10
~ 左田 ユカリ ~
よかった。俺の幻覚とか妄想じゃなかったんだ。
空腹はまだまだ続いていて、現状、なにかが変わったり解決したりってことはないんだけど。でも、俺、それが実感できて、ものすごくホッとした。涙、にじんだくらい。
子どもの頃から、やたら腹が空いて仕方がないときがあった。食べても食べても、腹が減る。一般的に、「霊」と呼ばれる存在のせいだと気付いても、それがほんとうかどうかは、分からなかった。だって、「霊」は、誰にも視えなかった。もしかしたら、俺、幻覚が視えてるんじゃないのか、って、不安に思ったことが、何回もあった。俺が、どこかおかしいんじゃないのかって。空腹と不安を抱えて、眠れなかった夜もあったんだ。
でも、違った。「霊」は存在してた。
ジャズと人の話し声が穏やかに耳に届く、満席になった喫茶店で、俺は谷津崎さんとシヅカさんに頭を下げた。
「ありがとうございます」
「え。頭、上げて、上げて!どうしたの?!」
「シヅカ。私、分かるよ。ユカリ君、私もそうだったよ」
その言葉で、谷津崎さんも、俺と同じ悩みを抱えてきたことが分かる。自分にだけ視える「霊」という存在は、それほど、「自分」という存在を疑うことになる。
「や、ほんと。シヅカさん、谷津崎さんと会わせてくれて、ありがとうございます」
「いやいや、そんな……そんなに?」
「はい。今夜はよく眠れそうです」
「お腹空いてるのに?」
「はい。それくらい、不安だったんです」
「だよね。私も、幻覚なんじゃないかって思ったこと、何度もあるよ」
「そうなの……?」
いつも力強い笑顔のシヅカさんが、困惑したように、俺と谷津崎さんを交互に見て、思いっきり頷き、そうかあ、と椅子の背もたれに背中を預けた。
シヅカさんは霊感があると打ち明けても、笑ったりからかったりふざけたりはしないし、気味が悪いと距離を置いたりはしなかった。だけど、そういう人ばっかりじゃない。悩んで悩んで、この人なら、と打ち明けた相手に、薄気味悪そうに距離を置かれたこともあったんだ。
「ユカリ君、すごいよ、でも」
「どうしてですか?」
「私、視えるだけなんだよ。しかも、ハッキリ視えたりしたときなんて、体調崩しちゃうんだ。でも、今、こんなハッキリ視えてるのに、全然、平気なんだよ。これって、多分、ユカリくんの力なんじゃないかなあ」
「え。体調崩したりするんですか?」
「うん。だから、実は今日、ちょっと緊張してた」
「うわ。ごめんなさい。俺が無理言ったから。ほんとに平気ですか?」
「全然、平気。それに、私も会ってみたかったんだ。だって、霊感あるっていう人に、会ったことなかったし。それに、霊がそこにいるかどうかは、一緒に視ないと分からないでしょう?だから、謝らないで」
「はい」
そうか。体調崩す人もいるのか。俺は腹が減るだけだけど。ん?腹が減るっていうのも、体調崩す、って範囲に入るんじゃね?
シヅカさんが、「いやあ~。よかったね!」と谷津崎さんの隣で椅子から身を起こし、テーブルに前かがみになった。
「ところで、ココ。ユカリ君のこの状況って、どうにかできる?」
「ううん。できない。ユカリ君、私と、違うし。視えてるのは一緒だけど。それに、どうにかしようとしても、この人、しゃべらないから、意思疎通できないし」
「え。谷津崎さん、話せるんですか?」
「相手が話してくればね。自分から話しかけたりはしないけど。ユカリ君は、話したことないの?」
「ないです」
「メッチャ近くにいるのに?」
「え。ってか、話せるんだ」
衝撃。衝撃のあまり、タメ口がでた。だって、俺、今まで憑いた霊って、みんな、だんまりだった。暗い感じで。何かを訴えかけてくるってこともなかったし。だから余計、なんで俺にくっついてきたのか分かんなかったんだ。どっかに行ってくれ、って言っても通じなかったし。
とっくに食べてしまったパウンドケーキのカラの皿を前にして、斜め後ろの霊に話しかけてみる。
「なんで俺にくっついてきたんだ?」
うんともすんとも返事がないどころか、ピクリとも動かない。やっぱ、ダメか。
「話さないよね」
「困ったよね。ユカリ君、こんなことたびたびあるようじゃ、毎日、食べ放題に行って、出禁になっちゃうよね」
「いや、そこまで頻繁には憑かれないですけど。実は、俺、出禁になってる店、ありますよ」
「ええーっ!!残したりしたの?」
「や、食べ過ぎです」
「食べ放題なのに?」
「限度があります、って言われて。まあそれは……そうだな、っていうか」
あんまりにも腹が減って、一人で入った時に、それはもう……そう言われても仕方がないくらいに食べた。すみませんでした、と謝ったけれども、困り顔の店員さんには出禁を言い渡されてしまった。だよな。早い時間に行ったし。その日の客の見込みで準備してるだろうし。反省して、それ以降は、ギリ限度かなってとこでやめるようにしてる。
「食費かかって、困っちゃうでしょ?どうにかできないかなあ?」
「お祓いとか?」
「ココ、知ってる?」
「知らない。そういえば、私、お祓いってしたことない。視えるだけで、憑かれるわけじゃないから」
「そうかあ。霊感あるって言っても、それぞれ違うんだね」
「みたい」
神社やお寺、お札やお守り、と二人がいろいろ案を出してくれる。うわ。メッチャありがたい。お祓いやお守りが効果があるかは分からないけど、こうして真剣に考えてくれてるっていうのが、純粋に嬉しい。
ぐるるるるる、という、うるさい腹の虫をシカトしているうちに、混んでいた店内は、少しずつ空いていった。
「ユカリ君は、お祓い行ったことないの?」
「ないです。お祓いに行くくらいなら、そのお金で食べようって思ってました」
「そうかあ。だよねえ。食べ盛りプラス霊の影響で空腹って、ダブルできついよね。私、弟いるんだけど、中学と高校のとき、ご飯、メッチャ食べてたよ。お母さん、しょっちゅう、ご飯炊いてたもん。ユカリ君は、弟よりもずっと食べるから、お家の人もユカリ君も、絶対、大変だったよね」
「うん。なんとかしてあげたいけど……、全然、いい案が浮かばないね」
「ですよね。そもそも、霊感ある人っていうのが、今、俺と谷津崎さんだけなわけですし」
「私も、霊、視えないもんねえ~。……あ」
「「あ??」」
「うわ。ちょっと、私、心当たりあるかも。今すぐは無理だけど、聞いて来てみる」
「え。ガチでシヅカさんの人脈って、どうなってるんですか?」
「いやいやいや。人脈っていうか。たまたま知ってるだけっていうか。そういう店とかじゃないから、ちゃんとしたアドバイスもらえるかも分からないし」
