小説くらい、俺にもかける。
「どうして俺が、自分より頭の悪い人間に頭を下げなければならないんだ」
そう思って会社を辞めてから、三か月が過ぎた。
湊川宏太、四十歳。
独身。彼女なし。そして現在、無職。
約二十年間勤めた医療機器メーカーを辞めてから、曜日というものに意味がなくなった。最近では、今日が何曜日なのかを確かめることさえなくなっている。
子供の頃から、宏太は頭がよかった。
成績は常に上位。教師や親からは将来を期待され、自分でも、いつか人より大きな仕事をするのだと思っていた。
だが、現実に就いたのは医療機器の営業だった。
それでも、仕事ができなかったわけではない。
仕様書を読めば性能と構造を理解し、現場を見れば最適な製品が分かる。不具合が起きても、症状を一つずつ切り分けて原因を突き止めた。
いわば、《解析》《最適化》《原因特定》。
異世界なら、どれも立派な固有スキルになっただろう。
しかし、現実の営業で求められたのは、そんな能力ばかりではなかった。
こちらに落ち度がなくても謝り、無理な要求にも「確認します」と答える。相手が白だと言えば、黒いものでも白として持ち帰る。
話していれば分かる。
こちらの説明を理解できないまま、立場だけを使って要求を押し通そうとする人間がいる。
それでも相手が客なら、宏太が頭を下げなければならなかった。
問題を解決する力より、相手の機嫌を損ねないことのほうが評価される。
若い頃は、それも仕事のうちだと思っていた。
いつか能力を認められ、もっと自分にふさわしい場所へ行ける。そう信じて十八年間、働き続けた。
だが、四十歳になっても何も変わらなかった。
この先もずっと、自分より物事を分かっていない人間に頭を下げ続けるのか。
自分なら、もっとできる。
退職を申し出たとき、上司には三度引き止められた。
「次は決まっているのか」
「これから探します」
「四十歳からの転職は、そんなに甘くないぞ」
宏太は心の中で笑った。
辞められると困るから、脅しているのだと思った。
十八年も医療業界で働いてきた。癖の強い医師の無理難題をかわし、ケチな事務長とも渡り合ってきた。
資格はないが、資格欄には書ききれない経験が自分にはある。
世の中が、こんな才能をいつまでも放っておくはずがない。
宏太は、次の会社を選ぶのは自分のほうだと思っていた。
もっと早く、次の仕事は決まると思っていた。
だが、四十歳の資格なしを雇ってくれる会社は、宏太が考えていたよりも少ないらしい。
応募先から届くのは、不採用を知らせる短いメールばかりだった。
慎重に選考を重ねました結果、誠に残念ながら——
慎重に何を選考したのか、一度くらい教えてほしかった。
中には、履歴書を送った翌朝に返事を寄こす会社もあった。夜の間に、どれほど慎重な話し合いが行われたのだろう。
それでも最初の一か月は、自由を楽しめた。
目覚まし時計をかけずに眠り、見たかったドラマを動画配信サービスで片っ端から見た。一話が終われば、次の一話が始まる。刑事が犯人を追い、医師が患者を救い、弁護士が法廷で逆転する。
誰かの人生が一時間ごとに決着していくのを眺めているだけで、一日は簡単に過ぎた。
二か月目に入ると、見たい作品がなくなった。応募できそうな求人も減っていった。
そして一か月前、宏太は動画配信サービスを解約した。
月額料金を惜しんだのではない。
少なくとも、解約したときはそう思っていた。
それ以来、部屋が静かになるとテレビをつけている。
見たい番組があるわけではない。人の声がしていれば、自分だけが世の中から取り残されたような気持ちにならずに済んだ。
その日の昼も、宏太はソファに横になり、リモコンを握っていた。
チャンネルを替えようとしたとき、画面の中で大勢の記者に囲まれた男が頭を下げた。
『第十二回黎明小説大賞。応募総数四千七百八十二作品の頂点に立ったのは——』
宏太の指が止まった。
壇上には、紺色のスーツを着た男が立っていた。年齢は宏太より少し若く見える。片手に盾を抱え、何度も頭を下げていた。
