新たな化け物
「……ハグバルド、か?」
そう呼んだシュザック候の声に、びくりと赤胴色の頭が震えた。
そして、さっと水の中に潜っていってしまった。
シュザック候は慌てて池に駆け寄る。
「大丈夫よ、いらっしゃいな」
アグネがそう言って水の中に手を差し伸べると、今度はそれに恐る恐るという風に縋り付く物があった。
表面をびっしりと鱗が覆い、五本の指の間に水かきを持った化け物の手だった。
「アグネ、これは私の息子だろうか……?」
「ええ、そうですわ。あなたのご子息です」
シュザック候の震える声に、アグネは婉然と微笑んで頷いた。
アグネに喉笛を食いちぎられたハグバルドは、あの時まさに致命傷を負っていた。
出血多量で放っておけばすぐに息絶えるだろうと思われたが、そんな彼を水の中に引きずり込みながら、アグネはどこか哀れみを抱いていた。
シドがこっそり流し入れた媚薬も、少しはその時の彼女の思考に影響したのかもしれない。
アグネは水底の巣にハグバルドを連れ帰ると、気まぐれに自らの血を彼に分け与えた。
それで助けられるという確信があったわけではなかったが、ハグバルドの身体に入ったアグネの血は結果的には彼を生かした。
――ただし、異形の者として。
「死に損ないの半端な化け物なんて、この男の心の醜さにおあつらえ向きじゃありませんこと?」
アグネのそんな辛辣な言葉に、シュザック候はぐっと口を噤んで返す言葉もない。
しかし、そんな領主に人魚はふふと艶やかに笑い、「でも」と続けた。
「実に、わたくし好みですわ。――エラ呼吸できるところなんて、最高に素敵っ!」
「え……?」
美しい人魚はそう言うと、傍観者達の前で半魚人の赤銅色の前髪を掻き分け、そのてろりとした額にキスをした。
シュザック候とその長男は、ポカンと口を開けたまま固まった。
イヴも呆気にとられてそれを眺めていたが、そう言えば以前アグネと異性の好みの話をした時、彼女が「エラ呼吸のできないような男はご免だわ」と言っていたのを思い出した。
人魚は女だけの種族なので、水竜や半魚人といった水棲の魔物と交わって子孫を残す。
アグネの母親は人魚族の長であったが、父親はもしかしたら半魚人だったのかもしれない。
それゆえ、血を与えられたハグバルドがその魔力に身体を歪められて半魚人のようになったとすれば、何となく納得がいく。
おかげで、新生ハグバルドの顔の両脇には、立派なエラができていた。
「え、え~っと……これって、ハッピーエンド……なのかな?」
「……うむ、難しいところだな」
イヴは口元を引きつらせ、シドは腕を組んでため息をついた。
一方、アグネのキスをもらったハグバルドの成れの果ては、水かきのついた両手を水面にぱしゃぱしゃと打ち付けてはしゃいでいる。
人間だった時のふてぶてしさはなく、ただただ無垢な幼子に戻ってしまったかのよう。
優秀な兄や姉達を羨むことも、劣等感に苦しめられることも無くなり、今はただ晴れ晴れとした様子である。
「ハグバルド……」
変わり果てた、しかし父親の自分でも見たことがないほど幸せそうな彼の姿に、シュザック候は両目に涙を浮かべてイヴを呼んだ。
「イヴ……」
「はい」
「ハグバルドを……このままここへ、アグネの側に居させてやってはくれまいか」
「……ええ。いいですよ、領主様」
異形の者となったハグバルドは、もう元の世界では生きてはいけないだろう。
涙をこぼしながら頭を下げたシュザック候の頼みを、イヴは拒否することはできなかった。
彼女は丸まった候の背中を労るように撫でて、「その代わり」と続けた。
「どうか、彼を捨てないであげて下さい。時々、会いにきてあげて下さいね」
イヴのその言葉に、シュザック候はぼろぼろと涙をこぼしながら、何度も何度も頷いた。
「もちろん来るよ。家内も一緒に。たくさん土産を持って遊びにこよう」
「はい。いつでも大歓迎です」
「ありがとう。ありがとう、イヴ」
次いで、シュザック候はラムール村の村長に向き直り、面倒をかけるが息子を置いてやってくれと彼にも頼んだ。
もちろん、村長がそれを拒否するはずもない。
