先行プロローグ:捨て猫のミュレ
反逆者にされたので、領地ごと隣国に寝返ります
~のんびり内政してただけなのに、祖国が三分の一消えました~
本編開始前の先行プロローグです。
投稿としては、これが初投稿です!
本作のヒロイン ミュレの前日譚となります。
ここから読む人が多いと思うので、本編のコアエッセンスを結構入れていて、読み続けるか、切るかの判断指標になるような感じで書いてるとこもあります。
少しだけ本編が進んだ時間軸を含みますが、このまま読んで大丈夫な内容です。
気に入っていただけたら、ブックマークで応援していただけると嬉しいです!
先行プロローグ 捨て猫のミュレ
朝の領主館は、夜よりも静かなことがある。
夜には見張りの足音がある。
遠くの篝火がはぜる音がある。
傷んだ屋根を叩く風の音がある。
けれど朝は、それらが一度だけ息をひそめる。
まるで屋敷そのものが、今日という日を始めていいのか迷っているみたいに。
ミュレは、その静けさの中を歩いていた。
銀灰色の髪を揺らし、メイド服の裾を指先で少しだけ押さえながら、廊下を進む。
足音は立てない。
立てようと思えば立てられるけれど、立てる必要がない。
朝に主の部屋へ向かう者は、世界で一番静かでなければならない。
それがミュレの決めた規則だった。
廊下の突き当たり。
重い木の扉。
ベルク・トルガ・リストレインの寝室。
ミュレは胸元から、小さな鍵を取り出した。
この鍵を持っているのは、ベルク本人とミュレだけだ。
それを思うたびに、胸の奥が少しだけ温かくなる。
別に、鍵そのものが嬉しいわけではない。
金属の小片だ。
古びているし、よく見ると傷もある。
けれど、それは許可だった。
この扉を開けていい。
この人の眠りに近づいていい。
この人が無防備でいる場所に、自分だけは入っていい。
そう言われているような気がするから、ミュレはこの鍵が好きだった。
鍵穴に差し込む。
音を立てないよう、ゆっくり回す。
かちり、と小さく鳴った。
ミュレは扉を開けた。
部屋の中は薄暗い。
厚いカーテンの隙間から、朝の光が細く床へ落ちている。
机の上には、昨夜まで使われていた書類が積まれていた。
羽ペン。
封蝋。
乾ききっていないインクの匂い。
戦が終わっても、領主の仕事は終わらない。
むしろ、戦が終わったからこそ増える。
ミュレはそれを知っていた。
だから、起こす前に確かめなければならない。
今日も、この人がいることを。
ミュレはベッドへ近づいた。
ベルク様は眠っていた。
いつも通り、少しだけ眉間に皺が寄っている。
夢の中でも何かを考えているのかもしれない。
あるいは、夢の中でも書類に追われているのかもしれない。
それは少しだけ気の毒だった。
けれど、その寝顔を見られることが、今日は特別だった。
昨日まで、ミュレは何度も思った。
もうこの顔を見られない朝が来るのではないか、と。
扉を開けても、ベッドが空っぽの朝。
呼んでも返事がない朝。
誰かが泣いていて、誰も何も教えてくれない朝。
そんな朝を、何度も想像した。
想像したくなかった。
けれど、想像せずにはいられなかった。
ミュレはそっと身をかがめる。
ベルク様の顔に近づく。
息。
浅く、けれど確かに、ベルク様は息をしていた。
ミュレはそこでようやく、自分が息を止めていたことに気づいた。
毎朝のことだった。
ベルク様の部屋へ入る。
ベッドへ近づく。
呼吸を確かめる。
生きていると分かってから、はじめて朝が始まる。
誰かに言えば、きっと笑われる。
心配しすぎだと。
変な習慣だと。
まるで猫が飼い主の胸に前足を乗せるみたいだと。
でも、ミュレにとっては違う。
人は、いなくなる。
昨日までそこにいた人が、次の朝にはいないことがある。
パン屋の夫婦もそうだった。
いつも屋敷にパンを卸しに来る二人。
よく日に焼けた夫と、よく笑う妻。
今朝、厨房に来たのは奥さんだけだった。
