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 二日おき六時に更新

 驚くほど静かな田浦村を歩く。ぼんやりと、ここには本当に人が住んでいるのかどうかと、ふと心配になったりもする。そんな気持ちになるたびに山の麓に置かれた掲示板を確認し、そこに新しい記事を確認してはほっとするのだ。記事が更新されるということは、少なくとも更新する人物がここには住んでいる。

 田浦はそれほどまでに閑散とした村だった。砂塗れの道路の真ん中を歩こうと、地面にキスをするように這い回っていようとも、車に跳ねられる心配はない。もっとも、そんな珍妙な行動に出るのはいまぼくの足元にいる、月ヶ谷久遠くらいのものだったけれど。

 「何やってんですか」

 思わず喋り方が雑になってしまう。神代寺に程近い山の麓の道路、ぼくが白い怪物に襲われた場所で、月ヶ谷は地面にかじりつくようにしながら四つんばいで歩いていた。いくらこの付近に人が少ないとはいっても、なかなかに恥知らずな行動であるといえる。

 「少年……君か」

 月ヶ谷は立ち上がることもせず、何もない地面に集中したまま言った。

 「すまないが君、虫眼鏡は持っていないかな? あいにくと用意するのを忘れてしまっていてね。準備して出直しても良いのだが、今得られたインスピレーションは今しかないものだ。できれば手を離したくない」

 「あいにくと、持っていません」

 「なんだと。信じられない。この私が虫眼鏡を欲しているときに、あろうことか君は虫眼鏡を持っていないとでもいうのかね? 嘆かわしいことだ」

 「どうしてたまたま通りかかっただけのぼくが、あなたの為に虫眼鏡を持ち歩いていなければいけないんですか。意味が分かりませんよ」

 「めぐり合わせの問題だよ、少年」

 月ヶ谷は唐突にこちらを振り返り、にやりとしながら言った。

 「良いかい? 少年は私と目的を同じくするもの同士、それも運命的に引き付け合ったパートナー同士であるはずだった。その片割れである私が虫眼鏡がなくて困っている時に君が登場したのだから、とうぜん君はわたしに虫眼鏡を授けるなり、なくても良いような妙案を出すのが筋というものではないのかね」

 「意味が分かりません」

 ぼくは肩をすくめてみせた。

 「虫眼鏡くらい持っていないのかね? こんな何もない村に訪れたことから、てっきり君も例の都市伝説の調査に出かけてきたのかと思ったのだが」

 そう言って月ヶ谷はいぶかしげにこちらを見詰める。

 「友達のところに遊びに訪れたんです」

 嘘ではないはずだ。ぼくは思った。ぼくには友達という言葉に高尚な意味を持たせて神聖視するような歪な感性は持たなかったし、だから命のことを単に友達だと言ってしまうことに抵抗はない。実のことも、霧崎のことも、ひょっとしたらあの岡部のことだって、ぼくは友達と言ってしまえるのかもしれない。

 「月ヶ谷さんは? 都市伝説の調査の方に?」

 調査、という言葉から稚拙な印象は拭えそうになかった。月ヶ谷のような高校生一人でできることはたかが知れている。こんな風に地面に張り付いていたところで、探偵ごっこにもならないだろう。ぼくは心の中で冷笑していた。

 「うむ。実に良い戦果をあげている」 

 と、月ヶ谷は自信満々に言って立ち上がる。砂だらけになった服がなんとも哀れっぽかった。

 「これを見てくれたまえよ」

 そう言って月ヶ谷が差し出してきたのは、動物のものらしき一本の毛髪だった。よくよく凝視すればそれが真っ白の、犬や猫ではありえない長さの毛であることが分かる。ぼくは度肝を抜かれ、表情を崩さぬことに必死だった。

 月ヶ谷はそれを見逃したのか、見逃したように見せたのか良く分からぬ満足げな表情のままでいる。ぼくの反応を待っているらしい。ぼくは肩をすくめてこう答えた。

 「動物の毛が、どうかしたんですか?」

 「これはヒヒのものだ」

 にっと、月ヶ谷はぞっとするような笑みを浮かべて

 「そういえるのは同じくヒヒのものらしき足跡がこの付近についていたからだ。私は早期から『白い死神』伝説の正体は、何らかの野生動物なのではないかと考えていた。おそらく霊長目の、野生に放たれた巨大な外来種。さらにその突然変異個体などというものではないかというような。それが人間を襲ったり、或いはさらったりしているのではないかと」

 どんぴしゃだ。ぼくは心の中で溜息を吐いて

 「なかなか興味深い話ですね。ちょっと広めてみましょうか。でっちあげの仮説としては魅力的ですよ。本になるかも」

 そう言ってぼくは携帯電話を取り出した。

 「ちょっと話の内容をメモさせてください。ぼくの調べていることとも一致しますので」

 「良いだろう。ただし、私はあくまでも本気でこうだと思っているのだよ、少年」

 常軌を逸している。ぼくは思った。しかし、それこそが真相なのだからたいしたものだ。

 「『白い死神』の目撃象はあまりにも具体的なものであり、その姿を仮に思い描くことも難しくなかった。真っ白い毛皮のようなものを身に着けた大男……白く毛の長い、巨大なヒヒの姿が想像できる。白いのはメラニン欠落症か何かかもしれない。これの巨大な固体がいるとすればそれはどこだろう。私は以前調査した内容と結びつけることで、神代寺周辺の山脈の中に潜んでいるのではないかという推論を得た。そして今日この付近を調査したところ、体毛と足跡らしきものを発見したという訳だ」

 筋は通っている。びっくりするほど。

 「警察はそもそも一連の失踪事件と、『白い死神』の伝説を結びつけることすらしていないだろう。よって、いくら私が騒いだところで、山狩りを行わせることは困難だといえる。しかし、何事も自分でやってみることだ。少年、友達に会う予定などすっぽかし、共に山の中まで『白い死神』を見に行こうではないか。あわよくば写真に取るなり、捕獲するなりしようではないか。もしかすると、食い散らかされた被害者の遺体が見付かるかもしれない」

 「良いですね。ぜひともお付き合いさせてください」

 言って、ぼくは携帯電話を閉じる。

 「友達には遅れる連絡をしておきました。寺には命がいますから、彼女に案内をさせましょうか」

 「寺の管理者の孫であり、おもしろい噂の耐えない彼女に協力してもらえるのなら、それは願ってもないことだ」

 月ヶ谷は満足げな顔でうなずいた。


 神代寺に続く山の坂道は結構な急斜面になっていて、それを配慮してか麓には何本か杖のようなものも置かれている。まだ若く体力のあるぼくはもちろん、命は馴れと意外な運動神経の高さから使用することはなかったが、月ヶ谷は喜々としてそれを手に取った。

 「何があるかも分からない。武器として使えるかもしれん」

 丈夫に作られた木のそれは確かに武器になるかもしれなかったが、それでレイゲンと戦えるとはぼくにはとても思えなかった。月ヶ谷は痩せているように見えるが、体力も運動神経もある。背などは中背のぼくより十センチほども高い。それでもあの死神の巨体には適わないだろう。

 月ヶ谷はぐいぐいと、平野でもかけるようにその急斜面を走り抜けていく。ぼくは早足でそれに付き添った。おそらくこいつはぼくが足手まといであると見るなり、すぐに見限って一人で探索を始めるだろう。少しでもぼくと意見が食い違った場合も同じことだ。

 きっとこいつは、ぼくのことを仲間だなどと思っていない。そこを勘違いする奴だったら、いくらアタマが切れてもたいした脅威にはならなかったはずだ。

 「この上に、命くんがいるのかね?」

 そう言われ、ぼくはうなずいた。

 「今日は寺にいるはずですよ。山を遊び場のようにして育ったらしいですから、案内役にはもってこいです。もっとも、そんな彼女でも『白い死神』の尻尾はつかめていないらしいですけどね」

