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琥珀色の心  作者: 柴垣菫草
第三章 伸上り
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伸上り<6>

 翌朝、まだ暗い山の中で、木々を飛び渡っている琥珀の姿があった。こちらの樹から、あちらの樹へ、そしてまたこちらの岩へ、既に一時間は、目まぐるしい動きで飛び跳ねている。何かを吹っ切るように、早く、遠く、高く飛んだ。最後に高い杉の木の(こずえ)から、すうっと地上に降り立つと、そこで座禅を組んで気を静めた。


 いつも晴茂が山中で修行をする時の形だ。瞑想する事、数十分。いつもは数秒で雑念が消えるのだが、今朝の琥珀は雑念を消すのに苦労をしている。それでも、ようやく無心になれた琥珀は、目を開けて立ち上るとホテルへ帰った。


 琥珀が雑念を消し無心になれたのは、

『私は晴茂様の式神だ。晴茂様とは一心同体だ』 

と思い当たったからだ。


自分は晴茂様によって造られた式神、言わば晴茂様の分身だ。琥珀は他の誰よりも晴茂様を分かり、晴茂様も琥珀の全てを知っている。


それで充分ではないか。晴茂様の存在は、琥珀自身そのものだ。そして、琥珀の存在は晴茂様の存在そのものだ。その強い自負が真弓に嫉妬する心を制し、琥珀を無心の境地に引き入れたのだ。昨夜からの心の乱れは、ようやく静まった。


 朝食を済ませた三人は、ホテルを出ると再びカワウソの筆を貸してくれた筆司の所へ向かった。琥珀の真弓に対する感情は、既に冷静さを取り戻していた。筆を返すと、カワウソの毛の材料を見せて欲しいと、晴茂がお願いをした。真弓は、工房で化粧筆の製作工程を見せてもらうことにした。


 晴茂と琥珀は、奥の納屋へ案内され、カワウソの毛の材料を見せてもらった。和紙で包まった一抱えもある量だ。

「これが全部カワウソの毛ですか?」

「はい、そうですよ」

「何頭分くらいのカワウソですか?」

「さあねえ。私も一頭から取れる量は分からないのですが、少なくとも十頭以上じゃあないですかね」


筆司は、おもむろに和紙を広げた。

「あれ、随分と減っている。こんなものじゃなかったんだが」


晴茂と琥珀は、お互いに顔を見合わせた。微かにだが、異様な気を感じたのだ。

「もっと多かったのですか?」

「そうだよ。あの筆を作ったのが、えっと、三年前かな。その時には、この倍はあったと思うが」

「その後は使ってないのですか?」

「そう、三年前に確か数十本の筆を作ったんだ。でも、書家の人に紹介したのだけど、どうも硬過ぎて使い難いと言われてね。それ以後は作ってない。誰も、触ってないはずなんだが、…」


 おかしいなあ、と言いながら筆司は母屋の方へ行った。晴茂と琥珀は、じっとカワウソの毛を見つめていた。

「その減ったというカワウソの毛が集まって、高入道(たかにゅうどう)変化(へんげ)したのでしょうか」

「分からない。が、この微かに残っている異様な気は、獣の気ではないな」

「ええ?それではカワウソではない?」

「違うと感じる。これは人間の霊気かもしれない」

「人間の霊気?」


 その時、筆司が戻ってきた。

「やはり、誰もカワウソの毛には触ってないようです。なぜ、減ったのかなあ」

「このカワウソの毛を、ほんの少しでいいのですけど、分けてもらえませんか」

「ええ、どうぞどうぞ。もう使わないと思いますからね」

晴茂は最も異様な気の強そうな部分の毛を一つまみ取った。これに入れましょうと、筆司が紙袋を差し出してくれた。


「あのお、このカワウソの毛を採取したのは誰ですか?」

琥珀が聞いた。

「ええ、先代です。私の親父です。カワウソを捕まえるのを私も時々手伝いましたから。随分昔ですよ。私が子供の頃です」

「それは、四十年位前ですか」

晴茂が続けた。


「そうですねえ。もうそれ位前になりますね」

「この辺りに、カワウソはたくさんいたのですか」

筆司は、カワウソの毛を片付けながら、答えた。

「いやあ、もうあまりいなかったですよ。親父が子供の頃は随分いたようですけどね、ほらこの先のダムがありますでしょう。あれができる前は、たくさんいたと聞いてますがね」

「カワウソを捕まえて筆の毛を採るのですか?」

「いいえ、毛皮を売ったのでしょう。筆の毛には向きませんから」

「そうですか。有難うございました」


「あのー、私たちが経験した奇妙な事件と、このカワウソの毛とは、関係があるのでしょうか」

筆司が聞いた。

「いいえ、分かりません。でも、カワウソの毛で筆を作った人達が、その奇妙な体験をしたという共通点はありますよね」

「はあ、みんな筆職人ですがね」


 三人で納屋から工房へ出てくると、真弓が化粧筆の品定めをしていた。どれがいいか、悩んでいる様子だ。

「晴茂さん、どれがいいですか。この三本に絞ったのですけど、決められなくて」

化粧筆と言われても、晴茂にはさっぱり分からない。どのように使うのかも分からない。晴茂は、助けを求めるように筆司さんの顔を見た。

「お値段の割に毛先の良いのはこれですね。ちょっと小さすぎますか?」

「いいえ、大きさはこれでもいいですけど、…」


 真弓の相手は筆司さんに任せて、晴茂は琥珀と工房を見学するようにして話した。

「琥珀、やはりカワウソの毛から出た高入道だな」

「決め手は?」

「あの微かな霊気だ。あれはカワウソの妖気ではなく、人間の怨念から出る霊気だろう」

「それなら、晴茂様、カワウソの妖怪ではないじゃないですか」


「いいや、高入道はカワウソが変化(へんげ)した妖怪だ。筆司さん達が見た高入道は、カワウソの毛が何者かに無理矢理妖力を与えられたのだろう。高入道を見たというなら、その正体はカワウソしかない」


「何者かがカワウソの毛を操っている、ということですか、晴茂様」

「そう。そうとしか考えられない。あの毛には、ほとんど妖気がない。昨夜の筆の毛先と同じだ。そんな弱い妖気の毛が、自発的に高入道に変化(へんげ)して人間を(たぶら)かすとは思えない」

「はい」


「だから、まず筆司さんたちを驚かせた高入道は、あのカワウソの毛。しかし、そのカワウソの毛にパワーを与え操っているのは何者か人間の霊、となる。そうとしか考えられない」

「はい、晴茂様」

「もらって来たこの毛に残る霊気から、もう少し探ってみるしかないな」


 筆司と品定めをしていた真弓が大声で呼んだ。

「晴茂さーん。これ、この化粧筆にしまーす」


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