いつもなら、夫が大きな籠を担いで、妻が伝票を出す。
夫が余った小さな丸パンを厨房の子に渡して、妻が「だめですよ」と言いながら、結局もう一つ足す。
それが、今日はなかった。
奥さんは、一人で籠を持っていた。
いつもより小さい籠だった。
ミュレは理由を聞けなかった。
聞けば、答えが返ってくる。
返ってきた答えは、もう知らないふりができない。
だから、聞けなかった。
ミュレはベルク様の寝顔を見下ろした。
信じてもいない神に、祈る。
どうか。
どうか、この人がいない朝を迎えませんように。
どうか。
この人より先に、私が死にますように。
祈りは、声にはならなかった。
声にしてしまえば、ベルク様が起きてしまう。
ベルク様が起きれば、きっと困った顔をする。
そして「重い」と言う。
たぶん、そう言う。
ミュレは少しだけ笑った。
その言葉が聞けるなら、重くてもいいと思った。
けれど、そう思った瞬間、胸の奥に古い冷たさが触れた。
ずっと昔の記憶。
名前も、家も、母親の顔も、何もなかった頃の記憶。
私にご飯をくれていたおばさんに、かわいい赤ちゃんが生まれた。
それだけのことだった。
今なら分かる。
席が一つしかなかったのだ。
誰かが悪魔だったわけではない。
誰かが特別に残酷だったわけでもない。
ただ、食べ物が足りなくて、寝る場所が足りなくて、腕の中に抱ける子どもの数が足りなかった。
だから、私は席からあぶれた。
次の日、目を覚ましたら、見知らぬ路地にいた。
石壁の隙間。
腐った藁。
泥。
誰かが捨てた布切れ。
遠くから聞こえる馬車の音。
最初の日、ミュレは我慢した。
きっと迎えに来ると思った。
おばさんは忙しいだけだと思った。
赤ちゃんが泣いているから、少し遅れているだけだと思った。
二日目、泣きながら物乞いをした。
通りを歩く人たちの足にすがった。
手を伸ばした。
声を出した。
誰も食べ物をくれなかった。
三日目、雨が降った。
それはよかった。
水が飲めたから。
地面にたまった水を舐めた。
泥の味がした。
けれど、喉が鳴った。
四日目、草を食べた。
苦かった。
噛んでも噛んでも、口の中が青くなるだけだった。
それでも飲み込んだ。
あとで知った話だが、その年はひどい飢饉だったらしい。
誰もが飢えていた。
誰もが自分の皿を守るので精一杯だった。
だから、薄汚れた孤児が一人、路地で死にかけていても、世界は止まらなかった。
五日目。
もうだめだと思った。
空腹は、もう空腹ではなかった。
痛みも、寒さも、よく分からなかった。
ただ、体が重い。
目を開けていることができない。
音が遠い。
世界が水の底みたいに揺れている。
このまま死ぬのだと、ぼんやり思った。
それでも最後に、薄目を開けた。
豪華な馬車が通った。
磨かれた車輪。
厚い布の幌。
手入れされた馬。
扉には、見たこともない紋章。
その瞬間、胸の奥に火がついた。
怒りだった。
こんな路地の片隅で、自分は飢えて死ぬ。
でも、手を伸ばせば届きそうな距離に、たくさん食べて、温かいベッドで眠れる人間がいる。
そのことが、どうしようもなく許せなかった。
「う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛っ」
声にならなかった。
言葉なんてなかった。
どうして。
いやだ。
死にたくない。
おなかがすいた。
助けて。
許さない。
その全部が混ざって、ただの呻きになった。
ミュレは石を拾った。
指に力は入らなかった。
それでも投げた。
石は馬車に当たった。
もう一つ投げた。
当たったのか、外れたのかも分からない。
それでも投げた。
このまま消えるのが嫌だった。
誰にも見られず、誰にも覚えられず、泥と一緒になるのが嫌だった。
ここにいる。
私は、ここにいる。
そう叫ぶかわりに、石を投げた。
馬車が止まった。
扉が開く。
誰かが降りてきた。
