起きたら森の中だった
処女作品です。
「おい、火を止めろ。ゴミを増やすな」
佐藤迅は、手元の包丁を動かす手を止めずに言った。
指摘された料理人の手がコンロの前で凍りつく。あと数秒、彼がフライパンを離すのが遅ければ、仔羊の肉汁は乳化を解かれ、ただの濁った脂に成り下がっていただろう。
厨房は静寂に包まれる。
盛り付けられた皿を一瞥もせず、迅は作業に戻る。
「シェフ、今日は妹さんの誕生日だと……」
「電話が来たのか?折り返さなくていい。仕込みがある」
それ以上、厨房に言葉はなかった。
ホールでは、業界随一の食評家が「今夜も最高だ」と感涙に咽んでいる。
だが、迅は冷めていた。まだ上があるはずだと、自分の中にある理想の皿に、まだ指先が届かない。
午前二時。誰もいなくなった厨房で、迅は一人、新人が作った賄いの味噌汁を口にした。
出汁は濁り、具材の切り方も素人同然。
「……熱いな」
その不器用な温度だけが、不覚にも、思考を止めた。
厨房の灯りを落とし、夜の路地に出る。
冷えた空気が肺に入ってきた。空を見上げる習慣はないが、そのときなぜか、見上げた。
一歩踏み出した瞬間、膝から力が抜けた。
地面が近づいてくる。アスファルトの冷たさを感じる間もなく、迅の意識は底のない静寂に沈んでいった。
……鳥の声がする。
重い瞼を押し上げると、木々の隙間から光が差していた。視界を埋めるのは、見覚えのない深い緑だった。
肺を刺すような、未知の香草が混ざった空気。
迅は静かに上体を起こし、周囲を見渡した。一面の森だった。
(ここは森か?......アスファルトの上で倒れたはずだが……)
そして数メートル先、焚き火のそばで、一人の茶髪の少女が懸命に鍋をかき混ぜていた。
「あ……! 気づきましたか? 道で倒れてたから、びっくりして……」
迅は少女と周囲の状況を素早く観察し、自分が彼女に救護されたのだと理解した。
「……助けてもらったようだな。ありがとう、助かった」
少女はほっとしたように微笑み、また鍋に向き直った。
「大丈夫そうでよかったです! 私リアって言います! ちょうどスープが出来上がるところで、よかったら食べてくださいね。私、いつか王都で自分の店を持ちたくて修行中なんです!」
少女が笑いながら差し出した木皿。命の恩人であり、未来の同業者が作ったものだ。
迅は短く礼を言い、皿を受け取った。立ち昇る湯気。その香りを吸い込んだ瞬間、彼の眉がわずかに動く。
(王都?...どこの話だ)
そう思いながら、迅はスープを一口運んだ。
飲み込んだ後、眉がわずかに細まった。
「お口に合いませんでしたか……?」
少女の戸惑う声に、迅は静かに口元を拭った。感謝の念はたしかにある。しかし、それとこれとは話が別だ。
「……火を入れる時間が長すぎて煮詰まっている。肉の脂がアクを抱え込んだままだ。素材の仕込みも全く感じられん。これで店を出すつもりなのか」
「えっ……でも、みんな美味しいって……」
「スープを恵んでもらった立場で言うのも妙だが、これは料理ではない」
迅の言葉は低く、容赦がなかった。少女は言葉を失い、自分のスープと迅の顔を交互に見た。
迅は立ち上がり、焚き火の横に置かれた粗末な食材一式を見渡した。恩返しの意味も含め、この間違いを放置することは、彼の中の何かが許さなかった。
「見本を見せる」
そう言って迅は少し頬を上げた
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