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二日おき六時に更新(予約済み)
中学三年生のゴールデンウィーク。さんざん苦労して、ぼくは引っ越し先である中田町にたどり着いていた。
ある程度近代的な土地で生活を送ってきたぼくにしてみれば、駅で逃した乗り物を一時間も待たされるというのは初めての経験だった。乗り換えの駅でふらりと売店に立ち寄ったのが間違いだったと思う。たまたま手に取った雑誌の記事が、妙に良く書かれていたことも原因だったといえばそうだと思うし、何よりいけなかったのは時刻表の確認をしなかったことだ。
中田駅方面に向かう汽車の到着時刻はおおよそ一時間半という間隔で、ぼくがふと雑誌をおいた頃、三番乗り場はすっかり人もまばら。やってしまったという驚きと同時に、うんざりとした濃厚な溜息が腹の奥から訪れた。
だいたいにおいて、ぼくはこの日本でまだ汽車というものがレールの上を走っていることさえ、その日に至るまで知らなかったのだ。汽車なんてものは前世紀の遺物。ホビーアニメのトーマスか、あるいは深夜に流れる古典映画の世界でしかお目にかかれない産物だと勘違いしていたのである。
結局購入してしまったその雑誌を読みつつ小一時間を過ごしていると、そのうちあちこち塗料の剥がれ落ちた褪せた空色のワンマン車両が訪れた。ぼく一人のみを乗せたそいつは、時刻が来るまでのどかに煙を立たせた上で、意外なほど安定した走りで出発した。
後で律子さんに教わったことだが、日本でまだ汽車の走っている都道府県は二つしかなく、つまりぼくの引っ越し先は全国でも有数のドのつく田舎だということになる。自然の多い落ち着いたところでゆっくり……などと、ほとんど強引に島流しにされた親類の家だったが、思っていた以上の辺境っぷりだ。
乗り換えの駅から中田町に向かうまでの景色はとにかく田んぼばかり。右を見れば田んぼ左を向けば田んぼ、どこまでも鮮やかな稲の緑と光り輝く泥水が織り成す、おだやかな景色が広がっていた。
名を体を表すとは言うが、中田町というのは本当に田んぼしかない町だった。砂のかぶった白い道路と、立派だがどこか土色めいて見える民家。そしてそれらを全方位から覆い尽くすような、無限の如き田畑の黄金色。泥とも水ともつかないような、どこかかぐわしい香り。土色に濁った用水路と透き通った空。それが中田町のすべてだった。
到着した駅で、ぶっきらぼうに差し出された車掌の手に切符を渡す。古くさいとしか表現のしようのない県営住宅に目をやりながら、両親から受け取ったぞんざいな地図を開いて駅を出る。
ふと目の前を見ると、そこには両足を大きなコンパスのように開いて仁王立ちする、女性の姿があった。不敵っぽくつりあげられた唇からはあどけなさがにじんでいたが、自分の知るどの同級生にもない洒落た落ち着いた格好とその明快な目つきからは、少女というより女性と表現したくなるような大人びた印象もある。
彼女は駅から降りてくるぼくの姿を確認するなり、まず花の咲くような無邪気な笑みを浮かべさせ、次に子供みたいに眉をひそめて大きく足を踏み出した。いったいなんだろうと思っていると、女性はそのまま頭からこっちに走り込んで、ふわりと柔らかい体をぼくの胸部に突撃させた。
「未明くーんっ。おそいよっ」
頬を膨らませて飛び込んでくる女性をすっころびそうになりながら受け止めて、遠慮なく飛びついてくる小さなつむじをじっと眺める。なるだけ冷静な心地で彼女の肩をつかんでたたせ、その『待ちくたびれました』という感じの笑顔をじっと見つめる。
「律子さん?」
「そうっ」
言って律子さんはぼくの頭に手を伸ばし、身長を測るみたいにぴっと手先を折り曲げた。
「未明くん。しばらく見ない間に背ぇ伸びたわね? 当たり前だけど。あたしより高くなってるじゃないの。百八十センチくらいあるんじゃない?」
