エピローグ
田浦の山には蝉の声が鳴り響いていた。
七月の訪れと同時に、山は様々な虫の喧騒に支配される。ぼくがこれから向かおうとしている神代寺もその例外ではなく、いっそう激しいひぐらしの声が心地よく耳朶に響いてくる。
片方の目を失ってから、この坂道を登るのがおっくうになった。最初のうちはしょっちゅう転んだものだ。この坂道を簡単に登れるようになるのが先か、警察の調査がここまで及んで命と共に捕まるのが先か。そんなことを考えたことはあったけれど、結局はぼくの馴れの方が勝ったらしい。
坂道を登ると、いつものように神代寺が見えてくる。そっと小屋の扉に手をやると、鍵が閉まっていないようだった。
一言声をかけてから、ぼくは中に入っていく。奥まで行くと、顔に布をかけた老婆の傍で正座をする、人形のような少女の姿があった。
「命」
ぼくが声をかけると、命は至ってさめた視線をこちらに向けた。
「未明くん」
それからそっと溜息を吐いて、そっと布団の中の老婆を顎でしゃくった。
「もうね。未明くん、わたし、大丈夫なの」
「なにが?」
ぼくが尋ねると、命はそっけない声でこう言った。
「もう捕まっても大丈夫。おばあちゃんのこと、見取ることができたから」
外から降り注ぐ日差しは、それ自体が宝石の塊のようにきらきらと輝いていた。蝉の声に混ざって、動物の鳴き声も山の中だと良く分かる。ぼくは小さく脱力してから、肩をすくめることはせずに命に尋ねた。
「自首でもするの?」
「いや。いい、こっちからいろいろ説明するのが面倒くさいから」
そう言って命は立ち上がる。
「おばあちゃんのお葬式、挙げてもらおうかなと思ってるし」
「そう」
結局、実の葬式があった日は、命はぼんやりと何もせずに本物の人形のように過ごしていた。会場にいてもうつろなままで。本人のいうところによると、『鏡がなくなったみたいな、よくわかんない気持ち』だったのだそうだ。
後悔はあるのか、という質問には、答えてはくれなかったのだけれど。
「外」
命は静かに提案する。
「あるこっか」
ぼくは静かに立ち上がり、命と共に外に出る。なんとなく、言い合わせた訳でもないが、向かったのは山の中の小さなお墓だった。
そこにはマルクとレイゲンと、月ヶ谷の死体が埋められている。シャベルを持ち寄り、二人で丸一日かけて掘り出したものだ。復讐を終えた動物たちと一緒に月ヶ谷を埋めてやったのは本の気まぐれ。おそらく月ヶ谷自信は墓何ぞ作られても迷惑なだけだろうと、ぼくはそう確信している。これは単に、死体を埋めて隠す延長上の行為に、ちょっとした皮肉を込めてやっただけの話だ。
「あーあ」
命はそこで、気だるそうな声で口にした。
「むなしかったなぁ」
「楽しかっただろ?」
「そうかも。だけど、それと一緒くらいむなしいよ。むなしいし、疲れた。わたし、人を本気で憎んだことなんてないんだけれど。これからはそんなこと、やめといたほうが良い気がするね」
マルクの復讐を加担し、レイゲンに憎悪の名をつけた少女は、全てが終わってからそんな結論を得ていた。それはあまりにも遅い気付きだったし、彼女のするべきことは復讐を手伝ってやることではなく、ただ彼らを愛してやることだったのだけれど。そんなことぼくにはとっくの昔に気付いていたのだけれど。そんなのは本当にどうでも良い話だった。
ぼくはいったいなにがしたかったのだろう?
決まってる。無為なる暇つぶしだ。それから命へのちょっとした興味と、好奇心。今となっては、ちょっとした愛情といっても良い。ぼくを満たしていたのは、多分、これだけだ。
無機質なコール音が鳴り響く。ぼくはポケットから携帯電話を取り出すと、表示されているその番号に、少しだけ拍子抜けした。
「どうしたの?」
「おまわりさんからだ」
ぼくはそう言って肩をすくめた。
「どうしてあなたの携帯電話に直接かかってくるの?」
「前の学校でやらかした時に、控えられてたんだよ。弱ったなぁ、どうしようかな」
「出るの?」
「まさか」
ぼくは携帯電話をそこら辺に投げ出した。砂をはじく音がして、そっけなく携帯電話は地面に落ちる。
「ようやくって感じね……。どうする?」
「そうだね。もう少しだけ、二人で楽しんでみない? もう誰かに代わって復讐をしてあげることはできないけれど、それでもまた一緒に何かできるよ。ここから適当に逃げて、何日かして適当に捕まるか、の垂れ死ぬまで。また二人で」
「そうね」
命はそこで、ほんの少しだけ笑ってくれた。
「あなたと一緒なら、きっと退屈しないでしょう」
「逮捕と野たれ死に、どっち希望?」
「野たれ死にかな。窮屈なのや、閉じ込められるのは大嫌い。死って、すごく自由な気がする。未明くんは?」
「逮捕だね。捕まって更正して、まっとうな人間って奴になって、被害者への償いって奴をしてみるのも良いかもしれない。罪悪感とか、誠意とか、そういうの。最近ちょっと興味があるんだ」
そう言ってぼくたちは、二人で一緒に山の奥に消える。
宙ぶらりんの状態のまま。曖昧な好意で手を取り合って、二人しかいないまま奈落の底を這いずって行く。
読了ありがとうございます。