画面の隅に、大きな文字が躍っている。
――大賞賞金、一千万円。
「一千万?」
宏太は上半身を起こした。
『受賞作は来月、黎明文化出版より刊行されます。また、大手動画配信サービス「ウェイブ」でのドラマ化も検討されているということです』
受賞者の男は、まだ信じられないという顔で笑っていた。
『小説を書き始めたのは、いつ頃だったのでしょうか』
『一年ほど前です』
『それまでは、執筆の経験は?』
『まったくありません。会社員をしながら、仕事が終わったあとや休日に少しずつ書きました』
「まったくない……」
宏太は、テーブルの上の封筒に目をやった。
昨日届いた不採用通知だった。
『受賞を、最初に誰へ伝えたいですか』
司会者に尋ねられ、男は少し考えた。
『妻と、子供です。諦めずに書きなさいと言ってくれたのは、二人なので』
会場から拍手が起こった。
宏太は、食べかけのポテトチップスを口に入れた。
妻も子供もいない自分なら、誰にも邪魔されずに書けるじゃないか。
会社員の男が仕事の合間に一年で書けたのなら、毎日が日曜日の自分なら、もっと早く書けるかもしれない。
しかも、小説を書くのに資格はいらない。
年齢も職歴も問われない。客に頭を下げる必要もなければ、面接官に自分の価値を決めてもらう必要もない。書いたものだけで評価される。
そして、一千万円。
宏太はテレビの音量を上げた。
『次回の募集は来月一日から始まります。ジャンルは不問。これまで小説を書いた経験のない方にも、ぜひ挑戦していただきたいということです』
画面の中で、受賞者が盾を掲げた。
その姿を見ながら、宏太はつぶやいた。
「これなら、俺にも書けるじゃないか」
思いつきだけで口にしたわけではなかった。
宏太は子供の頃から、空想することが好きだった。
授業中に窓の外を眺めては、校庭の下に巨大な地下都市があると想像した。
通学路ですれ違った見知らぬ男を秘密組織の一員に仕立て、退屈な修学旅行では、乗っているバスが何者かに乗っ取られる物語を考えた。
頭の中では、いくつもの物語を作ってきた。
ただ、それを文章にしたことがないだけだ。
「話を考えるくらいなら、昔からやってたんだよ」
問題は文章だった。
宏太は理系の大学を出ている。文学作品を好んで読んできたわけでもなければ、文章の書き方を学んだ経験もない。仕事で作ったのも、見積書や製品説明書、上司へ提出する報告資料くらいだった。
だが、それも今では自分だけで作っていたわけではない。
医療機器メーカーにいた頃、宏太は文章生成AIをよく利用していた。
製品を導入する利点を箇条書きで入力すれば、見栄えのする提案文に整えてくれた。
売り上げが目標に届かなかった理由を並べれば、反省しているように読める報告書を作ってくれた。
取引先から無理な要求を受けたときも、角を立てずに断る文章を考えてもらった。
自分で書けば一時間かかる資料が、十分で出来上がる。
宏太は、いつしかそのAIを「エージ」と呼ぶようになっていた。
単なる道具というより、困ったときには必ず答えを返してくれる相棒のような存在だった。
AIの便利さは、誰よりもよく分かっている。
ならば、小説だって同じだ。
宏太は物語を考えればいい。
善と悪がはっきりした世界を作り、魅力的な登場人物を生み出し、胸のすくような逆転を考える。それをエージに伝えれば、誰が読んでも唸る文章にしてくれる。
エージに頼めば、文章を書くことなどお茶の子さいさいだ。
そう思った途端、宏太の胸に創作意欲が湧き上がってきた。
これまで頭の中だけで終わっていた物語が、初めて形になる。
しかも、その物語が一千万円を生み、書店に並び、ドラマになるかもしれない。
何もなかったはずの自分の中に、とてつもない才能が眠っているような気さえしてきた。
宏太は両手をキーボードに置いた。
俺の発想力と、エージの文章力。
俺たちは、最強のコンビだ。
そう信じて、宏太は最初の指示を打ち込んだ。