「それより十センチは低いですよ。……律子さんこそ、なんていうか素敵になりましたね。すっかり大人びて。美人、っていうか」
ぼくが流暢に律子さんの容姿を褒めて見せると、律子さんは驚いたように目を丸くした。
「すかした野郎になったわねぇ」
律子さんは頬を歪める。
「会って早々親戚のねーちゃんくどくなんてどういう神経してんのよ。っていうかなんで敬語なの? 一つしか違わないんだから、ため口で良いでしょ?」
「親しき中にも礼儀ありと言うでしょう」
「本当、変わったなぁ。未明くんも」
律子さんはいぶかしげに眉を顰める。あなたは変っていませんね、ぼくが肩をすくめて見せると、律子さんはすぐに対象問わず抜群の好感度を引き出せそうな笑顔を浮かべ、人懐っこくボクの手をとった。
「待ってたんだから。行きましょ?」
そういうのでぼくはお言葉に甘えることにする。
しかし心苦しい。一つ汽車を逃して一時間以上遅刻したぼくを、この人はずっと待ち続けていたということだ。
「お待たせしてしまって申し訳ない」
「何。良いってことよ」
「携帯電話にかけてくれれば良かったのに」
「未明くんの番号、知らないし」
「交換しておきますか?」
ぼくがそう言って携帯電話を差し出してみせる。そうねと自分の電話機を取り出す律子さんに、ぼくは微笑んで見せて。
「小さな頃はあこがれの人でしたよ、律子さん。こんなに素敵になった姿を見せられて、惚れ直したような心地もします」
「澄ました顔で言うなバーカ」
律子さんはぼくのおでこを指ではじいた。
根本律子さん。ぼくが都会で私立の中学にあがるまでは、正月や盆に訪れる祖父母の家で、良く一緒に遊んでいた仲だ。
冗談めかした口調でかつての憧れの女性なんてこともうそぶいたが、実際それはある程度本心で、明るい笑顔でぼくをどこにでも引っ張っていってくれる一つ年上のお姉さんに、淡い思いを抱いていたものだった。
身長こそぼくが追い越してしまったものの、律子さんは以前の面影を残してすっかり美人になってしまっていた。ボーイフレンドもいるかもしれない。
数年ぶりの再会、数年越しの告白となった訳なのだが、しかし結局のところ照れ顔一つ引き出せずに終わってしまったことは、ほんの少しばかりだが残念ではあった。
「着いたわよ」
そう言って律子さんが指し示して見せたのは、真っ赤な屋根が特徴的な大きな一軒家。田んぼを砂色の道路で隔てた立地で、周囲に碌な建造物は見当たらないという場所だった。
「素敵なお家ですね」
僕は特にそう思わずに反射的に言った。律子さんははにかんだような表情を浮かべる。
「土地だけは安くってね……そういえば未明くんはここに来たことって初めてだっけ」
「えぇ。小学四年生の春休み、一人で律子さんのところへたどり着けないものか、電車で旅をしたことがありますけど……瀬戸大橋までたどり着きませんでしたね。それからこっぴどく怒られました」
捏造したエピソードを語る。律子さんはそこでくすくすとほほえましげに笑ってくれた。
ぼくは満足した。
それから家に上がらせてもらい、ぼくは律子さんの両親から熱烈な歓迎を受けた。人の良い根本夫婦はクラッカーでも持ち出して打ち鳴らしそうな勢いだった。
「未明くん良く来たねぇ。ごめんね、ろくに向かいにもこれないで」
と、根本母親。笑い皺のできた素朴な印象の人。
「とんでもない。お嬢さんにはわざわざ駅まで向かいに来ていただきました」
「おなかはすいてないかい?」
根本父親。がっちりした体付きの浅黒いおじさん。もう四十も回っているのに、声に張りがあり、なんというか、どかんという存在感がある。
「えぇもう。ぺこぺこで」
ここでなんと言うべきかは一瞬迷ったが、おじさんの表情がぼくに何か食べさせたがっていたので、こう答えることにした。本当は別に空腹でも満腹でもない。
