プロローグ
静謐な気配がそこかしこに満ちていた。
ほんの少し息をしただけでも響き渡ってしまいそうな、酷く張り詰めた空気がここ──カルテノの王都ティルトゥスルにある教会に満ちている。それはもう天を突こうかというほど高い天井までみっちりだ。
白亜の壁にはささやかな装飾があるばかりで、驚くくらいに素っ気ない。
床は慎重に歩かないとツルッといきそうなほど滑らかだ。等間隔に配置された窓から差し込む光がその表面で水のように揺れて弾けている。
(……つ、ついにここまで来た)
侍女に扮したリミナルは唾を飲み込んだ。
後方の扉から空の祭壇に向けて人が横に並んで三人くらいは悠々歩けるほどの通路が一直線に伸びている。集まった人々は通路の左右に配されたベンチに押し込まれながらも行儀よく座っていた。
リミナルがいるのは十列あるベンチの六列目の通路に面した端っこの席だ。右隣りのご婦人から時折感じる視線から逃げるように視線を伏せる。
落ち着かない──無意識に握った手に硬い感触が返ってきて、リミナルは小さく肩を震わせた。
またしても右隣から視線を感じた。それに気づかないふりをして固く強張る右手を見つめる。
隣の視線も同じように右手に落ちた気がした。
思わず息を詰める。
十秒数えたところで興味を失ったように視線が遠ざかったの感じた。
リミナルは小さく息をついた。安堵の息だ。
(勘弁してくれ……)
改めて右手に力を入れる。先ほどと同じく何もないはずの掌に硬い感触が返った。
視認できない武器がその手に握られているなんて、きっと隣のご婦人は想像もしていないに違いない。
持ち主にすら見えないその武器は居留守ナイフという。
見るものからその姿を隠す性能を有するナイフだ。そこにいるのにいないと装う。魔法でだって認識できない。結界もすり抜ける。そう、居留守だ。全力で「私はいません」をするのである。
気の抜ける名前に対してちょっと性能が悪辣じゃないか、とリミナルは思う。
なんせ、これがあれば警備が厳重な場所にも容易にナイフを持ち込めてしまうのだから。
(もうすぐ主人公が少年とやって来る。その時は……)
勇気を振り絞って少年へナイフを振り上げるのだ。
そう考えた瞬間、胃がギュッとなった。ぶるりと身体が震える。怖い、という感情が頭の天辺から足の先のまで落ちていく。
(……怖気づくな! これはこの世界に必要不可欠なことなんだ!!)
小さく頭を振り、握る手に力を込める。その程度で身に染みた恐怖を消し去ることなど到底できやしないが、それでもリミナルは心の中で更に言葉を継いだ。
(ここで俺が退けば世界は乱れたまま、どんな改変をされるかわかったもんじゃない!)
後に聖人と讃えられる少年にはちょっぴり怖い思いをさせてしまうが、刃がその肌を掠めるよりも早く主人公たる少女が君を守るから。血を流すのは俺の方だから、とリミナルは自分を奮い立たせる。
全ては原作通りに物語を進めるため。そのためならば、自分は喜んでこの身を捧げよう──などとなんかそれっぽいことを考えたのがいけなかったのか。
「──あ、あぁあぁっ!!」
唸るような嘆くような喉を鳴らす音がした。
自分が発したものかと思ったのも束の間、カツンッ、と金属的な響きが控え目に空気に滲む。
静謐な雰囲気は一転して、今や緊張感爆発的に膨れ上がっていた。
周囲のざわめきに誘われるように視線を上げた。通路の方へ少し身を乗り出すようにして振り返る。
目に入ったのは最後尾のベンチの横で立ち竦む侍女が一人。その首には左右から騎士が抜いた剣の切先が添えられている。
侍女とわかったのはその服装だ。グレーのドレスにエプロンをしているし、頭には白いキャップが乗っていた。これが外出着だったら判別できたか怪しいところだ。
リミナルは呆然とした面持ちで呻きを漏らす。
次の瞬間、頭に浮かんだのは、
(出遅れたぁーっ!!)
そんな言葉だった。
(お、襲ったのか? 俺より先に?)
