仲間との再会/喪失
呼吸がようやく自分のものとして戻ってきたころ、希夢は、すぐ近くにもうひとつ別の息づかいがあることに気づいた。
白い部屋でも、記憶層でも聞こえなかった、現実の側の呼吸。
少し乱れていて、浅くて、けれどたしかに生きた人の呼吸。
希夢は、ゆっくりと顔を上げる。
視界はもうほとんど揺れていない。
壁の古さも、天井の線も、床のくすんだ色も、ちゃんと現実の輪郭を取り戻している。
その向こうに、人影があった。
最初は、光の残りかと思った。
白い記憶層の名残がまだ目の奥にあるせいで、輪郭が少しだけやわらかく見えたからだ。
けれど次の瞬間、その人影がはっと息を呑み、こちらへ一歩踏み出したことで、希夢はそれが現実の人間なのだと知る。
雛乃だった。
施設の白い光の下で立ち尽くしたまま、信じられないものを見るみたいに目を見開いている。
頬はまだ少し青く、目元は赤い。
どれだけ長くここで息を詰めていたのか、その顔だけで分かった。
希夢の胸の奥が、ひどく静かに鳴る。
帰ってきたのだ。
白い記憶層から。
鹿島先輩の言葉を聞いた向こう側から。
そしていま、自分はちゃんと雛乃のいる現実へ戻ってきている。
「……雛乃」
名を呼ぶと、自分の声は少し掠れていた。
でも、今度は途中で薄まらない。
ちゃんと空気を震わせて、彼女の方へ届いていく。
その一音だけで十分だったのだろう。
雛乃の表情が、一瞬で崩れた。
さっきまでどうにか踏みとどまっていたものが、そこで全部ほどけてしまったみたいに、目元が歪む。
唇が震える。
何か言おうとして、うまく声にならない。
それでも次の瞬間、彼女は駆け寄っていた。
足音が、今度はちゃんと床へ鳴る。
軽く、速く、少し乱れて。
それがどうしようもなく現実の音で、希夢はそのことにほとんど眩暈みたいな安堵を覚える。
雛乃は、希夢のすぐ目の前でようやく足を止める。
触れそうで、でも触れる寸前で止まる。
たぶん、まだ怖いのだ。
本当に戻ってきたのか。
ここにいる希夢が、ちゃんと“こちら側の希夢”なのか。
手を伸ばしてしまったら、また白の方へほどけてしまうのではないか。
そんなふうに怯えているのが、そのためらいだけで分かった。
希夢は、小さく息を吸う。
「……戻ったよ」
その一言を聞いた瞬間、雛乃の目から涙があふれた。
ぽろ、とこぼれるというより、
張りつめたものが切れた途端、そこにあった水分が全部いっせいに落ちてきたみたいな泣き方だった。
「……っ」
声にならない。
口元が震えて、呼吸が崩れて、それでも彼女は無理に整えようとしない。
もう耐えなくていいと身体の方が知ってしまったのだろう。
雛乃は、涙のまま、ようやく言った。
「……戻ってきて、よかった……!」
その声は掠れていて、途中で少し崩れて、それでもひどくまっすぐだった。
戻ってきて、よかった。
それは、ただの安堵ではなかった。
責めも、問いも、確認も、何もない。
白い部屋で何を見たのか、先輩と何を話したのか、そんなことより先に、
いまここに希夢がいることだけで十分だ
という、雛乃の全部が入った言葉だった。
希夢の胸の奥で、また何かが少しだけほどける。
帰還の実感は、光でも空気でもなく、たぶんこの言葉でようやく完全になった。
雛乃は、涙を拭う暇もなく、もう一歩だけ近づく。
「よかった……ほんとに……」
繰り返すたびに、声が少しずつ幼くなる。
強くあろうとしていた人が、ようやく全部を手放した時の声だった。
希夢は、そこで初めて、自分がどれだけ雛乃を待たせていたのかを本当に理解した。
記憶層の中では時間の流れが違っていた。
鹿島先輩と交わした言葉は長く、深く、静かだった。
けれどこちら側では、その全部が、雛乃にとっては“戻ってこないかもしれない空白”だったのだ。
その空白を、この子はずっとひとりで受け止めていた。
希夢は、ゆっくりと手を持ち上げる。
一瞬だけ、自分の指先がまだ現実のものとして馴染みきっていない感覚があった。
それでも、今度はちゃんと届くと分かる。
そっと、雛乃の肩へ触れる。
温かかった。
記憶層にはなかった温度。