目はよく見えない。
けれど、自分とそう変わらない子どもだと思った。
ほら。
やっぱり、世界は理不尽なのだ。
温かい服を着て、綺麗な靴を履いた子どもがいる。
同じ子どもなのに、片方は馬車から降りて、片方は路地で死にかけている。
言葉にもならないほど、世界は理不尽だった。
それが、あの路地にいた時の最後の記憶。
そして、ミュレの冷たい記憶の最後だった。
次に目を開けた時、誰かに抱かれていた。
正確には、その時のミュレに、温かいとか寒いとかを感じる力はほとんど残っていなかった。
けれど、抱かれている、ということだけは分かった。
誰かの腕の中にいる。
それが、とても温かいことのように思えた。
「うおっ、よかった。目が覚めた」
声がした。
少年の声だった。
近い。
「いいか、一気に食べるなよ。固形物もだめだ。たぶん胃がびっくりする。いや、この世界に胃がびっくりするという概念があるかは知らんけど、とにかくだめだ」
何を言っているのか、半分も分からなかった。
けれど、口元に濡れた布が押し当てられた。
甘い。
ミュレは夢中で吸った。
甘い水が、口の中に入ってくる。
喉を通る。
体のどこかが、それを追いかける。
吸った。
吸った。
味がしなくなっても、吸った。
「おいおい、待て。まだある。まだまだあるから、一度離せ」
布が口から引き抜かれた。
次の瞬間、ミュレは反射的に、その手に噛みついていた。
「いった。嘘だろ」
「貴様! ぼっちゃまに何を!」
「待て。生存本能だ。許してやれ」
少年はそう言った。
怒っていなかった。
少なくとも、叩かれなかった。
蹴られなかった。
捨てられなかった。
もう一度、唇に甘い布が押し当てられる。
ミュレはすぐに吸い始めた。
その少年が、ベルク様だった。
けれど、その時のミュレは、まだ彼の名前を知らなかった。
名前を知ったのは、ベルク様が建てた救護院に入ってからだった。
ベルク・トルガ・リストレイン。
自分を見つけて、拾い上げてくれた人の名前だった。
食事と寝床をくれた人。
字を覚える場所を作ろうとしている人。
そして、ミュレに甘い水をくれた人。
ミュレはその名前を、何度も心の中で繰り返した。
ベルク様。
それは、冷え切っていた胸の奥に、小さな灯りを置くような響きだった。
救護院では、お腹いっぱいとはいかなかった。
でも、おばさんの家にいた時より、ずっとたくさんのご飯が食べられた。
薄いスープ。
硬いパン。
少しの豆。
たまに、野菜の切れ端。
それでも、次の日の分があると分かっている食事は、ミュレにとって不思議なものだった。
食べ終わっても、世界が終わらない。
皿が空になっても、明日がなくならない。
最初は、それが信じられなかった。
救護院には、いろいろな年の子どもがいた。
泣く子。
怒る子。
すぐ眠る子。
食べ物を隠す子。
大人を見ると逃げる子。
ミュレも、その中の一人だった。
はじめは、うまく喋れなかった。
言葉を知らなかったわけではない。
でも、人とどう話せばいいのか分からなかった。
何かを頼めば、奪われるかもしれない。
何かを言えば、追い出されるかもしれない。
泣けば、うるさいと言われるかもしれない。
だから、黙っていた。
黙って、周りを見ていた。
誰が食事を配るのか。
誰が優しいのか。
誰が怒るのか。
どの席に座れば、背中を壁につけられるのか。
そんなことばかり覚えた。
救護院に入ってしばらく経ったある日、話があった。
ベルク様が、学校というものを建てるらしい。
そこに入る子どもを募集する。
希望すれば誰でも入れるわけではなかった。
救護院からは、最大で五人。
しかも、テストに受かった者だけ。
テストに備えるための本は、希望すれば配られるという。
なぜかは分からない。
けれど、その話を聞いた瞬間、ミュレは強く思った。
入りたい。
どうして入りたいのか、分からなかった。
学校に入れば、何があるのかも知らなかった。
