痛みを覚えるほどに・・・
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泣きながら帰った。子供みたいにヒックヒックとしゃくりあげながら。
素肌にじっとりと纏わりつくジメジメして蒸し暑い夏の日の夜、あたしは恋に破れ泣きながら帰宅した。
「・・ぃま・・っ」
「おかえ・・!やだっ!どうしたの?!何かあった?!」
まだ起きてテレビを見ていたお姉ちゃんがビックリした顔で駆け寄ってくる。
「なに?なにかあったのっ?誰かに何かされた?!」
大学を卒業して就職を機に、一人暮らしをしていたお姉ちゃんのマンションに同居するようになったので、現在は姉妹二人っきり。くれぐれもとお父さんに言われているにもかかわらず、お姉ちゃんは結構放任主義。だけどさすがに年頃の妹が泣きながら帰ってきたことには驚いている。
会社帰りに職場の人たちと食事して帰るって行ってあったから、誰かとトラブったとか、男性社員にセクハラめいた事されたんじゃないかと思ったらしく、どうしたどうしたと訊いて来る。
「ち・・ちがう、・・のっ。あたしが勝手に・・っ」
次から次へと涙が溢れてきて、嗚咽がノドを塞ぎ、ちっとも言葉にならない。
説明しようとさっきのことを思い出すたびに、悲しみも戻ってくる。まるでイタチゴッコのように同じところをグルグルと繰り返すばかりだった。
「何がちがうの?ちょっと落ち着いて。ハイ、深呼吸。吸って~・・吐いて~・・」
掛け声にあわせ大きく息を吸ったり吐いたりしているうちに、徐々に気持ちは安定してきた。
傍にあったティッシュの箱を寄せてもらい、2・3枚抜き出すと涙を拭う。ついでにチーン!と鼻をかんですっきりすると、やっと呼吸も落ち着いてきた。
「で。どうしたの?」
背中をさすりながら再度訊ねてくるお姉ちゃんに、やっぱりちょっと涙ぐみながら、あたしはやっと「フラレちゃった」と告げる事ができた。
「帰りの電車の中でね、二人っきりだし・・、途中までだって送ってくれるってコトは、他のヒトよりは特別かなって思っちゃって・・気がついたらすぐ隣にいるし・・」
今年の春、入社してからはじめて好きになったヒト・営業一課の佐藤さん。一見すると寡黙でクールでちょっと怖そうな印象なのに、話してみると冷たいイメージがガラガラと崩れる。優しくて気さくで気取らないから、いつも彼の周りには人が集まって、わいわいと楽しそう。
今日も一課の残業組みがこぞってビアガーデンに繰り出すことになり、その際隣の課で一人居残っていたあたしも誘ってもらった。・・・・・・実際に声を掛けに来たのは彼の後輩だけど。
「なんかね、今だ!って思っちゃったの。告白するなら今だ!って」
「・・・・・・」
酔いは残っているが、アルコールのせいでワケのわかんない事を言ってる自覚はある。でも、メチャクチャでもとにかく全部吐き出さないと胸が苦しくて耐えられなかった。
「好きなんですって言ったら、気持ちは嬉しいけどゴメンって・・・」
「・・・・・・ある意味誠実なんじゃない?そのヒト」
それまで黙って聞いていたお姉ちゃんは、ハァ~とため息をつくと、乗り出していた体勢を戻し、ゴロンと床に横になった。
「なによ~。心配しちゃったじゃないの。それって結局は失恋しただけでしょー?」
「! 失恋しただけって、あたしはツライのッ!」
なんでわかってくれないの!と憤ってもどこ吹く風。行儀悪くゴロゴロと転がってテーブルの足元に辿り着くと、腕を伸ばしてテレビのリモコンを探る。
せっかく引っ込んだ涙がまたぶり返してきて、視界を歪ませた。
「あーはいはい。次はさゆみを好きになってくれるヒト、好きになんなさい」
すっかりテレビのほうを向いて真面目に話を聞いてくれそうに無いお姉ちゃんに愛想をつかし、イーッと歯を剥いてドスドスと足を踏み鳴らしながら自室に向かった。
誰かに聞いて欲しいだけだったのに。力いっぱいバッグをベッドに叩きつけて、その隣に顔をうずめる。真夜中なのを一応配慮して、ベッドマットで口を押さえるようにして大泣きした。
明日は土曜日で会社は休み。なんの遠慮も要らないのだから、あのヒトの前では頑張って笑顔を貫いた分も思いっきり泣いて、悲しい気持ちとかやっぱり諦めきれない気持ちだとかは、涙で全部流してしまえたらと強く思った。
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好きだった。好きになった。4月に入社して営業二課に配属され、無我夢中で研修期間を乗り越えてやっと仕事にも職場にも慣れてきたころ、油断から大失敗して落ち込んでるとき、彼は声を掛けてくれた。
「どうした?こんな時間まで。一人で」
一人残って半泣きしながら翌朝の朝会議の資料を綴じていると、ひょっこりと顔を出した見覚えの無い男性社員はためらいもなくズカズカと入り込んで来て、あたしの手元を覗き込んだ。
すぐ傍に立たれ、間近で見上げる彼はビックリするくらいに整った顔をしていた。
「ああ。明日の朝一の資料か。なんで一人なんだ?」
押し付けられたのかと訊かれ、それまでポカンと彼を見上げていたあたしは慌てて首を横に振った。
「あ・・あのっ、そもそもあたしがミスしたせいで資料が遅れちゃって・・。だから、その、自分から明日までに用意しますって・・させて下さいってお願いしたんです!」
「ミスったって・・キミ、新人だろう?責任は教育担当者にもかかってくるはずなんだけど。・・誰だ?」
彼は不快そうに眉間にしわを寄せた。当然連帯で責任を取って一緒に作業するのが当たり前だと、他人事なのに怒っている。
「誰って・・」
「キミの担当。3年目のヤツだから俺と同期なんだよな。小川?水野?」
「水野さんです・・」
3年目って言った?ちょっと我が目を疑う。だってお世辞にも水野さんにはこのヒトみたいに落ち着いた雰囲気は感じられなくって、それはもう一人名前の挙がった小川さんだって同じ。
老けてるって意味じゃなく、ずっとオトナっぽくて・・カッコいい。
「まあ今いない奴の文句言ったってしょうがないか・・・。よし、ちょっと待ってろ。助っ人連れてくるから」
「えっ?ええっ?!い、いえ!大丈夫です!もうそんなにかからないと思いますからッ」
「それでも人数多いほうが早く終わるだろ?」
腕時計を確認して「もう十時近いしな」と呟くと、言うが早いか、彼は颯爽と部屋を出てゆき今度は男性と女性を一人ずつ伴って戻ってきた。
「あーらら。ホント、こんな可愛い子を夜遅くまで残らせるなんて、相変わらず水野って馬鹿よね~」
「あ、秋元さんじゃないか!佐藤さん!いつの間に秋元さんと知り合ったんッすか?!ズルいッすよ~」
ちょっとキツい印象の色っぽい美人さんと、さっきの人(佐藤さんて呼ばれた彼)と同じくらいに背が高くてガッシリ体形の、スポーツ選手みたいな男のヒト。
「秋元って言うのか。知らなかった。そういやまだ名乗ってなかったな。俺は営一の佐藤。こっちは俺と同期の・・」
「坂下よ」
「あっ!スミマセンッ。あの、あたし・・」
先に先輩に自己紹介をさせてしまい、焦ったあたしが慌てて名前を名乗ろうとすると、横から大きな声で「秋元 さゆみさん!」と、フルネームで呼ばれた。
「オレ、キミより1年先輩の2年目、営一の芝ッす。うわッマジ可愛い!佐藤さん、佐藤さん!秋元さんて今年の新入女子の中でダントツ可愛いって評判なんすよ~。いや~今日ばかりは残業しててよかった!」
「バカか?本人目の前にして駄々漏れってありえねーだろ。それになんで残業になったか考えたら、そんなセリフ出てこねーぞ」
「そうよねぇ。あたしだったらメッチャ引くわ~。そんな今更な賛辞を繰り返されたって嬉しくないもの」
先程まで一人ぽつんと自分の鼻を啜る音を聞きながら寂しく作業してたのとは180度変わり、わいわいと、もの凄くにぎやかになった。
まるでコントのような遣り取りを交わし、ゲラゲラとおなかを抱えて大笑いしたりしながらも手を休めることなく作業を進めていると、気付いた時には全て終わっていた。
「なーんだ。はじめちゃえばあっという間ねぇ。さてと、じゃあ帰ろっか」
あたしと芝さんが綴じた資料を揃えていると、佐藤さんと坂下さんが腰を上げる。
「あのッ・・ありがとうございました!おかげですごく早く終わりました」
二人の後姿に深々と頭を下げてお礼を言うと、坂下さんは振り返って手を振り、佐藤さんはそのまま軽く手を上げただけで部屋を出て行った。
コチラを見てくれなかったことが寂しく感じられ、未練がましく出入り口付近を見つめていると、後ろから「まだオレがいるよ~」と芝さんの声が聞こえて来た。
あの日以来あのときの三人は、社内のどこかしらで顔を合わせれば声を掛けてくれたり、社食で一緒になれば相席もするようになったけれど、もとより課が違うし佐藤さん狙いの女子社員が結構いることがわかって(坂下さん経由での情報)、あたしからはできるだけ接近しないようにしていた。
ただ、見ているだけで十分に幸せだったから。
それに相反していつでもどこでも顔を合わせるようになったのは芝さんで、少し距離があったってそれがどうしたと言わんばかりに大声で呼びかけられるし、人目を気にせず可愛いキレイと褒めまくってくるから、あたしとしては恥ずかしくてたまらない。あらぬ噂を立てられたくないという気持ちから最近では彼を避けるようになっていたのに,昨日の夜、残業が終わりやっと帰ろうかという時に芝さんが二課に飛び込んできた。
「あ、いたいた!秋元さん、これから営一の面子で呑みに行くんだけど、一緒にどう?」
どう?って言われても・・チラッと覗いた腕時計は、もう遅いからと断るには不自然な時間。
「えっと、呑みにって・・あたし全然呑めませんけど・・・?」
「大丈夫、大丈夫。もう一人呑めない女の子がいるから。ウチの課の新人ちゃん」
「新人って・・村井さん?」
一課配属の同期の名前を挙げると、芝さんはそうそうと頷いた。
「まだ秋元さんが残ってるなら誘って来いって坂下女史の命令でね。さあ、さあさあ、行こう!」
半ば強引に連れられ、あたしは引き摺られるように同行することになってしまった。
・・・・・・・・・・・・後悔しても遅いけど、ムリにでも断っていたなら今頃はまだ、あたしは佐藤さんに告白なんてしてなくて、フラレて苦しい思いも悲しい気持ちにもなってなかったはずなのに。