 「怪しいな」

 月ヶ谷は首をかしげた。

 「それは不自然だ。確かに伝説の怪物はこの山の中にいる。それは絶対に確かなことである。ならば、山の中ですごす彼女がそれを発見しないはずがない」

 「前提が間違っている可能性がありますね。山の中に、怪物はいない。そもそも怪物の正体は野生動物ではない」

 「こうも考えられる。神代命と『白い死神』はグル。或いは、なんらかの主従関係にある」

 そう言われ、ぼくは思わず足を止めた。 

 「どうしたのかね?」

 月ヶ谷にそう言われ、「いえ」とぼくは曖昧に笑んだ。それから冷静を装って月ヶ谷に追いつき、山の斜面を登り始める。

 ……どこまで鋭いんだ、コイツ。

 勘だけでものを考えているようで、何から何まで正当している。まるで答えの分かっている問題を前に、悩む振りでもしているかのように。

 こいつの中の自信がそんな態度を取らせるのだろう。ぼくは思った。こいつは何も恐れていない。自分自身がこの事件の真相にたどり着くことに、何の疑いを持っていないのだ。だからこんな風に決め付けて物事を考え、行動できる。間違いや失敗、無駄足を恐れることもない。

 たいした奴だ。素直にそう思う。だからこそ厄介なのだ。

 「ところで少年。律子くんは元気かね」

 唐突に、月ヶ谷は言った。

 「元気ですよ。今朝も、外で一緒に朝食をとってきたところです」

 「それは何よりだ。その後、別行動と言うわけかね」

 「ええ。実との約束があったのを忘れていましてね。律子さんとはそこで別れました」

 「彼女は非常に魅力的な人物だ。そう思わないかね」

 月ヶ谷は同意を求めるようにこちらを向いた。

 「なんですか、突然」

 「少年だから話すのだ。私は律子くんの無邪気に人を思い、信じられるところを大きく評価している。ただただ奉仕的なのではない。自分自身の精神と肉体の安寧が十分に満たされているからこその奉仕だ。人間的に成熟し、環境にも恵まれていなければこうはいかない。私はどちらかというと変わりものだから、あのような人物が傍にいてくれることは貴重なのだよ」

 『どちらかというと変わりもの』と来たか。ぼくは曖昧に微笑む。

 そのとおり。こいつはただの変人だ。どれだけ突飛な言動をしようとも、アタマの中身は擦り切れていない。正常を保った上で、道家の振る舞いを楽しんでいるだけだ。

 だから腹が立つのだ。どんなに必死になって体裁を取り繕おうと、決して常人の振る舞いには戻れないぼくとま逆で。

 「全面的に同意しますよ。あなたは律子さんのことが好きなのですか?」

 「恋愛感情のことを言っているのかね?」

 「他に何がありますか」

 「だとしたら、そうかもしれない」

 月ヶ谷は照れる様子もない。

 「私は確かに律子くんのことを評価している。あの打算のない笑みで人を導ける強さには好意を覚えよう。幼い頃からあのような友を得たことに感謝するのはしょっちゅうだ。そういった感情に多少の異性的な興味を組み合わせれば、それは容易く恋愛感情とカテゴライズされてしまうだろう。そして私は、そのような安易な分類にとらわれることを然程苦痛に感じない。何故なら、自分でもうすうすそんな気がしているからだ」

 この男にはあるまじき奇妙に漠然とした言い方に、ぼくは噴出しそうな気持ちになった。そしてそっぽを向いた彼の背後で肩をすくめ、舌を出してみせる。

 良かった。

 彼の求める律子さんは、もういない。ぼくが殺したから。

 もしも律子さんを殺す前に月ヶ谷にこんなことを言われていたら、ぼくはどんな感情を抱いただろうか。ぼくはこと色恋に関しては経験が薄い。当然、そこから芽生える感情の制御の仕方もまったく知らない。いったいどんな醜態を月ヶ谷の前で、律子さんの前で見せていたのか、想像するだに恐ろしい。

 ああ。良かった。

 律子さんを殺しておいて。

 「そろそろではないか」

 月ヶ谷は言った。

 「神代寺に着くのは。もう見えてきたではないか。命はいったいどこにいる、少年?」

 「その辺にいると思いますよ、……ほら」

 ぼくが指をさした先には、山の斜面で仁王立ちする命の姿があった。ぼくと月ヶ谷の姿を確認すると、酷く気だるそうな様子でポケットをまさぐり始める。意気揚々と近付く月ヶ谷に、着いていくぼく。

 命はぼくに視線をやって、そっけない声でこう言った。

 「未明くん。離れて。それか、わたしの方に走ってきて」

 そう言われ、ぼくは首をかしげながらもそれを実行する。離れるか近付くかの二択なら、近付くほうを選択するに決まっている。ぼくが月ヶ谷を追い抜いて命のほうに接近すると、命はポケットから黄土色の塊を放り投げた。

 それは一見すると、命の手のひらに納まるサイズの小さな蜂の巣のようにも見えて……。持っていた杖で思わずそれを叩き落した月ヶ谷の周囲に、黄色い霧のようにして羽音を響かせた蜂が群がっていった。

 「……なんといことだ、これはっ」

 月ヶ谷は思わずたじろいだ。それはそうだろう、命の投擲した塊から飛び出してきたのは、親指ほどもある大きさのスズメバチの大群だった。山のどこにそんなものがあるのか、どうやって調達してきたのか、そもそもそんなものをポケットに入れて大丈夫だったのかは分からなかったが、命はある種嗜虐的な表情を月ヶ谷に見せて

 「立ち去りなさい」

 と、そっけない口調でそう言った。

 「それか。蜂に刺されて死になさい。昔実がそいつに刺されたことがあったんだけど、病院に送られて生死をさ迷ったわ。体中にその時の傷がまだ残っててね。痛いなんてもんじゃなかった、らしいわ」

 だったらそんなデンジャーなものを投げつけないでやって欲しい、などと、月ヶ谷を撃退する準備をするようにメールを飛ばしておいたぼくには言えることではないが。

 「ぐぬぬぬ……。神代命、私を山の中に入れないというのか。……なるほど」

 言って、背中をぶすぶす刺されながら尻尾を巻いてその場を逃げ出し、去り際にこんな捨て台詞を残していった。

 「やはり貴様と怪物はグルだった訳だなっ。貴様の起こした所業の数々、私のこの手で暴いてくれようっ! 覚悟しておけ」

 では、さらばだっ。とばかりに月ヶ谷は脱兎のごとく逃げ出していった。急な坂道を、見事な走り方で駆け下りていく。下り坂であることを考慮しなければ、陸上の新記録も狙えるような素晴らしい走行速度だった。それほどまでに、蜂に刺されるのが嫌だったのだろう。

 「未明くん……刺されてない?」

 蜂の巣を分投げやがった張本人……命はあまり心配していなさそうな顔でこちらを向いた。 

 「いやまぁ……。君が忠告してくれたお陰で、なんとかね」

 「そう。なら良かった。マルクほどじゃないけど、あの子たちも結構良い毒してるから。刺されたら今すぐ病院に行かないと間に合わないのよ」

 そう言って命は溜息を吐いた。

 「あの人……本当に山に来ちゃったのね。うっとうしい。死ねば良いのに」

 「蜂に刺されたくらいで死ぬタマじゃないさ」

 ぼくは言った。

 「元はといえば、未明くんがあいつをさっさと殺さないからじゃない」

 「殺せといわれてまだ一日しかたっていないよ。今日中か、明後日くらいには何か考えるから、待っててよ」

 ぼくは肩をすくめる。

 あいつ一人で山の中に行かせるよりは、ぼくがついてきて監視していた方が都合が良かった。念のために命に月ヶ谷がこれから山に来る旨を連絡しておいたが、流石に山の支配者たる命は頼りになった。