あはは、と明るく手をヒラヒラさせたシヅカさんが、しまった、という顔をして、谷津崎さんを見た。店?と呟いた後、なぜか怖い顔をした谷津崎さんが、無表情で言った。
「私もシヅカと一緒に行こうかな。いいよね?」
「……はい」
「あの、ほんとにいいんですか?」
「うん。近いうちに、行ってくるよ。そうしたら、連絡する」
「よろしくお願いします」
拝みたい気持ちを抑えて、頭だけを下げたところで気が付いた。あれ。そういえば、店の中、俺たちだけになってる。
話しに夢中になっている間に、いつの間にか店の中は、俺たちだけになっていた。店主が水を注ぎに来てくれたので、追加で注文をする。
店主が、追加注文を運んできてくれているときだった。黒い靄に包まれているほど暗く視えていた霊が、顔を上げた。
「え」
俺と谷津崎さんが霊を凝視したので、シヅカさんがキョロキョロする。
顔を上げた霊は、次第に黒い靄から解放されていった。そうして、誰かに頷くと、ふい、と消えてしまった。
シヅカさんに霊がいなくなったことを告げる谷津崎さんの声に重なるように、一気に空腹が消えて、その代わりに、腹が、もう食えません、と言い出した。
追加注文のホットケーキはシヅカさんが引き取ってくれたので、食べかけていたプリンアラモードは自分で食べた。
はち切れそうな腹を抱えつつ帰り道を歩く。ほんとにほんとに、今日は、よく眠れそうだった。腹は苦しいけど。
~ 谷津崎 ココ ~
まさか、って思った。だけど、その想像は当たってた。
カウンターに二人で並んで座る。シヅカが注文をする声が、なんだか別の世界みたいに、上滑りして聞こえる。
気が付くと、目の前に瓶ビールがあった。シヅカがグラスにビールを注いで、窺うように私を覗き込む。
「飲も?」
ぎこちなくビールグラスを持ち上げる。乾杯、っていうシヅカの明るい声が、私の心に場違いな響きと一緒に沈んだ。持ち上げたグラスを、そのままカウンターに戻す。
「私のせい?」
固まったままの私に、シヅカはどう言おうか悩んでる。視線が上に行ったり、横に行ったり。ふう、と息が吐かれて、シヅカの両手が肩の辺りまで上がった。
「違うよ。実は私、ココと来る前に、一人でこの店の前まで来たことあったんだよ。お香の噂、ネットで見てさ。興味本位でね。そのときは、入らなかったけど」
「知ってたってこと?」
「そういうこと。だから、どっちみち、私は同じことをした。ココのせいじゃない。それに、ココは知らなかったんでしょ?」
「……知らなかった。そんな噂があるなんて」
「そういうこと」
キッパリと言われたけれども、胸のわだかまりは、はいそうですか、なんてすぐには消えない。
まさかまさか。シヅカがお香を買った店が、この居酒屋だったなんて。
いつもと同じように、愛嬌のある笑顔でカウンターに立つ店主と、物静かに接客をしている女将さん。想像もしてなかった。
気持ちがグチャグチャになる。この店は、中田さんとの思い出の場所で、シヅカともよく来てて。お酒もオツマミも大好きで。けれども、シヅカの寿命の半分を持って行ったお香は、ここで売っていたんだ。
気持ちの整理がつかない。湿ったグチャグチャした感情が、ドロドロと頭の中をかき回す。私が。私のせいで。シヅカが。それに。もしかしたら、安らかに眠っていた中田さんまでもが、無理やり駆り出されることになったんだろうか。私を、救う為に?
どん、と重たい何かに、胸を衝かれたようだった。助けてもらって嬉しい、という感情よりも、取り返しのつかないことになってしまったんだ、という感情の方が、ずっとずっと、強い。
シヅカと中田さんに、取り戻してもらった人生。私はそれほどの価値がある存在なんだろうか。そして、二人に対して胸を張れるほどの人生を送れるだろうか。
「ココ」
肩を揺すられて、顔を横に向ける。シヅカが瓶ビールを握って、ニッと笑った。
「飲も?私、次は日本酒がいいなあ」
「…………」
笑顔のまま、シヅカが私の返事を待つ。視線を合わせていられなくて、手元の箸に落とした。
「ごめん、シヅカ」
下げた視線の先に、瓶ビールが置かれた。優しい手が、背中に置かれた。
「謝ってほしくない」
「どうして」
「ココ。私は自分で決めたんだよ。恨んでないし、後悔もない」
「全然?」
「全然」
「どうして」
「自分で決めたことだし、当たり前だよ。後悔してる時間よりも、笑ってる時間が多い方がいいよ。残りの人生がどれくらいかなんて、ほんとは誰にも分からないんだよ」
中田さんのことが頭をよぎった。そうだ。彼も、若くして逝ってしまった。私の寿命だって、いつまでなのかなんて、誰にも分からない。自分自身でさえ。
「ココ。恨んだり後悔するよりも、楽しく過ごそ。大丈夫だって!」
そうだ。シヅカがここまで言ってくれてるんだ。その気持ちに答えるのが、唯一、私ができることだ。中田さんにも。優しく抱き留めてくれた彼はきっと、私に恨み言なんて言わない。
ぎゅ、と両手を握りしめた後に、ビールのグラスに手を伸ばす。ぐい、と一息に飲む。ぬるくなったビールが喉を滑り落ちていく。ぐぐ、と下っ腹に力を入れる。声が震えないように。
「ビールって、私、ぬるくなっても飲めるなあ」
「私も。さっ。他のお客さんがいなくなるまで、飲もう!」
「今日は奮発しちゃおうかな。金目の頭の煮付けなんてどう?」
「どうもなにも、イヤなわけ、ないじゃん~!」
「いろんなお酒、二合ずつでいい?」
「いいね!途中で焼酎も飲みたい!」
「うん。いいね」
「出汁巻き玉子、頼んでいい?」
「うわあ。いいね。ここって、焼き立て出してくれるしね」
「決まりだね。すみませーん!」
女将さんに注文するシヅカの隣で、お通しの卯の花を食べる。ユカリ君、いい対処法があるといいな。寝込むのも大変だけど、ずっとお腹空いてるのも、辛いよね。
女将さんが持って来てくれた日本酒を前に、「飲むぞお~」と気合を入れているシヅカは、ユカリ君のことはどう思ってるんだろう。
……どうもうこうもないか。弟よりも年下だって言ってたし。学生だし。ユカリ君がシヅカの人脈に驚いてたけど、実際、シヅカの交友関係は広い。付き合いが長いから知っていたつもりだったけど、実際は、私が思っていたよりも、ずっと広いことが分かった。一緒に暮らすようになって分かったことだ。
「あれ。この人、五年ぶりに連絡きたなあ、来週、ご飯行ってくる」、とかって、サラッと言うんだ。何年振りでも、途切れたりしないみたい。大体、数年、連絡とらないと、疎遠になっちゃうと思うんだけど、シヅカはそれがない。すごいよなあ、って改めて思った。
「ねえ、ココ」
「どうしたの、難しい顔して」
「食べても食べてもお腹減るって、どういう感じなんだろうね?」