「そうかい。じゃあすぐに用意するからね」
「恐縮です。たくさん歓迎されて、なんといって良いか」
「そんな風に肩肘張らなくて良いんだよ」
おばさんが笑窪を作ってそういう。ぼくはそこでは曖昧に微笑んでみせるだけだ。
「まぁまぁ。こいつだってあんなことがあったばかりで、疲れているんだ。それにいきなりのことで緊張するのも無理はない」
おじさんがそう言って軽快に笑い、「なぁ?」と同意を求める視線を寄越す。ぼくは「お気遣い痛み入ります」とはにかんだ。
それからやたら早い(四時過ぎとかそんなだ)夕食が運ばれてきて、ぼくは食卓に座らされてそのコンニャクの入ったカレーを食べさせられた。おばさんが何か求めるような表情でこちらを覗き込んできたので、精一杯無邪気に弾んだ声色を用いて一言。
「おいしいです」
山盛りにつがれたカレーを完食し、その後しばし団欒の席が設けられる。
「やっぱりこんな田舎は初めてか?」
「そうですね。とても新鮮な気持ちです。特に汽車なんてものが走っているのには驚きました。お陰で時刻を一つ間違えました」
「転校することになったけど、大丈夫かい?」
「ええと。公立は初めてなのでなんとも。けれど心配は結構です、むしろ楽しみなくらいで」
「偉く簡単な荷物だが? 何も持ってこなかったのか?」
「本は全部売ってしまったし、もともと私物が少ないんです。思い出とかは胸にたくさん詰まっているので、ご心配なく」
冗談のつもりでいうと、そこで根本夫妻が少しだけおもしろがる。律子さんも曖昧に笑う。
「宵子や高広さんはなんて?」
「バカ息子をよろしくお願いしますということで」
「随分と勝手だねぇ。……本当に子供のことなんて思ってるんだか」
「ご迷惑をおかけします」
「いやいや。そういう意味じゃないんだよ」
それからぼくには二階の日当たりの良い部屋が用意される。あまりの厚遇にぼくは頭を下げ続けることしかできない。ありがとうございます恐縮ですを繰り返すと、根本母親は笑みを貼り付けたまま去って行った。
「ちょっとよそよそしすぎない?」
律子さんが眉を顰めてぼくに言ってきた。
「シャイなんですよ」
「そうねぇ……そういう意味では変わってないのかも」
「……?」
「従順でしおらしく振舞う割に、人と距離をおくところとか」
流石に分かっている、と思った。
「あたしが君くらいの時はもうちょっと突っ張ってたなぁ。髪の毛もまっキンキンだったし、親にも口を開くたびに『死ねっ』って言ったわ。未明くんは何? そうやって慇懃な態度で静かに反抗してくるタイプ?」
ぼくくらいの時って、一つしか違わないじゃないかと思ったが。まぁ一年も多く生きれば違うだろう。現にこの人は、ぼくと一つしか違わずにこんなに素敵な女性に成っている訳だし。
「一応当たり障りなくはしているつもりなんですよ?」
ぼくは苦笑する。
「けれど。確かにそれはあるかもしれませんね。無愛想な子供って言われると、妙に安心するんです。変に好かれたり、手をやかれるのはなんだか落ち着かなくて……」
「だからって。こんな辺境まで一人でやってくることないじゃない? 言ってくれれば、お父さんもお母さんもあんたを迎えに行ったのに」
「そういう訳には」
だいたいにおいて。あの妙に人の良い夫妻のどちらか、あるいは両方を隣に置いた上であの一日半の旅行をこなすなんて、想像するだけで気が疲れる。それにもともと、一人で旅をしたり、電車に揺られたりするのは好きなのだ。
「それじゃぁ律子さん。これからも色々お世話になります。学校が変わって勉強とかも遅れをとるかもしれないので、サポートいただけると助かります」
「……うっわ。それ嫌味? あたしがあんたに教えるとか無理なんですけど」
「そう言わず。律子さん、進学校に入学したんでしょう?」
「んなこと言ったって……。あんた。私立の学校から来たんでしょう?」