 「従えられるのはヒヒやムカデだけじゃないんだね」

 「別に。わたしが虫や動物に命令できる訳じゃない。目的が一致しているってだけよ。彼らはわたしに知恵を借りに来るだけ」

 そう言って、命はこっちに手を差し出してくる。

 「それができるのも、その子のお陰。さぁ。マルクをこっちに渡してくれる」

 「ああ」

 言って、ぼくは命と手をつなぎ、ムカデのマルクに移動を促す。マルクはぼくの袖から這い出すと、命の白い肌に体を這わせ、彼女の服の中に消えていった。

 「ありがとう。それじゃ、こっちに来て」

 命は山の奥へと体を向ける。

 「見せたいもの、あるから。未明くんも、興味、あるでしょ?」

 もちろんさ。ぼくは答えて、命と二人で山の奥へと入っていく。


 「この山の名前、なんていうんだっけ?」

 ぼんやりとぼくが尋ねると、命はふと首を横に倒してこんな風に答えた。

 「ヒノミネサン?」

 「ヒノミネサンはもうちょっとあっちの方だよ。その山なら、このあたりの学区なら小学校の頃の遠足で登ってたりしそうだけれど」

 「ああ。したわね。うん。あっちの方だ」

 命はすっとぼけた風に言う。

 「じゃぁ……ビザンだったかな?」

 「眉山なら映画のタイトルにもなった有名な山だね。原作小説なら、ぼくもここに来る参考に読んでみたことがあるよ。……残念ながらこの山にロープウェイはない」

 「そういえば。ちっちゃい頃お母さんに連れられてロープウェイでのぼった気がするわね、ビザン。私閉じ込められるのとか苦手だから、途中で泣いちゃったんだけど」

 「だったらどうして間違えるんだい」

 「しらない。知ってる山の名前順番に言ってるだけ、だから。そもそもこんな山、名前なんてないのかもしれないね」

 かも知れないと思った。或いは、あっても誰からも忘れられているか。中にはいつ廃墟になってもおかしくないお寺、麓にはいつのものかも分からない古びた墓地。そこを拠点に、破滅へと向かう殺戮を繰り返す命と、動物たち。

 「ここ。この上が、レイゲンの済んでるトコ」 

 言われ、命が指差したところを見る。そこには石造りの階段がずらりと続いていて、頂上には柵で覆われた建物が見える。どういうつくりになっているのかは近付いてみなければ分かりそうにもないが、誰にも使われていないのは間違いなさそうだった。

 「結構深くまで開拓が進んでいるんだね、この山は」

 「こんなところは、まだまだ山の低い場所でしかないわよ。わたしが疲れずに歩いていけるのもこの辺までなんだけどね。獣道を歩くって訳には、いかないから」

 言いながら、命は階段を上っていく。随分と長い階段だったが、馴れているのか疲れた様子も見せない。ぼくは静かにそれに続いた。

 頂上の策には『田浦貯水池』と書かれた看板があって、柵の向こうにはうずたかい鉄壁がそびえていた。おそらく、あれを超えた先に池があるのだろう。

 柵には大きく『立ち入り禁止』と書かれていたが、命はそれを見もせずにひょいと柵を乗り越えた。幼い頃からの山遊びで鍛えたのだろう。背の低い割に腰も高い位置にあり、なかなかに優れた運動神経だといえる。

 鉄壁の傍には螺旋状の階段が備わっていて、こちらも柵で覆われて立ち入りができないようになっている。命がそれを見上げつつ、腹に大きく息を吸い込み、出したことのないような大声で叫んだ。

 「レぇーイーゲぇえーンっ!」

 その声が清涼な山彦となって消えていき、再び静寂が訪れたあたりで、鉄壁の向こう側から真っ白い怪物が姿を現した。

 鉄壁の上に体を乗せているのは、命の呼び声に答えた真っ白のヒヒだった。ぼくも明るいところで姿を見るのは初めてな、伝説の『白い死神』の正体。月ヶ谷が推測したとおりの、突然変異のアルビノのヒヒ。二メートルを超える巨体を有する、その迫力はまさに怪物だった。

 ヒヒは雀のように軽やかに、猫のようにしなやかに鉄壁の上から飛び降りる。四メートル異常の高さから、音さえ立てずふわりと着地するその姿は、見事というしかなかった。ぼくはその純白の姿に思わず見とれる。不自然に長い手足を持つ、顔と尻ばかりが赤黒い異形の姿。間近で見たその迫力に、ぼくは素直に慟哭した。

 「この子がレイゲン。死神の正体」

 命はぼくの反応をおもしろがるように笑う。

 「この子の目的は、自分をいじめた人間を排除すること。この巨大な体がどこから来たのか、それは分からない。何か変な研究にでも使われたのかもしれないし、生まれつきそうだったのかもしれない。唯一つ分かっていることは、この子がある心無い人間に狭い檻の中で飼育されていて、酷い虐待を受けたということ」

 似たような話を聞いたことがあるかもしれない。ぼくは思った。確か、何らかの雑誌で読んだのだ。それに出てきた突然変異の巨大なヒヒがこのレイゲンなのかどうかは分からない。ぼくは間抜けにこんな感想を漏らすだけだった。

 「不思議なことってあるんだね」

 命はくすくすと笑う。

 「そんな風に思考停止しないんじゃなかった?」

 「受け入れられないことを見たとき、『そういうこともある』で受け入れてしまうのはバカの証拠だと思っていた。そこから言うと、ぼくは自分で思っているほど利巧ではないらしい。ぼくはどうしても、いまだにこいつのことは受け入れられないよ。こんなにでかいヒヒがいるだなんて、いまだに信じられない」

 そう言ってぼくはレイゲンの長く白い体毛に触れる。レイゲンの反応はおとなしいもので、ぼくを敵とも認識していない様子だった。意に介していないのかと思ったら、実際は相当にうっとうしそうな仕草をされていたようだ。

 「わたし以外にはなつかないからね。おとなしくするように、しつけてはあるんだけど」

 「そうなんだ。偉く賢いんだね。こんな奴が人を殺すのかい」

 「賢いから殺すのよ」

 命は言った。

 「この子は人間が嫌い。けれど、同時に人間を酷く恐れてもいる。だけれどそれを上回るほどに、憎悪という感情がこの子の奥には植えつけられている。だから殺せる、わたしに指示と支援によってだけどね」

 「憎悪……動物には馴染まない感情だね」

 ぼくは肩をすくめた。

 「そう思うのは人間の勝手な押し付け。彼らは何かを憎いと思うこともあるし、逆に強く愛したりもする。愛憎の感情とそれを発露する方法は、どんな生き物でも平等に持っている。ただ、人間にとっては同じ人間のそれがあまりにあからさまというだけ」

 「理解できなくはない」

 ぼくは肩をすくめて

 「だが。こいつの憎悪はやけに長期的で、しかも陰湿なようだね。自分をいじめた飼い主が憎いばかりに、何人も人間を失踪させるなんて」

 「憎しみを癒すには、それしかなかった。……激しい感情と知性は切り離せないもの。あの子は酷く虐げられることによって人間のそれに迫るほどの知性を得た。だから、斧を振るい、人の匂いのするものを粉々に殺すことで、自分の心が癒えることを学んだのよ」

 命はにっと、露悪的に微笑みながら言った。

 「この壁の向こう側……見てみるつもりはない? レイゲンに頼めばすぐにつれてってくれるわよ」

 「何があるのかな?」

 ぼくは肩をすくめながら尋ねる。命は微笑したまま

 「失踪した人たちの死体。霧崎のもあるわ。これからあなたのいとこも加わる。月ヶ谷も、……実も。もうすぐに」

 命はおかしそうに微笑んだ


 「実さんも殺すんだね」

 あれからレイゲンの住処である田浦貯水池からは離れ、いつもの猪用の罠の場所でぼくは言った。マルクをあまり外に出してはおきたくないらしい。月ヶ谷のような奴に見付かることを考えれば、当然の配慮であるといえた。