何度も何度も心の中で、芝さんのバカ!芝さんのタコ!って繰り返し罵倒する。
彼を恨むのは筋違いだって解ってるけど、今は八つ当たりの矛先が無いと立ち直れそうに無かった。
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グズグズと立ち直れないままにお盆休みに突入してしまった。
同じフロアだし、社内にいると遭遇してしまって気まずい思いをしたりもするけど、仕事に追われている間のほうが落ち込まずに済んで気持ちの上では楽なのに。
「ねー。さゆみはホンッッットに帰らないの?」
実家に帰省するお姉ちゃんが玄関で見送るあたしを振り返り、ここ最近毎日繰り返していたセリフをもう一度繰り返した。
「あたしは・・・・・・うん。まだちょっと帰りたくない」
俯いたあたしに、ま、別にいいケドね。と軽い口調で返し、戸締りと火の始末だけはちゃんとね!と念を押し、お姉ちゃんは出掛けて行った。
くるりと振り返り玄関から室内を眺める。すっかり見慣れた部屋が、これから3日間一人なのだと思うとなんだか広く感じられる。ぺたぺたと素足で廊下を歩きリビングへ。窓を閉めてクーラーをつけているからなのか、いつも二人で生活している場所がやけに静かでちょっぴり落ち着かない。
一目惚れして買ったキルトカバーをかけてあるローソファーの端に座り、テレビのリモコンを手にゴロンと横になる。この時期は特別番組が多くて正直テレビはつまんないけど、物音ひとつ無い部屋は寂しすぎた。
何してるんだろ、あたし。・・・違うか、なんで何にもしないんだろう、あたし。
家に帰らないと決めたのはあたしだし、一人なんだからやることは沢山あるんだもの。普段は当番制にしている家事だってお姉ちゃんが帰ってくるまでは全部やんなきゃならない。
ムクリと体を起こして両方のほっぺをペチペチと叩く。テレビを消して立ち上がると、まずはクーラーを消してから窓を開けた。
途端、むわわっと蒸し暑い空気が襲い掛かってきて、早々に後悔が押し寄せてきたけれど、そこはぐっと堪えてあたしは布団を干すことから始めた。
日中は掃除と洗濯に時間を費やし、夕方、幾分か涼しくなってきてから夕飯の買い物に出た。
一人分だから手抜きをしてそうめんにしようと思ってる。めんつゆはまだ冷蔵庫にあるし、てんぷらは出来合の惣菜を買ってくるつもり。
張り切って洗濯機を3回もまわしたせいで洗剤が切れちゃったし、夜更かしして深夜映画を見ながら食べるお菓子とアイスも欲しい。
最寄のスーパーに着くと重いもの対策に乗ってきた自転車を駐輪スペースに停め、カゴを手に店内をゆっくりと見て回る。込み合ったレジで結構待たされた後、レジ袋をぶら下げたあたしを衝撃と驚愕、それと困惑・・あと、えーっと・・・漢検2級持ってるのになかなか言葉が出てこないケド、とにかくあたしは諸々のショックを受ける出来事に遭遇した。
「うそ・・・」
駐輪場で将棋倒しになっている何台もの自転車。残念なことにあたしの自転車も巻き込まれ下のほうでサンドイッチのハム的位置にいる。レタスでも変わらないけど。
途方にくれて馬鹿げたことを考えるくらいには混乱していたけれど、ボーっと見てたって誰かが助けてくれるわけじゃない。あたしはなんとか一台ずつどけてゆき、やっと自分の自転車を発掘したときには残念ながらビニール袋の中のアイスはふにゃふにゃになって溶けていた。
ついてない。今日はとことんついてない。ヒシヒシと痛切に感じたのはマンションのエントランスに差し掛かった頃。突然のゲリラ雷雨に襲われ、脳裏をかすめたのはベランダの洗濯物。
こういうときに限ってエレベーターは点検中。慌てて階段を駆け上がるけど、荷物を持っている身にはたった3階でもかなり大変。
必死で辿り着き玄関を開けて飛び込む。一気にベランダへと走るが、窓を開ける前に惨状を見て・・・諦めた。
「もう一度洗い直しかぁ・・・」
今日一日のあたしの頑張りが台無しになった気がして脱力し、ぺたりとその場にへたり込んだ。
「・・・あたしも帰ればよかったかな?」
1ミリも思ってないことを呟いてみる。家に帰ったって鬱々とした気持ちになるのだから結果としては同じなのだけれど、極力顔を合わせなければ問題なかったのではないかと思い始めていた。
顔を合わせたくないヒト。・・・お父さんと、お父さんの再婚相手。
彼女は悪い人間じゃない。むしろ善人と言えると思う。小柄で朗らかで、美人では無いけれど愛嬌のあるかわいらしい面立ちは保育園の保母という仕事にぴったりだ。現在は元・保母だけど。
そんな十人中十人が好感を抱くだろう人物の、何がそんなにあたしを遠ざけるかと言えば・・・・・・彼女は・・尋子さんは、あたしやお姉ちゃんが通った保育園で働いていたから。
その頃はまだ当然両親は離婚なんてしてなくて、尋子さんも普通にただの先生だった。
状況が変わったのは保育園を卒園して小学校に上がり、あたしが6年生、お姉ちゃんが中学3年の時。突然お母さんからお父さんと別れると聞かされた。
どうしてと訊けば、お父さんには恋人がいるからと。
大人たちは子供の困惑に気を止めることなくサクサクと物事を進めてゆくが、取り残されたあたしたち姉妹には・・二人の心には深い傷が出来た。
お母さんが出て行って、三人の生活は長くは続かなかった。翌春、お姉ちゃんは寮のある高校へと進学し、あたしも3年後、同じ高校へ入学した。
一人ぼっちが寂しかったのか、一昨年あたしが高校を卒業すると二人は籍を入れ、彼女は今実家にいる。しかも赤ちゃんまで。
大好きな先生が家族になることにどうしても抵抗があって、あたしはお父さんたちを許さないことにした。
「・・・帰れるわけないか・・」
二人の入籍を知った時、あたしはどうしても我慢できなくて二人に怒鳴った。短い一言だったけど、その言葉がお父さんと尋子さんを酷く傷つけたことは、二人の歪んだ表情で計り知れた。
『周りを傷つけないと・・不幸にしないと成り立たない気持ちなんておかしいわよ!!』
自分たちさえ良ければそれでいいのかと責めると、尋子さんはゴメンナサイと謝って涙を流していた。
物思いにふけっている間にも、あっという間に雷雨は過ぎ去り、何事もなかったように雲が切れた。晴れ間の覗いてきた空を眺め、あたしはただボンヤリとするしかなかった。
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毎日が暑い。もうすぐ9月なのに連日の猛暑日。
外はムシムシと酷暑なのに、一転して社内は省エネ温度とか言っておきながら、男性社員設定温度。女性の多くは冷え性なんだぞ!ずっとデスクにいる者にはひざ掛けとカーディガンが必要なんだぞ!と声高に叫ぶ一部女子の訴えはむなしく終わってしまった。
「くしゅっ!」
今朝から何度目かのくしゃみが、たまたま静かだった課内に響く。
「おい、大丈夫か?」
隣から水野さんが眉を顰めて訊ねてきた。
「はい・・。さっきお昼ごはんの後にちゃんとクスリ飲みましたから。もうそろそろ効いてくるんじゃないかと思うので・・・ふ、くしゅっ!」
何とか午後まで保たせたけれど、これは本格的に風邪を引いたんだろう。少し前から背筋がゾクゾクして寒気がする。
早退も考えたけど、時計を見上げれば終業まであと2時間。今日は残業があったとしても絶対に断って、とっとと帰って早く寝ようと考えていた。
「しゅんっ!」
頭がボーっとする。肩や肘がだるくて痛い。カーディガンを羽織っているのに寒すぎてお腹が冷えそう。
早く終わって欲しくて何度も何度も時計ばかりを覗き込んでしまうけど、気にすれば気にするほど針の進みが遅いように感じる。
それでも何とか終業時刻30分前まで頑張って、さあラストスパート!と意気込んだ反面、もうすぐ帰れると気が弛んだのかもしれない。
水野さんにコピーを頼まれ、書類を持って立ち上がった瞬間、景色が反転した。
「うわっ!秋も・・」
パチリと目が開く。
アイボリーの見知らぬ天井。
ここ何処?え・・と、どうしたんだっけ?
寝起きでボンヤリする頭を振って、懸命に今に至るまでの経緯を思い出そうとしたが、全然わからない。とにかく順を追って最後の記憶をたどると、終業時刻30分前に行き着いた。
「水野さんにコピー頼まれたよね・・?」
その後どうしたんだろう?書類を手に立ち上がったところまでしか覚えてない。
一頻り悩んだ後、ふとトイレに行きたくなって上体を起こした。だるくてゆっくり、やっとで姿勢を変えると、それだけで息が上がる。
フウッとため息とつき胸元を見ると、あたしのものではないサイズの大きなTシャツを着ていた。
「えっ?なにこれ?誰の?」
慌てて下を確認する。下着はちゃんと自分のものだ。だけどそのうえに何も穿いてない。って言うか、そもそもめくり上げた肌掛け布団が、今まで横たわっていたベッドがあたしのものじゃない。
キョロキョロと室内を見渡すが、一向に覚えの無い初めての場所だった。
状況がつかめなくて焦るが、催したものを忘れてはいない。まずはトイレに行ってから考えようと、ふらつきつつも立ち上がった。
ドアを開けて部屋を出るとムワッとした蒸し暑さに襲われ、寝ていた部屋はちゃんと空調を効かせてあったのだと気がつく。壁に手をついて進み、トイレらしきドアを開けた。
用を足して先程の部屋へ戻ったほうがいいのかなと考えてると、玄関でガチャンと開錠する音がした。素早く動く事ができないあたしは、内心の焦りとは裏腹に、ジッとその場でドアが開くのを見ていた。
「あ。・・目が覚めたんだ。体調はどう?」
現れた人物を見て驚く。え、だって、どうして・・・・・・?
「ハラ減んない?秋元さん昨日からずっと寝てたし、なんか食わないと薬も飲めないしさ」
「あの・・」
「あとは水分!スポーツドリンク買ってきたから飲んどいたほうがいいよ。熱が高かったから汗も大分かいてたしね」
「あのっ・・!」
「一応人事課で連絡先を聞いてお姉さんに電話してみたんだけど、今仕事で家にいないからって言われてねー。それなら坂下女史に頼もうかとも思ったんだけど、女史は昨日早退してて午後いなかったのを思い出して・・」
そう。出版関係の仕事についているお姉ちゃんは度々取材とかで家を空ける。坂下さんの姿はたしかに見かけなかった。・・・今日?ううん、芝さんは昨日って言った?