現実の側にいる人の、たしかな熱。
その熱に触れた瞬間、雛乃がまた少しだけ泣く。
「……ごめん」
希夢がそう言うと、雛乃はすぐに首を振る。
「違います……」
涙のせいで言葉がうまく繋がらない。
それでも必死に否定しようとする。
「違う……そうじゃなくて……」
何が違うのか、自分でも整理しきれていないのだろう。
謝ってほしいわけじゃない。
責めたいわけでもない。
ただ、戻ってきたことがうれしくて、怖かった時間が長すぎて、その反動で泣いてしまっている。
希夢には、それが痛いほど分かった。
雛乃は、目元をぐしゃぐしゃにしながら、やっと言う。
「希夢さんが、ちゃんといて……」
言いながら、また涙が落ちる。
「声、して……
手、あって……」
その確認の仕方が、あまりにも切実だった。
白い部屋では、声は遠くなった。
輪郭も曖昧になった。
記憶層では、存在そのものが揺れた。
だから雛乃はいま、目の前の希夢が“ちゃんとこちら側にいる”ことを、ひとつずつ確かめるように言葉にしているのだ。
希夢は、肩に置いた手へ少しだけ力をこめる。
「いるよ」
短く、でもはっきりと言う。
雛乃の肩が、その一言でほんの少しだけ落ちる。
ようやく息ができた人みたいに。
彼女は唇を噛んで、涙をこらえようとして、結局またこらえきれずに言った。
「……よかった……」
今度は、最初よりずっと小さい声だった。
けれど、だからこそ本音だった。
希夢は、その言葉を受け止めながら、自分の中に残っていた最後の緊張が静かにほどけていくのを感じる。
帰ってきた。
現実へ。
雛乃のいる場所へ。
まだ全部は終わっていないけれど、少なくとも自分は、ここへ戻ってこられた。
雛乃は、涙を拭いながらも、まだ完全には笑えない顔で希夢を見上げる。
「……痛いところ、ないですか」
その問いに、希夢は一瞬だけ息を詰めた。
痛いところなら、たぶんある。
胸の奥には、名前を持った痛みがまだ静かに残っている。
先輩の不在も、裕也の浅い層も、これから選ばなければならないことも、全部そこにある。
でも、それは雛乃が訊いている“痛い”とは少し違う。
「大丈夫」
希夢は、そう答える。
それは強がりではなかった。
完全に平気という意味でもない。
ただ、もう呼吸はできるし、ここに立っていられる、という意味での大丈夫だった。
雛乃は、その返事を聞いて、また小さく頷く。
涙はまだ止まりきらない。
でも、その涙はもう絶望のものではない。
戻ってきた相手を、現実の温度の中でようやく受け取れた人の涙だった。
白い部屋の異常は消え、光は静かに現実の色へ戻っている。
その穏やかな空間の中で、雛乃の涙だけが、帰還の本当の重さを何よりもまっすぐ物語っていた。
雛乃の涙がようやく少しだけ落ち着いたころ、希夢は、部屋の静けさの中にもうひとつ別の“気配”が混じっていることに気づいた。
最初は、風かと思った。
旧観測棟の古い壁のどこかを抜ける、細い空気の流れ。
けれど違う。
もっと近い。
もっと弱くて、もっと人のものに近い。
呼吸だ。
希夢は、はっとして顔を上げる。
雛乃も同じだったらしい。
まだ赤い目のまま、涙の跡を拭うことも忘れて、同じ方向を見る。
部屋の隅。
壁際の白が少しだけ深く見える場所。
さっきまで記憶層の余韻に引かれていたせいか、そこはただの影として視界の端に沈んでいた。
けれど今は違う。
そこに、人が倒れていた。
「……裕也くん!」
雛乃の声が、今度ははっきりと現実の空気を震わせた。
希夢も、ほとんど反射で駆け出していた。
足音が床へ鳴る。
ひとつ、ふたつ、少し乱れて、それでもちゃんと響く。
その現実の音が、逆に事態の切実さを強くした。
施設の隅、壁にもたれるように倒れているその身体は、見間違えようがなかった。
裕也だった。
制服の肩に薄い埃がついている。
頭は少しだけ横へ傾き、片腕が力なく床へ投げ出されている。
眠っているようにも見える。
けれど、その静けさが一瞬だけ怖かった。
希夢の胸が、冷たく鳴る。
「裕也」
名前を呼びながら、すぐそばに膝をつく。
雛乃はもう反対側へ回り込んでいた。