 「意外に思う?」

 「そうだね。君は結構、なんだかんだ妹さんのことは好きなんじゃないかと思っていたから」

 ぼくが尋ねると、命は少々ばかり複雑な顔をした。

 「好きとか嫌いとか……そういうものかしら。妹で、双子なんだもの。ちょっと違うと思う」

 「と、いうと?」

 「好きとか嫌いとか、そういう問題じゃなくて、単純にただ近いんだと思う。わたしはこんな風に山にこもっちゃったけど、それでもなんというか、距離じゃなくて、感情で。お互いのことを強く、抗いがたく意識しあう関係なんだと思う。だからあの子は、わたしのことが嫌いなんじゃないかな」

 命は達観した風に言った。

 「わたしはあの子を大切に思う。わたしのことを恐れたり、疎ましく思う人はたくさんいる。だけれど、怒りとか、嫌悪とか、そういうもう少し具体的な感情をぶつけてくれる人は、あの子だけだったから。寂しく思わないでもなかったけれど、それでもあの子はわたしにとって、喧嘩してるきょうだいだったのよ」

 「でも。殺しちゃうんだ」

 ぼくが尋ねると、命は静かにうなずいた。

 「生物部に所属した人は、みんな殺す。それはマルクが決めたこと。より正確には、マルクを生み出した人たちを、殺すんだけどね」

 命はそう言って、自らの袖口をそっと見詰めた。ムカデはそこから這い出さない。ぼくと命の会話など、まったく興味がないとでも言うように。

 「わたしがこの山の支配者であれるのも、この子のお陰。わたしが意思疎通できる動物は、厳密にはこの子だけだから。この子を介して、色んな動物に指示を出してるってだけ。……あなたは不思議なことを不思議なままで受け入れない主義だといったけれど、マルクだけは別物だと思って。……この存在は本当に、超常的なものだと思うから」

 超常的、の響きにぼくは思わず苦笑した。それは命も同じだったらしい。笑みを交し合い、ぼくらは元の会話に戻る。

 「コドクの術……だったっけ」

 ぼくが尋ねると、命は少し驚いたような顔をした。

 「知ってるの?」

 「律子さんから聞いた。殺す前に」

 「そう。……納得できた?」

 「するしかない、と思う」

 ぼくは肩をすくめる。

 「実際。そいつは一噛みで人を殺せしめる猛毒を有している。君が毒手の持ち主である原因だね。そしてマルクは誰これ構わずかみ殺さない。人間と動物、どちらとも意思疎通ができ、利用できるものを利用する。かしこいかしこい、知恵のあるマルク」

 実たちの行ったコドクの術は、怪物を作り上げることを結果として成功した。とも食いの生き地獄の中でムカデは猛毒と魔術染みた知恵とおぞましい憎悪の感情を身に付け、そしてそれらを身に着けさせた人間たちに復讐を誓った。

 コドクの怪物となったマルクは自らの協力者を捜し求めた。マルクは非力なムカデでしかない。踏み潰されれば容易く死んでしまう。だからできれば人間の協力者が必要だったのだ。

 そして、マルクはそれを手に入れた。妹の飼っている動物の様子を見る為に部室に訪れた命に発見され、その時から都市伝説は始まりを迎えたのだった。

 「ふうん。何もかも分かっているんだ、未明くん」

 命は関心したように言った。

 「マルクを最初に見付けたときは、わたし、本当に本当に驚いた。ひょいと摘み上げたときね、この子はこっちに話しかけてきたの」

 ……俺は人間を恨んでいる、俺をこんな風にした人間を恨んでいる、俺の牙は人間を殺すためにあり、俺の知恵は人間を利用するためにある。

 それは決して幻聴ではなく、命がマルクの持つ知性を受け入れるには十分なものだったらしい。命はそこにあるものはそっけなく何でも受け入れてしまえる性格だ。

 もっと言えば、寺の娘である彼女には、もともとそういった素養があったのかもしれない。バカバカしい想像かもしれないが、山の中で遊び、動物を使役する彼女には、そう思わせてしまう力がある。

 「葛藤がなかった訳じゃない。今すぐにこの子を捻りつぶしてしまったら、どんなにか多くの人が助かるだろうって。わたしはこの子の危険性が手に取るように分かった。この子にはそれを実行できる猛毒と、意思があるって。足りないのは手足だけ。人間と戦うための、人間と同等の手足だけ。わたしはそれを貸すこともできたし、貸さないこともできた」

 けれども。命はそれを貸すことを選んだ。

 「なんかね。思ったの。この子はこれだけ大きな憎悪の感情を持ちながら、それを癒す方法を持っていない。人間のそれに迫るほどの知性と感性を身につけてしまって、それでもムカデの体しかもっていない、這いずることしかできない哀れな存在。それが、ただ一人わたしだけを頼っていた」

 「哀れんだのかい?」

 ぼくは尋ねた。

 「そうかもしれない。ただ、この子の味方になれるのはわたしだけだと、それだけは強く確信していたの。……だから意外だった、この子があなたのことを仲間と認めた、あの時は」

 あの時というのは、ぼくが始めてこの神代寺を訪れたときだろう。ぼくは彼女の全てが知りたかった。神代命という存在の、その全てを知りたくてたまらなかった。

 命のひんやりとした手を触ったとき、ぼくはあの時、マルクに試されていたのだ。もしぼくがマルクに認められなかったら、今頃は彼の毒で殺されて、レイゲンの住処に捨てられていたことだろう。

 「おそらく、マルクも感じていたんでしょうね。……虐げられたものも気配を、あなたから」

 ぼくは肩をすくめて見せる。そんなんじゃない。ぼくはもう、徹底的に、くすぶっている憎悪の気持ちを吐き出しきるまでただひたすらに復讐をして、その果てに何も残らなかった。ほとんどただの空虚な抜け殻でしかなくなっていた。

 ぼくはマルクの代わりに復讐がしたいのではない。ただ、何もなくなったぼくを満たしてくれるのが、命だったと言うだけの話。

 「マルクの復讐に加担することで、わたしたちはいつか必ず破滅する」

 達観したように、命は言った。

 「わたしはそれでも良いと思ってる。そうあるべきだと思ってる。未明くんも、そうだよね?」

 命はいつもどおりのそっけない口調でそういった。覚悟とか強い意志とか、そういったものを殊更感じない口調で。しかしだからこそ、彼女は自らの伴侶として破滅を受け入れたのだろうと、そう確信させる言い方ではあった。

 簡単に破滅を受け入れられるのは、ある種の愚かさであり、強さなのだろう。破滅を飲み込み、従えた人間は無敵だ。かつてのぼくがそうだったように、何も恐れず、何も感じない体になれる。

 だがしかし、それはあくまでも自分自身のためだった。

 「良いよ。別に」

 ぼくは肩をすくめながらそういった。

 「もうね。ぼくは何もかもがどうでも良いんだ。自分の身に何が起ころうが、どんなところに吹っ飛ばされようが、どうだって良いと思えてしまう。ただ君の傍にいて、君の望みどおりに振る舞い、君と一緒に破滅する。それだけが望みなんだ」

 「それは、あなたがわたしに惚れているから?」

 命が尋ねる。

 「そうかもしれない」

 ぼくはそう答えた。


 律子さんの失踪に叔父夫婦が気付いたのがその夜の話。死体が発見されたのがさらにその深夜で、通夜があり、葬式があった。

 律子さんの死体を警察に発見させたのは、ぼくのたっての希望だった。死体から証拠が出るリスクを恐れなかった訳じゃないけれど、それでもずっと行方不明のままでは律子さんにも、叔父さんたちにも気の毒だった。神隠しだなんてばかばかしいものの中に、彼女の死が埋没するのは悲しすぎる。