「ちょっ・・」
「秋元さんを任せても大丈夫な女のヒトを探したんだけど、昨日に限って誰もいなくてねー。社の医務室に寝かせっぱなしにしとく訳にもいかなかったから・・」
「ちょっと待ってください!」
コチラの声をワザとさえぎるように話し続ける彼をとめようと大声を出したのが悪かった。叫んだ直後クラリと目眩がして、傾ぐ体を支えられなかった。
「秋元さん!」
へたり込みそうになったあたしを彼が咄嗟に抱え込む。大きくてガッシリとした見た目を裏切らず、彼・・芝さんの腕はあたしくらいはすっぽりと納まるほどに広かった。
「まだダメだよ。寝てたほうがいい。昨夜は39度近くまで上がったんだから」
肩を抱いて支えてくれる彼を間近で見上げ、どこか違和感を感じる。確かに心配そうに見下ろしてくる表情はこれまでには見たことの無い彼の一面ではあるけれど、そういった表に見えるものじゃなくて、何て言ったらいいか・・・
「とにかくベッドに戻って。レトルトだけどお粥を買ってきたから、それを食べたら薬を飲んで休んだほうがいい」
強引過ぎない程度に促されて先程の部屋へ。言われるままにベッドに入ると、丁寧に肌掛け布団を掛けられた。
更には気づいてなかったのだが、おでこに冷却パッドが貼ってあったらしく、彼は温まったそれをペロンとはがし、まだジェルがぷよぷよした新しい物と交換してくれた。
「・・・ありがとうございます」
甲斐甲斐しく世話を焼かれる自分がなんだか恥ずかしくて、言わなきゃと思ってた一言が小声になってしまったが、聞こえたらしい彼はほんの少し笑って、パッドの上からおでこを撫でた。
すぐ戻るといい置いた彼が部屋を出て行くと、あたしはさっきも見た天井を見つめながら感じた違和について考えた。
「あ・・・そっか」
彼がちゃんとしすぎている。会社で見る芝さんは明るくて調子がよくって落ち着きが無いカンジ。いつも誰かに注意されたり怒られたりしてるけど、あんまり気にしないみたいでケロリとしている。でもどこか憎めないタイプで、佐藤さんや坂下さんをはじめ多くの同僚・友人に囲まれている。
だけど今の芝さんはあたしが知ってる芝さんじゃないみたいだった。落ち着いてて、気がついて、一言で言えば大人っぽい。
そういえば、いつもだったら顔を合わせて途端「可愛い!」とか「美人!」とか言ってくるのに、さっきの彼は全然あたしに興味ないみたいで、あたしのTシャツ一枚と言う際どいカッコ・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ッ。
「ひゃあぁぁぁぁぁっ!」
「どうしたっ?!」
悲鳴をあげたと同時に部屋に飛び込んできた芝さんへ、あたしは思いっきり枕を投げつけた。
「見た?」
「・・・・・・」
「見ましたよね?」
「・・・・・・ちょっとだけ」
「・・・」
「・・・」
運良くひっくり返さずに済んだお粥を渡され、はむはむと無遠慮に頂きながら、ベッドの脇で正座する芝さんを睨みつつ詰問する。
「ちょっとってドコまでですか?」
「ドコって・・・・・・っ」
赤面して顔を背けた芝さんの様子に、これは絶対に見た!と確信する。それと同時に上はTシャツ一枚っきりで下着をはずされていたことを思い出し、一気に顔が熱くなった。
「~~~~~ッ・・・ふぇ」
自分が知らないうちに裸を見られたのかと思うと、恥ずかしくて悔しくて悲しい。倒れたあたしを看病してくれた事はわかったし、着替えのためには仕方の無い・・いわゆる不可抗力だっていうのも理解できる。でも理解と心理は別物で、感謝はするけどやっぱりイヤだ。
「う~~~・・・」
「うわわっ!ゴメン!スミマセン!そんなに見て無いから大丈夫!っていうか,ちょびっとは見ちゃったけど、電気消して真っ暗の中で着替えさせたから、わからなかった!ホント勿体無い!じゃなくて・・・ゴメンなさい!!」
涙を見た途端、いつもの芝さんに戻ったように落ち着きなく弁解を始めた様子がなんだか可笑しい。ペコペコと何度も頭を下げ、気が済むまで殴ってもいいとまで言う。
飼い主に叱られたゴールデンレトリバーみたいな、しゅんと項垂れた姿を見てるうちに、なんだかあたしのほうがいじめてるみたいだと思えてきた。
ふぅ・・と小さく嘆息する。
「ゴメン!申し訳ない!!」
「・・・もういいです」
「そこをな・・・ん???え、いい?」
「はい」
結果的には芝さんは恩人な訳だし、もし着替えさせずに服のまま寝かされていたら、それはそれできっとイヤだったんだと思う。
空になった茶碗を彼に渡しながら、あたしは改めてお礼を言った。
「ごめんなさい。責めたりして。ちゃんとお礼を言わないといけないのに・・・。芝さん、面倒見てもらっちゃってありがとうございます」
「え、あ、いや・・オレが勝手にしたことだし」
「でもヒト一人運ぶのって大変だし、ベッドまで譲ってもらっちゃって・・芝さん、昨夜はどこで寝たんですか?」
冷静になるといろんな部分が見えてきて、あたしが転がり込んだせいでどれだけ迷惑をかけたかと蒼白になった。
「隣の部屋だけど・・でも寝てないっていうか、心配で寝てられなかったし、夏だからドコで寝たって風邪ひくことは無いと思ってね。・・・まあ、オレのことはどうでもいいんだ」
なぜだか「どうでもいい」といった時の彼の表情が、一瞬ほんの少し歪められたような気がした。
彼は腕を伸ばして茶碗をテーブルの上に置き、代わりにクスリを手に取った。
「芝さ・・」
「はい、クスリ。今水を持ってくるからちょっと待ってて」
いつも通りの明るい笑顔で部屋を出て行く芝さん。なのにどうしてなのか、あたしは立ち入ることを許されないラインを引かれた気がした。
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「単刀直入に訊くけど、芝クンとなんかあった?」
前置きどおりサクッと切り込んできた質問に、あたしはぐっと息を詰まらせた。
終業時刻を過ぎ、残業が無い日くらいはさっさと帰ろうと身の回りを片付けていると、まだ座って仕事を続けていた水野さんが、「おうっ」と誰かに声をかけた。
「どうした、坂下。今日はダーリンとデートじゃないのか?」
「うるさいわね。アンタに心配されなくてもあたしたちはラブラブなのよ。ヒトのことより自分たちの心配でもしてなさい」
一蹴。ニヤケ顔でからかった水野さんはあっという間に沈黙した。
水野さんを撃退した坂下さんは、隣でポカンとしているあたしにこの後の予定を訊いてくる。
「え?食事・・ですか」
直前までの氷のまなざしではなく、あたしに向けてくれるのは暖かくて優しい微笑み。ちょっと印象がきついせいで同姓から目の敵にされがちだけど本人はなんとも無いみたいだし、あたしには頼りがいのある先輩。
彼女はあたしが佐藤さんにフラれた時からずっと、相談やグチに付き合ってくれてる。
その坂下さんが何故かわざわざあたしを待っていて、たまには女二人でどう?と誘ってきたのだ。
「何もないので構いませんけど・・?」
「そ?よかった。今日は秋元さんに合わせてアルコールなしのゴハンだけね」
そういって連れてこられたのは食堂ってカンジの古いお店。・・ちょっと昭和っぽいと思ったのは内緒。
ガラガラッと派手な音をたてる引き戸を開け「コンバンワー!」と踏み込み、彼女は慣れたようにカウンター席に腰を下ろした。
「いらっしゃいませ~」
若いアルバイトのような女性店員に手を上げて合図を送り、振り向いて手招きする。
「こっち、こっち」
なれない雰囲気に二の足を踏んで入り口付近で佇んでいると、隣の椅子をパシパシと叩いて勧められた。
「いらっしゃい!ユリちゃん、今日は女の子二人なのかい?」
「そうなのよ~、可愛いでしょ?後輩ちゃんの秋元さん。大将、わざわざ美人連れてきたんだから、サービスしてよね」
遠慮の無い遣り取りに目を丸くしていると、大将と呼ばれた店主らしき男性はがははっと笑ってあたしたちの前に小鉢を置いた。
大根菜とジャコの和え物だ。話はしていても手元ではちゃんと作業していたらしい。
「ユリちゃんはいつもそれだ。で、なんにする?ビール?」
「今日は呑まないからゴハン。適当に」
余程の常連なのだろう。大将は納得したように頷き、調理に取り掛かった。
待ってる間に淹れてもらったお茶でのどを潤し、店内をキョロキョロと見渡す。
「よく来るんですか?ここ」
「うん?そう。あたしはここのゴハンで育ったようなものよ。ね、大将」
同意を求めるように大将にふると、彼は笑って頷いた。
「そうそう。ウチの味は"お袋の味"ならぬ"親父の味"ってとこだな。昔ッからよくお袋さんと弟との3人で来てくれてさ、『あたしチーズが入ってるハンバーグがいい!』とか『スープスパゲッティーは無いの?』とかって無茶を言われたもんだ!」
「なによー。大将だって意地になって作ってくれたじゃないの。忘れられないわー・・あのチーズハンバーグ・・・」
何を思ったのか、ハンバーグだねに仕込んだチーズがブルーチーズで、焼かれた熱々のハンバーグを切った途端、驚くほどの・・・
「ニオイが!!ねっ!」
「凄かった!!店中に立ち籠めて、慌てて喚起したっけなぁ・・」
腹を抱えた二人に釣られて、あたしも思わず笑ってしまった。
そのあとも坂下さんの子供時代の暴露話で花が咲く。涙を拭いながら笑っている間にも大将自らカウンター越しに料理が出され、アルバイトさん(実は大将の娘さんらしい)がゴハンと味噌汁を出してくれたことで、とりあえず食事に取り掛かることにした。
「おいしいでしょ~」
「はいっ。とっても!」
出された料理は魚の煮付けがメインの、和定食だった。主役のタラの煮付けのほかは五目の入った出し巻き玉子と、キャベツ中心の千切り野菜の浅漬け。端には黄色いたくあんが三切れ乗せてある。
一見したらごく普通の定食なのに、味付けがメチャクチャあたし好みだ。
「おいし~。おいしすぎますよぉ。坂下さん、大好き!」
ここに連れてきてくれたことを本気で感謝しちゃう!