「律子さんに見てもらいたいんですよ」
「うっさい黙れ」
言って律子さんはぼくの額を指ではじく。小さな頃されたのよりも、ずっと熟練を感じさせる一撃だった。
さて。ぼく一人のささやかな引っ越しの済んだところで、ゴールデンウィークというのは基本的には退屈な時間である。
一応というか、現在中学三年生であるぼくは世に言う受験生という奴だったし、前の学校では、それこそ耳にタコができるくらいにその心構えを聞かされたものだった。だからと言って、こんなうららかな初夏の昼間にテキストを開く気分にもならない。
そんな訳で。ぼくは叔父夫婦に断りを入れてから、この周辺の散策に出かけることにした。叔父はそれが良いだろうと案内を申し出てくれて、叔母は弁当を持たせようと腕まくりをし始めたが、ぼくはどちらも断った。
「早く帰ってきなよ」
叔母が酷く心配げな様子で言った。
「最近は物騒な噂もあるし」
物騒な噂……? 言ってしまってから唾を飲み込んだみたいなその言い方に、ぼくはいぶかしいものを感じたが、深く追求はしなかった。叔母がそれを望まないように見えたからだ。
扉から外に出て、しばらく歩いて赤塗りの屋根が小さく見え始めたところで、ぼくは腹の底から大きく息を吐いた。良くしてくれる叔父夫婦には申し訳ないかもしれないが、これから孤独で自由な時間が流れることに、酷く安心したのだった。
気持ち弾んだ足取りで町を散策する。そうしていて改めて気付かされたのは、中田町に限らず大松島市内を探索するには、車か自転車などの移動機器が必須だということだった。
とにかく道が長く、そして何もないのだった。流石に駅の傍を歩けば少しは何かあるかと思ったが、それもない。汽車に乗ってどこかの繁華街にでも降りてみる? 書店やコンビニを探すならそれが一番の近道に思えたが、財布は部屋に置いてきてしまったし……。そんな風にぶらぶらと歩き回っていると、自転車を横に並べてちんたらと道を行く中学生の集団を発見する。耳にピアスを施して奇抜な服装に身を包んだ彼らは、なるほど遊びなれているといった風格が漂っていた。
「やぁ君たち」
ぼくは彼らの前に立ちふさがってそう言って声をかけた。誰もが目を丸くしてぼくの方をぎょろりと睨みつけ、いぶかしそうな表情でこちらを覗き込む。
「何スか?」
「最近。ここに引っ越して来たんだけどね」
「何もねぇよ」
と、男の一人が言った。
「この辺じゃどこ歩いても何にもありゃしねぇ。遊びたいなら、こっち。あの踏切を越えてだな」
そう言って男はくちゃくちゃと何やらガムを噛む音を響かせながら、ぼくに町の中のことを教えてくれた。書店と古本屋、そしてこれからぼくが通うこととなる県立大松島中学校の場所を聞き出すと同時に、彼らの内の何人かがぼくの同級生であることも教えられた。
「ありがとう」
正直こんな風に見知らぬ人に話しかけるのは結構な冒険だったが、気の良い奴らだったようなので安心する。田舎のヤンキーは親切だと律子さんから聞かされていたが、確かにこの分だと学校で転校生いじめにあったりすることはなさそうだ。
それから国道傍までたどり着き、それに面した書店に入ってほっと一息。立ち読みを少し楽しんだ後で、ささやかなショッピングモールや古書店などを巡る。
そろそろ帰ろうかなと思ったものの、古本屋で以前から捜し求めていた古いマイナー作家の著作を見付けてしまい、ぼくはその場で根を生やしたように動けずにいた。買って帰ろうかと思ったが、しかし小遣いは全て部屋においてきてしまっていたし。もう少しだけ、と思っている内に、太陽が少しずつ傾き始める。
その本はまた後で買いに来ることにして……。名残惜しい気持ちを引き摺って書店を後にする。それから元来た道を引き返そうと歩き始めると、道の途中で奇妙な代物を発見した。
