【第73話】 『私は私のために──リリアーヌ、誠実離脱宣言』
誠実乳育成塾の一室。
午後の日差しがレースのカーテンを透かして、部屋全体に柔らかい金の粒子をまいていた。
その中で、リリアーヌは静かに、荷造りをしていた。
ひとつ、またひとつ。
彼女が築いてきた“誠実乳”という理念、その中心にあったリボン付きの筆記帳や、乳育塾の創設認定証、各国から贈られた揺れ認定章などが、トランクにしまわれていく。
その手つきは、どこまでも丁寧で──けれども、どこか悲しかった。
ノックの音。
ユーフィリアが静かに扉を開ける。
「……リリアーヌさん、本当に行くんですか?」
リリアーヌは微笑んだ。
それは、昔より少しだけ柔らかく、けれど芯のある笑みだった。
「ええ。私はここまで、誠実って何かを証明したくて戦ってきた。でも、それは“誰かのために揺れる”ことではなかったはずなの」
「私は、誰かに“誠実”を証明するために、生きてるんじゃないわ」
その言葉に、ユーフィリアは何も返せなかった。
ただ、黙って頷いた。
その背後で、エミリアとソフィアも顔を出す。
「やっぱり……行くんだね」
「貴女がいないと、塾も世界も少し……静かになりそうです」
リリアーヌは笑う。
「それもいいじゃない。揺れは、強くなきゃいけないわけじゃないもの」
「私は、“選ぶ自由”を得た。でも……それを誰かに見せつけたいわけじゃない」
「誰かに“私を見て揺れてほしい”わけじゃないの」
「だから私は、この乳を“隠す”ためじゃなく、“静かに持つ”ために、行くわ」
◆ ◆ ◆
その夜。
王都を発つリリアーヌの姿を、誰も見ていなかった。
ただ、風だけが知っていた。
帽子のつばを揺らし、マントの端をはためかせながら、彼女が王都の裏門を静かに抜けたことを。
そして向かう先は、地図の端に書かれた無名の街──
“ノン=バスト”──別名、《乳のない街》
そこは、誠実乳法の適用外地域。あらゆる“揺れの定義”が未導入で、乳を語ることすら避けられる空間だった。
だが、リリアーヌはそこへ向かった。
“揺れる”ためではない。
“揺れないこと”を、咎められずに許される場所を、求めて。
誰にも、乳を張れと言われない場所。
誰の乳とも、比べなくていい日々。
そこに、“新しい生き方”がある気がした。
◆ ◆ ◆
翌朝、王都ではニュースが流れていた。
『誠実乳の聖女、突然の活動休止──新天地へ旅立つ』
市民たちはざわついた。
「えっ、リリアーヌ様、どこ行ったの!?」「え、ウソでしょ……乳、どうなっちゃうの!?」
しかし、拓真だけは違っていた。
静かにMIRAI装置を撫でながら、彼は呟いた。
「……リリア、君は本当に、自分のために揺れてたんだね」
「それを、止めちゃいけない。きっと今、一番“誠実”なのは……君だ」
◆ ◆ ◆
そのころ、ノン=バストの街角では。
ひとりの女性が、乳の話題を避けるカフェで、静かに紅茶を飲んでいた。
誰も彼女に気づかない。
それで、よかった。
ただ、風が少しだけ揺れた。
それだけで、充分だった。