「おーい、料理作ってるのは俺なんだけどなぁ?」
あたしの声を聞いた大将が、嬉しそうに口元を引き上げながらもツッコミを入れてきた。
わいわいと楽しくおいしく箸を進め、空になった茶碗を重ねてご馳走様でしたと手を合わせると、タイミングを合わせて熱いお茶が出てきた。
「すっごくおいしかったです!」
大満足でお茶を啜っていると、坂下さんが頃合いを計っていたのか、ホウッと一息ついたところで冒頭の一言。『単刀直入に訊くけど、芝クンとなんかあった?』だ。
「・・・え・・と、なんかって?」
惚けたってダメなのはわかっているけど、つい無駄な抵抗をしてしまう。
「あーきーもーとーさん。わかってるんでしょ?あたしが何を言いたいのか。あ、適当なこと言って誤魔化そうッたってダメだからね」
カウンターに頬杖をついて意味ありげに微笑まれたら、もう白旗を揚げるしかなかった。
「なにかと言われても・・・。本当に何かってことは無いんです。あったのは・・」
思い至ることが無いと前置きしてから、8月下旬に倒れたことや、倒れたあたしを芝さんが自宅で看病してくれたことを話した。さすがに着替えまでされたとは言えなかったけれど、敏い坂下さんのことだから口にしなかった部分も察してるかもしれない。
「なんだー、ほんとに何もなかったのねぇ。ん~・・じゃあどうしちゃったんだろう。芝クン」
腕を組んで考え込んだ彼女の様子に首を傾げる。
「そんなに芝さんの様子っておかしかったですか?」
「う~ん、そうねー。なんて説明したモンかしら。・・・ね、秋元さんから見た芝クンってどんなカンジ?」
「え?芝さん、ですか・・そう、ですねぇ・・明るくて人懐っこくて、結構おっちょこちょいで・・・大きなイヌっぽいイメージですよね?」
「イヌ!」
ぶふっと坂下さんが吹き出す。突っ伏して肩を震わせている。
「くふふっ・・そ・・そっかOKOK。・・・ふふっ。そうね、多分ほとんどの人が芝クンをそんな風に見てると思うわ」
「・・違うんですか?」
あたしの答えが間違ってたのかと思い、不安になった。
ジッと坂下さんの返事を待っていると、彼女はお茶を飲み干し、おかわりを頼んでいる。
「違わないわ。と言うか、アイツはそんな『芝 亮太』でいたいのよ。だからそう振舞っている」
「? 演じてるってことですか?」
「ううん。そうじゃないわ。いつものあの姿は紛れも無く彼よ。でもね全てじゃない。それはあたしや秋元さん、佐藤さんとかマモルち・・田神さんだって同じ。長年連れ添った夫婦だって、金婚式を迎えた後に「あれ?こんな一面もあったのか」なんてことだってあると思うの」
そんな感じよ。と言われても、まだよくわからない。
眉根を寄せて首を傾げていると、ふふふっと坂下さんはまた笑う。
「芝クンね、きっと心の中に根深いなにかがあるんじゃないかしら。それに拘っている自分を職場では見せたくないの。でも付き合いが長くなってくると油断がでてくるから、チラッと垣間見えたりするのよねぇ。そうゆうツメの甘さはホンット芝クンってカンジなんだけど」
「?」
「傍観者の口から伝えるのはマナー違反だと思うんだけど・・・まあ、いいわよね。本人はここにいないし。・・芝クンね、アナタのことか・な・り気にしてるのよ」
突然話の方向性が変わったみたいで、あたしはついて行けず狼狽える。確かに顔を合わせる度に可愛いとか言われるけど、それはあたし限定じゃないし、デートしようとか付き合おうといったセリフは言われたことが無い。
だから社交辞令的なものだと判断していたんだけど・・・
「100%断定はできないわよ?でもさっきも言ったけど、アイツ結構わかりやすいしね~。ふふふっ。そっかあ、好きなコと一晩一緒にいたなら確かにあの態度も頷けるわあ。しかも手出しができない状況なんて、蛇の生殺しよね・・・」
ご愁傷様と呟きつつもすごく楽しそう。一人でなにをどこまで想像しているのか、坂下さんはクスクスと笑っている。
「あの・・なにかいろいろ想像してません?」
彼女の脳内であたしはどうなってるのか心配になり、おそるおそる問いかける。けれど坂下さんは首を横に振った。
「心配しなくても大丈夫。状況がわかったからってナニかするわけじゃないから。グダグダするのは芝クンの自由だし、ヤツの気持ちを知ったからってアナタがどうするかっていうのも自由。あたしはただ、ギクシャクしてる原因を知りたかっただけだから」
ケロリと締めくくられたけれど、この後、あたしは店を出て坂下さんと別れマンションに着くまでの間、ずっと芝さんと、さっきの坂下さんのセリフについて考えてばかりだった。
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どうしてこんなに彼を見つけてしまうのだろう。
最近、芝さんとよく目が合う。ふと気がつくと彼の姿が視界にあり、視線が交差する。
今も同期の友人たちとお昼ごはんを食べようと社員食堂に来たのだが、トレイを持って席に着くと、隣のテーブルの更にその向こうだけど、営一の人たちと食事する芝さんを発見してしまった。
しかもコチラを見ていることから、あたしが食堂へ入って来たときから気がついてたみたい。
「ね、ね、あそこ。一課の佐藤さんたちが食事してるっ」
「え!どこどこっ?・・あ!やんっ!ほんとだぁ。ラッキー!こんなとこでお姿が見られるなんて思わなかった!」
トレイを手にした友人二人があたしと同じ人物たちを見つけはしゃぎ出す。目が合ったままだったあたしは、慌てて視線をそらした。
先日の坂下さんの言葉がいつまでも頭の中を占領し、どうしても意識しすぎてしまう。
それぞれが食事に箸を付け始め一旦話題は反れたけれど、あたしの隣に座った受付配属の岸さんはチラッチラッと斜向かいを気にしている。
「あ~~~ん!芝さんもいるよぉ。いいなぁ、一緒にゴハン食べたい・・」
「うそ!アンタ芝さん狙いなの?」
趣味わる~いと囃し立てる経理所属の渡辺さんの言葉に、何故かあたしがドキッとした。
「ひどい!芝さんカワイイじゃないの。なんかさーテディベアみたいじゃない?ねぇ、さゆみ」
同意を求められ、そうかな?と首を傾げて胸のうちの焦りを隠した。
「もー!」
プーッと頬を膨らませる岸さんの表情を二人で笑いながらも、食事を続ける。その間も幾度となく視線を感じたけれど、あたしは意識して彼のほうを見ないようにしていた。
「秋元さん」
仕事が終わり社を出て、駅へ向かうあたしを男性の声が引きとめた。立ち止まって振り向くと見覚えの無い男のヒト。
彼は同じ会社の先輩だと言ってあたしの目の前に立った。
「あの、少し時間をいただけませんか?」
頬を赤らめ、緊張をはらませた表情で見下ろされると、なんだか「否」と言いにくい。
渋々ながらに頷くと、彼はほんの少しだけ全身の強張りを解いて、すぐ目の前のファストフードの店に誘ってきた。
今日は残業もなくて終業時刻通りに上がれたせいかまだ外は明るくて、店内は学校帰りの学生さんが多い。とりあえず的に飲み物を二つ注文。頼んだ物が出てくるまでの間に、先にあたしは窓際のテーブル席へ。
「はい。お待たせしました」
少しして彼がトレイを手に向かいの椅子に座り、あたしが注文したアイスティーを目の前に置いた。
「すみません」
「いえ。あの・・・」
再び緊張しだした彼は、まるで面接官でも前にしてるみたいに居住まいを正すと、「あ~」とか「う~」と何か言葉を探すように唸りだし、直後、覚悟を決めたようにキッとあたしをまっすぐに見つめた。
「秋元さん!アナタが好きです!俺と付き合ってくれませんか?」
「え・・・」
直球のストレートな告白。声が大きかったせいで後ろの席に座る女子高生にまで聞こえたらしく、背後で興味津々な彼女たちがキャーキャーと騒ぎ出す。
「アナタが入社してきた時からずっと好きでした」
注がれる熱いまなざしに気圧されて怯んでしまいそう。どうしたらいいのかわからなくて、あたしは俯いてアイスティーの紙コップについた水滴を眺めていた。
「・・・もしかして恋人がいますか?」
「あ、いえ・・いません、けど・・・」
「じゃあ好きなヒトが?」
「・・・・・・」
好きなヒトと問われて思い浮かんだのは、なぜか佐藤さんじゃなくて・・・
自分のことなのに、無意識に思い浮かべてしまった人物にビックリする。
「あ・・あの、・・・・・・・・・・・・はい」
困惑しつつも、口をついて出た答えは肯定だった。
「・・・・・・すみません」
立て続けに謝ると、彼はハアァァァ・・と深いため息をついて項垂れた。が、すぐに再び背筋を伸ばすと、深々と頭を下げてきた。
「秋元さんが謝る必要はありません。それなりに一応覚悟はしていたんだ。アナタみたいな人に恋人がいないわけが無いって」
清々しいくらいにさっぱりとした口調。正直拍子抜けした気分。
ポカンと目を見開いているあたしに構わず、彼は苦笑いしてグラスを手に取った。ミルクやガムシロップを入れず、ストローも使わないで直接グラスに口をつけると、一気に中身を飲み干した。
カランと氷がなる。
「ダメ元だったし、こうして向かい合ってもらえない可能性も考えたんだけど、秋元さんはちゃんと正面に座ってくれて、キチンと返事をしてくれた。・・NOだったけどね。でも、今日はこれで十分です」
「十分?・・今日は?」
告白を受け入れてもらえなかったのに、すっきりと晴れやかな彼が不思議だ。あたしにはマネできない。佐藤さんに振られたあと暫く、廊下ですれ違うだけでもすっごく緊張したもの。
「そう。今日は。好きなヒトがいるといっても恋人じゃないなら、まだ諦めなくていいかなと思ってね」
「スゴイ前向き・・・」
あたしの呟きが聞こえたらしく、彼はにっこりと笑って「俺の唯一の長所です!」と言い切った。
なんだか肩から力が抜けて、あたしのアイスティーが飲みきるまでの短い時間だけど、二人楽しく上司の話とかで盛り上がった。
「今日はありがとう。もしその好きなヒトにフラれたら、俺のことを思い出して」
店の外で別れるとき、最後まで冗談めかしたことを言って笑い合って手を振った。彼の本音の部分はどうかわからないけれど、思いがけず楽しかったひと時にさっきまでの重たかった気分が軽くなったような気がした。
・・・・・・・・・・・・なのに。
駅へ向かうために踏み出したあたしは、進行方向の少し先でこっちを見ている彼に気がついた。いつもの明るい笑顔はなく、睨んでいるといっても過言ではない鋭い視線であたしを捕らえている。
「芝さん・・・」
心臓がぎゅっと握られたみたいに痛い。
目を逸らすことも彼に近付くこともできず、立ち止まったまま、まるで足の裏に根が生えたみたいに動く事ができない。
きっと見つめ合っていたのはほんの数秒。だけど、あたしにはものすごく長く感じた。
先に動き出したのは芝さん。ただジッと距離を詰めてくる彼だけを見ていると、30センチほどの隙間を残してすぐ目の前に立ったそのヒトは、上からあたしを覗き込み、僅かにためらいを見せたあと苦しそうに呟いた。
「・・井上さんと付き合ってるのか?」
