鏡、カウンセラー、新たな世界(真)
尾島真は戸惑っていた。事故にあって、死んだと思ったら生きていて、目を覚ましたら知らない場所で目を覚ましたのだから。そして、知らない人に名前を呼ばれている。普段は冷静に物事を考える彼も、この時ばかりは何も理解できずにただ放心状態にあった。
「やっぱりこれも夢なんだ。事故にあったのも夢、今起きているこの世界も夢。一回寝て起きれば、そこは元の世界だ。おやすみなさいっ!」
こうして真は夢の世界に帰った。
「何してるの!起きなさいっ!」
夢の世界へ帰ることで元の世界に帰ろうという真の試みは失敗に終わった。さっきから名前を呼んでいた聞きなれない声の持ち主によってまた、夢の世界へ生き戻されてしまったのだ。
「やめてくれ! ここは僕の世界じゃない! 早くこの夢から出るために眠らなくてはいけないんだ!」
「何をさっきから馬鹿な事を言っているの? それに今日のシンはおしゃべりね。寝ぼけているのなら、早く顔でも洗ってきなさい」
見知らぬおばさんは、不思議な顔をして言い、洗面所と思われる場所を指さした。こうなっては、真はもう一度眠るという選択肢は選べないのだと悟り、この夢の世界が終わるまではおとなしくしているしかないのかと思った。どうせ夢なんてものは起きたら忘れてしまうものだ。今まで見た夢の中にはこういうものがあったとしてもおかしくはない。今回は、たまたま夢の中で意識を保てているだけなんだ。今まででも意識を保ったまま見た夢があったかもしれない。繰り返すが、所詮夢はすぐ忘れてしまう。
真は、見知らぬおばさんが指さしている方向へ向かった。予想通りそこは洗面所だった。
「とりあえずは言われた通り顔を洗お……だ、誰だお前?」
鏡には知らない男が映っていた。自分と同じ動きをしている。自分であることは間違いがない。
「次に目覚めるときは元の世界に戻っているといいな。せめて事故があった世界でもいいから……」
そこで真の意識は途絶えた。
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「んっ……」
真の本日二度目の目覚めは病院だった。見渡す限り病院である。少し高めの天井、所々に黒いシミがある白い床、消毒の匂い。真は、少し状況を理解できずにいたがすぐに理解した。
「そうか、車にはねられて……なんとか助かったんだな」
そして、あの夢は覚めたと認識し安堵した。
「こんにちは、シン君、起きたようだね。気分はどうだい?」
不意にカーテンが少し開き、優しそうな男性が顔をのぞかせた。白衣を着ていることから、すぐに彼が医者であることを理解した。
「おっと、自己紹介がまだだったね。僕は飯川だ。君はシン君でいいんだよね?」
「はい。尾島真です。そういえば体の痛みが無いのですが、奇跡的に無傷だったとかですか? あと、みんなは……あっ、流石に学校があるのか」
そこまで聞いて、飯川は一瞬落ち着いた顔を崩した。しかし、すぐ元の表情に戻り言った。
「やはり、僕がここに来たのは正解だったようだ。君は僕のことを医者だと思っているようだが、不正解なんだ。改めて自己紹介しよう。僕は飯川昇、カウンセラーだ」
「えっ!? なんで事故にあったのに、外科医じゃなくてカウンセラーが? もしかして、事故のショックで心的障害を負う可能性を心配してくれたのですか? なら大丈夫ですよ。僕はいたって元気です」
「違う。確かに、君の体は何の異常もない。でも、君は気づいていないのかもしれないけど、他のところに大きな障害を負っているようなんだ。そして、これから僕は君に厳しい事を言わなくてはいけないのだが、どうか正気を保って聞いてほしい。準備はできているかい、大丈夫そうだね。それじゃあ、言うよ。さっきから君が言っている事故とは何のことだい? それに君は高岡新という名前だ」
