37.ナターシャ・パルメールの使命
傷の手当てを受けたあと、ルーガクックは体力を回復するためか、再度眠りについた。傷ついた部位を守りながら優雅に体を横たえるのを見届けて、ナターシャたち一行は来た道を戻る。道案内役をしてくれていたトラがまた先頭に立って、山頂の建築物のところまで戻った。
結局、何を建てようとしているのかもわからなければ、危険なバリケードも壊せないまま。
何もできなかったことを歯がゆく思いながら、作りかけの建造物を眺める。
歩く速度をゆるめたナターシャを急かすように、トラが鳴いて三人を呼び寄せた。
トラが先導して示した先には、人の手で整備したのであろう開けた道が続いている。
――ガウ! ガルル……ギャ!
何やら主張して、トラはその場でおすわりをした。言葉はわからないが、つまり彼の道案内はここまでなのだろう。
「ありがとう。助けられたわ」
ナターシャはトラの頭に手を伸ばす。相手は危険な肉食獣なのだが、大丈夫だという確信があった。想像通りトラは拒否せず、耳がぺたんと寝る。その頭の上を優しく撫でた。
「また会いましょう。この近くにはよく来るから」
――ガウ!
ナターシャに続いて、アルバート王子もトラの頭をぽんぽんと軽く撫でる。最後にテオドアも手を伸ばしたが牙を剥かれていた。
いっときの旅の仲間と別れ、ナターシャたち一行は山を下っていく。
山の上の建造物を作っている誰かが利用しているのであろう、均された道を進む。舗装された道ほど歩きやすくはないが、大勢で移動したり台車で荷物を運んだりすることはできるだろう。ナターシャにとっては庭のような勝手知ったる山だと思っていたが、知らない間にこんなことになっていたとは。
驚きながらも、安全にふもとまで降りられる道は享受する。この道を作る影に動物たちの痛みや苦しみがあると思うと複雑な気分だが。
「暗くなる前に海の近くまで向かう予定だったけれど、ずいぶん崩れたね」
「そうですね……」
首に吊った懐中時計を見ながらアルバート王子は呟いた。ナターシャも同意する。確かに、本来アルバート王子たちが下山するはずだった時刻から2、3時間は余裕で過ぎているだろう。
そろそろ空も暮れてきて足元が見えづらくなってくる。ちょうど昨日ルーガクックを見たのと同じくらいの時間だ、と思いながらナターシャは空を見上げた。
すると視界に飛び込んできたのはまさにそのルーガクックの姿だった。
気づいて声をあげたナターシャに続いて、アルバート王子とテオドアも空を見上げる。
先ほど手当てをした小さな子ではなくて、昨日見た体の大きな方。なぜわかるのかと言えば包帯がないからだ。遥か空高くを、やはり何かを探すように旋回している。
その仕草にピンときて、ナターシャはしみじみと言葉を発する。
「あの子のこと、探していたんですね」
人の生活圏にはほとんど姿を見せず怪鳥とまで呼ばれる鳥が、こんな浅い山地に同時に2羽も現れたことがずっと不思議だった。しかし、傷ついて本当の棲み処に帰れなくなった1羽をもう1羽が探していたのだとすれば納得がいく。引き裂かれた家族か何かであろう彼らは、きっともうすぐ再会できることだろう。
願わくば、彼らがもう人の所業に傷つけられることなく、穏やかに過ごせるといいとナターシャは思う。
「無事、会えるといいね」
アルバート王子も、願いを込めるように小さく呟いた。
安全な道を使って山の中をぐるりと迂回し、時間をかけて渓谷のそばの丘まで戻った。
丘の頂上に放置した自分たちの荷物のところまで辿りつく頃には、もう日が暮れかかっていた。赤い西日が木々の隙間からあたりを染めている。
このぶんでは今日中にアルバート王子たちを下山させることはできないだろう。それに三人とも歩き通しで心身ともに疲れていた。
誰からともなく、荷物を包んでいたレジャーシートを広げて腰を下ろす。この数日でずいぶん息が合ってきたみたいだ。
テオドアの大きな荷物の中には潤沢に野営用の道具が入っているし、ナターシャも遭難したとき用に最低限の装備は常に整えている。
なし崩し的に、その場で野営の用意が始まった。
焚き火やテントを設置する位置を最初に相談する。
それ以外はほとんど会話もなくナターシャとテオドアが動いた。アルバート王子はその間レジャーシートの上で寝転がっていた。昨夜とだいたい同じような状況だ。
しばらくして設営が終わり、焚き火を囲うように三人は腰を下ろす。
夜空に雨雲の気配はなく、あたりに獣の気配もない。もし何かいたとしても昼間、山の上で味わった経験に比べればずっとマシだろう。ナターシャたちは適度に気をゆるめて心身を休める。
体を温めるために持ってきていた蒸留酒を少しずつと、携帯食をかじりながら、揺れる焚き火の炎を見つめた。
火を見ていると話したくなる、というのは昔父が言ったことだったか。それとも酒で舌が回るだけかもしれない。そう言い訳を考えながら、ナターシャは口を開く。
「昔、兄に言われたことがあります。何のために旅をして何のために紀行録を書くのか、目的があったほうがずっと私の旅の価値が高まると」
別にアルバート王子にもテオドアにも狙って聞かせることではないが、二人が耳を傾けてくれていることは雰囲気で分かった。
そのままナターシャは話しつづける。
「思いつく目的なんて、人に旅の楽しさを伝えるってことくらいだった。だからそうやって、よく『紀行録』の後書きにも書いてきました」
ちらりとアルバート王子の方を見ると、『紀行録』のファンを自称する彼はよく知っていると言わんばかりに深く頷いた。
ナターシャはまた、目の前で揺れる焚き火に視線を戻す。
それから頭上を仰いだ。木々の隙間から見える星空は、本邸や王都で見るよりずっと奇麗だ。
この景色とか、美味しいご飯とか、肌に触れる風の温度、動物との邂逅もたまに起こるトラブルも全て楽しいってことを、誰かに伝えたいと思ったのが源流だった。
最初はただ友人や父以外の周りの大人たちに共感されなかったことが寂しくて、だけどだんだん使命感を帯びてきて、人生の真ん中が旅になって。
そして今、やっとこの使命感の正体がわかった気がしている。
「今日、思ったんです――」
ナターシャは笑みを浮かべて、呟いた。
焚き火のもたらす暖かな光の中、それは決意に満ちた笑みだった。
「全人類が自然の美しさに気づけば、あんなものもうどこにもなくなるでしょう?」
緑の一つもない裸の地面にそびえ立つ鉄のバリケード。
あれを壊すことができるとしたら、捨て身の体当たりなんかじゃなくて心の問題だ。
大口を叩くナターシャを笑うことなど一つもせずに、アルバート王子はただ眩しそうに目を細めた。
「ああ、間違いないね。それに、君の著作は全世界に広まるべきだ」
至極真面目な顔で心からそう言うアルバート王子に、柄にもなく勇気づけられてしまっている自分がいる。
この人にこの旅で出会えてよかったかもしれないと、ナターシャは初めて思えていた。
これまでただ旅が好きすぎるだっただけのナターシャの「旅好き」が、確かに意味を持った瞬間です。