「え?」
唐突に出された名前が一瞬わからなかったけど、ああ、さっきまで一緒にいた彼が確かそう名乗ったことを思い出した。
「井上さんと・・」
「いいえ。付き合ってません。さっき告白はされたけどお断りしたんです」
まっすぐに見上げながら、はっきりと告げる。
「・・・でも楽しそうだった」
苦々しげな口調にカチンときた。井上さんに好きなヒトがいるのかと問われた時、芝さんを思い浮かべた事が今更ながらに腹立たしい。
「何が言いたいんですか?あたしにどうして欲しいの?」
「・・・なにも。ただ、キミがオレを見るから・・」
視線が絡むたびに気になって仕方がなくなる。と続けられて、あたしはムッと反論した。
「違います。芝さんがあたしを見てるんですっ」
いつも貴方があたしを見るから。だからあたしも気になって貴方を見てしまうのだと返す。
「あたしを見ないでください!」
「・・・」
「もう心を掻き乱さな・・」
八つ当たりのように怒鳴ったあたしを、力強い何かがギュウッと包み込む。そのまま拘束され、息が止まった。
布越しに感じる、あたしよりも高い体温。汗のにおいとウチとは違う洗濯洗剤の香りに、心臓が高鳴った。
ここが往来なのだということすら忘れ、背中に回された手の温度を感じていたが、耳元に寄せられた彼の唇から漏れ出た言葉は、あたしの鼓膜に冷たく響いた。
「・・・キミは佐藤さんが好きなんだ。間違ってもオレじゃない」
オレであってはいけないと暗示をかけるように繰り返し、彼はゆっくりとあたしから離れた。
「オレなんかじゃダメなんだ・・」
最後にそう言い残すと、あたしを一人置き去りにして彼は背中を向けて歩き出した。
一方的に与えられたぬくもりは彼の身勝手により取り上げられ、あたしは未練がましく遠ざかる芝さんの後姿を、薄暗い夕暮れに解けて見えなくなってしまうまで、いつまでも見つめていた。
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秋分の日を明日に控えた土曜日。このところの鬱々とした気分を抱えたまま、いつまでもうだうだとベッドの中で丸まっていた。
「ちょっと、いつまでゴロゴロしてるつもりなのよー。いい加減に起きて片付けなさい!」
休日だと言うのにいつも変わらない時間に起床するお姉ちゃんが、ベッドの脇で腰に手を当てて怒っている。
「せっかくのお休みなのに~・・」
「せっかくのお休みだからでしょ。天気もいいし、今日のうちに掃除・洗濯済ませちゃうわよ!」
「ふぁああ・・・い」
あくびをしながら返事をするとちょっと呆れたらしく、お姉ちゃんは「もうっ」と一言残して部屋を出て行った。
ずっと考え事をしていたせいで、あまりよく眠れなかった。重たい頭とだるい体を何とか起こし、もそもそとベッドを出て窓へ。カーテンを開けるとすでに朝日ではない太陽の光が目に刺さって眩しかった。
一昨日、芝さんに抱きしめられた。会社で見る明るくてお調子者ってカンジの彼ではなく、真剣な表情は暗く曇っていて、吐き出された言葉はなんだか自身を否定しているみたいだった。
『間違ってもオレじゃない。オレであってはいけない』
『オレなんかじゃダメなんだ』
なんで?どうして?疑問がぐるぐると脳内を駆け巡る。
あたしが誰を好きだって、あたしの勝手じゃない。間違いとか、そうあってはいけないとかは他人が決めることじゃない。
あたしが決めることよ。
知り合ってからまだそんなに長くは無いけれど、顔を合わせれば可愛いと言ったり何かにつけて声を掛けてきたりしてたくせに、今になって突き放すようなセリフを言うなんて、あたしの気持ちは全然考えていな・・・・・・
「・・・あたしの気持ち」
芝さんが言ったように、確かにあたしは佐藤さんが好きだった。思い切って告白して、フラれて大泣きしながら帰宅するくらい佐藤さんが好きだった。
だけどいつの間にか失恋の傷は癒えていて、その代わり芝さんが心の多くを占領し始めた。それなのに・・
「バカ・・・」
苦しそうな顔で拒絶する彼が、あたしは悲しくて仕方がなかった。
「明日?」
午後を家事で慌しく過ごし、くたびれたあたしたちは夕飯に簡単なチャーハンを作って済ませて、今、デザートに買い置きしてあったアイスを楽しんでいる。
煩わしいことは頭の隅っこに押しやって、バラエティー番組を見ながらのバニラアイスに至福の気分でいたのに、同じ様にストロベリーアイスを食べていたお姉ちゃんが、急に思い出したようにあたしの明日の予定を訊ねてきた。
「さゆみも一緒に行かないかな~と思って・・」
「どこへ?」
あたしと一緒にと言いながらもなかなか場所を言い出さない。だからあたしはピンときた。
「・・・もしかして、家?」
眉を顰めて訊けば、お姉ちゃんは諦めたように頷く。
「翔ちゃんの誕生日なんだって」
昨日のうちにお父さんからメールが来たのだと白状した。
翔はお父さんと尋子さんとの間に生まれた腹違いの弟で、あたしとは19、お姉ちゃんとは22歳も離れている。ほとんど親子だ。
「あたし行かな・・」
「さゆみ」
今まで通り行かないと言おうとしたあたしの言葉を、お姉ちゃんのややきつい声がさえぎった。
「さゆみ、もうやめようよ」
「・・・なにを?」
お姉ちゃんがなにを言いたいのかわかってるけど、わざとわからないフリをして聞き返す。
それまでおいしかったアイスがなんだか味気なくなってしまい、木のへらで残りをぐるぐるとかき回した。
「わかってるでしょう?誰も悪くないって。いつまでも意地を張ってたってお互いに辛いばかりじゃない」
「悪くないわけ無いじゃない!なんでそんな事が言えるの?お姉ちゃんだってイヤだったから高校の寮に入ったんでしょ?許せないから就職を機に一人暮らしを始めたんじゃないの?」
予想もしなかった言葉に腹が立った。持っていたアイスのカップを叩きつけるように置くと、すでに解けて液状になったアイスだったものが飛び跳ねて、テーブルに大小の白い水玉ができた。
当時、あたしほど言葉にして表さなかったけれど、態度は如実に語っていたと思う。それなのにどういう心境の変化なのか、最近のお姉ちゃんは少しずつお父さんたちと連絡を取ったり、今回のようにイベントがあればそのつど実家に顔を出しに行く。
「なんで?どうしてそんなにあっさりと考えを変えることができるの?・・・二人のこと認めるつもり?」
「認めるも認めないも無いわよ。ちゃんと大人の二人が、・・ううん、出て行ったお母さんも含めて三人、この先の人生とか人間関係とか、もちろんあたしたち子供のこととかも考えたうえで出した結果のはずよ。それにね、たとえ親子でもあたしたちにお父さんの人生にまで口出しする権限は無いと思うの」
「あるわよっ。あたしたちあんなに傷ついたじゃない!」
「ないわ。確かにあたしたち子供を巻き込んだことはムカつくけど、だからってお父さんのこれからの人生にまで干渉はできないわよ。あたしたちだっていつかは結婚して親元を離れるわけじゃない?一生一緒に暮らすと言うのならともかく、きっと近いうちにお父さんやお母さん以上に大事に思える人と巡り合って、結婚・・」
「でも!・・・っ」
「もうね、怒ってるフリなんかしなくていいのよ。さゆみ」
本当はわかってる。ずっと許さないと言ってきたのは単なるフリでしかないことを。もともと大好きだった先生なんだもの、そう簡単に嫌いになんてなれない。だからこそあたしは家に近付かないようにしていたし、連絡もしなかった。
とっくに怒りは治まっているのに、頑なな態度をとり続けていないと、家族4人でほのぼのと幸せだった頃の思い出が色褪せてしまいそうな気がして、怖かったから。
「なによ。何も泣かなくってもいいじゃない」
まんまとお姉ちゃんの誘導に引っ掛かって、本心と向き合わされた事が悔しい。
いつの間にか溢れ出ていた涙が、頬を伝ってぼたぼたとアゴから滴り落ちる。次から次へとこぼれるそれを止めることも叶わず、あたしはキッとお姉ちゃんを睨んだ。
数枚引き抜いたティッシュを差し出され、ひったくるように受け取ると力いっぱい鼻をかみ、丸めてお姉ちゃんにぶつけてやった。
「! 汚いわねぇ」
拾ったティッシュを投げ返される。戻ってきたものを更に投げつけ、おまけに傍にあったクッションも投げつける。
「あッ、それ反則よ!」
「そんなルール無いわよ!」
手の届く範囲にあるものを手当たり次第に投げ合って(硬いもの、危ないものはNG)、疲れて息切れをし始めた頃、やっと二人は落ち着いた。
ぐるりと見回すと、昼間にせっかく掃除してきれいにしたのに、まるで泥棒が入ったみたいな惨状になっている。
でも、なんだかスッキリした。
「うわ~、こりゃあ片付けが大変だわぁ・・」
疲れて床にゴロンと転がると二人で目を見合わせて、同時に吹き出した。クスクスと笑い合っていると、子供の頃に戻ったようでなんだか懐かしい。
「・・・お姉ちゃん。翔、可愛い?」
「そうね~、お父さんはさゆみの小さい頃に似てるって言ってるわ」
「じゃあ可愛いじゃない」
まだ見ぬ弟に興味がわく。あたしの答えが可笑しかったらしく、お姉ちゃんはまた笑い出した。
「明日さ、何時頃に行くの?その前にどこか寄れる?」
「・・・お昼に合わせて行くことになってるから、途中でデパートに寄れるわよ」
一緒に選んであげると言われ、あたしは囁くような小さな声でありがとうと返した。
余談だけど、このあと部屋の片付けを始めたあたしたちは、クッションがアイスのカップを弾き飛ばしていることに気がつき、呆然。お互いに責任を擦り合いながら、深夜遅くまで掃除するハメになった。
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今年は秋がとても短かった。
いつまでも残暑が続いていたかと思ったら突然冬のような寒さに替わり、通勤途中でも服装の選択を誤って寒さに耐える人の姿を多く見かけた。
あたしも慌てて冬物の上着を引っ張り出して出社したりと今日は朝から騒がしくって、普段ならキチンと纏めてくる髪もそのまま下ろした状態。首筋は温かいし、駅から一緒に歩いてきた同僚からは下ろしているのもいいと言ってもらえたけれど、どうしても仕事中邪魔になるので席に着いたら結んでしまおうと思っている。
エレベーターで課のある階まで上がる際、まだ顔を合わせる覚悟が決まってないのに、タイミング悪く(?)芝さんと乗り合わせてしまった。
「おはよう」
「・・・おはようございます」
気まずさのかけらもなく晴れやかにいつもの笑顔で挨拶され、ちょっと拍子抜けしつつもためらいがちに挨拶を返す。
並んでドアのほうを向き、言葉もなく、ただ黙って回数の表示を見つめていた。
ポォンと到着を報せる音が鳴りドアが開く。先に踏み出した彼はあたしにだけ聞こえるような呟く声で「ゴメン」と言い残して早足で行ってしまった。
のろのろと箱を降りたあたしは遠ざかる彼の後姿を見ていたけれど、振り向いてさえくれないことに段々と腹が立ち、乱暴に靴音を鳴らしながら芝さんを追いかけた。