 どんなにむごい状態であっても、彼女は一人の死んだ人間として、当たり前に成仏して欲しかった。律子さんを好いていた多くの人には彼女の死を悲しむ権利があり、涙を流す権利がある。律子さんを弔ってやったと満足できる権利がある。それを奪ってしまうのは残酷だったし、ぼくはそこまで非情にはなれなかったのだ。

 証拠があがらぬよう、本当の死因が分からぬように、律子さんの体はレイゲンの手で真っ赤なハンバーグのように叩きのめされた。

 レイゲンが斧を使って人を殺すのは、それを人間がやったものだと誤認させる為の命の知恵であるらしい。実際、そのことが警察の捜査が月ヶ谷のそれより遅れている理由にもなっているようだ。それに加えて、犯行を雨の日に限定し足跡や毛髪を残さないだけの狡猾さが命に備わっていれば、あの月ヶ谷でも尻尾を掴むのは難しかっただろう。

 「明るく前途洋々な人生を送るはずだった娘の生命は、あまりに理不尽に奪われてしまいました」

 葬式会場で、叔父さんが喪主としての挨拶を行っている。涙を流すだけの気力も失われ、たった半日で十歳は年を取ったようだった。気丈に振舞ってはいるが、一度はぼくの目の前で唐突に意識を失って倒れてしまった。悲しみを癒すための涙も流せないほど、この父の娘への愛は深すぎたらしい。

 明るく前途洋々か。ぼくは苦笑する。自分の娘のことをちょっと良く言いすぎてはしないだろうか。律子さんを少しでも知るものにとって、それは違和感のある言葉ではないが、もう少し謙遜というものを知った方が良いかもしれない。親バカは死んでも直らないというが、娘のほうが先に死んでしまったのだからお笑い草だ。

 「最早。犯人が憎いのかどうかも分かりません。ただ一つ思うのは、短い人生の中で律子は精一杯生きたと。最後こそ……最後こそこのような形で終わってしまいましたが、彼女は色々な人と出会い、様々なことを経験して、精一杯幸せに生き抜いていたのだと。近くで見ていた私は思うのです。そして私はそんな娘のことを、今ここに誇りに思う気持ちでございます」

 そう言って、何かが決壊しそうな顔で歯を食いしばった。それが不謹慎なことなのかどうかは分からないが、見事なその挨拶に葬式に訪れた人々の拍手が巻き起こる。叔父さんに近いところで拝聴していたぼくも、思わず感心してしまったほどだ。

 しばらくして、ぼくは一人でそっと席を立ち上がった。故人の身内としては身勝手な行動であるといえないこともなさそうだったが、そこは神妙な、思いつめたような顔をして乗り切ってみせる。葬式会場の外に出て行く途中、ふと何ものかに肩を叩かれた。 

 「どこに行くつもりだ」

 タバコを吹かしながらそう言ったのは、相変わらず陰気そうな神経質そうな表情をした、二度と見たくない顔だった。

 「……仕事で忙しいのではなかったのですか」

 ぼくは肩をすくめながらそういった。

 「自分で時間くらい作れる」

 「そうですか」

 「おまえが殺したんじゃないだろうな」

 冗談めかした風でもなく、どこかうんざりした様子でそう尋ねられ、ぼくは溜息を吐いた。

 「さあ。どうだか」

 「なんだと?」

 「あなたに話すことではないですよ。どうでも良いじゃないですか。それよりも、こんなところでタバコを吹かしてないで、母さんのところに行ったらどうです? あなたが付いていないと、どんな粗相をやらかすか分かったものではないでしょう? それともあの人は、面倒がって来ていないのかな?」

 ふと耳を済ませると、外からは雨の降るぱちぱちとした音は響いてくる。どんよりとした陰気な雨だ。まるで空がこの滑稽な葬式会場をおもしろがっているような、そんな曇りの空だった。

 「おめぇに会いたくないんだとよ」

 カミソリのような目をした男……ぼくの父は溜息を吐くみたいな口調でそういった。

 「偉く勝手ですね」

 「勝手な女だよ。殺したくなるくらいだ。……それもこれも、おまえがあんなことをやらかした所為だがな」

 「それについては、ぼくは許してもらいたくもありませんね」

 「クソガキが。どこでそんな慇懃な口調を覚えた。強がりで臆病な未明くんがよ。いつから『ぼく』になったんだ、えぇ?」

 ぼくが肩をすくめると、父はむかついたようにこちらをにらむ。ぼくがそれに舌を出していると、ふと近くで見ていた小柄な少女の存在に気付いた。

 「……未明くん?」

 そこにいたのは、学生服に身を包んだ実だった。ぼくと父のやり取りを目にして、おろおろと困惑したような表情を浮かべている。

 ぼくはふと、あることを思いついた。

 「こんにちは。実さん」

 にこやかな笑みで実に向き直る。実は一瞬だけ、驚いたような表情を見せたが、ぼくの微笑を見て少しだけ安心したような様子になった。

 「律子さんのお葬式に、わざわざ来てくれたのかい? 身内としてお礼を言わせていただくよ」

 「……う、うぅん。あたしにも、その。関係のあることだから」

 もじもじとそう口にする。喪に服している、という態度ではない。

 実にとって律子さんの死は、同じ元生物部部員として他人事ではないはずのこと。それも、コドクの実験をやった時点での唯一の生き残りこそが実とあっては、恐ろしくないはずがないだろう。それでぼくに会いに来たのだ。

 世話になった先輩の死を簡単に受け入れて、適当に悲しんでみせることもしない。律子さんの死を、単純に自分の死と結びつけて因数分解してしまい、そういう態度を隠そうともしない。映画でも見た後みたいな涙をぼろぼろ流す連中と比べれば、はるかにおもしろい反応。ある種ストイックなその態度は、なるほど命の妹であると納得できた。

 父はぶしつけに実の方に視線をやって、興味もなさそうに背を向けた。そうしている間中、実は硬直してその場を動くことはできなかった。

 「誰……あれ」

 実が恐る恐るといった態度でぼくにそう尋ねた。

 「ぼくの父さんだよ。金持ちで、教育熱心で、……過保護だった」

 ぼくは肩をすくめて見せる。

 「それより実さん。ちょっと話がしたくてね」

 そういうと、実はあからさまに期待を寄せるような表情を浮かべた。

 「例の神隠しのことなんだけど……ちょっと外で話をしないかい?」

 全て理解している。実はぼくに思いを寄せている。一度、ぼくは彼女を逆境から救ってやった。その時から彼女はぼくに何らかの幻想をかぶせているようだったし、実の前では彼女がより深みに陥るような言動をしてきたつもりだ。だから彼女は葬式の途中で外に出たぼくを追ってきたのだろう。

 ちょうど良い。

 「分かった。あたしも、未明くんに聞いてもらいたい話。あったし」

 言って、実はたかたかと少し嬉しそうに歩いていって、傘を手にして手招きをした。ぼくも自分の傘を手に取り、のんびりと実を追いかけていく。

 実に分からないように軽く深呼吸をする。体の力を抜いて、溜息を吐く。もう既に、この時点のぼくには、これからすることがただの面倒な用事くらいにしか、思えなかった。


 ぼくが彼女を連れ出したのは、経営住宅に隣接する小さな公園だ。住宅の壁には自動販売機があり、ぼくらはその前に傘を並べて、立って話をし始めた。

 「ぼくは君のことが心配でならない」

 そう切り出すと、実は柔らかくしていた表情を少しだけ引き締めた。

 「生物部に所属していた人間ばかり、少しずつ行方不明になっている。ぼくの調べたところによると、分かるだけでもかなり多くの人間が失踪している。そのうち君がいなくなってしまうんじゃないかと、思えてならない」

