橋姫<9>
琥珀も天后もその前から気付いていた。長屋坊が二人に目線で合図をしている、ガラス戸の向こうに誰かがいると。しかし、この老人の感覚は鋭い。琥珀と天后は、そのことに驚いた。
「わたしどもの主人です。陰陽師安倍晴茂が来ています」
琥珀が答えた。
晴茂は、閉まったままのガラス戸を、すっと通り抜け、長屋坊老人の前に座った。老人の驚き様は頂点に達した。琥珀も天后も、そんなすごい方法で姿を現さなくてもいいのにと、苦笑いをした。
「陰陽師、安倍晴茂と申します」
晴茂は、北村長屋坊に挨拶をした。長屋坊は、晴茂の出現の仕方に驚いたが、それ以上に晴茂の顔を見て驚いた。
「おおっ!あなたは、…、ミツ…満晴殿では、…ないですか?」
齢九十を越えた山伏の脳裏に、若かりし頃に修験道の修行をした頃の記憶が鮮やかに甦った。
「満晴は僕の祖父です」
「あはは、…そうじゃな。そうじゃな。年恰好から考えて、あなたが満晴殿と言うことはないな。しかし、満晴殿とよく似ておるわ。昔の記憶が甦ったわい」
晴茂には祖父の思い出はない。祖父、満晴は、晴茂がまだ幼い頃に他界したと聞いている。
「どこかで祖父と会われたのですね」
「そうじゃ。大台山系で修験の道を極めようとしていた頃じゃ。わしも若かったがのぉ。ほれほれ、おまえさんは、まやかしの術で時々姿を消したり、現れたりな、そうそう、今のおまえさんの現れ方じゃよ。ああ、すまん。おまえさんじゃないか、満晴殿がじゃな。いやいや、長生きはするもんじゃ。こんな昔の人に会えるとはなあ。…そうか、満晴殿も陰陽師だったのか。そうか」
「僕は、晴茂ですが、そんなに似てますか」
「似てるとも、似てるとも。顔も似ているが、体付きと言うかの、形が、ほれ、そっくりじゃ」
「僕は祖父の顔を覚えていません。僕が幼い頃に亡くなりました。もう二十年ほど前と聞いています」
「そうでしたか。満晴殿は、…確かわしよりも三つほど若かったからの、七十過ぎで逝かれたんですな。わしも満晴殿の術を習得しようと頑張ったのじゃが、できなかった。その時の修行は今でも役に立っておりますぞ。
わしは兎に角、自然の中で我を出さぬ修行をした。自然の中に自分を溶け込ませる修行です。満晴殿の助言もあって、『我在るも我を忘れる』、という助言でした。これが、わしら凡人にはなかなか難しくてな、すぐに我が出る。この年齢になって、やや頭が呆け始めてからやっとその心が見えてきた次第じゃ。はははは…」
「長屋坊様は、気の取り方が尋常ではありません。余程の苦行を熟されたと思います。僕らには想像もできない強靭な意思です」
「あははは、何の何の、凡人にはそれしかありませんでな。ところで…晴茂殿が直々ここに出向かれたのには何か理由があるのじゃな。この老人は、何をすればよろしいかな」
「はい、お察しが鋭い。実は、言い伝えの中に出てくる、お沙世様に会わせて頂きたい」
晴茂の申し出に、長屋坊は驚いた。
「何、お沙世に会いたい?お沙世は、江戸中期の人ですが…、晴茂殿は会えますかな?」
「はい、お沙世様のお墓を教えて頂ければ、その霊を呼びます」
「何と!霊を呼んで会うと言われるのじゃな。なる程。そんな呪術もありますか」
「波山、いや火喰い鶏は、この山の向こうで行われている造成工事で九字紋結界が破れ、そこから抜け出て来ました。古い橋に宿る橋姫という妖怪も同じ結界から抜け出ました。婆娑橋の橋姫は、言い伝えにあるように綾小路と言います。
波山は、元々はあまり悪さをしないのですが、言い伝えにあるように一度人間を喰らうとそれが習慣になります。ですから、結界を抜け出た波山は、何としても封じる必要があります。
橋姫は、橋の守り神ですから、これも悪さをしません。しかし橋姫は、とても嫉妬心が強く、一旦嫉妬心が芽生えるとなかなか手ごわい妖怪になります。今日、この二人、琥珀と天后が波山を封じるところまで追いつめましたが、橋姫綾小路に邪魔をされて封じられなかったのです」
「なる程、結界が破れて、言い伝えにある邪悪な妖怪どもが出てきた訳ですな」
「橋姫綾小路が、何に対して嫉妬心を抱いているのか、あるいは何を目的として波山を助けたのか、それをお沙世様が知っているような気がします」
「ふぅうん。陰陽師でも手に負えない橋姫ですか」
「いいえ、波山も橋姫も、それ程強い妖術を使いません。戦えば、ここにいる琥珀や天后も勝つでしょう。しかし、僕は無闇に戦いは好みません。例え妖怪と言えども、我々人間と共存できるのなら、無理矢理結界に封印したくありません。我々人間は、自然の中で精霊や妖精、それに異界の住人である妖怪と平和に暮らしてきた時代がありました。
邪悪な妖怪や攻撃的な妖怪は封じる必要がありますが、一緒に平和に暮らせるのなら、異界を敵視しないのが陰陽師安倍家の家風です。元々、橋姫は橋の精霊、橋の守り神の存在です。邪悪な妖怪ではありません。お沙世様に会って、なぜ橋姫が封印されるようになったのか、事情を知りたいのです」
「なる程、なる程、わしの考えと同じじゃ。人間はのう、自然を破壊し、人間に都合の良いように、世の中を変えようとしておる。自然の中で生きる獣も虫も魚も、みんな困っておる。精霊や妖怪も、同じじゃな」
「はい、長屋坊様」
「晴茂殿、分かりましたぞ。では、我が家のお墓に行きましょう。いや、何ね、古い先祖の墓はこの屋敷の隅にあるんじゃ。どれがお沙世の墓かはよう分からんが、それでもよろしいかな」
「はい、何とか探せると思います」
長屋坊は建屋を出て、かなり傷んでいる土塀に沿って庭園を越え、屋敷の奥へと案内をした。この屋敷はかなり広い。屋敷の奥の隅まで来ると、りっぱな建物は庭に植わっている木々で見えなくなった。
「そこから向うがお墓ですぞ。最近は村の共同墓地を使ってますが、明治の終わり頃まではここに埋葬したようです。
お沙世の墓は、えっと…、この一画だと思うのじゃが、既に墓石の字も読めんようになって来たんでなぁ。どうです?どれかがお沙世の墓か分かりますかな?」