「芝さん!」
ちょうど一課に入る寸前だった彼の二の腕をつかんで引き止めると、驚いたように振り返った双眸があたしを見下ろす。逃げられないうちに帰りに話がしたいと伝えて、にっこりと作り笑顔で笑いかけた。
「逃げないでくださいね。無駄ですから。あたし、坂下さんにほぼ全容をお話しているので」
ワザと彼が逆らえない人間の名前を出し、絶対に逃げられないんだと忠告しておく。目を見開いて二の句が継げずに口をパクパクさせている芝さんを放置して、あたしは自分の課へ向かった。
メールが送られてきたのは終業の少し前。外回りで社を出ていてそのまま直帰するから、話をするのなら社外のほうがいいとのこと。提案されたのは駅近くの喫茶店で、あたしも初めて入ったけど、正直若いヒト向きって感じじゃない。『レトロ』『アンティーク』・・言葉を選んではみたけれど、一番しっくりくるのは『辛気臭い』。
まあ、店の内装はともかく、今は目の前に座る芝さんと話すのが先だ。
「いや~、悪いねっ。少し待たせちゃった?秋元さんに誘われたなんて他のヤツに知られたらオレ、袋叩きにされちゃうかもな~」
ほんの少しだけ遅れてきた芝さんは、暗い雰囲気の店内にはそぐわない明るい大きな声で話しながら席に着き、あたしの前にカップがあるのを確認した後、カウンターに向かってブレンドを頼んだ。
あたしはその間、ただ黙って彼を見ている。
「それで話ってなにかな?はじめに言っとくけど人生相談ならオレは不向きだよ。まだ若造で人生経験が浅いから。あ、金の話もダメね。オレ、いつもスッカラカンだから」
「・・芝さん」
「もしかして仕事のこと?あ~~~それもオレじゃあ力になれないわ!今日も主任に二度も怒られちゃったしね。できれば同じ課の先輩か,一課なら田神さんか佐と・・ッて違う?んー、それじゃあ・・」
「芝さんっ」
「恋バ・・」
「芝さんっ!!」
ずっと話し続けようとする彼に制止する。思いのほか大きな声がでてしまい、トレイを持ってそばまで来ていた店主らしきオジサンが、目を丸くして立ち止まった。
「あ、すみません・・」
オジサンに謝ると、芝さんが注文した品をテーブルに置き、静かにカウンターの向こうへと戻ってゆく。
後姿を見送ったあたしは、やっと芝さんと向き合う事ができた。
二人の間に静寂が漂う。
「・・・」
「・・・」
彼は重い空気に耐えられないのか、ソーサーを引き寄せると砂糖やミルクを入れずにそのままカップに口をつけ、一口啜って「まじぃ・・」と呟いた。
好みに合わなかったらしいコーヒーを諦めたみたいで、カップを脇に寄せた彼は手持ち無沙汰なのか、使わなかったスティックシュガーを弄びながら、躊躇いがちに「あのさ・・」と話し出した。
「話って、この前のことだよね。その・・ゴメン。あの時は勢いと言うか流れと言うか、無意識に?・・・と、とにかく勘違いしそうだったけどそんな訳ないってわかってるから!」
「え・・」
勘違いってなんだろう?あたしあの時なんて言ったっけ?
「ホント、オレみたいなヤツに秋元さんが・・・いや、うん。ありえない・・」
自分を否定するような言葉が引っ掛かる。
『オレのことはどうでもいい』
以前聞いた彼の言葉を思い出し、微かに胸の奥がざわついた。
一瞬、ほんの僅かとはいえ下卑た笑みを浮かべたのを見てしまい、いつもとは違う彼を感じた。
「なんでそんな言い方するんですか?」
「言い方?」
「そんな自分を否定するみたいな・・」
すぐには意味がわからなかったようだが、否定と言う単語に納得したらしく、ハハッと乾いた笑い声を漏らし頬杖をついて俯いた。
「否定か・・上手い表現だね。秋元さん・・・・・・オレ、落ちこぼれなんだよ。落伍者」
歪んだ笑みを貼り付けたまま、彼らしくない独白が続く。
「ウチはオレを除いてみんな医療従事者ばかりなんだ。実家はちょっと大きめの病院でね。もう亡くなったけど祖父さんが院長やってて。・・・ま、早い話がオレは出来が悪くて医者になるだけの頭がなかったんだ。医師以外にも医療に携わろうと思えば色々と職種はあるんだけど、親父やアニキに止められたんだ。無理に医療関係に進む必要はないって」
当時のやりきれない気持ちを思い出したのか、遠い目で空を見つめ、唇の端をかんだ。
「ああ、見放されたか・・と思ったね。ちょうど受験の頃だというのも災いして、志望校に失敗。投げやりな気持ちで入った大学を怠惰にすごしたツケなのか、就活も全然上手くいかなくて。・・・・・・これまでずっと負け越してるってのに、そんなオレが君を想うとか、身の程知らずにもほどがあるよなぁ・・」
「え?」
そんな権利などあるわけないと、自虐的なセリフの中に、聞き逃してはいけない言葉が混じってた。
もう一度聞いて確かめたかったのに、彼は一人の世界に浸かって自己否定を続けている。聞いてるうちに段々と腹が立ち、ムリヤリ彼の声をさえぎった。
「身の程知らずってなんですか?誰かを想う時、資格とか権利とか必要なんですか?」
あたしのきつい口調に、芝さんは驚いたように口を噤む。
今このときあたしが思い浮かべたのは、つい先日数年ぶりに足を踏み入れた実家で、はじめこそ驚愕してうろたえていたけれど、囁くような小声ではあったが「ただいま」と告げた瞬間フワリと花がほころぶ様に笑ってくれた、お父さんの奥さん・・尋子さんのことだった。
それまで頑なだった娘が急に歩み寄ったことを不思議に思っただろうケド、お父さんは何も言わずごく自然に迎え入れてくれて、ぎこちないながらもあたしたちはやっと、やっと『家族』になった。
『まゆみちゃんにね、今日さゆみちゃんも来るかも知れないって教えてもらった時は、嬉しすぎてすぐには信じられなかったわ』
酷いことをした自分は許してもらう権利なんてないのに、こんな日が来るなんて、夢のようだと彼女は嬉涙をこぼしていた。
はっきり言えば蟠りがなくなったわけじゃない。でも、あたしも苦しいほどの想いがあることを知って、ほんのちょっぴり、二人の気持ちを理解することができたんだと思う。
長きに渡って駄々をこねる子供のような態度をとっていたあたしを知られるのは恥ずかしいけど、資格とか権利とかばかりを気にしていたら決して結ばれることはなかっただろう二人を知って欲しくなった。苦難を乗り越えて想いを貫いたお父さんと尋子さんを、今はちゃんと認めたいと思ってるから。
まっすぐに目を見つめ、我が家の経緯と先日の弟の誕生日会でのことを順を追って話す。突然始まった身の上話に、芝さんは始めこそ訝しげに眉を顰めていたが、次第にゆっくりと表情を緩めていった。
「・・・スゴイね。秋元さんは」
急にスゴイと言われても・・・意味がわからなくてあたしは首を傾げる。
「なにがですか?」
訊き返したあたしをチラッと見たけれど、芝さんは微苦笑してすぐに視線をはずし、再びカップを傾ける。
「キミは立ち向かえる人なんだと思ってね。オレは・・・ダメだな。普段明るく努めてるけれど、その実ネガティブシンキングな質だから」
痛みを堪えるような、辛そうな顔で羨ましいよ。と呟き目を伏せた。
再び視線をそらされてしまい、コチラを見ようとしてくれない。あたしの中で悲しい気持ちがどんどん膨らんだ。
「・・・芝さん。そんなにあたしがイヤですか?」
「え?」
「そんなにあたしと向き合うのが苦痛ですか?」
彼は訝しげに眉根を寄せた。
「そんなことはないけど。え・・と、どうしてそう思うの?」
「だって・・・」
なんだか悲しくなってきて、鼻の奥がツンと痛くなる。みっともない顔を見られないように慌てて下を向くと、手付かずと言っていいほど残っているカップが、ユラユラと滲んで揺れた。
スンッと鼻を啜ると、その途端、涙が一粒テーブルに落ちた。
「秋元さんッ?」
「~~~ぁってぇ・・だって・・、この前から全然あたしを見てくれないじゃないですかっ!」
坂下さんのうそつき!芝さんがあたしを気にしてるなんて言ってたけど、実際はこうして目が合うことすら拒絶されている。
いつからこんなに避けられるようになってしまったのかと考える。最初は会うたびに可愛いッて言ってくれてたのに。
さっきは想ってるって言ったくせに。
「えっと、あの、ゴメン?」
「謝って欲しいわけじゃないんです!なんであたしを避けるんですかっ?」
「・・・」
「ちゃんと言ってくれないとわかんないっ」
頭のずっと隅に残ってる冷静な部分が、なんでこんなにムキになってるんだろうと問いかけてくる。でも一度堰を切った感情は止めようがなく、ジッと静かにあたしを見つめている彼に、半ば八つ当たりのように、詰問し続けた。
「可愛いって、美人だって言うくせにデートには誘ってくれないし、あの看病してくれた時だって結局何もなかったし、あたしってそんなに魅力ないですかっ?」
「いや・・そんなことはないよ」
「うそ!!だって近頃は明らかにあたしを避けてるもん!あまり目を見てくれなくなって、前よりも声をかけなくなった!・・・・・・そんなに嫌うなら、最初からあたしに近付かなければよかったのよ」
あとで思い返したら絶対に恥ずかしすぎて死んじゃいそうなセリフ。でも今は全部吐き出さないと、苦しくて耐えられない。
「ヒトの心にズカズカと入り込んで、好きにならせておきながら今度は拒絶するなんて酷すぎるよぉ・・」
「え!ちょっと待って!落ち着いて!ストップ、ストップ。秋元さん、今なんて言った?!」
突然勢い込んであたしを宥めようとする。紙ナフキンをまとめて取り出し手渡してくれる。・・デジャヴ?涙を拭いながら以前にもこんな場面があったような気がすると思った。
勧められるままにカップの中身を飲み干し、ソーサーに戻したところを見計らって、芝さんは改めて「もう一度言って欲しい」と請うた。
「もう一度?」
「うん。さっきの言葉を」
ついさっきまで全然あたしを見てくれなかったのに、掌を返したように、今は身を乗り出してあたしの顔を見つめている。こっちを向いてくれなければ悲しいけれど、ずっと凝視されたらなんだか怯んでしまう。
でもやっと視線が合わさったことに安堵し、嬉しく思う気持ちをもう偽れない。
あたし、芝さんが好きなんだ。
「えっと、『酷すぎる』?」
「いやいやいや、それよりももうちょっと前!」
「『拒絶するなんて』?」
「・・・秋元さん、ワザとやってる?」
誤魔化すつもりはなかったけど、自分自身言葉にしてみて初めて気がついた気持ちを、改めて口にするのは少し恥ずかしいし、照れ臭い。モジモジと空になったカップの柄をいじっていると、逃げ道をふさぐようにソーサーごとカップを遠ざけられた。
「秋元さん。お願いだから」
向かいから空いた手を取られ握られる。大柄な彼の手は、体格に比例してとても大きい。そして熱いぐらいに熱っぽかった。
真剣にまっすぐあたしを見据える彼のまなざし。そこにはあたしが抱いていた、芝さんの明るくお調子者な印象は鳴りを潜め、普段はつねに笑みを湛えているせいでややタレ目だと思ってたけど、その実よく見ると眦はほんのちょっと攣り上がり気味だった。
なんかちょっと、カッコイイ?