震える指で裕也の肩へ触れ、そのまま首筋へ手を伸ばす。
「……っ」
息を詰める。
次の瞬間、雛乃の顔が大きく崩れた。
「あります……!」
その声は、泣きそうで、笑いそうで、どちらにもなりきらないまま震えていた。
「脈、あります……!」
希夢は、それを聞いて初めて、自分がずっと息を止めていたことに気づく。
脈がある。
その言葉だけで、さっきまで白い記憶層の奥でしか持てなかった希望が、いきなり現実の温度を帯びる。
希夢は、裕也の口元へそっと手を近づける。
弱い。
でも、たしかにある。
空気が、ほんの少しだけ指先に触れる。
浅くて、ゆっくりで、疲れきった人の呼吸。
それでも、それはちゃんと“生きている人の呼吸”だった。
希夢の胸の奥で、何かが大きくほどける。
「……生きてる」
その一言は、自分へ言い聞かせるみたいに落ちた。
雛乃が、涙の残る顔で何度も頷く。
「うん……うん……」
返事にならない返事。
でも、それで十分だった。
裕也の顔色は悪い。
唇も少し乾いている。
けれど、白い部屋の向こうへ完全に持っていかれた人の顔ではない。
熱がある。
重さがある。
息がある。
この身体は、ちゃんとこちら側へ戻っている。
希夢は、そっと裕也の肩へ手をかける。
「裕也、聞こえるか」
返事はない。
まぶたも閉じたままだ。
けれど、その呼びかけに応えるみたいに、裕也の呼吸がほんの少しだけ深くなる。
雛乃が、泣きながらも必死に声を抑えて言う。
「命に、別状は……たぶん……」
言い切る前に、また涙が落ちる。
でも、その言葉の方向はもうはっきりしていた。
危険な静けさではない。
死の気配ではない。
極度の消耗と、深い眠りに近い沈み込み。
その向こうで、身体はまだちゃんとこちら側に踏みとどまっている。
希夢は、裕也の胸元を見る。
規則的ではない。
でも、崩れてもいない。
吸って、吐いて、また少しだけ間があって、次の呼吸が来る。
その不器用なリズムが、かえって現実だった。
記憶層で見た
呼吸の痕
が、いまここでは本物の呼吸として胸の上下に戻っている。
希夢は、そのことに言いようのない痛みと安堵を同時に感じた。
戻ってきた。
少なくとも、身体は。
位置は。
命は。
完全に何も失われなかったわけじゃない。
何がどこまで戻ったのかも、まだ分からない。
それでも、この呼吸がある限り、自分たちはまだ先へ進める。
「……よかった」
雛乃が、ほとんど嗚咽みたいにそう言う。
今度の“よかった”は、さっき希夢へ向けたものとはまた少し違っていた。
希夢が戻ってきたこと。
裕也の脈があること。
その両方が重なって、いまようやくひとつの現実として胸へ落ちてきたのだろう。
雛乃は、裕也の肩へ手を置いたまま、震える声で呼びかける。
「裕也くん……」
その呼び方が、ひどくやさしかった。
責めるでもなく、確かめるでもなく、
ただここへ戻ってきた存在へ触れる時の声だった。
裕也は、すぐには目を開けない。
けれど、眉がほんの少しだけ動く。
夢の深い底で、遠くの名前に触れた人みたいに。
希夢と雛乃は、そのわずかな反応だけで、また息を詰める。
生きている。
ちゃんとここにいる。
まだ曖昧でも、まだ完全には覚醒していなくても、
少なくとも“もう届かない場所”ではない。
白い部屋の異常は止まり、光は現実の色へ戻っている。
その静かな部屋の隅で、裕也の呼吸だけが、何より確かな現実の証として続いていた。
希夢は、裕也の肩から手を離さずに、小さく息を吐く。
記憶層で鹿島先輩が言った通りだ、と胸の奥で思う。
君がここに来たということは……救える。
あの言葉は、たしかに現実へ届いていた。
裕也の呼吸が、静かに続いている。
それだけで、この部屋の空気はさっきまでと少し違っていた。
白い部屋の異常も、記憶層の静けさも、まだ完全には胸の奥から抜けていない。
それでも今ここには、たしかに現実の鼓動が戻っている。
雛乃は、裕也の肩へ手を置いたまま、何度も息を整えようとしていた。
泣き止もうとしているのに、まだ目元は赤い。
けれどその赤さも、もう絶望の色ではなかった。
希夢は、裕也の顔をじっと見る。
