その2
クローヴ・アインの持つ絶対能力は、目的地の座標さえはっきりと分かっていれば、あらゆる障害を無視してスタートとゴールを結び、〈物質域〉と〈竜巣域〉をも文字通り一瞬で行き来できる代物である。だから、クローヴにとって行き慣れた場所であるカオスの家など、それこそまばたきの合間に辿り着いてもおかしくない。にもかかわらず、カレンを連れたクローヴが到着したのは〈竜巣域〉ですらなかった。
「ここ、どこですか?」
明朝。人気がまったくなく、しかし何かまるで怨嗟のような気配を感じさせる場所。少し宙に浮かんだ状態のクローヴの背に跨ったままのカレンは戸惑っていた。そこここに寂びれた家屋がある。廃村。そこは。
「アンタの故郷だよ」
クローヴにそう告げられたカレンの心境は落ち着いていた。彼女も本当は、言われるまでもなく、何となく感じ取っていた。
「――どうして、ここへ?」
「今のアンタじゃあ、カオスを説き伏せることなんて到底出来ないと思ったからだよ。意気込みはあるようだが、覚悟が足りない。このままアイツの所へ行ったって、多分、何も出来ずに押し負ける」
「それは……」
悔しいかな。悲しいかな。きっとその通りだろうと、カレン自身も思っていたから、反論が出来ずに口を噤む。
「ワイズが彷徨している最中で、危険だとは思うけどね。しかしまあ、一度の活動期に同じ場所には二度現れないだろうし、ワタシは逃げ足というか逃げ羽だけは早いし。アンタの覚悟を強固にする方が優先すべきだと感じたのさ」
そう言いながら、クローヴはゆっくりと地上に降りた。
「だ、誰か人が来たら大変じゃないですか?」
「気配を感じたら一瞬で消えるから大丈夫さ。だから一応、背中には乗ったままでいておくれ。どうせ一人二人に見られたところで大した問題でもないけど。妖精なんてしょっちゅう目撃されているけど、一向に公然とはなっていないしね。意外とそんなもんさ」
「はあ」
抑揚のない応答。常識には滅法疎いカレンであるから、クローヴの言葉をそっくり信用する他ない。とは言え腑に落ちぬ気持ちも抱えながら、そわそわと辺りを見渡していると、クローヴが急に足を止めた。
――……人間か? いや、これは!
何者かの気配を感じ取ったクローヴは、首だけを曲げて背方を振り向いた。果たしてそこには一人の男が立っていた。
「気配は隠し切ったつもりだったんだがな。貴様ともなれば流石に気が付くか」
暢気な調子でそんなことを言いながら現れた男の名は。
「バットエッグ……驚いたね。報告に情報はあったが、まさかまだ律儀にここを守り続けているとは思わなかったよ」
「儂はウソつきだが、約束は破らない主義なんでな」
真祖バットエッグ。西暦以前より生きるそのヴァンパイアは、十七年前にゼファロと交わした約束通り、今もなお、太陽の化身が消えたこの地を夜の魔物たちから守り続けていた。
「あの屍使いの残した残滓が完全に消え去るまでには、まだもう少しかかりそうなんだ。というか、儂が居座っているせいで余計に時間がかかっているんだがな」
「アンタも立派な『夜留』だからねえ」
「ああ……ともかくまだここを離れるわけにはいかん。ところでその娘は」
ちらりと、カレンを見遣るバットエッグに、クローヴは告げる。
「ああ。アンタの気紛れで生きながらえた、あの時の娘だよ」
「やはりそうか」
気まずそうに一度目を伏せ、しかしそれではいかんと思い直したのか、バットエッグはすぐまた視線を戻した。だがどちらかと言えば、彼の方こそ、少女からの視線を強く感じていた。
――このヒトが……。
感慨深げな目で、カレンはバットエッグを見つめている。彼女にとって命の恩人には違いない相手。だが会ったのは赤ん坊の時一回きりのみで、キリたちもあえて会わそうとしなかった相手。
「あの、その節は、ありがとうございました」
「止してくれ。君が儂にかけていいのは罵倒の言葉だけだ」
「でもっ」
「止めておきな、カレン。感謝なんかしたって、コイツはますます惨めになるだけだよ」