「苦しいんじゃない?食べても全然、お腹いっぱいにならないのって、キツイと思う」
「だよねえ。例えばなんだけど。期間限定で動画とかどうかな。上手くいったら、収益化できるよね」
「え。どういう感じで?」
「霊が憑いちゃったら、そのときだけ、延々と食べ続けるの。それを、生配信するの」
難しい顔をして何を言いだすかと思えば、とんでもないことを言い始めた。思わず、笑ってしまう。
「なんで笑うの~」
「だって。霊が憑かないと配信できないし、霊が憑いちゃったら、それがいなくなるまで食べ続けるんでしょ?」
「そうそう」
「霊がいないとき、どうやって生計立てるの」
「あ、そっか。ううん……あっ!!じゃあ、憑いてないときは、ホラースポット行くとか?!で、そこから生配信するの!ここにいます、って」
「ダメでしょ。公共の場で、そんな動画回してちゃ。それに、ホラースポットが私有地の可能性だってあるよ」
「あの子、原チャリ乗ってるから、現地まで自分で行けるよ。私有地は行かなきゃいいんだし」
「全部、原チャリで行くの?」
「そうそう!!実況入れながら。楽しそうじゃない?心霊旅行チャンネル!」
「や、大変そう~。なら、チャレンジ大食いは?お店に許可撮ったら、撮影できるだろうし」
「チャレンジ大食いって、なんだっけ?」
「ラーメン屋さんとかで、何分以内に食べたらタダ!みたいな企画、やってるお店あるんだよ」
「ああー!見たことあるかも!食べきった人の写真が壁に貼られてた」
「それそれ」
「いいかも?!」
「うん。ユカリ君が早食いできればだけど」
「できる。っていうか、あの子、霊が憑いてないときは食べる量もスピードも穏やかだけど、憑いてるときは、四倍速はあるね、食べるスピード」
「そんなに?」
「マジマジ」
話しているうちに楽しくなってきちゃって、笑っているところに金目の頭の煮付けがきた。焼いたネギが添えてある。
「うわあ。美味しそう!」
「ほんと。ねえ。ユカリ君、憑いてるときって、ご飯、美味しいと思って食べてるのかな?」
「どうだろうね。作業っぽくなっちゃうかもね」
「ますます、どうにかしてあげたいけどなあ。いい案だと思ったんだよね。大食い生配信。収益化できたら、食費にもなるじゃん?まだ学生だから、時間の融通利くし」
「長期休みだけだよ、融通利くの。授業とかバイトとか、あるでしょ」
「あ、そっか。うーん。一応、提案だけしてみようかなあ。大食いチャレンジも。大食いチャレンジだったら、時間の縛りはないよね。制限時間だけだもん、あるの。お腹がいっぱいになるかは分かんないけど」
「しよっか。でも、怒らないかな?ふざけないでって」
「そしたら、謝る。結構、真面目に考えたんだよ、私」
「だね」
その後も、ユカリ君が霊に憑かれたときはどんな対処法があるかを考えつつ、楽しく時間は過ぎて行った。結局、大食い生配信とチャレンジがいいね、ってことに話が落ち着いたのは、閉店間際で、そして、ちょうど、お客さんは私たちだけになったのだった。
~ 宇ノ沢 シヅカ ~
ユカリ君とオールドで話してたら、一般人じゃない人と面識があったことを思い出しちゃった。亡くなった人に会えるお香を売っている人は、一般人じゃない。本物だったし、アレ。金銭は、一切、とられなかったし。どこで買ったかは、ココには内緒にしておきたかったんだけど。中田さんとの、思い出の場所だったから。バレちゃった。口、滑っちゃったなあ。しまった、と思ったけど、バレちゃったものは仕方ない。
前回は一人だったから、一度、店を出て、時間を潰して戻ってきたけど、今日は二人だから、他のお客さんがいなくなるまで、飲んだ。ユカリ君の、霊への対処法について相談しつつ。霊についての知識もなにもない二人だし、私なんて霊感もないわけだから、生産的な話し合いじゃなかったかもだけど。まあ、それはそれとして。
ラストオーダーも終わり、女将さんが温かいお茶を出してくれたので、ゆっくりと飲む。カウンターにいる大将に、そっと声をかける。
「あの、すみません」
「はい」
「以前、私、ここでお香を買ったんです」
「はい。覚えてますよ」
「それで、ちょっと相談があって」
「はい。なんでしょう」
「あの、霊が憑いたときの対処法って、なにかありますか?」
「うん?」
大将が驚いた顔をした。あれ、と首を傾げる。
「お香の関係?」
「いえいえ。違います。別件です」
へえ、と、目をシパシパさせた後に、腕組みをする。
「霊が憑いた、ね。お祓いやお守り、効果あると思うよ」
「そうなんですね。どこの神社やお寺がおススメって、ありますか?」
「うーん。相性だから、本人次第かなあ。ただ、人がたくさん参拝するところは、パワーがあるよ」
「パワースポットってことですか?」
「そうだね。でも、祓えるかどうかは別だよ」
「絶対祓える方法、ありますか?」
「申し訳ないけど、俺は知らないな」
立て続けに質問をしたけれど、大将はテンポよく答えてくれた。
「そうですか」
「憑かれた子、どうなるのか聞いてもいいかい?」
「あ、はい。霊がいなくなるまで、お腹が空くんですって」
「いなくなるまで?いなくなるの?」
「はい」
「その子、お腹が空くだけ?」
「そうです」
んん、と咳払いのような音を出して、大将は眉間に皺を寄せる。
「直接会ったわけじゃないから断言できないけど、その子に憑いた霊を祓うのは、難しいかもしれないね」
「ええー……。そんな。どうしてですか?」
「その子が祓ってるからね。多分。祓ってる、っていうと語弊があるかなあ」
「え。どういうことですか?」
「いなくなるって言ってたね?それは、その霊が救われるチャンスを得たんだ。それは、彼が癒してるってこと。だから、ちょっと、お祓いするのは難しいかもしれない」
なんか難しい。大将の言葉を自分の中でかみ砕いていると、ココが口を開いた。
「無意識に霊を癒していて、そこにエネルギーを持っていかれるから、お腹が空くってことですか?」
「おそらくね。その子、痩せ気味じゃない?たくさん食べる割には」
「そうです。どうしてその状態だと、お祓いできないんですか?」
「ええと。お祓いっていうのは、強制的に祓うのと、温和に祓うのとあってね。その子の場合は、霊は憑いた時点で癒され始めてるんだ」
「はい」
「すでに、その子が祓い始めてるみたいなもんから、二重にお祓いするのは難しいってこと」
なるほど。横入りはできないってことかな。
「そうですか。私、霊感があるんです。憑かれたことはないけど、視たときは、体調を崩します。なのに、その子の側だと、霊がいても平気です。それは、どうしてですか?」