顔色は悪い。
眠っているようでいて、ただ眠っているのとは違う深い沈み方をしている。
何か長い夢の底から、まだ半分だけ戻りきっていない人の顔だった。
「……裕也」
もう一度、希夢が呼ぶ。
今度は、さっきより少しだけはっきりと。
すると、裕也のまぶたがごく浅く震えた。
雛乃が、はっと息を呑む。
「動いた……」
その声は小さい。
でも、いまはその小ささの方が現実だった。
大声を出したら、このかろうじて戻ってきた輪郭がまた崩れてしまいそうで、誰も強くは喋れない。
裕也の呼吸が、ひとつだけ深くなる。
それから、眉がわずかに寄る。
苦しそうというより、何か遠い音を聞こうとしている顔だった。
希夢は、そっと声を落とす。
「大丈夫だ。
もう、戻ってきてる」
その言葉がどこまで届くのかは分からない。
でも、言わずにはいられなかった。
すると、裕也の唇がかすかに動く。
声にはならない。
空気がほんの少しだけ震えるだけだ。
雛乃が、顔を近づける。
「……裕也くん?」
次の瞬間、裕也のまぶたがゆっくり開いた。
完全には開ききらない。
薄く、重そうに。
それでも、たしかに現実の光を受け止めるために目が開かれる。
焦点はすぐには合わない。
天井を見ているのか、壁を見ているのか、それともまだ白い残光の方を見ているのかも分からない。
けれど、その目の動きだけで十分だった。
戻ってきた。
希夢の胸の奥で、その実感がようやく形になる。
「……裕也」
もう一度呼ぶと、今度は瞳がわずかにこちらへ寄る。
まだぼんやりしている。
でも、名前に反応している。
「……き、む……?」
掠れた声だった。
喉の奥でまだ眠気と疲労が絡まっているような、弱い声。
それでも、その一音だけで雛乃の目元がまた揺れる。
「うん、そうです……!
希夢さんも、私もいます」
雛乃は泣きそうなまま、それでもどうにか笑おうとする。
その表情を見て、裕也は少しだけ眉を寄せた。
状況が飲み込めないのだろう。
当たり前だ、と希夢は思う。
白い断層の浅い層に留まっていた時間が、こちらの時間とどう繋がっているのか、自分たちにだってまだ分からないのだから。
裕也は、乾いた唇を少しだけ動かす。
「……ここ、どこ……」
その問いは、ひどく普通だった。
普通であることが、かえって希夢にはありがたかった。
まだ完全じゃない。
でも、“現実へ戻ってきた人間の問い”ではある。
「旧観測棟の中だよ」
希夢が静かに答えると、裕也の視線が少しだけ揺れる。
そのまま、何かを思い出そうとするように目を細める。
けれど、次の瞬間には眉の間にかすかな痛みが走る。
「……白くて」
裕也が、小さく呟く。
雛乃と希夢は、同時に息を止める。
裕也の声はまだ不安定だ。
でも、その中には、ただの混乱ではない“向こう側の余韻”が混じっていた。
「光、の……中で」
そこで、言葉が切れる。
目を閉じる。
苦しいのかと思ったが、そうではないらしい。
何か、掴めそうで掴めない断片を追っている顔だった。
希夢は、慎重に問う。
「何か見たのか」
裕也は、すぐには答えない。
喉が小さく動く。
呼吸がひとつ浅くなる。
それから、ようやく掠れた声で言った。
「……誰かが」
白い部屋の空気が、ほんの少しだけ深くなる。
「誰かが、呼んだ気がする」
雛乃が、口元を押さえる。
涙をこらえる仕草だった。
でも、今度は悲しさよりも、そこに確かな“つながり”を見つけてしまった驚きの方が強い。
裕也は、まだ焦点の合わない目で天井の方を見る。
「声は、ちゃんと聞こえなかったけど……
でも、呼ばれたっていう感じだけ、残ってる」
その言葉は、白い断層の説明としてはあまりにも曖昧だ。
けれど、人間が記憶として持ち帰れるぎりぎりの輪郭なのだろうとも思えた。
完全な会話ではない。
明瞭な音声でもない。
ただ、存在の向こうから届いた“方向”だけが残る。
希夢の胸の奥で、鹿島先輩の言葉が静かに重なる。
君がここに来たということは……救える。
あの記憶層で交わされた真実が、いま現実の裕也の掠れた記憶と、確かにひとつの線で繋がっている。
「……光の中で」