村長はしっかりと領主と握手を交わし、「新しい村人を、ラムールは歓迎しますよ」と言って大きく頷いた。
そんな人間達のやりとりを、人間ではなくなってしまったハグバルドはアグネの陰からじっと見つめていた。
今の彼は、父親のことも兄のことも忘れてしまっているようだ。
別れ際に差し出されたシュザック候の手には、やはり怯えて水の中に隠れてしまった。
しかし、代わりにその手と握手を交わしたアグネを見て、何やら思うところもあったらしい。
また来ると言い置いて去っていく父と兄の背中を、彼はぎょろりとした大きな目でずっと眺めていた。
「わあん! 姐さん、久しぶり! 会いたかったよう!」
「あらん、イヴぅ。寂しい想いさせてごめんなさいねぇ」
シュザック候親子と村の外れまで同行する村長とロキを見送ると、イヴは池の淵に腰掛けたアグネに飛びついた。
もう十日近くまともに顔を合わせていなかったのだ。
乱暴を働いたハグバルドの一件でアグネが人間嫌いになって、自分のことまで嫌いになったのではないかと不安だったイヴは、以前と代わらぬ人魚の優しい笑みにほっとした。
アグネはぎゅうと首筋にしがみ付いてきたイヴの頭を優しく撫でると、その耳元に甘えるように言った。
「ハグバルドに随分血を上げちゃって貧血気味なのぉ。ねえ、ねえ、イヴ。ちょうだい?」
「いーよー」
イヴはいつもの調子で頷いて、顎に手を添えて唇に触れようとするアグネをそのまま受け入れようとした。
ところが……
「おいこら、待て」
そう不機嫌な声が降ってきたと思ったら、イヴは後ろから襟首を掴まれてアグネから引き離されてしまった。
たたらを踏んで傾いたイヴの身体は背後に立った声の主に打つかり、同時に腹にぐるりと腕が回って拘束された。
シドだ。
きょとんとしてイヴが振り返れば、シドの二つになった赤い瞳が咎めるように細められた。
「――ちょっと、またあなたなの? わたくしとイヴの仲を邪魔しないでちょうだい!」
一方、またしてもイヴとのキスを邪魔されたアグネはご立腹だ。
透き通るヒレを携えた魚の尾で、ビシリと鋭く水面を叩いてシドに抗議する。
しかし、シドはそれにふんと鼻で笑って返すと、片手に持っていた何かをイヴの顔の前で握った。
「シド、何? って……うっわ!?」
とたんに、ツンと鼻の奥が痛むほどの刺激臭がしたかと思ったら、みるみるうちにイヴの目から涙が溢れ出した。
「タ、タマネギっ……!? ちょっと! しみるっ、しみるってば!」
シドが握り潰したのは、なんと生のタマネギだったのだ。
無防備にもその汁を浴びてしまったイヴの涙は止まらない。
「あらあらあらっ! もったいない、もったいない」
それを見たアグネは慌ててイヴをシドから奪い返して、ぽろぽろこぼれる涙を舐めた。
昨夜イヴが口にしたワインはもう抜け切って、彼女の体液は元通りの魅惑の味に戻っているようだ。
シドは今度は邪魔をするつもりはないらしく、原型をなくしたタマネギをぽいっと地面に捨てると、せっせとイヴの涙を舐め取るアグネの傍らで手を濯いだ。
すると、アグネの陰に隠れて辺りをうかがっていたハグバルドが彼と目が合った。
人間であった時とは違い、化け物の一員として僅かながら魔力を帯びたハグバルドには、シドがまとう強大な魔力を感じ取れるようになっていた。
歴然とした力の差に怯え、ハグバルドはアグネの腰にしがみついてガタガタと震え始めた。
シドはそれを興味がなさそうに一瞥すると、やっと目が開けられるようになったイヴに向かって言った。
「今後、俺以外への唾液の譲渡は禁止する。他の連中には涙でも与えてろ」
つまり、自分以外の魔物にキスをするのを許さないと言うのだ。
そんな唐突な宣言に、イヴは潤んだ両目をぱちくりさせる。
フェンリルは鼻面に皺を寄せてシドを睨み、アグネは「あらぁ?」と驚いた顔をした。
ここにオルヴァとウォルスがいれば、口を揃えて「勝手なことを言うな!」とシドに食ってかかっていたことだろう。
ロキだって、キャンキャンと盛大に吠えて噛み付いてきたに違いない。
突然、はっきりとイヴに対する独占欲を示し始めたシド。