「その子が癒し始めてるから、周囲に悪影響が出なくなってるんじゃないかな」
ことり、と小さな音がした。女将さんがお茶のおかわりを持って来てくれていた。ありがたく、ちょうだいする。
「そんなこと、できるんですね」
「推測だよ。俺は会ってないからね。お嬢さんたちは、会ってるんだろ?」
「はい」
「なら、自分の目を信じることだよ。その子の為に、今日は来たのかい?」
「なんとかできないかなって思って。……できなかったですね」
「そうかな。その子、自分がどうしてお腹空いてるか、分からないんだろ?俺が言ったこと、教えて上げたらいい。多分だけど、って。それだけでも、心が軽くなるんじゃないかい?」
女将さんが出してくれたのは、玄米茶だった。香ばしい香りと味が、じんわりと体にしみる。大将が、羊羹を一口に切り分けて、小皿にだしてくれた。
「すぐ、連絡してみます」
「それがいいね」
「あの。大将と女将さんは、ほんとうは、祓い屋さんなんですか?」
ココが思い詰めた表情で聞く。納得してなかったか。私が、この店でお香を買ったこと。ココのことだから、大将たちに詰め寄ったりはしないだろうけど。少しでも、なにかの情報が欲しいのかもしれない。自分を納得させるための。
「ただの居酒屋のオヤジだよ。その証拠に、なんの力もないよ」
「どうして、お香を置いてるんですか?」
「どうしてだろうね。それは俺にもハッキリとは分からないよ。頼まれて置いてるだけなんだ」
「……そうですか」
そう言われてしまえば、それ以上聞くことはできない。サラリと話す大将が、意図的に煙に巻いたのか、それとも、事実なのか。それは、目の前で聞いていても判断できなかった。
「ココ、確かに、なんでお腹空くのかが分かっただけでも、ユカリ君、楽になると思うし。聞いてよかったよ」
「うん。そうだね」
「大将、女将さん、教えてくれて、ありがとうございました。お会計、お願いします」
「またお越しくださいね」
店を出ようと背を向けたら、女将さんの静かな声が追いかけてきた。
ちょっと不思議だ。どうして今日は、すんなりいろんな質問に答えてくれたんだろう。最初に興味半分でお香のことを聞いたときは、ハッキリとした答えはくれなかったのに。
聞いたからと言って答えをくれる大将じゃない。今日に限って、どうしてだろう。
不思議には思ったものの、まあいいか、と流す。お香のことも、今日のことも、面白半分に口外するつもりはないしね。
~ 左田 ユカリ ~
「霊を、癒す?」
誰が?俺が?
明日提出期限のレポートを作成中に、シヅカさんから連絡が入った。内容は、思いもよらないことだった。
対処法は分かんないけど、しかも、多分なんだけど、という、長い前置きの後に続いていた内容は、椅子から転げ落ちそうになったくらい、ビックリした。
「目え覚めたわ。マジか」
両親も寝静まった深夜の独り言に反応する人は誰もいない。でも、声に出さずにいられなかった。
ちょっと待て。ってことは、俺、除霊してたってこと?いや。そんなわけあるか?
椅子に座り直す。動揺しつつも、開いたパソコンが視界に入ると、ちょっと正気に戻った。今、何時だろう。……深夜一時。後は手直しだけだけど、一回寝て起きてからにしよう、とは思えない。少しでも寝坊したら、アウトだからだ。だからといって、このまま再開、って気分でもない。
仕方ない。コーヒーでも淹れよう。
階段を降りて、リビングダイニングへ向かう。姉ちゃんが家にいた頃に使っていた、やたらデカいマグカップに、牛乳を注ぐ。インスタントコーヒーをザラザラと入れ、電子レンジでチンする。
マグカップが橙色の光に照らされて温められているのをぼんやりと眺めつつ、シンクに寄り掛かって腕を組む。
除霊、とも違うんだろうか。癒してる、ってことは。除霊、と頭をよぎった時に、過去に読んできた漫画や映画のシーンが頭に浮かんだ。術や札を使った、バトル的な画。苦しみつつも消えていく霊。ありがとう、と成仏する霊。いや。全然、違くね?俺、ただ腹減って食ってるだけだけど。遠くねえ?ああいう、お祓いできる人たちと。
ピー、ピー、と電子レンジに呼ばれて、マグカップを持って二階へと上がる。歩きながら、即席カフェオレを一口飲む。あ。砂糖入れ忘れた。まあいいや。戻るの、めんどくさいし。
椅子に座って、気を取り直して、さ、レポート、とパソコンに向き合ったら、スマホがまた、音を立てた。
確認したら、シヅカさんだった。その内容は、今度はあまりにも彼女らしくって、笑ってしまった。「ところで、大食い動画生配信なんてどう?収益化すれば、食費にもなるよ!ラーメン屋の大食いチャレンジとか!」だって。
それもいいかもなあ、なんて思いつつ、レポートの仕上げに取りかかった。気分は軽かった。
霊は俺の幻覚じゃない。霊に憑かれたときに腹が減るのは、霊を癒しているからだ。例え、対処法がなくっても、それが分かっただけでも、俺にとっては、とんでもなく大きな事だった。
上手く言えないけど、自分がハッキリとした輪郭を持てたような気がした。
~ 鵜野 サヨコ ~
「パンって、どうしてこんなに美味しいんだろうねえ」
「何言ってんだ、サヨバア」
「こんなに美味しいんなら、もっと早く、オシャレなパン屋に入ってみればよかったよ。石伊ちゃんに感謝しなくちゃね」
「いえいえ。最近は、私、サヨコさんにパンをごちそうになってばっかりで。申し訳ないです」
「な~に言ってんだい。あたしに付き合ってもらってるんじゃないか」
「そうだぞ、石伊。サヨバア一人だと、こんなにたくさん食えねえだろ」
「そうだよ。しかも、自慢の庭で!素敵なティーセットで、お茶やコーヒー飲みながら!」
「ペットボトルでお茶飲んでたもんな」
「ありがとね、石伊ちゃん」
「いえいえ。とんでもないです」
「それに、ユミちゃんもだよ。一緒にお茶してくれるから、ペットボトルも卒業できたんだよねえ」
「ふうん」
それに、あたし、息子はいるけど娘はいないから。こうしてお茶してると、娘がいる気分で楽しいんだよね。直接言うと、変な感じになりそうで、こそっと心の中で付け足す。
ティーセットは自分で揃えたけど、コーヒーのセットは、石伊ちゃんがプレゼントしてくれた。石伊ちゃんに連れていってもらったカフェ巡りで、パンが美味しいとこがあってねえ。すっかり、パンのとりこになってしまった。今や、自分で、以前は入らなかったようなパン屋を発見しては、買って来て、三人でそのたびにお茶会だ。五人になることもあるけど。一口ずつに切ってだせば、みんなでつまめるしね。