勉強が何の役に立つのかも知らなかった。
字を読める子が、なぜ偉いのかも分からなかった。
それでも、入りたいと思った。
たぶん、それは初めて自分で選んだ席だった。
誰かに置かれるのではなく。
誰かから余った場所をもらうのでもなく。
自分で、そこに座りたいと思った。
でも、困ったことがあった。
ミュレは字があまり読めなかった。
救護院に来たころは、まったく読めなかった。
今は少しだけ読める。
けれど、テストを受けられるほどではない。
テストは半年後。
ならば、まず字を読めるようにならなければならない。
それは自明だった。
あきらめる、という選択肢は浮かばなかった。
できるかどうかではなく、やるしかないと思っていた。
その日から、ミュレは勉強をした。
朝、起きて字を読む。
食事のあと、字を書く。
手伝いの合間に、数字を数える。
夜、眠くなっても、もう一度本を開く。
何も苦にならなかった。
それが使命であるように。
それが楽しみであるように。
そうでなくてはならないように。
間違えると悔しかった。
読めない字があると、胸の奥がざわざわした。
誰かが先に答えを言うと、次は自分が言いたいと思った。
草を噛んでいた口が、字を覚えていく。
呻きしか出なかった喉が、文章を読む。
石を握っていた手が、羽ペンを握る。
半年後、ミュレは合格した。
その日、救護院の院長は、ミュレに新しい服をくれた。
真っ白な、まだ誰のものにもなっていない服だった。
「初等学校に入る子が、そんな継ぎだらけの服ではいけませんからね」
院長はそう言って、少しだけ照れたように笑った。
ミュレは服を抱きしめた。
汚してはいけないと思った。
けれど同時に、この服を着て外へ出たいとも思った。
初等学校に入学した日、ミュレはその白い服を着て、ベルク様と再会した。
以前より、ずっとはっきり見えた。
あの日、馬車から降りてきた少年。
あの日、自分に甘い水を含ませた人。
あの日、噛みついた手を引っ込めず、もう一度布をくれた人。
ベルク様はミュレを見て、少しだけ目を細めた。
「ん。お前、あの時の猫みたいなやつか」
ミュレは何も言えなかった。
ベルク様は自分の指を見せた。
そこには、うっすらと噛み跡が残っていた。
「綺麗になったな」
その言葉を、ミュレは忘れない。
綺麗。
自分に向けられる言葉だとは、思っていなかった。
薄汚れた孤児。
路地の隅で死にかけていた子ども。
食べ物を隠す子。
うまく喋れない子。
猫みたいなやつ。
そんな自分に、意味が与えられた気がした。
あの日を、ミュレは忘れない。
私が意味を持った日。
私が、ただ席からあぶれた子どもではなくなった日。
そして、私の世界に、ベルク様という名前が刻まれた日。
ミュレは静かに息を吐いた。
回想の冷たさが、朝の光にほどけていく。
ベルク様はまだ眠っている。
起こそうと思えば、すぐに起こせる。
名前を呼ぶ。
肩に触れる。
耳元で囁く。
けれど、ミュレはすぐには起こさなかった。
窓辺へ向かう。
カーテンに手をかける。
ゆっくりと開ける。
朝の光が、部屋へ流れ込んだ。
傷ついた街の上にも、壊れた屋根の上にも、誰かが一人で運んできたパンの籠の上にも、同じ光が落ちている。
ミュレはベッドの横へ戻った。
姿勢を正す。
背筋を伸ばす。
路地に捨てられた子どもではなく。
救護院の片隅で本を抱えていた子どもでもなく。
この人の朝を預かる者として。
そして、静かに声をかけた。
「おはようございます、ベルク様」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
少しでも「続きが気になる」「ベルクの行く末を見てみたい」と思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。
感想も大歓迎です。
今後の執筆の参考にさせていただきます。