それからどれだけの時が過ぎたのだろうか。真には何時間にも思えたその時間は実際には数秒であるのかもしれない。ともかく、その瞬間真の時は止まった。どういう反応をすればいいのか。どこまでが夢なのか。そもそも、どれが夢なのか。
永遠のように思えた沈黙を破ったのは飯川だった。
「いっぺんに色々な事実を伝えられて困るのも無理はない。君の話を聞かせてくれないかい? カウンセラーは人の話を聞くのが仕事だ。ゆっくりとでもいいから教えてくれないかい、今まで君が過ごしてきた生活からその事故至るまでのことを。思い出せる範囲で構わない」
それからゆっくりと真は自分の話を始めた。自分は尾島真ということ、学校では生徒会長をやっていたことなど。そして、彼女との待ち合わせ場所に行く途中で車に轢かれたこと。そして気がついたら、ここに来ていたこと。洗いざらい、話すと落ち着いてきた。人に不安な事を話すとやはり気分は楽になるものだ。それに、飯川は親身に話を聞いてくれているし、たまにちょっとした質問を挟んでくれる。さすがカウンセラーは人の話を聞くのが上手だと真は感じた。
「気分も落ち着いてきたようだし、僕から少し話をしよう。単刀直入に言ってしまうと、どうやら君は記憶喪失に似た症状のようだ。もちろん、今君が話した事を嘘だというわけではないがね」
「記憶喪失に似た症状?」
「君は記憶喪失についてどれだけ知っているかい? 一般的に記憶喪失と呼ばれている症状は全生活史健忘というものだ。出生から現時点までの、自己に関わるすべての記憶を思い出せない状態、いわゆる『ここはどこ、わたしはだれ』といった具合のものだ。君は高岡新だということを忘れていて、ここはどこかということも知らない。それゆえに、記憶喪失であると僕は最初に判断した。しかし、君の話を聞いている限り話が違ってくるようだ」
「僕が尾島真という人格を持っていたから?」
「もちろんそれもあるが、一度、全生活史健忘の話に戻ろう。これは、自分に関する事すべてを忘れている状態だといったね。ということは残っている知識もあるのだよ。君にはそれが欠けていた」
「それってなんですか? 思い当たるものがありません。読み書きだってできるし、箸の持ち方、どちらが北かなどは覚えていますよ」
「それも正解だ。一般知識として保たれている。通常、そのような一般知識や、社会知識、語彙などは保たれている。でも、ひとつだけ欠けているのだよ。この世界のルールだ」
「ルールというと法律とかです?」
「その通り。君は法律に対する認識が甘くなっているのだよ。君は、事故にあったとき点滅していた信号を渡ったといったがね、それは罪なのだよ。渡る前から信号が点滅している場合、それを渡ると将来自動車の免許を取ることが難しくなる」
「何を言ってるんですか? いまどき信号を無視したとしても、警察は何も言いませんよ」
「認識を改めるんだ。ここはもう君が知っている世界ではないのだよ」
そう言うと飯川はこの世界のルールについて話し始めた。将来の生活が成人するまでに犯した罪によって決まること。そして、その罪というものが厳しく設定されていること。罪の監視役として学校では生徒会、街ではそのような職業があることなど。真には理解しがたいことであったが、理解するしかなかった。この世界に順応しなければならないのだ。
「どうだい? 大体は理解できたかい?」
「はい、何とか……」
「それじゃあ、残念ながら僕にできることはもうほとんどない。これから何日かおきに僕のもとに来てくれればいい。帰っていいぞ。くれぐれも法に反することはしないようにな」
「分かりました……それではまた」
そう言って真は部屋の外へ出て帰っていった。
「さて、どうしたものかな。僕もこんな患者ははじめてだ」
そう飯川はつぶやき、真の症状をメモしていたノートを閉じた。数分後真が出て行ったはずのドアが開き、真が戻ってきた。
「あの、僕の家はどこでしたっけ?」
「ごめんよ、家族のところまで案内しよう」
飯川は笑って言った。