 実は神妙な、加護を求める少女の顔でぼくの方を覗き込んでくる。ぼくについていっていれば大丈夫というような、信頼に満ちたその表情。命と双子なくらいだから当然見てくれの良い女の子なので、その時のぼくは存外、悪い気持ちでもなかった。

 似非ヒロイズムにでも浸っていたい、そんな気持ち。

 「あたしだって、ちょっと調べてみた。……今の三年生と、OBの高校二年生と一年生ばかりが、あんなに……。あたしが知らないってだけで他にも何人も消えているのかもしれないし、ひょっとしたら、残りはあたしだけなのかもしれない」

 それは当たっていた。実質、マルクの計画の中に含まれているターゲットは、ここにいる少女一人だけだった。命の妹というだけでこの日まで残されている、そんな幸運を甘受してきただけだ。

 「そろそろ真剣に、対策を練った方が良いと思うんだ」

 「対策って、どうやって……」

 「分からない。……ただ、不用意に外を出歩かないとか、そんな漠然としたことじゃダメだ」 

 さて。ぼくはそこで自分のうっかりに気付いた。どうやって実との話を持たせるか、禄に考えていなかったのだ。

 いつもそうだ。ぼくは苦笑する。なんだかんだといって、ぼくは行き当たりばったりな人間なのである。その場の気分でどんなことでもするし、できてしまう。

 「それこそ、警察に保護を持たせるようなことだって考えて良いと思う。実さんのお家、大家だし、きちんと頼めばきっと大丈夫だよ。ぼくは君のことが心配でならない。一緒に考えてあげる。だからどうか、自分の身の安全を大切にして。きっと死なないで」

 「死ぬだなんて、そんな」

 「冗談じゃない、かもしれない。ぼくだって律子さんが死んで弱っているんだ。大切な実がいなくなっちゃうかもしれないんじゃないかって、それが不安でたまらない」

 「未明くん……」

 実は感銘を受けたような表情をする。このあたり、命と実の似て非なるところだと思う。

 命と実。どちらも本当は寂しがりの人恋しがり。でもだからこそ命は人と繋がることに奥手で不器用。だけれど、実はこれだけ真っ直ぐに人を信じて、好意の感情をぶつけられる。

 生きられれば、きっとまっとうな幸せを手に入れられただろう。

 「ところで実さん。ちょっと足元を見てくれないかな?」

 と、唐突にそう言われ、実は神妙な顔のまま僅かにきょとんとした様子で自分の足元を見た。

 「なにかな……。……、うわぁ」

 実はその場にうずくまり、少しだけ弾んだ、のんきな間抜けな声をあげる。

 「ラッキーだね。えへへっ」

 そう言った次の瞬間、あまりにアンラッキーな事故は起こった。

 実のさしていた傘を何か硬く重たいものが貫いて、実の頭に着弾した。上空から降ってきた植木鉢は激しく音をたてて割れ、あちこちに破片を振りまいた。

 砂塗れになった実の頭頂から、じんわりと赤い血がにじむ。それからかくんと首が据わらなくなり、壊れた傘と一緒に、その場に倒れ付した。

 誰がどう見ても不幸な事故。ぼくは上空を見上げる。そこにあるのは県営住宅の高層マンションで、ちょうど実と垂直な位置には、植木鉢を並べたベランダがあった。並んだ鉢の間には、直前までそこにもう一つ鉢が置けそうなスペースがある。あそこにおいてあった一つが、実の頭の上に見事に直撃したのだ。

 完璧なタイミングだ。ぼくは思った。少し視線をそらすと、雨の降る上空を飛んでいく一羽のカラスの姿が見える。その口元には鏡の破片、植木鉢の下においておいたものだ。

 ぼくは携帯電話を取り出し、命の番号を呼び出した。

 「やあ命。ぼくだ」

 「上手くいった?」

 どうでもよさそうなその声。ぼくは胸を張って成功を祝う。

 「ああ。完璧なタイミングだったよ。命、お見事だ」

 ぼくが褒めると、命は少しだけ照れるような口調で「そう」とだけ答える。妹の殺害に加担した気持ちを聞こうと思ったが、その前に命に先手を打たれてしまった。

 「あなたも悪趣味ね、未明くん」

 なにがだい、とぼくは首を傾げてみせる。

 「お従姉さんのお葬式を開かせたことよ。自分の殺した相手の葬式に出たがるなんて、本当に悪趣味。どんな風にあなたがほくそえんでいたのか目に浮かぶわ。楽しかった?」

 ぼくは思わず肩をすくめる。命には何もかもお見通しなんだなと、ぼくはそれをここで痛感した。結局のところ、ぼくはこの子には適わないのだ。惚れた弱みというのもあるし、全てを見透かされてしまっている。

 他の誰にもできなかったことだ。ぼくを理解し、操縦しようなんてことは。

 惚れた女に尽くすのはある種の喜び。ぼくは軽く笑っておいて、命からの質問には答えずこう切り出した。

 「最後は月ヶ谷だ」

 命はそっけなく答える。

 「そうね」

 「準備はできそうかい? それとも、妹さんを殺した直後、少し落ち着く時間が必要かな? ぼくとしては早くしたほうが良いと思うんだけれど」

 「いいえ」

 命は即答する。

 「今すぐよ。もうねわたし、すっかり焦れちゃって。早くして。マルクもレイゲンも、全部用意して待ってるから。早く」

 「了解」

 言って、ぼくは携帯電話の電源を切った。

 それから足元でくたばっている実に目をやる。

 頭から植木鉢をぶつけられ、倒れている少女。誰がどう見ても不幸な事故だ。ここまでそうにしか見えないと、これを引き起こしたぼくでさえもこれが事故だったと思いたくなるほどだ。

 「君のことは、魅力的な女の子だとは、思うよ」

 ぼくは頬に笑みを浮かべながらそう言った。

 「だからね、二人で一緒に遊んだりするのも、退屈だった訳じゃない。何かと役に立ってくれたし、君のことは好きだったよ。ありがとう。これで本望かな?」

 命の足元に落ちていたのは、前もってそこに捨てておいた一万円札だ。自動販売機の下にあるとは言え、流石に雨で酷く湿っている。好意を寄せているはずのぼくの前で、自分の生命についての話し合いの場で、こんなものに夢中になれる素朴さに、ぼくは少しだけ笑った。また少し、実のことが好きになれそうだ。

 やったことは単純だ。実を前もって決めていた場所におびき出し、ぴったり座標を合わせてしゃがませる。一万円札はそのための小道具だ。そしてあらかじめ屋上で待機しておいた命が飛ばしたカラスが、目印の鏡を取り出すために植木鉢をひっくり返せば完璧だ。

 完璧なタイミングで計画は大成功に終わった。ぼくに当たりでもしない限り失敗してもリスクのない作戦で、正直あまりアテにはしていなかったのだが。マルクの力を借りた命であっても、初対面のカラスを正確に操作というのは難しかっただろう。

 実をこの位置に的確に誘導すること。間違ってもぼくに当たらないように気を使うこと。ぼくが傘を回す合図から実行までを迅速に行うこと。ポイントはこれだけ。月ヶ谷が相手ならともかく、実相手なら十分な方法だったといえそうだ。

 「さて」

 これからが本番だ。ぼくは携帯電話で月ヶ谷の番号を呼び出す。

 散々じらされて、月ヶ谷は出た。不機嫌そうな声で、「なにかな少年」と言ってくる。ぼくはなるだけ憤怒に満ちた声を作り上げる。一時期怒ってばかりだったぼくにはそれは、簡単な演技だといえた。