そこはささやかな人の流れからも排除された砂色の道路だった。その広い空間に、家屋から基礎以外の部分を綺麗にカッティングしたような、なんとも奇妙な代物が点在している。崩された住宅の跡地だとなんとなく察しはついたが、それにしても数が多く、密集しているのが気がかりだった。
中には小学生の作った秘密基地らしきダンボールの塊の置かれたものもあったし、行儀の悪い若者によって描かれたらしい大きなアート作品があったりもした。中にはテープが引かれてあちこち瓦礫の積もっているものまである。これらのいくつが作りかけの住宅で、いくつが壊された後の住宅なのかは一見では判断しかねたが、その不思議な光景に、ぼくは少しだけ心を惹かれてしまっていた。
来た道を辿れるように注意を払いつつ、ぼくはその廃墟軍の中をふらつき始めてしまっていた。ふとした冒険心、というのだろうか。色気を出してしまったといっても良いかもしれない。
大松島の中でもその廃墟軍の横たわる地域は特に寂れているようで、道の両脇をひしめく田畑も、長時間放置されたのか泥だかゴミだか良く分からないような匂いを発していた。住宅も人が住んでいるのか分からない古ぼけたものばかりで、何より、どこを探しても人っ子一人見当たらないのが印象的だった。
進めば進むほど空気には土臭い匂いが増して、とうとう連なった山の集まりが見えた。山の麓では用水路一つを隔てて小さな掲示板が立てられていて、そこには褪せた用紙にマーカーで手書きの文字で『田浦村内掲示板』と描かれていた。
田浦村……またこれかとぼくはおもしろがるような気持ちになる。大松島に来てから中田の他にも神田瀬だの江田だの、田の字が含まれた地名を良く目にしているような気がした。ぼくの中で大松島と言えば田んぼの印象が強すぎるから、そう感じるのかもしれない。
山のふもとに立てられたその『田浦村内掲示板』には最新の記事もいくつかあり、二日前の日付を発見してすごく意外な心境に陥ったりもした。やっぱりここにも人がいるんだと、酷く無礼な感想を持ったりもして……。
そうしているうち。あたりがすっかり暗くなりかけていることに、今更ながら気付かされたのだった。
やってしまったという思いが訪れて、ぼくは迅速に叔父夫婦に向けて電話をかけた。帰りが遅くなって申し訳ないということと、心配する必要はないという報告。電話に出た叔母は「良かったぁ」といつもの素朴な声で溜息を吐いて、ぼくを申し訳ない気持ちにさせた。
「暗くなる前に帰るんだよ……近頃は物騒な噂もあるし」
物騒な噂……でかける前にも聞いたことだったな。思いつつ、ぼくは「心配かけてすいません。すぐに帰ります」と電話を切った。
さて。どうしよう。
叔母の家まで暗くなる前に帰れるほどの距離かと言うと、少々首を傾げざるを得ないのが本当のところだった。
掲示板に張られた田浦村の地図を確認する。どのように帰れば一番近道になるのかと、なんとなく吟味していると、地図上に少し気になる名前を発見する。
それは『神代寺』という寺の名前で、ありていに言ってやぼったい字面の多いこのあたりの地名としては、ある種際立つもののある響きだった。ジンダイジ、あるいはカミシロデラか。
どうやらこの前を通った方が大幅に時間も節約できるらしく……そして実際に通過してみると、その周辺には点在するようにお墓がひしめいていた。もうすっかり暗くなりつつある田舎道で、ぼんやりと浮かび上がったそれらを見て、酷く心細い気持ちにもなった。
聞こえてくるのは用水路のせせらぎと、回転する水車がぱじゃぱしゃ水を叩く物音。
それらに混じるようにして、田舎道を歩く自分自身の足音が、余計に聞こえたような気がした。
ぼくは思わずその場で停止した。するとどうだろう、誰かが真後ろで立ち止まったかのように、ぼくの足音に、もう別の足音が重なって耳朶を打つ。
付けられている?