それで、よくごちそうになってるからって、ある日突然、石伊ちゃんが、コーヒーセットをくれたんだよ。ペンギンみいたな形の、フィルターが一体型になってる、まるっとした。可愛らしいけど、黒を基調としてるから、シュッとしてる感じのコーヒーメーカー。それ以来、目覚めちゃってねえ。ティーセットも、あちこち歩いて、いいのを見つけたんだ。雑貨屋さんでね。石伊ちゃんとユミちゃんが、付き合ってくれてね。楽しいよ、あたしは。毎日が。
「石伊。遠慮すんな。たくさん食えよ」
「でも、サヨコさんが食べたくて買って来たのに」
「いいんだよ。あたしだって、たくさん食べてるよ。安心して、たくさん食べなよ」
「でも、ふ、太っちゃうから」
「動けばいいだろ。夜中に食うの、やめるとか」
「え。草岡さん、なんで私が夜中に食べてるの知ってんの」
「分かるっつーの」
ユミちゃんと石伊ちゃんは、最初はぎこちなさそうだったけど、今はだいぶ、打ちとけてる様子だ。ユミちゃんは言わずもがなだけど、石伊ちゃんも、どこか、寂しそうな雰囲気だったからねえ。最近知り合った、シヅカちゃんとココちゃんと、家でメイク大会なんかしたりして、賑やかに過ごしているうちに、ちょっとずつ、寂しそうな感じが消えてきた。それに、石伊ちゃんも、メイクに興味を示し始めてね。他人事だけど、あたしはなんだか、嬉しかったよ。
いくつになっても、興味があることが増えるのはいいことだ。あたしがそうだから、それは間違いない。
「旅行、楽しかったねえ。みんながよかったら、また行きたいよ、あたし」
「友だちと行ってみればいいだろ」
「そうなんだよ!この前、思い切って、日帰りのバス旅行に行ってみたんだ。友だちと二人で。それがまた、楽しくってねえ。お昼はホテルのバイキングでね。そこでも、たくさんパンを食べたんだよ」
「写真はねえのかよ」
「あ、あるよ。滝の前で撮ったんだ」
「パンのだよ」
「え。ないよ。食べちゃったし」
「サヨバアはサヨバアだな」
あはは、とユミちゃんが声を上げて笑って、石伊ちゃんも楽しそうに笑った。どうして二人が笑ったかは分からなかったけど、あのユミちゃんがこうして笑い声をあげることが嬉しかった。荒んだ目をして酒臭かったあの頃じゃ、考えられないよ。
「おふくろー?」
家の中から声が聞こえてきた。なんだい、あの子、連絡もなしに帰ってくるなんて。あ。いつもか。
「はいよ~。庭だよ!」
「庭いじり好きだな、ほんとに。あれ。どうも」
「お邪魔してます」
「ユミちゃんと石伊ちゃんだよ」
緊張した面持ちで挨拶をした石伊ちゃんの隣で、ユミちゃんが無愛想に頭を下げた。ほんと、二人とも人見知りだよ。
「息子だよ。緊張しなくていいから。今日はどうしたんだい」
「親父に手を合わせに来たんだよ」
「そうかい。手を合わせたら、一緒にお茶でも飲むかい?」
「……遠距離の運転で疲れたから、寝る」
「分かったよ。無愛想な息子でね。ごめんね、二人とも」
会話が終わるなり、家の中に引っ込んでいった息子は、旦那に似たのか、口数が少なくて無愛想だ。いい子なんだけどねえ。一人っ子だし、あたししか身近な女の人がいなかったから、慣れないのかね。男子校だったし。そういえば、あの子、彼女の話をしたことないねえ。独身だし。……いつまで独身なんだろ。元気なら別にいいけど、あたしがいなくなった後、一人になっちまうね。そこそこ、いい年だしね。あたしも、あの子も。
「サヨバア。聞いてるか?」
「えっ。なんだい?」
「ココとシヅカは、今日は来ねえのか?」
「遅れてくる予定だよ。今度はケーキを出すから、お腹、ちょっと空けといておくれ」
「ケーキもあんのかよ。石伊ならともかく、アタシはもう、腹いっぱいだっつーの」
「草岡さん、なんで私の腹具合い分かるの」
「分かるだろ。これだけ一緒に飯食ったりしてたら」
「まあまあ。食べきれなかったら、持って帰ったらいいさ。ああ、そういえば、息子が帰ってきたから、家だと気を使うかね?」
「関係ねーよ。一緒にお茶飲んでるわけじゃないし。それに、あの二人、サヨバアの息子に会ったことあっただろ」
「む。そういえば、そうだったね」
そういえば、具合いを悪くしたココちゃんを連れてきたときも、息子は帰ってきたんだった。そこでちょうどよく、ピンポーン、とインターホンが鳴った。
「こんにちはあ」
「はいはい~。庭だよ~」
インターホン越しに声をかけ、お茶とケーキの準備をするついでに、息子の様子を見に行く。息子は布団も敷かずに、線香をあげた後に、仏壇の前で大の字になって寝ていた。
「タケル。ベッドで寝な」
声をかけるけど、寝息は途切れない。仏壇を見る。アンタと仲がよかったからねえ。安心するのかもしれないね。
タオルケットを出して腹にかけてやり、庭に戻ると、四人は、次に行くカフェの話しをしてた。
うん。幸せっていうのは、こういうことかもしれないね。
~ 渕田 サナエ ~
「はい、いってらっしゃい」
いってきます、と後ろを振り向きもせずに友だちと走って行った息子の背中に手を振る。ランドセルを背負って、跳ねるように駆け出す姿は微笑ましくもあり、ヤンチャが過ぎて、心配なところもある。ちょっと過保護なくらいに育ててしまった反動か、息子は元気過ぎるところがあった。一昔前なら、イタズラ坊主、という言葉ですまされたかもしれないけれども、今はそういう時代でもない。イタズラやヤンチャが過ぎてケガをしたりしないかと、ハラハラする。
二十代前半で結婚したけれども、なかなか子どもには恵まれなかった。毎月毎月、落胆しながら過ごした数年を経て、不妊治療をしようか、と夫と相談していた矢先に、息子を授かった。
嬉しくて嬉しくて、大切に大切に育てた。二人目も欲しいけど、授からないまま、息子のケイタは小学生になった。夫のカズトは、子煩悩で、仕事が忙しくても、休みの日はケイタと一緒に遊んだり宿題をみてくれたりする。去年からは休みの日に、みんなでデイキャンプに行くようになった。バーベキューもするんだけど、息子にとって、デイキャンプのごちそうは、インスタントラーメンだった。普段、食卓に上がらないからだろう。たまのことだし、と三人でインスタントラーメンを食べる。そんな何気ないことが、楽しい。
けど、日常は大変だ。毎日があっという間に過ぎて行く。夫は仕事、私はパート。ケイタは小学校。そろそろ習い事も考えている。そうしたら、ますます忙しくなる。中学受験もどうするか。あちこち、旅行にも連れて行ってやりたい。考えることも、やることも、やりたいことも、いっぱいだ。
けれど、忙しい、慌ただしい、そんな毎日はずっとは続かない。まだ少し先だけれども、そう遠くない未来、あの小さな背中は独り立ちすることは決まっている。
その日が来ることを思い描いては、今から涙がにじんでしまうのだ。