 「今。どこにいます?」

 「田浦村に向かっている。神代寺に踏み込むためだ。葬式なんか、出ていられるか」

 律子さんの仇討ちのためだ。こうなることが分かっていて、あえて律子さんの死体にはレイゲンの形跡……斧で殴った痕を作った。月ヶ谷を確実に、山へと誘導するために。

 「ぼくも行きます」

 「……少年?」

 「あなた一人では心もとないでしょう。律子さんを殺した奴を八つ裂きにしたいのはぼくも同じです」

 「……今どこにいる?」

 「葬式会場の近く。すぐに追いつきます」

 「そうか。分かった」

 そうして電話が切られた。ぼくは息を吐き、携帯電話をしまってから、田浦村に向かって駆け出した。


 命と、ぼくと、月ヶ谷と。

 三者三様に神代寺に向かう。そこは全ての始まり場所で、終わりの地にもなるだろう。ぼくらはそこで月ヶ谷を倒し、或いは彼に敗北し、マルクの復讐の物語は終わる。

 もうとっくに、マルクは自分の復讐を終えているのだ。彼が人間をかみ殺すのは、ただ人の形をしているものを毒殺するのに、暗い高揚を覚えているからに他ならない。そんなおおよそ人間にしかないような感情の反射を、不幸にもあの小さなムカデは身につけてしまった。それが全ての始まりだった。

 これからどんな結末を迎えることになろうとも、ぼくはその全てを受け入れるだろう。律子さんを好きといっていた月ヶ谷になら、ぼくは八つ裂きにされたってかまわない。ただ一つ、命のことだけが気がかりだった。

 「月ヶ谷さん」

 神代寺の山の麓で、雨に濡れながら月ヶ谷は静かにたたずんでいた。肩に細長い棒のような袋を担いで、ぼくを待っていた風でもない。陰気な雨を降らせる空を見詰めて、立ち尽くしている。

 ただなんとなく、そこにいる月ヶ谷が涙を流しているように、ぼくには思えた。本当のところ、月ヶ谷は泣いてなどいない。ただただ憎らしげに、狂気染みて燃え上がる瞳で空をにらみつけているだけだ。

 しかしそれだけ激しい形相をしていて尚、雨に濡れる月ヶ谷は小さく、哀れに見える。律子さんの仇討ちのため、一人で泣くことすら許されない月ヶ谷の代わりに、空が雨を降らせているようにぼくには思える。

 この男は泣いたりはしない。何かもてあました感情があるならば、そんな無駄なことはしないで、ただただ何かを実行するだけだ。それがこの男にとっては復讐だったのかもしれない。律子さんという大切な心のよりしろを奪われたこの男に残されていたのは、悲しさの他には、都市伝説の調査で手に入れた犯人の情報と、ちんけな復讐心。それだけ。

 「少年」

 月ヶ谷はぼくの方を見もせずに言った。

 「なんですか。月ヶ谷さん」

 「こんなことをしても何にもならないぞ。それでもやるのか」

 ぼくは一人。肩をすくめて見せる。

 「それは分かっています。これからやることは律子さんのためじゃない。自分達のためでもない。抑えられない幼稚な衝動に従うだけの、ただの癇癪です。それでもぼくたちに残されているのは、それだけなんだ」

 何故だろう。月ヶ谷の感じていることが、ぼくには驚くほど鮮明に読み取れる。摩訶不思議な精神構造をしているように見える月ヶ谷も、実際の作りは偉く単純だ。

 「行きましょう」

 ぼくは言って、山の坂道を登り始める。月ヶ谷は無言で付いてきた。その手にはどこで調達したのかも知れぬ、袋に包まれた細長い棒状のもの。猟銃だろうと、ぼくは当たりをつける。

 こいつは、本気だ。本気で死神と戦うつもりなのだ。

 「例の怪物の居場所は、検討が着いているんですか?」

 ぼくは尋ねる。月ヶ谷は首を振って

 「分からない。ただし、奴の活動するルートはおぼろげに分かっている。その一点で待ち伏せを行う。交代で行えばある程度継続してそれは行えるだろう。待ち伏せをするポイントは決まっている。おそらく、長丁場になるだろう」

 炎のような目には確かな意思の光が宿っている。そうした激しい感情は、彼に勇気と決意を与え、しかし同時に目を曇らせた。

 普段のこいつなら勘付いていたはずだ。この事件がとんでもなく荒唐無稽な現象の連なりでできていることを。その中心には命もいることを。だがしかしこいつの復讐心は、そうした真相究明から彼の興味をそらさせた。目先の相手、律子さんの体をぐちゃぐちゃにしたレイゲンを殺すことだけに集中させた。

 レイゲンをころせしめた後、こいつは都市伝説の調査を再開するのだろう。怪物を殺しただけでは飽き足らず、次から次に憎悪を向ける対象を探して、でっちあげて、命もぼくも何もかも殺すのだろう。そしてその先に訪れる破滅を受け入れて、律子さんの死に支配されながら堕ちていくのだ。自分ではない誰かの為に。

 「ここだ」

 そう言って月ヶ谷が腰を落ち着けたのは、田浦貯水池に続く石段の傍の茂みだった。

 「数日前。といっても、君と二人でこの山の中に入る前日、君に会った日の後だ。始めてこの山の中に入った時に、この石段の傍で人を引き摺った痕を発見した。それはあの貯水池の傍で途切れていて、その日はそれ以上の探索は諦めたのだが。ここで待っていれば怪物は向こうから姿を現すだろう。或いは、あの貯水池の鉄壁の向こうが怪しいと考えるのが自然かもしれない」

 「あの中に怪物が潜んでいるというのですか?」

 「眉唾だが。考えられなくもない。ただし今現在はあの壁を取り去る方法がない。午前中をかけて猟銃しか確保できなかったのは痛かった。ダイナマイトでもあるなら爆破してみるつもりだったが、現状ではここで待ち伏せするのがもっとも確実な方法だろう」

 そのとおりだよ。ぼくは思った。こっちからレイゲンに接触したところで、壁をよじ登っていたのでは銃を取り出す暇もない。

 ただしその待ち伏せ。いいや、月ヶ谷の認識には致命的ともいえる失点がある。

 「月ヶ谷さん」

 「なんだ。少年」

 「あなたは律子さんのことがどのくらい好きでしたか?」

 「決まってる。世界で一番だ」

 月ヶ谷は迷わずそういった。多くは語る必要はないのだろう。こうして率直に、自分の好意の程度を言い表せる月ヶ谷を少しうらやましくなったりして。ぼくは答える。

 「ぼくはそこまで強く律子には焦がれていませんでした。だって、他に好きな人ができたんだもの。律子さんへの愛情なんてものは、恋に恋するみたいな女々しい感情でしかありません。いいえ、今のぼくの、あの子への感情だって、どう表現したら良いものか。ぼくは人を好きになるということが分かりません。だからたくさん失敗しました。ただ、今ぼくのしていることは、その子のことが好きでいることと無関係ではないと、それだけは強く信じているんです」

 月ヶ谷は何も言わない。何も言わずに、袋から猟銃を取り出して組み立てる作業をしている。ぼくの話を聞いているのかもしれなかったし、聞いていないのかもしれない。

 月ヶ谷の両手がふさがったのを目にして、ぼくは意を決した。ポケットの中に潜ませていたナイフを取り出し、逆手に持って月ヶ谷の急所に切りかかる。

 完全に隙を突いた。月ヶ谷の心臓部に向かってナイフは正確に吸い込まれていき、後一歩で到達というところまでになった。しゃがみこんだ今の月ヶ谷の姿勢では回避はできない、視線は手元の猟銃に向いている。両手はどちらもそれに添えられていて、とても対応できる状態ではない。はずだった。

 「脇が甘いよ、少年」

 驚くべきことだった。月ヶ谷はナイフを振りかざすぼくの手首を正確に左手で掴む。すごい握力で、ぼくの体は思わずその場で硬直してしまう。月ヶ谷は静かに燃える青い炎を連想させる引き締まった表情で、ぼくを鋭くにらみつけた。

