枕と夢<24>
体力の消耗から気弱になっている琥珀の目には涙が滲んでいた。
「馬鹿だねぇ、琥珀。あんたは充分人間だよ。恥ずかしいけど、私ね、寝る前に琥珀が言っていた『人間は夢をどんどん小さくしている』って話ね、あんなことを今まで考えてなかったよ。
私って本物の人間だよ。その私が考えていないことを、琥珀は考えて悩んでいるんだよ。人間って、いっぱい種類があるんだ。考え方の種類がね。だから、こうならないと人間じゃない、なんて悩む必要はないんだよ。琥珀は、もう立派な人間だし、女性だよ。悩む事はないよ、今のままで」
琥珀は、冴子の言葉を子守唄のように聞いていた。
「琥珀、私ね。ここへ来たのは、自分の将来に迷ったからなんだ。何か見つけられるかって思ってさ。自分は何になりたいのか、将来はどうなっているのだろうってね。でも、琥珀が一所懸命に人間になろうって思いつめて、努力しているのを見て、私の悩みなんか小さいなって思ったんだ。
だってさ、人間になろうなんて、琥珀の悩みは大きいけど、私なんか何をしたいかなんだよ。小さいよ。琥珀には悪いけど、人間の私は、人間になろうなんて、どんな人間になろうかでさえ、考えたこともないんだ。悩みの大きさ、深さが全く違うよね。私の方こそ、情けないよ」
「冴子様、有難うございます。少し人間に近づいた気がします」
「あらっ、そう?よかったよかった。とにかく、琥珀は人間なんだよ、既にね」
晴茂が里美を抱いて部屋に現れた。里美を布団の上に寝かせると、晴茂は言った。
「二人とも、無事か?」
「私は大丈夫だけど、里美は?」
「里美さんは気を失っているだけだ。無傷だ」
「ああ、よかった。晴茂、琥珀が弱ってるよ」
琥珀は、晴茂の顔をぼんやりと見ていた。今まで冴子を守らねばと気を張っていたのだが、晴茂の顔を見た途端に気力が落ちてゆくのを自分でも感じていた。
近づいて来る晴茂の顔を見ながら、琥珀は必死で微笑んだ。そして、気を失っていった。晴茂は、琥珀を抱きかかえ布団に寝かせた。気を失った琥珀を見て、冴子も心配そうに覗き込んだ。
「琥珀、大丈夫?」
「ああ、経立のすごい腕力を喰らったのだから、消耗している」
晴茂は、手をかざし、琥珀の頭から胸、腹、手足と様子を探った。
「琥珀石は壊れていない。気力が回復すれば問題ないよ」
晴茂は、琥珀と里美に回復の呪文を投げた。
「冴ちゃん、もうすぐ夜明けだけど、少しでも眠ったら。ずっと起きてたんだろう。琥珀と里美さんは、朝になったら目が覚めて回復しているはずだ。琥珀は、念のために、二人の警護に付けておくからね」
「ありがとう、晴茂」
「僕は、もう少し様子を見ておかないといけないから、行くね」
「うん」と冴子は頷いた。そして、続けて言った。
「晴茂、琥珀はすっかり人間だよ。それに、女性だよ。あまり強く言っちゃあ駄目だよ」
「うん、分かってるさ」
晴茂は、枕返しが待つ小屋に来た。事の仔細を枕返しに伝えた。枕返しの妹はすっかり元気を取り戻していた。晴茂は、天空が戻って経立の消息が分かるまで、もう少しこの小屋で待つように言った。小屋を出ると、すでに明るくなっていた。晴茂は、森を眺めながら、天空と一緒に経立の消息を探らねばと考えていた。
次の日、一日中、晴茂と天空は経立の行方を探った。そして夜が訪れた。
「天空、どうやらこの辺りにはもういないな」
「はい、晴茂様。しかし、死骸も見つからない。あの時の剣の手応えでは、死なないまでも相当の深手を負ったはずだ。しかも、黄砂に押し潰され、騰蛇の火に焼かれたんだ。生きていないと思うがなあ」
「いずれにせよ、生きていても妖気が弱っているだろう。なかなか、妖気からは見つけられない」
晴茂は、方角を司る四神獣、青龍、白虎、朱雀、玄武を呼んだ。経立は、今回経験したように非常に手強い相手だ。経立が生き延びていて復活するような事態になれば、その時は今回よりも更に強敵に成長している懸念がある。天空を中心にして四神獣で、生きていようが死んでいようが、経立を探すように指示をした。
晴茂が気になっているのは、黄砂に襲われ、騰蛇の火に焼かれ、瀕死の重傷を負い、妖力も弱り切った老猿が、最後に逃げおおせたあの力はどこにあったのか、ということだ。最後の力を振り絞ったとしても、天空剣の追撃から逃げおおせたのが不思議なのだ。何か別の力が働いたとも考えられる。
晴茂は、枕返しの兄妹に、経立はすでにこの近辺にはいない事、彭侯がいる限り経立は戻らないだろうと告げ、屋敷に戻してやった。枕返しはお礼を言い、二度と人間に悪さをしないと誓った。晴茂は、窯元の様子を覗いた。冴子、里美、そして琥珀が元気そうに部屋でくつろいでいる。琥珀はすっかり打ち解けた様子だ。建物の中には堀田の姿がない。晴茂は栃の木に行って見る事にした。