「ねえ、ママ、聞いてる?」
「はいはい。聞いてるよ」
晩ご飯のオムライスのケチャップを口元につけたケイタが、スプーンを振り回す。多少、お行儀が悪くても家の中だし、偏食気味のケイタがご飯を完食してくれる方が大事だ、と目をつむる。食事中に注意すると、すぐにヘソを曲げてしまうのだ。そうなるともう、ご飯は食べない。
口元のケチャップをティッシュで拭ってあげる。聞いてるよ、と言いつつも、実は聞き逃していた。ちょうど、パート先で仲がいいグループのメッセージが盛り上がっているところだったのだ。
ヤダわ。あの噂、本当だったんだわ。店長と椙山さんが不倫してるって。あらー。店の事務所で。ヤダー。明日、どういう顔して会おうかしら。確か、椙山さんとシフト、被ってたわよね。
「それでね、のんちゃんが行ってみない?って言うんだ。僕、行って来ようかなあ?」
「危ないことはしないのよ」
「分かってるって!ママ、ほんと、うるさい」
「はいはい、さあ、デザートにプリンあるよ」
「えっ!プリン!」
しまった。食べ終わる前にプリンがあることを口にしてしまったせいで、ケイタはオムライスを食べる気はすっかりなくしてしまった。まだ、三分の一も残ってるのに。
「ケイタ。ご飯食べてからだよ」
「やだやだやだ!プリンプリンプリンー!!」
握りしめたスプーンをテーブルにガンガンぶつけて、足をバタバタさせ始める。ああダメだ。こうなってしまうと、ケイタはどうにもならない。
「分かった、分かったから。はい」
「やったあ~!」
プリンをお皿に出して渡すと、早速食べ始めた。スプーンをやたらと突き刺すので、口に運ぶよりも先に、プリンが皿の上で崩れていく。
「ほらほら、こぼしてる」
「いいの!うるさいっ」
拭いてあげようと手を伸ばしたら、小さい手で振り払われた。そのまま皿に口をつけて、ズルズルとプリンを啜り始める。プリンがあちこちにこぼれて、ケイタの顔も手も服もビシャビシャになる。ああ、とは思うけど、本人が幸せそうなので、後で片づければいいかと座り直した。
それで?どうなってる?今。
スマホの画面を確認すると、会話はドンドン進んでいた。慌てて、目を通したところまでスクロールして戻す。
ごちそうさま、というケイタの声に我に返って、服を着替えさせて、顔と手をキレイにする。
少し我が強いところはあるけど、物怖じしないし、元気だし、優しいところもある。なにも文句はない。ニコニコと機嫌よく動画を見始めた姿を確認して、スマホの会話に集中した。
「どうして」
ケイタが熱を出したのは、次の日の夜だった。学校から帰って来て、近所の、のんちゃんと遊んでくると言って出かけたときは、元気いっぱいだったのに。帰ってきたら、なんだか元気がなくって。のんちゃんと喧嘩したの?と聞くと、ううん、と首を振ったから、どうして元気がないのかな、って心配はしてたんだけど。
晩ご飯もあんまり食べないから、今日はもう寝ようね、とお風呂に入って寝かせようとしたら、ちょっとしか食べなかったご飯を吐いた。
え。と思って熱を測った。高熱だった。風邪を引いている気配もなかったのに。どうしてだろう。夫に連絡を取る。夜間に小学生を診てくれる病院へは、車じゃないと行けない。なるべく早く帰って来て、とメッセージを送ると、分かった、とすぐに返事が来てホッとする。
必要な物を揃える。スマホ、財布、保険証、お薬手帳、アレルギーや病歴のメモ。あとは。あとは。
布団に寝かせているケイタは、苦しそうにしている。お願い。カズト、早く帰って来て。
一分が一時間に感じる中で、そうだ、と思いついて病院に電話を入れる。多分、これでやれることはやったはず。
祈るようにカズトを待ち、連れて行った病院では、解熱剤を渡された。「下がらないようでしたら、また明日、改めて受診してください」という医師の言葉が、この上なく無情に感じた。
「深夜に何かあったら、どうしてくれるんですか?」
「お母さん、落ち着いてください。流行病ではないですし、詳しい検査はしていませんが、大きな病気というわけでもないと思われます。今は様子見になります」
「なら、入院させてください!私が付き添いますから」
「入院するほどではないと思われます。平熱よりも少し高い程度の熱なので」
「熱に弱いんです、うちの子は。こんなにグッタリしているじゃないですか!」
「熱があるんですから、元気がないのは当たり前です」
「当たり前?!どういうことですか?」
サナエ、とカズトに肩を抱かれた。
「先生を困らせてはダメだ。きちんと処置してくださったんだ。帰ろう」
「でも!すぐに熱が下がる方法はないんですか」
「ないです。解熱剤で様子をみてください。なにかありましたら、すぐに連絡をください」
「遠いのよ、家からここの病院!」
「そうですか」
「サナエ。帰るぞ。先生、ありがとうございました」
「お大事にしてください」
ケイタをおんぶしたカズトが、私の手を引く。ケイタを少しでも早く横にならせてあげたくて、私も立ち上がった。
無言で診察室から出るときにも、看護師が、お大事にしてくださいね、と声をかけてきた。憎々しい思いで、医師と看護師を睨みつけて、診察室から出た。
次の日になっても、ケイタの熱は下がらなかった。小学校にお休みの連絡を入れて、そうだ、と思いついて、のんちゃんの家に行ってみる。
ピンポンを押すと、のんちゃんママはすぐに出てきてくれた。
「ケイちゃんママ」
「おはよう、のんちゃんママ。あのね。ウチのケイタ、昨日の夜から熱が下がらなくって。のんちゃんは、元気?」
「ケイちゃんも?うちのノゾミも、昨日の夜から熱が出ちゃって。どうしたのかしら」
「昨日、一緒に遊んでたわよね?水遊びでもしたのかしら」
「ううん。服、濡れてなかったし」
「そうよね」
「今日は仕事を休んだし、今からかかりつけの小児科に行ってくるわ」
「私、昨夜、救急にかかったの。解熱剤だけ渡されたわ」
「え。そんなに高熱なの?」
「うん。三十七度五分」
「そ、そっか。それにしても、二人揃って熱を出すなんて。熱だけ?」
「そうなの。でも、下がらないのよ」
「ノゾミも。昨日、なにしてきたのか聞いてみるわ」
「あ。無理させなくていいよ」
「平気よ。熱って言っても、本人は割とケロッとしてて。学校休むの?ツマンナイな、って言ってるくらいだもん。ちょっと待っててね」
「ごめんね」
「ママー。お医者さん行ったら学校行ってもいい?」
「いいわけないでしょっ」
「あれっ。ケイママ。どうしたの?」
玄関先で話し込んでいたら、のんちゃんがパジャマのままやってきた。ちょっと赤い顔をしてるけど、ケイタみたいにグッタリはしてない。