 「なんのつもりだ」

 「こっちの台詞です。わざと隙を見せましたね」

 「君が怪しいとは常々感じていた。律子くんが死んだ日、最後に会ったのが君だったからだ」

 「一緒に朝食を食べて、すぐに分かれたといってあったはずですよ」

 「それでも疑わしいことに違いはない。まだ十五歳の子供でたいそれたことができる訳もなく、律子くんに良く懐いていた君を警察が疑わないのも無理はない。だが、私には君を疑える根拠がある」

 「なんですか、それは? 命と仲の良いこと?」

 「その目つきだ」

 月ヶ谷は言って、ぼくの左目に自分の右手を突っ込む。

 あまりの激痛と抵抗感に、思わず視界がくらむ。全身を使って抵抗すると、月ヶ谷はすばやくぼくの左目から目玉を引き抜いた。視界の半分が目玉ごともっていかれ、ぼくは暴れるようにして月ヶ谷から離れた。思わず手を離したナイフも月ヶ谷に奪われる。

 「君のそのピンポン玉のような目つきが気に食わない。それはイカれた奴の目だ。律子くんの傍にいて何の益も与えない、害になるだけの目だ。最初から私は、君のことが気に食わなかったんだよ、少年」

 ナイフを持って、月ヶ谷は一歩ずつこちらに近付いてくる。左目を奪われたショックから立ち直るのに、さほど時間はかからなかった。ぼくはなるだけ恐慌状態にならないように注意しながら、月ヶ谷に背を向けて走り出した。

 月ヶ谷はものも言わずに、猟銃とナイフを持って追ってくる。たびたび山を訪れていただけに、ぼくの方がはるかに地の利はあるはずだ。ぼくは決して足の遅い方ではなく、短距離走なら陸上競技でも通用するという自負がある。

 しかし、月ヶ谷はもっと早かった。ぼくの逃走速度ではまったく足りない。かけっこをする子供に追いすがるくらいの速さで、すばやく距離を詰めてくる。

 逃げようがない。ぼくは判断する。しかしナイフは奪われ、体格では劣り、左目も奪われた状態で戦っても勝ち目などない。このまま追いつかれて殺されるだけだと絶望しそうになったその時

 「未明くんっ」

 神代寺の傍の斜面に差し掛かったあたりで、飛び込んでくる小さな影があった。それはぼくと月ヶ谷に追いつくために、自分の持ちうる山の知識を最大限動員してやって着てくれたのであろう命の姿。

 ぼくはその場に立ち止まり、月ヶ谷の前に立ちはだかるようにした。月ヶ谷はいぶかしがるようにして減速する。

 そこに、命の小さな体が組み付いた。月ヶ谷はそれをうっとうしそうに払いのけようとするが、命はどうにか彼の袖に組み付いた。命を振りほどこうとする月ヶ谷に、ぼくは妨害の為に飛び込んでいく。

 「なんのつもりかね」

 月ヶ谷は眉を顰めていった。

 「私を殺したいならさっさとあの怪物をつれてくるが良い。それとも、こんな小娘で私が殺せるとでも言いたいのか」

 そういったところで、月ヶ谷の腕をようやく掴んだ命がにっと微笑む。月ヶ谷はそれをいぶかしがるようににらんだが、時既に遅し。

 命の手から月ヶ谷の手に、一匹のムカデが這い移る。それが危険なものであるとこの咄嗟に感づけるのは、それが他でもない月ヶ谷からだっただろう。

 月ヶ谷は自らの手に移ってきたマルクをすかさず掴み取り、もう片方の手で命を振り払った。

 命は背中から地面に着地する。ぼくが思わずそこに駆け寄ると、右手にマルクをつまみ上げた月ヶ谷がこちらに近付いてきた。

 「……そうか。こいつがそこの小娘の持つ『毒手』とやらの正体だな。以前も蜂を使って奇妙なことをしてきたようだが、虫を操る才のようなものを持っていると見て間違いあるまい」

 抵抗するマルクを、月ヶ谷は軽々と握りつぶす。肉ともつかに内容物を迸らせながら、マルクの体が地面へと落ちていった。

 「にわかには信じがたいことだ。しかし、私の調べたこととも一致する。となると、黒幕は貴様か、小娘」

 「そうよ」

 命は地面に倒れ付しながら、不適に微笑んで言った。

 「よくもマルクを殺したわね。……色々と嗅ぎまわってくれて、本当に鬱陶しかったんだから。ここで終わりよ、糞尿野郎」

 「ふん。スズメバチに十箇所以上刺されても無事だった私が、いまさらこの程度の毒虫に殺される訳が……」

 そういった途端、月ヶ谷はその場で膝を突いた。

 月ヶ谷は信じられないような顔をしていた。驚愕を浮かべ、なにが起こったのか分からないとばかりに地面にうつむく。それから恨めしげに噛まれた痕跡と、命の顔を見る。

 「……くっ。これか……失踪して言った連中は……この毒に苦しんで死んだのだな……。くくっ。『死神』が主な実行犯だと思っていたが、とんだ誤算だ、これは」

 にっと、そこで月ヶ谷はおぞましいほどの笑みを浮かべ、信じがたいことにその場を立ち上がる。それから息も絶え絶えに足を動かし、ぼくらに背を向けて歩き始める。

 「そんな……」

 命が信じられないというような表情をした。

 命が驚くのも無理はない。マルクの毒を受けて、これほど自我を保った例はないからだ。毒を喰らった時点で即死か、正体をなくして何も認識できないまま地獄のような苦しみだけを感じながら、死ぬ。それがマルクに噛まれたものの運命。

 それが。

 「待ってっ」

 その場を立ち去る月ヶ谷に、命は思わず追いすがる。その手を背後からぼくが掴んだ。

 「やめたほうが良い」

 ぼくは言った。

 「刺激しちゃダメだ。……あいつはぼくたちの想像を超える人間だ。下手に追いかけると、余力でどんなことをしてくるか分からない。奴は猟銃を持っている。今はただ、見失わないようにだけ気を使いながら、くたばるのをどうにか見届けるんだ」

 「……そうね」

 命は神妙にうなずいた。

 「レイゲンを行かせているわ。後の始末はあの子に任せましょう。この山に入ってきた人間を全て、斧で殺害するように言ってある」

 胸騒ぎがする。ぼくは思った。それは一番してはいけないことのような。だがしかしこのまま月ヶ谷が毒でくたばるのを待っているだけでは、不安でたまらないことも事実だった。

 あいつはもしかしたら毒で死なない。そりゃいつかは死ぬんだろうが、奴の気力が一瞬で終わるはずの寿命を何千倍に引き伸ばしている。死ぬのは数秒後か、数分後か。

 その時だった。

 近くで猟銃の鳴り響く音が聞こえた。ぼくは思わずその場で振り返る。それから命と二人、気力を振り絞って音のしたほうに向かった。

 レイゲンの巣に程近いところ。石段の傍で、銃を持って倒れた月ヶ谷と、胸から真っ赤な血を流してもだえ苦しむレイゲンの姿があった。倒れた月ヶ谷からはあらゆる力が霧散していて、既に生きてはいなさそうだった。

 「レイゲンっ」

 命が思わずレイゲンに駆け寄る。胸を猟銃で貫かれて、見ていて気の毒になるほどもだえ苦しんでいる。あまり近付くと、命でもケガをしてしまいかねない。けれどもぼくは彼女を止めることはしなかった。人間に憎悪し、人間と戦ったこいつの最後を看取るのは、彼女しかいないとそう思ったからだ。

 ぼくは思わず、月ヶ谷のその顔を確認してしまう。そこにあったのは、初めてぼくと会った時と変わらない。どこかしてやったりといったような、それでいてどこか満たされない笑みがあった。

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