「ん……」
「軽々しく洒落にならない悪戯をしたりするくせに、それが最悪に予想外な事態を引き起こすと本気で落ち込んで立ち直ることも出来ない。ちっさい男なんだよ」
「い、言い過ぎですよ」
「まったくだ。そこまで言うか。ありがとう、クローヴ」
「ええ?」
まったく筋の通っていない論理展開に戸惑っているカレンをよそに、ドラゴンとヴァンパイアの話は進む。
「ねえバットエッグ、この村に、吸血鬼たちが作ったアジータの墓があったはずなんだけど、今はもうないの? 前に同胞に捜させた時には見つからなかったんだけど」
「ふん、そりゃ見つからないはずだ。荒らされたり除けられたりしないよう、並大抵じゃない術式で隠してあるからな。もっとも、ワイズネルラの一件以来、呪われた村とされているここへ近づくような人間がそもそも滅多にいないが。ちなみに、アジータ以外の村人の亡骸も、儂がそこに埋め直しておいた」
「そいつは重畳。じゃあ、そこへ案内してくれないか?」
「なんだってさっきから貴様が偉そうなんだ。アイン・ドラゴンたちへの礼なら千年前にきっちり返し切ったはずだろう。こっちだ、従いてこい。……あくまでその娘のためだからな」
言って。
バットエッグは、クローヴの脇をすり抜けて、彼女の先を歩き始める。その背を追って、クローヴも歩みを再開した。だがほんの十数歩だけ歩き、墓など見る影もない場所で、突如バットエッグが立ち止まった。
「どうしたんだい?」
「あの小屋」
バットエッグは、一つの寂びれた小屋を指差しながら言う。
「あれが、君の生家だ」
「――っ」
突然の衝撃に、カレンは言葉を失った。自分の生まれ故郷。それが当時のまま残っているのなら、どこかに生家があるのも当然なはずなのに、どうしてか、彼女はそこまで頭が回っていなかった。物心着く前からあの場所で暮らしていたせいか、実家と言えばすっかりあの穴倉になってしまっていたから。
「わざわざ教えておいてからこれを言うのも気が引けるんだが、中へ入るのは止した方がいい。さっきも言ったように、遺体は別の場所へ埋めているが……その、分かるだろ?」
「……はい」
唾を飲み込みながら、カレンは頷いた。
ここで起きたのは惨劇。ワイズネルラによる、真夜中の村人皆殺し。村人たちは皆、自分の家で手をかけられたはず。なればカレンの両親の殺害現場はまさにそこ。
「寄り道して悪かったな。じゃあ、本命に行こう」
再び歩みを始めるバットエッグに続きながら、ふと、クローヴは背中の少女を見た。少女は真一文字に結んだ唇を震わせながら、己の生家を見つめ続けていた。
………………。
…………。
……。
「ここだ」
カレンの生家から程なくして、二人と一匹は目的の場所へ到着した。半分土に埋まった石が幾つも並ぶ、如何にもな手作り感が漂う墓地。
「いつかこの日が来るかもしれないと思って、君の両親が埋まる墓は分かり易くしておいた。これとこれだ」
バットエッグが示したのは、表面に『△』の印が彫られていて表面の一部が剥げた石と、『○』の印が彫られていて苔生した石。
「苔の生えた方が母君の、もう片方が父君のものだ」
「これが、そうですか、ここに……。すみません、今だけ、降ろしてくれませんか?」
「仕方ないね」
嘆息しながらそう言って。乗せた時と同様の手段で、クローヴはカレンを地に降ろした。
人間の頭ほどの大きさの、二つの石。その前にしゃがみ込んだカレンは、それぞれの石に、順番に、そっと触れる。
――お母さん、お父さん。
この石の下に両親が眠っている。血の繋がった家族が。
――ううん。お母さんやお父さんだけじゃない。
ずらりと並んだ幾つもの墓石。その数は百を超えている。それらすべてがたった一人の殺人狂鬼による被害者。顔も知らぬ両親を特別視し難いカレンにとっては、皆が等しく〝ワイズネルラに命を奪われた人たち〟として映った。
――こんなにたくさんの人が、この村だけで。何なの、ワイズネルラって。何の権利があって……!