「『好き』・・・」
自然と言葉が零れ落ちた。途端、あたしの手を包み込む彼の手に力が入り、更にギュッと握り締められた。
「好き。あたし、芝さんが好き・・みたい」
「みたい?」
言葉尻を繰り返し苦笑いされ、断定じゃないんだ?と訊かれた。
「だって、気がついたばかりなんだもん。少し前まで他に好きな人がいたのに、いつからか芝さんの事が気になるようになって、さっき、ああ・・好きなんだなぁって思ったから」
「好きな人・・佐藤さんだよね」
「好きだった人。・・・なんで知ってるんですか?そのこと」
前にもちょっと不思議に思った。あの抱きしめられた日。あたしが佐藤さんを好きなんだと芝さんが言ったから。
首を傾げるあたしに、彼はさっきまでの卑屈っぽいものとは違う、ちょっとだけ楽しそうな微苦笑を浮かべて一言。「女史」と。
「坂下さんっ?」
「うん。あのヒトすごく鋭いから、オレが本気だってわかってたみたいで、釘を刺された」
「え・・なんて?」
「『恋も時には早い者勝ちだから、あとになって泣き言を吐いたらぶっ飛ばすわよ』って。もたもたしているオレが悪いんだから、佐藤さんとキミが付き合いだしたとしても文句は言うなってことらしい」
手厳しい!!あたしには優しい先輩なのに・・・
でもきっと芝さんのこともすっごく心配してたのだろう。お姉さんみたいにハラハラと芝さんを見守る坂下さんを想像して、可笑しくなった。
一人クスクスと笑っていると、握っていたあたしの手をぽんぽんと叩く。
「ところで・・・どうする?」
突然訊ねてくる彼をきょとんと見つめる。どうするって・・・
彼がなにを言いたいのかわからず、そのまま次の言葉を待っている。すると、些か躊躇いつつも確かめるように続きを告げた。
「秋元さんの気持ちも聞けたし、オレの気持ちも知ってもらえたと思うんだけど、オレと付き合ってもらえるかな?・・いや、付き合ってほしい」
嬉しい。すごく嬉しいけど一箇所気になったところがあり、あたしは訂正を求めた。
「芝さん。まだダメです。だって・・」
『オレの気持ちも知ってもらえたと思う』って言うけど、あたし、決定的な一言をまだあなたの口からちゃんと聞いてないもの。
ちゃんと、まっすぐにあたしを見て、そして言って欲しい。恥ずかしくて耳朶が熱くなる。口篭りながらもそう強請ると、芝さんは嬉しそうに笑って頷いた。
「秋元さん。オレ、キミのことが・・
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「みんな驚いてましたね」
ふふっと笑うと息が白く広がる。街灯の明かりが下を通過する二人を撫でるように照らし、後ろに伸びていた影が歩調に合わせてゆっくりと主を追い越した。
口元まで引き上げたマフラーのせいでややくぐもった声になったけれど、隣に並んで歩いていた彼にはちゃんと聞こえたらしく、「そうだね」と笑って返してくれた。
2月の初旬。日中でもかなり寒いのに、夜ともなれば頬に当たる空気は冷たいを通り越して痛みさえ感じるほど。ほどよくアルコールが入った彼はあんまり寒そうに見えないけど、あたしはワケあって現在お酒は飲めない。もともと弱いほうだし、それほど好きでもないから困ることはないけど、こんな寒い日はちょっと羨ましいかも。
コツコツと二人分の足音が人気のない住宅街に響く。
体調を考えて2次会は遠慮したあたしと、心配だから送ると言って一緒に彼も抜けて帰ってきた。他のみんなよりも余程早く帰路に着いたけれど、それでもそれなりの時間になり、道行く人の姿は少ない。
でも誰も見てないから、人目を気にせず堂々と手をつないで歩けるのが楽しい。
特になにを話すわけじゃなくても、さっきまでの大騒ぎの余韻を味わいながら、あたしたちはとても気分がよかった。
「えー、諸先輩方、同期、そして後輩の皆さん。この場を借りて、オレから是非ともご報告したいことがあります!」
年が明けて一月ちょっと。関西支社への転勤が決まった佐藤さんの送別会が、かなり前倒し気味に行われた。
某有名居酒屋チェーン店の宴会場に集まったのは当然一課のメンバーがほとんど。なのになぜか課の違うあたしまで誘われ不思議だった。けれど、宴会が始まりそこそこ皆が出来上がってきた頃、主役を差し置いて芝さんが改まった姿勢で声を張り上げたことで理由がわかった。
「いよっ!待ってましたぁ!」
坂下さんの合いの手が入り、その場の全員が彼に注目する。ニコニコと笑顔で芝さんと視線を交わす彼女は、これから彼がなにを言おうとしているのかがわかってるみたい。それもそのはず、坂下さんにはもうすでにいろいろと報告済み。
お酒が入ってやや出来上がった同僚たちを前に、ちょっぴり緊張した面持ちで芝さんは爆弾報告を投下した。
「ワタクシ芝 亮太は、このたび営二課のアイドル、秋元 さゆみと婚姻の結びと相成りましたことを、ここに宣言いたしますです」
普段使い慣れない丁寧語は大失敗だけど、誰もそんなことは気にしない。・・というか、それどころじゃない。彼の話が終わった途端、祝辞とも悲鳴とも、野次ともとれる声がそこかしこから飛び出した。
「おおおっ!マジか?!やったな、芝!」
「嘘だろう?!なんで秋元さんが芝なんかと・・っ。むかつくが、絶対に幸せにしろよ!」
数人の男性社員たちに引き倒され、グシャグシャと髪を掻き乱されたり、バシバシと背中を叩かれたりする彼はとても嬉しそう。「やめてくれ~」と言いつつも、顔は笑顔全開だ。
もみくちゃにされる彼を微笑ましく眺めていると、同期の村井さんがズズイッと隣に移動してきた。
「なによー全然呑んでないじゃないの。もう!ダメよ。主役なんだから!」
そう言ってドリンクのメニューを手渡されたあたしは、主役は佐藤さんでしょと指摘しつつも、苦笑しながら実は・・と耳打ちした。
「えええっ!!ウソ!もうすぐ4ヶ月ぅ~~~?!」
せっかくこそっと教えたのに、彼女は驚きが大きかったらしくて大声で叫び出し、途端、会場内は水を打ったような静けさになったが、次にはギャーッともワーッとも表現しづらい悲鳴と喚声に包まれた。
「ちくしょー!!秋元さんがすでにキズモノにっ!」
「芝のクセに生意気だ!」
「いついついつっ?!予定日は?!男の子と女の子、どっちがいいの?!」
嵐に巻き込まれたような騒ぎの中、助けを求めるように坂下さんを探すと、騒動の一群から離れたところで佐藤さんと二人で話し込んでいた彼女を見つけた。
主に女性人からの集中砲火を何とか逃れ、坂下さんの隣に非難する。すると彼女を挟んだ向こう側の佐藤さんが、「おめでとう」と声を掛けてくれた。
「ありがとうございます。えっと、あと、以前はスミマセンでした」
「ん?・・・ああ、あの電車の中でのことかな?」
「はい・・」
二人で話し始めると、真ん中の坂下さんが意味深に笑う。
「いや~ね~。そんな昔のことを今頃謝ってるなんて。秋元さん、いいのよこのヒトのことは気にしなくて。佐藤さんは佐藤さんで今、恋に悩んでる真っ最中だからほっときゃいいの。それにホラ!あなたがコレに近付くと誰かさんがハラハラしちゃうでしょ?」
「コレって言うな。それにバラすなよ」
さらりと重要な事実を暴露され、佐藤さんは憮然した様子で坂下さんを睨んでる。あたしはポカンと目見開いていたが、一拍後に慌てて芝さんを振り向き、彼がまだみんなに酒攻めにあってるのを確認すると、ホッと安堵した。
「それにしても、秋元さんもまたメンドクサイのを選んだモンよねぇ。あのバカ、能天気に見せかけて結構後ろ向きじゃない?すぐに耳と尻尾を下げてショボンって落ち込むのよ。うわっ!ウザっ!」
芝さんをイヌに例えたセリフが可笑しい。ずっと前にイヌっぽいって言ったのはあたしだけど、それを忘れずにいたらしい坂下さんに思わず笑ってしまう。
あたしだったら絶対にゴメンだわ!と顔をしかめる坂下さんに、あたしは眦に浮かんだ涙を拭いながら返答した。
「でも、そんなところも可愛く見えてきちゃったんです」
惚気てると自覚してても、やっぱり恥ずかしくて顔が赤くが染まるのがわかる。熱くなった頬を押さると、ふたりは呆れたような表情で「ハイハイ」と受け流した。
そのまま暫く3人で話し込んでいたけれど、そろそろ場を移して2次会に繰り出すと言うので、あたしは体のことを考えて先に抜けさせてもらった。
帰り際、改めてもう一度佐藤さんに向かい合い、深々と頭を下げる。
「短い間でしたが、本当にありがとうございました。・・佐藤さんがあの日、ひとり残ってるあたしに気付いてくれなかったら、今の、この幸せってなかったと思うんです。だから、フラれたことも含めて、感謝してます。・・ありがとう」
「う~ん。なんか微妙な謝辞だけど、一応素直に受けとめよう。こちらこそ。・・芝のこと、よろしく頼むな」
ちょっとだけ意地悪したお礼の言葉にも、初めて見た時から変わらないステキな笑顔で返される。ホント、何度見てもステキ。いつ見てもステキ。フラれてもステキなものはステキ。
最後にもう一度会釈を交わし、あたしを送ってくれるつもりらしく先に挨拶を終えていた芝さんの元へと小走りで駆け寄る。危ないから走るなと注意する彼に、心配性だなぁと苦笑して腕を絡めた。
「ねぇ亮太さん。あたしね、あの会社に入ってよかったな・・」
マンションのエントランスの手前で。突然なんの前触れもなくそんなことを言い出だしたあたしを、彼は一瞬きょとんと見下ろしてきたけど、なにを言いたいのかすぐに察してくれたみたいで、
「うん。そうだね」
「オレも」と、穏やかに同意した。