どうして侍女がとか、それは俺の役目だろうとか、これまでの苦労はとかそんな想いが渦巻いて、最終的に頭の中が真っ白になった時である。
ふと、光るものが見えた。左足の爪先から少し離れたところ、手を伸ばせば触れられそうな距離に横たわる何かにリミナルは目を凝らした。
(ナイフだ……)
捕らえられた侍女の手を離れて、はるばる床を滑ってきたのだろう。なんといっても、ここの床はとてもつるつるしているから。
リミナルは呆然とした面持ちでそのナイフを眺めた。
一見するとただのフィッシュナイフ。刃は平べったくて、ちょっとヘラに似ている。違うところはその刃に羊の角と蹄を模した紋様が彫られている点である。
(メェメェナイフ……)
なんとも愛らしい名を持つその武器は攻撃力も1と愛らしいというか、武器としてはほとんど役に立たない代物だ。
その代わり、使用者へのダメージ1と引き換えに幸運を与えるという風変わりな効果を有する。効果の付与対象者はランダムで、装備者の近くにいた誰かだ。今回の場合は教会内にいた者全員が対象だろう。
(なんでよりにもよって『幸運のお裾分け』を?)
愕然とした思いのまま、リミナルは再び通路後方を見た。
依然とした左右の騎士から剣の切っ先を首に添えられたままの侍女が後ろ手に拘束されているところだった。
(……ここから襲うの無理ゲーじゃないか?)
リミナルの手の中にはまだ居留守ナイフの硬い感触がある。
だが、例えナイフが見えずとも今自分がいる場所からターゲットである少年の元まで誰にも咎められずに進めるだろうか? ──考えるまでもなく否である。
(ここから飛び出したとして、途中で騎士に捕まったら……原作通りにはいかないよな?)
それでは命を懸ける意味がない、リミナルは眉間を寄せた。
このステージでリミナルがやらなければいけないのは主人公の仲間である少年を襲うこと。そして、その結果、寸でのところで主人公が少年を助けるフラグを立てることである。
ちなみにリミナルには主人公や少年に爪の先ほども恨みや妬みはない。あるのは自分の屍を超えて原作通りにストーリー進行しろよ、という強い想いだけだ。
(原作通りに進めるには俺が死ぬ必要があるのに……!)
なのに侍女の襲撃イベントは他の者がはじめた挙句、失敗ときた。
諦めきれない眼差しがターゲットを求めて彷徨う。もしかしたらワンチャン襲えるかも──そんな淡い期待を滲ませた濃い焦げ茶色の双眸が、連行される侍女の向こうに現れた人物の上で動きを止めた。
「うそ、だろ……」
心の内に押し留めておけなかった言葉が呻きのように唇から零れ落ちる。思わず右手が開きかけて、慌てて力を入れた。
(いやいやいやいや、どういうこと!? 少年じゃないじゃん!!)
そこにいたのは一組の男女ではあったが、どちらも少年や少女と表現するには年を重ねている。どう若く見積もっても二十代前半といったところだ。
(人違い……)
騎士に左右から肘を持たれた侍女は、擦れ違いざまに怯えた顔で若い男に寄り添う女を睨んで罵声をぶつけた。上品とは対極にいる言葉の数々は夫の浮気相手を罵る言葉のレパートリーの豊富さをリミナルに教えてくれた。場違いながらも感心すら覚える。
侍女が騎士に引きずられるように扉の向こうへ押し出されると教会には静寂が戻った。なんとも白々しい静寂だった。
祭壇前にローブ姿の教会関係者が歩み出て、集まった人々に淡々と解散を命じる。
ベンチからぽつぽつと不満の声が上がるのを耳にしながらリミナルは反射的に前に向き直った。教会関係者が中止ではなく延期だと伝えている。二時間後に仕切り直すとかなんとかいう声が左耳から右耳に抜けていった。
リミナルにしてみれば中止だろうが延期だろうがどうでもよかった。
大事なのはここにやってきた未来の聖人たる少年を襲い、同行していた勇者たる少女の返り討ちにあうことなのだ。侍女として。
そのために制服である黒いドレスを纏い、エプロンをつけて、キャップだって被った。いかにも仕事の合間を縫って教会に駆けつけた侍女ですよ、という顔をするために。深い深い葛藤の末に黒いストッキングだってはいたのだ。
それなのに──
(なんのために女装までしたんだよ!!)
もう、その一言に尽きる。
とんだ骨折り損だ。
ふと視線を感じて通路側を見ると、最前列にいたはずの小柄な青年と目があった。
夜色の髪で光の粒が星のように溺れている。
大きな眸は透明度の高い海に似た虹彩を放っていた。それでいて瞳孔の近くは蜂蜜みたいな柔らかな黄色が溶けている。
見たこともない妖精を彷彿とさせる整った顔に笑みが浮かんだ。それはそれは楽しそうな、悪戯が成功した悪ガキのような笑みだ。
けれど、それも一瞬。
隣に立つ長身に促され、妖精は足を止めることなく扉の向こうへと吸い込まれていく。
長身の男は擦れ違い様に彫りの深い顔をリミナルへ向けた。
妖精と同じ色をした切れ長の目が合流を促しているのを、出遅れた女装男は正しく読み取った。