あらゆる感情が綯い交ぜになって、先の言葉が思い付かない。押し黙ったままいるカレンをよそに、クローヴは、この墓地の中で一際目立つ、真っ白な石の墓に気取られていた。
「バットエッグ、この墓は」
「ん? ああ、そいつだけは儂が造ったものじゃない。太陽の化身だった少女が眠る墓だ」
「へえ、これが」
ドラゴンが頭を下ろし、まじまじとその墓を見つめていると。
「太陽の化身」すっと立ち上がった少女が、ぽつりと言う。「アジータさん?」
「やはり彼女のことも聞いていたか」まあ当然かと、そんな調子で吸血鬼は言葉を紡ぐ。「一度しか会ったことのない儂より、君の方がよほど詳しいかもしれないぐらいだな」
「いえ、私もほとんど知りませんよ。でも。その人も、ワイズネルラに殺されたんですよね……?」
「らしいな」
淡白なバットエッグの答えを受けてカレンの脳裏に浮かぶ、カブやキリの悔しそうな顔。それは、太陽の化身たる少女とその死について語る際のものであった。
「ワイズネルラって、何なんですか?」
「あ? それこそゼファロたちから散々聞かされているんじゃないのか?」
「それはそうなんですけど、改めて聞きたいんです。あと、ゼファロさんは十年前に一回帰って来たっきり、ずっと留守ですよ」
「儂が言えたことではないがアイツは何をやってるんだ……」溜息を吐きながらそんなことを言うバットエッグ「それはそれとして。儂よりそこのドラゴンの方が詳しいんじゃないのか? 何せあの殺人狂鬼が影も形もなかった時代から生きているからな」
意地悪い顔で言うバットエッグであったが。
「アンタだってワイズネルラ以前の存在だろう」あっさりと暴露される。「いいからアンタが話してやんな。ワタシはずっと安全な場所から傍観してるだけだったんだから」
自嘲気味に吐き捨てたクローヴに憐れむような視線を向けて、バットエッグは肩を竦めた。
「話せと言われてもな。人間限定の殺人狂。それ以外に奴を説明する言葉はないよ。初めて現れた時から既にそうだった」
「じゃあ、そもそも、ワイズネルラはどうしてそんなことをするんでしょうか?」
「さあ、あれの考えは草木の考え以上に分からんからな。というか、考えなんてないんだろうよ。言葉の通りの殺人鬼。初めて現れた時から何一つ変わっていない」
「初めから狂った殺人鬼だったってことですか」
「そうさな。もっとも、昔は今ほど狂っていると思われてなかったけどな。殺人狂鬼だなんて呼ばれ出したのも、せいぜい四百年ぐらい前からだ」
「え、でも、何一つ変わってないって、さっき」
「そうだよ。だから変わったのは人間の方さ。人間の倫理だとか道徳だとか常識だとかだ」
ワイズネルラは最初から狂っていたが、その狂い方は今も昔も変わっていない。
「人類が奴を、総力挙げて滅ぼさなければならない相手だと気付いたのは、儂から言わせてもらえばごくごく最近だ。昔ながらの意識を持つ人間たちは、今もそれほど躍起になって奴を倒そうなんて思っちゃいない。だが奴と本当にまともに戦える人間となると、大概は『第二』以降の壁を越えて千年クラスを生きる者だけだ」
「じゃあ、人間はいつまで経ってもワイズネルラを倒せないと?」
「いやあ、まああと六百年もすれば、新しい意識を持った人間たちの中にもワイズネルラを超える者が出始めるだろう。ゼファロの奴は、今すぐにでもワイズを倒せる者が心を動かす方に期待をしていたみたいだが」
カレンは絶句する。六百年。人間がワイズネルラを滅ぼすにはまだあと六百年かかるというのか。二百年に一度現れる殺人狂であるから、回数にしてみればあとたった三回ほど。だがその三回でどれだけの人命が奪われるというのか。数の問題ではないと分かっていながらも、しかしその数があまりに膨大であることが目に見えていて、焦燥が募る。
「カオス、さんなら――カオスさんなら、ワイズネルラにも勝てるんですか?」
吸血鬼、そしてドラゴンに向かって、人間の少女は問い掛けた。ドラゴンは複雑な顔つきで返答に窮している。そして吸血鬼は。
――なるほど、あとできっちりわけを聞くつもりではいたが。クローヴが彼女を連れていたのはそういうことだったのか。
「カレン君、クローヴ。正直なところ、ワイズネルラの力はカオスを越えていると思う」
吸血鬼の言葉は、カレンだけでなくクローヴをも動揺させたが。
「しかし勝てる勝てないとなれば、勝てる見込みは十分ある。条件さえそろっていれば」
「条件とは?」
質問はクローヴからだった。バットエッグはあっさりと答える。
「簡単じゃないか。一人でなければいい」
「っ」「っ」
「ワイズネルラ相手に“戦おう”だなんて考えるのがナンセンスだ。“殺そう”と、どんな手を使ってでも滅ぼそうとしてはじめて対等だろう。その点、十七年前のゼファロは正解に近かった。結果負けてりゃ世話ないが。今もそうみたいだが、あいつは何のかんのと理由をつけては“巻き込む”ということを恐れ過ぎている」
「優しい子じゃないか。しかし、せめてアンタを誘えば少しはマシな結果になっていたかもしれないのにね」
「分かっているくせによく言う。あいつがそれをしなかったのは当然だろうが。頼み込んだところで儂が『よし協力しよう』などと言うわけがないと知っていたのだから」
「ど、どうしてですか?」
「儂が人間を嫌っているからだ」