そう感づいて、ぼくは腹の底が翻るような恐怖感を覚えた。でもどうして? ぼくは緊張を覚えながら恐る恐る首を傾け、自分の背後を歩いているだろう何者かの姿を確認する。
その途端。真っ白い布を被った何ものかが、酷く体を前のめりにした体勢で、ぼくに向かって突進して来る。
思わず身をよじり、体を道路に投げ出して回避する。砂塗れのアスファルトの上を転がり、ぼくは全身をしたたか打ちつけて息を吐き出した。
全身のあちこち擦り剥いた痛みに耐えながら、どうにか体を起こす。そこには体を猫背に折り曲げた真っ白い怪物が、宵闇の中でぼんやりと浮かび上がっていた。手足は異形のように細長く、真っ白い布のようなものを頭から被ってはいたが、どうやら人型をしているらしいことはかろうじて分かる。その手には図体の巨大さと比べれば酷く小さな、しかし人の首を撥ねるには十分な大きさの斧が握られていた。
「あーあ」
と、暗闇のどこかからかひんやりとした声が届く。
「……今日はないと思ってた。運が悪かったね」
心臓が早鐘のようになり始める。どうにかその声の主を見ようとして体をよじると、それはぺたぺたとそっけない足音を響かせながら、ぼくの目の前に出現した。
「残念ね。君、殺されちゃうよ」
それは一人の少女だった。作り物めいて端正な顔だちが宵闇の中に蒼白く浮かぶ。華奢な両肩が怪物の前に立つことでより強調され、どこか人形めいた姿に見えた。細い両足を折り曲げて膝を突き、どこか哀れむような、それでいてどうでもよさそうな瞳で、無様に道に転がったぼくを捉えていた。
「……君は?」
ぼくが思わず尋ねると、少女は無感情な瞳をそっと細めて
「ミコト」
そっけない声で口にした。
「ミコト、カミシロミコト。……覚えなくて良いけど。どうせ死ぬんだし」
「どうして……なんでぼくが……」
ぼくは行きも絶え絶えに口にする。ミコトと名乗った少女は無感動に首を傾けて
「別に。たいした理由なんて」
ミコトはちらりと、背後でゆらゆらとこちらに迫る怪物の方に視線をやる。
「あの子がね。そうしたいって、言ってるから。だから君は殺されちゃう。ごめんね」
体を前のめりに倒したその怪物は、手に持った斧を不器用に掲げ、倒れ付したぼくに向かってそれをぞんざいに振り下ろそうとする。真っ白い布の隙間から、皮を剥いだ人間のような赤黒くくしゃくしゃの顔が覗いた。
「う。うわぁあああっ!」
ぼくは思わずその場を跳ね上がり、怪物の斧を回避する。そのまま立ち上がろうと手を着いた傍から、次の一撃が横なぎに繰り出される。
飛び上がって逃げる余裕などなく、ぼくは思わず地面を転がって用水路に落下する。斧が空を切り裂く音が響くと、次に全身を衝撃と冷たさがつんざいた。
用水路の水は思った以上に冷たく、そして深かった。体から転がり落ちるように着水し、頭まで浸かってそのまま底に到達する。
どうにかもがいて用水路から顔をあげると、喉に詰め込まれた水を吐き出す余裕もないまま、怪物の長い腕から斧の一閃がぼくの頭に繰り出された。
反射的に首を捻って、水の中に再び頭を引っ込めて距離を取る。すると怪物は怖気づいたように手を引いて、もどかしそうな表情で用水路を睨みつけ、うなった。
「あーあ」
用水路の上で、ミコトがそっけない声でそう言ってぼくを見下ろした。
「しとめ損なっちゃったね。これ。初めてじゃない?」
言って怪物の方に視線をやる。白い布を被った怪物は、今にも癇癪を起こしそうな表情で奇声を発した。今すぐ血祭りにあげたくてたまらないというような激しい表情でぼくを睨むと、どこか悔しそうな表情で唸り声をあげる。
「君。すばしっこいね」
ミコトは興味深そうにぼくの方を覗き込んで言った。
「悪運っていうの? とにかく良かったね。助かったよ、君」
助かった? ぼくが水面から顔をあげてミコトを見やると、そこへ怪物の斧が振り下ろされた。咄嗟に首を引っ込める。心臓を吐き出しそうな気分だった。
「顔をあげちゃだめ。そのまま水に漬かって、しばらく待つか、ここを離れて」
ミコトは淡々とそう口にして
「この子ね。水が苦手なの。……昔酷い人に何度も何度も溺れさせられたからなのかな? わかんないけど」
そう言ってひょろりとその場を立ち上がる。
「基本的には臆病な子だから。それで深追いはしてこないと思う。それと……」
ほんの少しだけ眼を細めてみせて
「この子のことは、できたら誰にも内緒にしてあげて。お願いしたからね」