繋がった手から彼の体温を感じていると、このまま別れてマンションに帰るのことがひどく寂しい。いっそこのままUターンして彼のアパートについて行きたいくらい。
「ダメだよ。今日はちゃんと帰んなきゃ」
表情からあたしが思ってることを読んだ芝さんは、先回りして部屋に帰りなさいと諌めることを言う。一人余裕を見せる彼がちょっと憎たらしくて、繋いでいた彼の手の甲をギュウッと抓ってやった。
「イタタッ」
痛いと文句を言いながらも彼は笑った。
結局、エントランス前で彼と別れ、何度も振り返っては手を振る彼をあたしは温かい気持ちで見送った。
後姿が遠く、夜の闇に翳って見えなくなると、やっとマンションの中に入った。静まり返ったエントランスを抜けてエレベーターに乗り込と、ほのかに感じる疲労感に、すぐ到着するとわかっているのに、壁にもたれて目を閉じた。
思い浮かぶのは、さっきまで一緒だった大切なヒトと、楽しかった佐藤さんの送別会。普通に見えていただろうケド、みんなの前で結婚宣言した時の彼は、ガチガチに緊張していたことをあたしは知ってる。
「幸せだなぁ。あたし」
クスクスと笑いがこぼれた。
この先一生添い遂げたいと思える恋人。
一緒に笑いあったり悩んだりしてくれる友人たち。
長く繋がりを断っていた家族と和解もできた。
これ以上ないと思えるほど、はち切れそうなほどに心が満たされている。幸せで幸せでたまらない。・・なのに閉じた目蓋が震えてきて、目頭が熱くなった。
こみ上げてきたものは雫となって頬を伝う。掌で頬を拭い、スンと鼻を啜った。
チンッとフロアに到着した報せが鳴り、ドアが開く。エレベーターを降りてゆっくりと歩き、自宅のドアの鍵を開けながらこの部屋にこうして帰ってくるのももう少しだなぁと感慨にひたった。来月には彼の籍に入って、あたしは『芝 さゆみ』になるから。
お姉ちゃんは先に寝てるらしく室内は静かだ。物音を立てないように自室に辿り着くと、照明と暖房のスイッチを入れ、コートも脱がずにベッドに腰掛けた。
目の前にかざした左手には、小さいながらも彼が贈ってくれた指輪が光ってる。右手で包み込んで胸元に引き寄せ、目蓋を閉じて彼を想う。
大好きすぎて怖い。そう、痛みを覚えるほどに・・・
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とある日曜日の昼下がり。
「あ・・・」
なんとなく思い立って久々に押入れの奥を片付けていたら、すっかり仕舞った場所を忘れていたアルバムを発掘。反射的に表紙をめくって開くと、とても懐かしい写真が出てきた。
中に写る一人一人は懐かしいと言うほど間を空けずにあったり電話したりして交流は続いているけれど、今思えば、あのときの気持ちというか、考え方とか・・う~ん、なんて言ったらいいんだろう? 時間を置いて冷静に振り返ると、あのテンションってちょっと恥ずかしい。
「ママー、何してんの? ・・あっ! 写真?! 見せて見せて!」
パタパタと響かせて近付いてきた足音が、部屋の前で止まる。ノックをすることなくドアを開け、ひょっこりと顔を出したのは小学5年生の娘・真理奈。ツインテールに結った長い髪をユラユラと揺らし、何してたの~? と小首を傾げた。が、すぐに目ざとくあたしの手元のアルバムを見つけ、キラキラと好奇心まるわかりの表情で強引にひったくって行った。
「や~ん、ママわっか~い! 何これ? いつの? パパと結婚する前?」
「そう。ママがまだハタチで、パパのいる会社で働いてたときのね。・・と言っても、結局は1年しかお勤めしなかったんだけど。ほら、ここ。パパがいるでしょ?」
「ホントだー! パパも若い! そっか~、そうだよねー。お姉ちゃんの歳から逆算するとぉ・・24,23,22,21・・21歳! ママすっごく早くにママになってるモンねー」
キャッキャッと楽しそうにページをめくりながら、真理奈は一枚一枚をじっくりと見つめてゆく。「なんか時代をカンジさせる格好だよね~」とからかってみたり、「あ、今もこんな風なニットが流行ってるよ!」と、ファッションについて感心してみたり。
真理奈が一人アレヤコレヤとはしゃいでいる姿を微笑ましく思いながら、あたしはアルバムを後回しにして別の片付けをし始めた。――――――――――――のに、突然黄色い声を上げた娘の様子に、慌ててその手元を覗き込んだ。
「キャ――――――――ッ!! やだ! ママ、このヒト誰ッ?! ちょーカッコ良過ぎなんだけどッ?!」
指先で示された人物を見れば、まあ、予想通りの顔が写っていた。
佐藤 洋祐さん。2年上の他部署の先輩で、大勢で写っているのに一人だけ頭が飛び出しているほど背が高く、スラッと細身に見えて実は結構ガッシリの細マッチョ(死語?)。そして一番重要なのは、あの頃のあたしの片想いの相手だ。
親子って好みも似るものなのかしら? そう考えたら思わずクスッと笑ってしまった。
「ふふふ。ステキでしょ~♪ 佐藤さん」
「佐藤さんって言うのッ? も~本気でめっちゃカッコいい! 信じられないよー!」
ポーッと頬を染めて見入る真理奈の姿に、当時の自分の姿を重ねてしまう。あたしもとっても彼にあこがれたし、本気で本物の恋だと疑わなかった。
うっかりお酒の勢いで告白してしまうくらいには、若かりし日のあたしは思いつめていた。
「ね~、なんでこの人と結婚しなかったの~?」
父親がこの人だったら、アタシはもっと美人だったのにぃ! と半分くらい本気で言っている真理奈は、確かに10人中9人がパパに似てるね~と言っちゃうくらいに父親似だ。上の娘の亜紀奈は、どちらかというとあたしに似ているから、血の繋がりって不思議。
「ねぇねぇ、どーして~?」
「ん~・・? フラレたから?」
「えええっ! フラレたって、このヒトに?! それって告白したってこと?!」
興味津々に顔を覗き込まれて、グッと言葉に詰まる。もしかしたら余計なことまで言っちゃったかも。
とぼけて、「どーだったかしらー?」と忘れたフリをしてみたけれど、伊達に親子を11年もやっていない。すぐに嘘だと見抜き、真理奈はしつこく食い下がってくる。
「ねー! フラレたってことはママは佐藤さんのことが好きだったってことだよね? ね、なんで? なんでダメだったの?」
答えにくい黒歴史を、無遠慮に訊いてくる。年頃の娘ってホント容赦ない。
確かにもう十・・五? 年も前のことだし、佐藤さんへの想いも今では『いい思い出』と化している。けれど、実の娘に主人・亮太さん以外の男性の話は、正直なところあまりしたくない。
彼はあたしが佐藤さんを好きだったことも、振られたことも知っている。ハッキリしっかり過去の出来事。でも、罷り間違って娘の口から、奥さんが(昔のこととはいえ)他の男を好きだったんだと聞かされたら、ゼッッッタイにいい気持ちはしないと思う。
「教えません」
身を乗り出していた真理奈のおでこをぺシッと叩くと、え~~~? と不満そうにホッペを膨らませる。そのあとも暫くしつこく訊いていたけれど、頑なに口を閉ざして片付けを続行していると、やがて渋々ながらも諦めたらしく、最後に「ケチ!」と言い捨てて部屋を出て行った。
一度ご機嫌斜めになると、真理奈は一日中はあのままだ。コレで当分は近づいてこようとしないだろうから、掃除を終わらせるなら今のうち。
サクサクと作業を進める。手を動かしながら、母親であるあたしに「ケチ!」なんて吐き捨てた娘の態度に、ちょっと育て方が甘かったかと悩んでみたり、あんな生意気なコト言うような年頃になったのねーと、感慨深く思ったりしていた。
窓の外が夕焼け色に染まり始めた頃、一段落ついたあたしは買い物に行って夕飯の準備に取り掛かろうと腰を上げた。
簡単に身だしなみを整え、バッグを手に玄関へと向かうと、框に座り込んでいる真理奈の背中に遭遇した。
「あら、どうしたの? そんなところに座り込んで」
本当は理由なんてわかっているけれど、わざと知らない顔をして訊ねてみる。
真理奈もあたしがわざと訊いていることを承知で、むぅっと眉間にシワを寄せたままモゴモゴと何かを呟いた。
「ん? なぁに」
「ご・め・ん・な・さ・い!」
怒鳴るように謝った娘は、真っ赤に染待った顔を見られたくないらしく、プイッと向こうを向いてしまった。
一瞬ぽかんと目をむいてしまったけれど、直後に押し寄せてきたのは溢れるほどの愛しさ。
イチゴのように赤い耳朶がとても可愛くて仕方が無い。
こんな何気ない日常の一コマにも幸せを感じる。ああ、主人と結婚してよかったなんて、15年も経った今でも実感できるなんて。
あたしは何気なさを装い真理奈の脇を通って靴を履く。未だそっぽを向いている彼女を振り返って手を差し伸べると、まだ不機嫌そうに顔をしかめつつも、オズオズと靴を履きだした。
「ねー、今晩なに食べたい?」
キュッと繋いできた手をしっかりと握って玄関を出ると、ドアの外から「から揚げ!」とリクエストが返ってきた。
声の方向へ首をめぐらせると、ちょうど部活から帰ってきたらしい、竹刀と胴衣袋を担いだ長女の姿。
「おかえりなさい」
「お姉ちゃん、オカエリー」
「ただいまー。買い物行くんでしょ? あたしも行くからちょっと待って!」
慌てて玄関先に荷物を降ろすと、セーラー服のまま、亜紀奈も真理奈とは反対側の腕にしがみついてきた。
「も~、コレじゃあ鍵がかけられないじゃなーい」
「いいのー! ねー!」
「ねー!」
幸せの重みとぬくもりに挟まれ、あたしたち三人はキャッキャッと出掛けた。
こんな日がずっと続くと良いなんて思いながら。
大変お待たせ致しました。スミマセン!