「おはよう、のんちゃん。ケイタも、今日、熱が出ちゃって。昨日、なんの遊びしてたか、教えてもらえる?」
「ん?……ええと…………」
さっきまで元気にしていたのに、急にもじもじしつつ、視線をあちこちにやり始める。こういう仕草を子どもがするときは、決まって、大人に怒られそうなことをしてるときだ。
「ノゾミ。正直に言ったら、ママ、今なら許してあげるよ」
感づいたのんちゃんママが、怖い顔をしてしゃがむ。肩に手を置いて、視線を合わせる。
「ほんと?絶対、怒らない?」
「うん」
ぱあっと明るい顔になったのんちゃんが、笑顔で白状し始めた。
「あのね、アッチの通りにある、幽霊屋敷に、ケイちゃんと肝試しに行って来たの!」
「は?肝試し?」
「うん!そう。庭から家の中を覗いてみたんだけど、別に幽霊なんて出なかったよ!今日、みんなに学校で教えてあげる約束なんだよ」
無言で立ち上がったのんちゃんママが、私に振り向いた。無理やり作った笑顔が引きつっている。
「ケイちゃんママ。後で連絡してもいい?」
「あ、もちろん、もちろん」
「じゃあ、また後で」
玄関が閉まる。もうちょっと詳しく聞きたかった。でも、のんちゃんも、熱があるし、無理はさせられないね、と後ろ髪を引かれる思いで歩き出すと、のんちゃんママの見事な雷が落ちた声が聞こえた。
「あんたはっ!!人の家に勝手に入っちゃダメでしょ!なんてことしてんの!!」
「うわーん!!正直に言ったら許してくれるって言ったのにいいい!ママの嘘つき!!」
「許せることと、許せないことがあるでしょ!!やっちゃいけないことは、やったらダメなの!!パパにも、怒ってもらいますからね!」
「ええー!!やああだああああ!!」
うわああん、という泣き声が響いてきた。熱があるのにあんなに騒いで大丈夫かしら。熱、上がらないといいけど。
それにしても、幽霊屋敷、ねえ。あの家、今、そんな噂があるのね。知らなかったわ。前はおばさんというか、おばあさんが一人暮らししてたわよね。あのおばあさん、ちょっと難しい人だったわ。噂話が大好きで。それに、余計なこと言う人だったのよね。人が嫌だなって思うようなことをシツコく言ったりして。注意されると、ほんとのことじゃん、言って何が悪いのって、言う人だったのよ。そういう態度の人だったから、本人は分かってなかったけど、ちょっと遠巻きにされてたのよね。
いつだったかしら、亡くなったの。半年くらい前だったはず。たった半年で、幽霊屋敷なんて言われちゃうのね。ただの空き家なのに。子どもって、おもしろいように噂するわね。
それにしても、結局、熱の原因は分からなかった。幽霊が出ない幽霊屋敷が原因ってことはないだろうし。そもそも、幽霊なんているがわけないし。
思ったよりも時間がかかったので、小走りで家に戻った。ケイタの熱は、やっぱりまだ下がっていなかった。
病院に行こう。
三日経っても、ケイタとのんちゃんの熱は下がらなかった。医者に行っても、熱の原因は分からない。焦る気持ちが、ザワザワと自分を追い立てるようだった。最初はケロリとしていたのんちゃんも、さすがに元気がなくなったようで、おとなしく寝てるようになったらしい。
今日は、のんちゃんママが私のところへと訪ねてきた。空き家になっている幽霊屋敷の持ち主に謝罪をしないといけない、と話す。
「息子さんがいるのよ。お隣りさんが、連絡取れるって。一緒に謝りに行かない?」
「のんちゃんママ、待って。まずは、ケイタとのんちゃんの熱が下がらないと」
「それもそうなんだけど。謝罪は早い方がいいじゃない?」
「待って、待って。私、ちゃんとケイタから、話し、聞いてないの。教えてもらってもいい?あそこ、おばあさんが一人で住んでたわよね?」
お互いに熱が出ている子どもがいる。玄関での立ち話だ。
「そう。半年前に亡くなって、四十九日が過ぎた頃からかしら。唸り声が聞こえる、ってお隣りさんが言い出してね」
「唸り声?近所の犬とかじゃなくて?」
「違うらしいわ。昼間は生活音なんかで分からないらしいんだけど、夜になると聞こえてくるんですって。それで、窓から覗いてたら、誰もいないはずの窓辺に、ナニカが動いたのがみえたんだって」
「ナニカって、なに?」
「分からない。でも、それが幽霊なんじゃないかって噂になって、子どもたちの耳にも入ったのね。それで、ほんとうに幽霊はいるのかどうか、覗きに行こうってなったらしいわ」
「うわあ」
思わず声がでると、のんちゃんママはちょっとだけ動きを止めた。
「それでね。ノゾミが言うには、前の日に、ケイちゃんママに言って、いいよって言われたって」
「ええっ?!そんな話、聞いてないわよ」
「ケイちゃんが、晩ご飯の時にお話ししたみたい。申し訳ないけど、ケイちゃんと話してもらってもいい?」
「え?今?ケイタ、熱が下がってないんだけど」
「ノゾミもよ。でも、ノゾミが嘘を吐いてるようには見えないの。お願い」
「……分かった」
お願い、とは言うものの、のんちゃんママは有無を言わせない口調だった。玄関で待ってもらって、渋々、ケイタの部屋に行く。
「ケイタ、ごめんね。ママ、聞きたいことがあるんだけど」
「…………」
熱が下がらなくて、機嫌が悪い。返事がないケイタのベッドの横にかがみ、頭を撫でる。
「幽霊屋敷に行く前に、ママに話をしたって、ほんとう?」
「……………したよ。オムライス食べてるとき」
「そうだったっけ?」
「うん。のんちゃんが行ってみようって言うから、僕、行ってみようかなって言った」
「…………そう?」
「うん。そしたら、ママ、危ないことはしないのよって言ったよ。だから、庭から家の中をのぞくだけにしたんだ」
話すだけ話して、布団に潜り込んだ。これ以上は話したくないという意思表示だろう。
オムライス食べてるとき。そういえば、最近、晩ご飯にオムライス、食べたわね。プリンをデザートに食べた日よね。そうだったかしら。あの日は、ええと。あっ。
ハッとして、スマホをエプロンのポケットから取り出す。パート先のグループの画面を開いてスクロールする。そうだ。ちょうどあのとき、店長と椙山さんの不倫の話で盛り上がってて。……私、聞き逃しちゃったんだわ……。どうしよう……。
いくらケイタが可愛くても、人の家に入り込むことがいいことだとは言えない。庭とはいえ。それを了承したとすると、近所での私の評判が。
少しだけ迷う。のんちゃんママを待たせ過ぎてもいけない。立ち上がって、ケイタの部屋を出る。仕方ないよね。近所で評判が悪くなったら、住みづらくなるし。
「待たせて、ごめんね。聞いてみたんだけど、ケイタ、そんなこと言ってないって」