裕也が、もう一度小さく言う。
「なんか……
あったかかった」
その一言に、雛乃の頬をまた涙が伝う。
今度は泣き崩れるような涙じゃない。
もっと静かなものだ。
怖かった白じゃない。
奪う光じゃない。
裕也の中に残ったのが“あたたかさ”だと知ったことで、彼女の中の何かがようやく少し救われたのだろう。
雛乃は、涙をぬぐいながら、小さく頷く。
「……うん」
その頷きは、裕也に向けたものでもあり、
自分自身に向けたものでもあるように見えた。
希夢は、裕也の顔を見る。
記憶は曖昧だ。
何が起きたのか、どこまで見たのか、はっきりとは残っていない。
でも、それでいいのかもしれない、と思う。
記憶層で自分が受け取ったものと同じ重さを、裕也までそのまま持ち帰る必要はない。
むしろ、断片のままでいいから、こちらへ戻ってきたことの方が大事だ。
裕也は、少しだけ首を動かし、雛乃と希夢を順に見る。
「……なんか、すごい夢みたいだった」
その言い方に、希夢はほんの少しだけ息を抜く。
夢みたい。
たぶん、それがいまの裕也にとって最も自然な理解の仕方なのだろう。
雛乃は、まだ涙を残したまま微笑む。
「うん。
でも、もう戻ってきてます」
その言葉は、誰に向けたものだったのか分からない。
裕也へ。
自分へ。
あるいは、白い光の底にまだ残っている誰かへ向けてもいたのかもしれない。
裕也は、またゆっくり目を閉じる。
けれど今度は、さっきまでの沈み方とは違う。
深い断層の底ではなく、
現実の疲労の中で休もうとする人の閉じ方だった。
呼吸も、少しずつ安定していく。
希夢は、そのリズムを聞きながら、胸の中に残っていた最後の緊張がまた少しだけほどけるのを感じた。
揺らぎの痕跡は残っている。
光の中のぬくもりも、呼ばれた気配も、完全には説明できない。
けれど、その曖昧さを抱えたままでも、裕也はもうこちら側にいる。
それが、いまは何より大きな事実だった。
裕也の呼吸が少しずつ落ち着いていくにつれて、部屋の空気もまた、やわらかな現実の静けさを取り戻していった。
白い異常はもうない。
光も脈打たない。
風の音はただ風の音として、古い施設のどこかを細く通り抜けていく。
雛乃は、裕也のそばに膝をついたまま、何度も涙を拭っていた。
泣き止んだわけではない。
けれど、その涙はもう“失うかもしれない怖さ”のものではなかった。
戻ってきた。
ちゃんと息をしている。
呼びかけにも、少しずつ反応している。
それだけで十分だと、彼女の表情が言っていた。
希夢も、同じだった。
胸の奥に残っていた張りつめたものが、裕也の規則的ではない、でも確かな呼吸のたびに、少しずつほどけていく。
記憶層で聞いた言葉。
白い光の中の選択。
揺らぎの断層。
その全部がまだ自分の中にある。
それでも、少なくともここには、戻ってきたものがある。
手を伸ばせば触れられる体温が。
現実の床に落ちる影が。
こちら側の空気の中で続く呼吸が。
だからこそ、次に胸へ落ちてきた静けさは、別の重さを持っていた。
希夢は、無意識に部屋の中を見渡していた。
壁。
床。
古い棚の影。
光の淡い届かない隅。
どこにも、もう白い揺らぎはない。
どこにも、あの黒い境界はない。
記憶層へ続く薄黒い縦線も、最深部の異様な輪郭も、もう現実には残っていなかった。
ただ、静かだった。
戻ってきたふたりの存在が現実に重さを持つほどに、
そこへ含まれていないひとつの輪郭だけが、逆にはっきりしてくる。
鹿島先輩。
その名前を、誰もすぐには口にしなかった。
言えば、今この部屋にある安堵が少しだけ崩れてしまう気がしたからだろう。
裕也が戻った。
希夢も戻った。
雛乃はここにいる。
その“戻ってきたもの”の温度だけで、もう少しだけこの時間を保っていたかった。
けれど、現実はやさしいだけではなかった。
沈黙の中で、希夢はようやく知る。
戻ってきたものがあるということは、
戻ってこなかったものもある、ということだ。
雛乃が、裕也の肩へ置いた手を少しだけ握りしめる。
その指先の動きだけで、彼女も同じことを感じているのだと分かった。