イヴはまだしぱしぱする両目をごしごしと擦りつつ、呆れたように言った。
「何さ、シド。左目が戻ったとたん、面倒くさいヤツになって」
今朝、シドのベッドで添い寝する形で目覚めたイヴも、もちろん彼の左の眼窩に目玉が戻っていることには驚いた。
昨夜の闇の急襲についてもわけがわからないままで、自分が気を失っている間に何があったのかとシドに問うたが上手くはぐらかされてしまった。
腑に落ちないものを感じつつも、シドの部屋を出れば何故か呆然としたフェンリルは扉の前にいて、生乾きのウォルスもリビングの床で健在。
家の裏に出ればオルヴァだっていつも通り鼻息が荒かったし、アグネにも今ようやく再会できた。
先ほどシュザック候達に付き添ってきたロキや村長は、昨夜ラムール村で何か異変があったなんてことも言わなかったし、つまりイヴの大事なもの何も損なわれていない。
そういうわけで、彼女は従来の楽観的な性格を発揮して、昨夜の出来事をわけのわからないことのまま放置することにした。
だが――
「その面倒臭い男を黙らせたかったら、早泣きを習得することだな」
「……っ」
シドがそう言いながらイヴの目尻に滲んだ涙を舐めると、彼女はビクッと身体を震わせて飛び上がった。
昨夜彼と交わした会話と、体液を与えるのとは違うキスの記憶が一気に頭の中を駆け巡り、イヴは妙な恥ずかしさと緊張を感じた。
アグネには舐められても平気だったのに、シドが相手だと何だかおかしくなってしまう。
そんなイヴを弄ぶかのように、じわじわと赤味を増していく彼女の耳に、シドは吐息を吹き込むようにして囁いた。
「でないと、ポケットに毎日生タマネギを仕込むぞ」
「……ぎゃっ!? それ、すごくイヤ!」
顔を真っ赤にしたイヴは、耳を手で押さえて彼から身を離し、ぎゅーっとアグネの方にしがみついた。
アグネは何だか面白そうな顔をして二人を見比べ、それから彼女もまたイヴの目尻に残っていた涙を舐めた。
その光景をハグバルドが不思議そうに眺めているのに気づくと、アグネはイヴの涙を一滴指で掬って彼の口元に持っていった。
それを口に含んだとたん、ぱあああっと彼の表情が華やいだ。
そして、もっともっととせがみ始める。
それに気づいたイヴは、赤味の増した頬を誤魔化すようにこほんと一つ咳払いをしてから口を開いた。
「ハグバルドさん――いや、ハグ」
それが自分の名前であることは分かるのか、半魚人のぎょろりとした目が彼女に向けられる。
イヴはアグネから離れて立ち上がると、腰に両手を当ててふんぞり返り、ハグバルドを見下ろして告げた。
「うちの子になるからには、化け物屋の一員として君にも頑張ってもらうよ」
「……」
「働かざるもの食うべからず、だからね」
ハグバルドは一瞬首を傾げ、問うように隣のアグネの顔を覗き込んだ。
アグネはそれににっこりと微笑みを返す。
「大丈夫、イヴはいい子よ。あなたの嫌がるような仕事はさせないわ」
――それに、わたくし達これからずっと一緒よ?
アグネはそう告げると、イヴの目の前でハグバルドに熱烈なキスをした。
とたんに、イヴの顔がさらに真っ赤に染まる。
「ちょっ……、姐さん! 人前でっ……」
「あらぁ、イヴ。キスを見て赤くなるなんて……あなた成長したわねぇ」
アグネは感心したようにそう言うと、ちらりと視線を巡らせた。
そして、満足そうな顔をしているシドを見つけると、ふふと実に楽しそうに赤い唇に弧を描いた。
『 魔物が集う化け物屋。
銀狼、人魚、一角獣。
あとは可愛い小さな魔物達。
この度当店は、新しくスタッフを迎えました。
黒髪の人型の魔物、名前はシドと申します。
特技は料理、及び家事全般。
家政夫としては申し分ございません。
もう一匹は元人間の半魚人。
こちらは何ができるのかはまだ分かりませんが、なかなか愛嬌がございます。
愛嬌があると言いますれば、黒猫のぬいぐるみの姿をしたウォルス。
ボタンの目が愛くるしい当店のマスコットでございます。
皆々様には、今後とも変わらぬご贔屓を賜りますよう
よろしくお願い申し上げます。
化け物屋主人 イヴ 』
第一部『化け物屋』おわり