「え。そうなの?ノゾミったら、もう。ごめんなさいね、わざわざ。もう一度、話してみるわ」
「うん。そうし……」
「ママのウソつきっ!!」
は、と息が一瞬だけ詰まった。激しい声の糾弾に、おそるおそる振り向くと、布団にもぐったはずのケイタが立っていた。
「僕、ちゃんと言ったよ!!今も、そう言ったでしょ!ママ、スマホいじってたから、聞いてなかったんでしょ、あのとき!!それで、なんで、ウソつくんだよ!!ママって、いっつもそうだ!!ウソつき!!だいっきらいだ!!」
「ケイタ!!待って!!」
興奮して、顔を真っ赤にし、涙をにじませながら叫んだ後、ケイタは廊下を走って行った。階段を上がる足音が聞こえた後、バタン、と部屋のドアを閉める音が聞こえた。
気まずい空気が玄関先に充満する。なにか言わなくっちゃ。
「あの、ええと。ち、違うの」
「……違くないわよね。ケイちゃん、ハッキリ言ってたもの」
「ケイタは、熱が上がっていて、それでっ」
「ケイちゃんママ。もういいわ。私、帰るね。ノゾミの事も心配だし、今日は仕事、休めないの。それじゃ」
「待って!違うの!」
玄関を出て行ったのんちゃんママの背中に追いすがると、顔だけ振り向いてくれた。
「なにが違うの。このままじゃ、ケイちゃんがかわいそうよ」
冷水を浴びせられた気分だった。のんちゃんママの声も視線も、冷たかった。
思い悩んでいる間に、更に数日が経ってしまった。パートを休むのも、そろそろ限界だった。それ以上に、ケイタの体も心配で、夜もロクに眠れなかった。家事も手につかなくて、家の中は荒れてきた。
「どうしよう。カズト。どうして、ケイタの熱、下がらないんだろう」
「検査はしたんだろう?」
「うん。異常はないって。でも、熱が下がらないのに、異常がないなんてこと、ある?」
「のんちゃんは、どうしてるんだ?」
「……分かんない」
「聞いてないのか?」
「うん。のんちゃんママ、仕事休めないみたいで。なかなか、会えなくって」
「電話は?」
「タイミングが悪いせいで、お互い、出られなくって」
「メッセージは送ったの?のんちゃんも、お医者さんに行くって言ってたんだろう?」
「うん。忙しいんだよ、きっと。のんちゃんママって、正社員だし」
カズトはそこで口をつぐんだ。じいっと私を黙って見つめる。なんだか嫌な予感がする。
「どうしたの?」
問いかけても、じいっと見るだけだ。
「ねえ、どうしたの?」
ケイタの熱も下がらないし、心身ともに疲れ切っていた。カズトの腕を掴んで揺さぶる。引きつった声が出た。
「昨日、のんちゃんママと一緒に、丸野さんの家へ謝罪に行って来たんだ。のんちゃんママから連絡が来てね」
ドキリ、と心臓が音を立てた後に、すーっと血の気が引いた。丸野さんというのは、幽霊屋敷のおばあさんの名字だった。
「え。ど、どうして」
「それは、君が一番、分かっているだろう?」
「……な、なんのことか」
「サナエ!」
滅多に出さないカズトの大声に、ビクリ、と体が反応する。そのまま固まった私の肩に、カズトが優しく手を置いた。
「サナエ。分かっているんだろう?お願いだから、自分の悪いところを受け止めてくれ。ケイタが悲しい思いをする。もちろん、僕も」
「……………ごめんなさい」
優しい手が頭を撫でてくれた。カズトがソファに座り、隣に座って、とジェスチャーした。鉛を飲み込んだみたいに重たい気持ちを抱えて、座る。
「のんちゃんママと相談して、丸野さんの隣の家の人に連絡を取ってもらったんだ」
「須々田さんよね」
「そう。そうしたら、須々田さん、自分も怖い思いをしたせいか、既にもう、丸野さんに、全部、話してしまっていてね」
「全部って……」
「丸野さんの家が幽霊屋敷って、近所で噂になってることとかね」
「……そうなんだ」
「うん。謝罪したら、物を壊されたわけでもないし、子どものしたことなので、って許してくれたよ。でも、もうしないでくださいね、って。熱が下がったら、ケイタにも話すよ」
「うん」
「それで、ケイタとのんちゃんが熱が下がらないことも話しちゃっててね、須々田さん」
「え。関係ないのに」
「おしゃべりが好きだから。ケイタたちが庭に侵入した日の夜から熱を出したって、もう伝わってたんだ」
「ああ……」
「そしたら、もしかしたら、幽霊屋敷って噂になってることと関係あるのかもしれないので、ツテをあたってみます、って」
「ツテ?関係あるの?だって、丸野さんの息子さん自身はどうなの?」
「家に入っても、全然、なんともないんだって。だから、申し訳ないし、いいですって言ったんだけど。一応、って形でね。連絡、もらえることになったんだ」
「丸野さんの息子さんがなんともないなら、ほんとに関係ないでしょ」
「そうだとは思うけど、念の為ね。幽霊の仕業かもしれないってことで」
「幽霊なんて、いないわよ」
「だと思うけどね。まあ、返事待ちだよ」
苦笑したカズトが立ち上がった。もう、深夜だった。疲れ切った顔をしている。
「ケイタの顔見てから、寝るよ」
「うん。おやすみ」
リビングを出ていくカズトに声だけかけた。いつの間にか俯いた顔は、上げられなかった。恥ずかしかった。
どこかで分かってた。私、めんどうなこととか、見ないようにしてた。いいわけして、都合のいい軽い嘘を吐いて、責任転嫁して。
ケイタの事もそう。ダメなことはダメと言い切らないといけないのに、元気だからいい、って、自分に言い聞かせて。
でも、めんどうなことに立ち向かうのは嫌だった。見ないフリして、それで済むならそうしたかった。でも、ダメだ、よね。カズトがあんなふうに言うのは、珍しい、し。
カズトの真剣な目が浮かぶ。ケイタの、ママのウソつき、だいっきらいだ、と叫ぶ幼い声。のんちゃんママの冷たい視線。
きちんと向き合わないといけないときが来たんだ。ケイタと、カズトの為にも。
そうは思っても、今まで嫌なことから逃げ回ってきた根性が邪魔をする。だって、でも、と自分に向き合わなくてもいい理由を考えていたら、思考はズレにズレていた。
そもそもなに、幽霊屋敷って。幽霊なんて、いるわけないじゃない。バッカバカしい。どっか、おかしいんじゃない、の……。あれ。
意識の底を、なにかがこすった。
「ああっ」
鋭い声が漏れた。記憶の底から、「私、霊感があるの」という、幼馴染みの声が蘇ってくる。
「うわー……」
げんなり、という気分がピッタリだった。なんかもう、イヤになってしまって立ち上がる。ケイタの様子を見て、今日は私も寝よう。無理だわ。
熱は下がっていなかったけど、すうすうと寝息を立てているケイタの頭を撫でて、ベッドの横に敷いた布団に入る。
「おやすみ、ケイタ」
今日はもう、何も考えたくなかった。