「彭侯、やはりここにいたのですね。あれっ、太陰じゃないか」
彭侯と太陰は、昼間から酒盛りをしている最中だった。
「あらっ、晴茂様。いやだぁ、見つかっちゃったわ」
「いやいや、いいよ、太陰。彭侯の折角の招待ですから、美味いお酒でも頂いてください」
「ひゃひゃひゃ、もう既に浴びる程、飲んでくれましたぞ」
晴茂は、経立の消息が知れない事とこの近辺にはいない事を話した。
「陰陽師、もし経立が生き延びていたとしても、この近辺の森には寄り付かんじゃろう。何かあれば、わしが太陰に知らせる事にしよう」
「おや、彭侯さん。何かないと呼んでくれないのは、いけませんわ。こんな美味しいお酒を独り占めは、身体に悪いですわよ」
「ひゃひゃひゃ、何時でも来て下されや、太陰さん。ひゃひゃひゃ…」
「ところで、彭侯。あの経立、いや経立になる前の老猿は、どこに居たのだろう。聞いていないか」
「いいや、聞いてはおらんのう。瀕死の状態なら、生まれた場所へ戻るかも知れないの」
美味しいお酒をたらふく飲んで上機嫌の太陰は、普段は言わない勘を言い出した。
「晴茂様、わたしの勘を言ってもいいかしら。生き延びたとして老猿が行きたいのは、丹波だわ。」
「なぜ丹波?」
「いやだぁ、もう、だからわたしの勘ですよ。なぜ?は無いの」
「ほおぅ、太陰、あんたが勘だと言うのなら、まだ智恵が固まっていないんじゃな。しかし、結論だけは出ておると言う事じゃろう。お酒を飲み過ぎたのか、足りないのか、じゃな。ひゃひゃひゃ…」
「お酒は、へへへ、足りてますよ、彭侯さん」
「しかし、陰陽師。この太陰は知恵者じゃのお。経立が人間の住む町へ居場所を変えるという計画を知った時、わしは、もう経立は倒せんと思ったのじゃ。
ところがじゃ、『言霊縛り』を使う方法を、この太陰は考えおった。誰も思いも及ばぬ智恵じゃ。経立を倒すのにわしを利用しようと言ったのも太陰の智恵じゃろ。大した酒飲みじゃ」
この時の太陰は、いつものほろ酔い加減ではなかった。彭侯と一緒に盃を進め、よほど気持ちが良かったのだろう。浴びる程飲んだと彭侯が言うはずだ。
「おやぁ、知恵者ですか。へへへ、…、だからね、わたしは単純に物事を考えるだけなのっ。智恵でも何でもありませんわよ。
あの時の、わたしの単純さはね、…。そうそう、森を支配できる彭侯さんの力が及ぶのは、森の生き物全てでしょ。森の生き物はどこにいても森の生き物だから、えええ、…森の生き物ですって自覚すれば、森の生き物がどこって、うぅ…、そう、森の生き物がどこかにいて、どこかにいるのですわ。
…じゃあなく、えっと…。あああ、ご免なさいね!今日は飲み過ぎですわ。ふぅう、…、森の生き物ですわよね、えええ…」
太陰は、今夜は楽しい酒を飲んだようだ。座って左手に酒盃を持ちながら、眠ってしまった。
「ひゃひゃひゃ、…」
「はははは、…」
晴茂と彭侯も、楽しく笑った。
体験学習の最終日、晴茂は冴子、里美、琥珀を迎えにやってきた。実際は、天空らと共に経立を探していたのだが、経立の居所も、死んでいる場合の死骸も発見できなかったのだ。
「晴茂」
冴子が晴茂の姿を見つけ呼んだ。
「やあ、終わったね。楽しかった?」
「そりゃあもう、ほら、見てこの写真。これみんなの作品だよ。これから焼くので、出来上がりは数週間後らしいけど、完成したら送ってくれるの」
「これ、私の壺」
「わっ!大きいじゃない」
「でも、形が単純だから、…」
里美が恥ずかしそうに答えた。
「お兄ちゃん、これどう?」
「おお?何だこれ?」
「失礼ね。徳利だよ。ここね、くびれてるでしょ。これが難しいんだから」
「ふぅん、徳利か」
「お酒の好きな小母様にあげるの」
「琥珀、一輪挿しでもいいよね。徳利じゃあ、ちょっと、ここがくびれ過ぎ」
冴子が批評した。
「うん、でも、まあ初めてだからね」
「冴子さんの湯飲み茶碗、これ良かったね」
「そうそう、これね、お兄ちゃん、写真では見難いけど、絵柄がいいんだよ」
「へえ?これは…、アンパンマンか?」
「違うよ!失礼ね、お兄ちゃん。これ牡丹の花だよ」
みんなで、明るく笑った。
冴子も悩みが消えたようだ。琥珀も、自然に人と接することができるようになってきた。ほんの数日の期間だったが、この三人は幼馴染のような仲になっていた。晴茂は、冴子と琥珀そして里美の楽しそうな声を聞きながら、遠くで手を振る堀田に軽く頭を下げた。




