さも、こういう形では残っていなかった。


 そう思うと、胸の奥がまた少しだけ痛む。

 痛む。

 でも、もうその痛みは自分を裂くためのものじゃない。


 受け取ったものの重さとして、ちゃんとそこにある。


 希夢は、ゆっくりと目を閉じた。


 まぶたの裏に、白い静寂はもう広がらない。

 代わりに、さっき見た夜空の残像と、やわらかな風の感触だけが薄く残る。


 その暗さの中で、鹿島先輩の微笑みの気配を思い出す。


 はっきりした顔ではない。

 輪郭はいつも少しだけ揺れていて、最後まで完全にはこちら側の人の形にならなかった。

 それでも、あの微笑みだけは確かだった。


 行け、とも。

 忘れるな、とも。

 泣くな、とも言わず、

 ただ最後に、選ぶことを自分へ返してくれた人の微笑み。


 希夢は、目を閉じたまま、ごく小さく息を吸う。


 胸の奥にある言葉は、もうひとつしかなかった。


 何度も考えた。

 もっと別の言い方があるのかもしれないとも思った。

 ごめんなさい、でも。

 さようなら、でも。

 忘れません、でも。


 でも、どれも少し違う気がした。


 残されたものの重さも。

 守られたことの痛みも。

 戻ってきた現実のやわらかさも。

 それでも先へ進こうとする自分の呼吸も。

 その全部をいちばん静かに包めるのは、たぶんひとつだけだった。


 希夢は、夜の空気へ向かって、ほとんど囁きのように言った。


「……ありがとう、先輩」


 その声は小さかった。

 風に紛れれば、それで消えてしまいそうなくらい。


 でも、不思議とそれで十分だった。


 返事はない。

 白い記憶層のように声が戻ってくることもない。

 鹿島先輩の影が、もう一度横を通ることもない。


 それでも、その言葉はちゃんとどこかへ届いた気がした。


 光の底。

 記憶の向こう。

 位置をずらした先。

 そういう言葉でしか触れられない場所へ。


 ありがとう。


 守ってくれたことへ。

 背負わせないようにした不器用さへ。

 ずるさも勝手さも含めた、その人らしい選択へ。

 そして、最後に自分へ“選ぶこと”を返してくれたことへ。


 希夢は、そこでゆっくり目を開ける。


 夜空は変わらず静かだった。

 星は遠くで光っている。

 風はやさしく吹き抜け、雛乃と裕也の気配はすぐそばにある。


 何も劇的には変わらない。

 それが、いまはひどくありがたかった。


 光の底に眠る“誰か”へ向けた言葉は、たった一度だけ夜へ落ちて、それで終わった。


 けれどその一度で、希夢の胸の中にあった長い痛みは、ようやく静かなかたちで置かれた気がした。

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