そして、彼女がいちばん小さな声で言った。
「……先輩は」
その一言だけで、部屋の静けさが変わる。
答える人はいない。
けれど、沈黙の方が先に答えてしまう。
いない。
少なくとも、こちら側の現実には。
この部屋には。
このやわらかな光の下には。
希夢は、喉の奥がひどく静かに詰まるのを感じた。
記憶層で会った。
声も聞いた。
微笑みの気配も見た。
“選んで”という未完の託しも受け取った。
だから、完全な喪失ではないことも知っている。
けれど、それとこれとは別だった。
現実へ戻ったこの部屋には、鹿島先輩の体温はない。
呼吸もない。
倒れて見つかる身体もない。
その不在が、いま初めてはっきりと重さを持つ。
「……戻って、ない」
希夢の声は、自分でも驚くほど低かった。
雛乃が、目元をまた揺らす。
でも今度は泣き崩れない。
ただ、その事実を受け取るように、ゆっくりと目を伏せる。
裕也はまだ完全には状況を掴みきれていないのか、半分だけ閉じた目のまま浅く息をしている。
その呼吸音のあいだにだけ、鹿島先輩の不在は、かえってやさしく、そして残酷に部屋へ広がった。
ひとりだけ、戻ってこない。
物語の都合みたいに誰かが消えるのではない。
英雄のように美しく終わるのでもない。
ただ、ここにいるべき人が、ここにはいない。
その事実が、現実の空気の中で静かに沈んでいく。
希夢は、目を閉じかけて、やめた。
閉じれば、あの白い静寂をまた思い出してしまいそうだった。
鹿島先輩の微笑みの気配。
揺れる黒髪の影。
「君なら大丈夫だよ」という声。
それらはたしかに残っている。
胸の奥に。
いまも、やわらかい痛みとして。
だからこそ、ただ“いなくなった”とは思えない。
でも、だからといって“ここにいる”とも言えない。
その中間の場所に、鹿島先輩はいる。
光の底。
位置をずらした先。
記憶の層の向こう。
そういう言葉でしか届かない場所に。
雛乃が、ぽつりと息のように言う。
「……あったかいですね」
希夢は顔を向ける。
雛乃は、部屋の空気そのものへ触れるみたいに、ゆっくり視線を巡らせていた。
「ここ、さっきまで怖かったのに……
今は、なんか……」
言葉を探して、それから小さく続ける。
「痕だけが、残ってるみたいです」
その言い方に、希夢の胸の奥が少しだけ鳴る。
痕。
そうかもしれない。
鹿島先輩は戻ってこなかった。
でも、何も残さず消えたわけでもない。
部屋の空気がやわらかい。
光がもう脈打たない。
世界が少しだけ優しい形へ戻っている。
それはただの修復じゃない。
鹿島先輩が、向こう側で最後まで選んだものの温度が、
この現実に薄く残っているのかもしれなかった。
希夢は、ゆっくりと部屋の中央を見る。
もうGate-Xはない。
白い揺らぎも消えている。
それでも、その場所だけが、なぜかひどく静かで、やわらかい。
まるで、誰かがそこに立っていた熱だけが、
まだ遅れて空気の中へ溶けているみたいだった。
「……先輩」
呼んでも、返事はない。
それでも、その名はもう虚空へ落ちるだけの音ではなかった。
記憶層で受け取った言葉がある。
微笑みの気配がある。
選ぶことを返された重さがある。
だから、この不在は、ただの断絶じゃない。
手の届かないところへ移った者の、
温かい痕跡を含んだ不在
だった。
希夢は、その静けさを胸の奥へ受け入れる。
つらい。
やっぱり戻ってきてほしいと思う。
現実の光の下で、もう一度ちゃんと話したかった。
裕也や雛乃と同じように、ここへ戻ってきてほしかった。
でも、その願いが叶わないままでも、
先輩が何も残さず消えたわけではないことだけは、いまは分かる。
不在の中に、温度がある。
喪失の中に、やわらかさが残る。
それは悲しいことなのに、同時に少しだけ救いでもあった。
雛乃は涙をぬぐい、希夢は静かに息をする。
裕也の呼吸は、部屋の隅で現実のリズムを刻んでいる。
そして、その三人のいる現実の中に、
鹿島先輩だけは戻ってこない。
その事実を、もう誰も言葉で繰り返さなかった。
ただ、温かい痕跡だけが、
光の消えた部屋の中へ、静かに残っていた。




