85話 アリス・イン・デート その4
……
…
「綺麗な街だ」
熱籠る喧騒、青空市場を抜けてしばらく、遠山がのんびりつぶやいた。
白塗りのレンガの家屋の並ぶ街の通り、竜と並び歩く。
本で読んだことのあるギリシャのある港町みたいだ。遠山は陽光を受けて輝く真っ白な街を眺めて思う。
「ふふん、で、あろう。アガトラの中央区の街並みはオレもお気に入りだ。立地も良く、水と風もよく通る。美しいものは良い」
「へえ」
竜の横顔を見て遠山はつぶやく。穏やかな表情だ、普段のドラ子はあまりしない顔。
白い街並みを吹き抜ける涼しい風が、ドラ子の金髪をさらさらと梳いていく。
遠山の癖っ毛は剛毛のため、風などではびくりともせず太々しい。
「ねえ、見て、あの女の子……」
「綺麗…… 貴族さまかな」
「お付きの護衛もいるからきっとそうよ、ほら、見てあの目つき、カタギじゃないわ」
「天使さまのご加護よ。目も蒼で、髪も金のお髪だもの。宝石みたい……」
「黒髪の護衛の方もさすがね。あの目つき。きっと気を張って集中してるのよ」
やけにこの街は女性が多い。
すれ違うたびに、ひそひそと声が通り過ぎていく。女性ですらみな、竜の美に足を止めてぽけーっと惚けている。
「ふかか、護衛とお嬢様、か。頼りにしてるぞ、ナルヒト」
「うるせーよ、これだから顔面偏差値高めの奴はよー。たちが悪いよ、たちが」
いたずらげにくすくす笑う竜に、遠山が軽口を返す。
あまりにも存在としての芸術点の違いに少し萎えつつも、遠山は地図につけられた印の場所を目指して、歩く。
「たしか、この辺だな」
「ふむ、ナカ大河の水路か。定命の者の治水の業、なかなかにバカにしたものではないな」
豊かに、流れ揺蕩う。
街並みを抜けるとそこは、大きな川の見える川沿いの通りに出る。
大きなレンガの橋が、いくつか川の流れ、土手に沿ってかけられている。
「すげえな。河川敷もあるんか」
「ほう? 知っていたか。このアガトラの治水は帝国初期の一大事業でな。初代の皇帝もなかなかに苦心していたものよ」
川沿いの通りを堤防とし、土とレンガできちんと河川敷が整備されているその光景に遠山は割と驚く。
この世界の技術はちぐはぐだ。
遠山のイメージしていた異世界ファンタジーだとだいたい中世ヨーロッパぐらいの文化体系がそのままお約束としてきていたはず。
確かにアガトラの建築様式や街並みは、所々お約束の中世ファンタジーでそのまま説明できる。
だが、そのほか、今目の前にある治水技術や、もっと言うならこの街の地下にあるという下水道、水に関することの技術の発展が著しい。
もっと、言うなら衛生観念。
ラザールはもちろん、スラムの子供たちですら宿での生活の際に水浴びすることを全く厭わなかった。
身体を清潔に保つ、ということが必要なことだとスラムという社会の最底辺の層にすら行き渡っているということだ。
違和感。
温泉がよく湧き、飲み水にも困らず、治水は行き届き、国民は綺麗好き。
いや、それは、まるでーー
「なんとも、ニホン人に都合の良い世界だな。いや、ほんとにただ、都合が良かっただけか?」
古代ニホン語。
目を逸らし続けてきたその言葉に、そろそろ向き合う必要があるのかも知れない。
「……ナルヒト、考えごとか?」
「お、あ、いや、悪い、別に、なんでもないよ」
「ふむ」
ドラ子がゆっくり、目をぱちり、ぱちり。
どこか不機嫌そうだ。遠山がなんとか取り繕おうとして。
その時ーー
「お! そこの美人のお嬢様に、お付きの……えーと、目つきの悪……鋭い御仁! お散歩ッスかあ?」
カラカラした、どこか軽薄な若い男の声が向けられる。
「む?」
「目つきが悪くて悪かったな。久しぶり、ビスエさん」
ドラ子は目を細め、遠山は手をあげて答える。その声は知っている声だ。
どうやら、目的地に無事到着していたらしい。
「へっへっへ、いやあ、ご活躍の噂は聞いているっすよ、トオヤマさん。ありゃ、これまた美りーー いや、美人なお嬢様をお連れで。スミに置けないものッスねえ、まあ、良い顔してから」
ビスエ。
ドロモラ商会の手習で、ドロモラが王国から引き連れてきた右腕の青年だ。
人好きのする柔和で、ヘラヘラした優男。
短く揃えられた茶色の短髪頭に手をやりながらビスエがドラ子を眺めてつぶやいた。
「オレが? ふむ、オレが美しいことに異論はないが、……良い顔とはどういうことだ?」
ドラ子が、ビスエの言葉に反応する。
「へへへ、すごい優しいお顔でさあ。おっと、これ以上言って逆鱗に触れるのも勘弁ッスね。あれ、そういえばトオヤマさんは今日、お引越しやったんじゃないスか?」
軽くドラ子の言葉をいなし、ビスエがふにゃりとした笑みを遠山に向けた。
「あー、色々あって今は少し散策中なんだ。さっき、ドロモラのとこにも顔出してよ。そしたら、なんか新しい商売始めたから暇だったら見に行ってみろって言われてな」
「ああ、店長から聞いてるンスね! いやいやいや、トオヤマさん、ある意味この商売始めれたのはアンタのおかげでもあるんでさあ。ティタノスメヤの素材での上流階級への需要に見事応えていけたもんで、すこーし資本に余裕が出来ましてねえ」
パチンと指を鳴らし、そのあとゲッツ、とばかりに指遊びを遠山に向けながら、ピョウ、と笑うビスエ。
三下感がすごいのだが、不思議とこの青年がやると不快感がない。ドラ子も特に気に障った様子なく黙っている。
ビスエに促されるまま、川沿いの通りから、河川敷へ降りる階段に向かう。
大きな河だ。
流れは緩やかで、水は驚くほどに透明。この立地では生活排水も多少は混じるだろうに、まるで山奥の秘境に湧く水かというほどに、濁りもなく。
「商売の王道である仕入れ取引やらなんやら、有形物のやりとりは店長がほぼ仕切ってるし、自分は少し飛び道具的に新しい事業に手を伸ばしてみようと思いやしてね」
「ビスエさん、新しい商売ってのは、河の近くでやることなのか?」
「よくぞ聞いてくれやした! ふっふっふ、徹夜して考えたまだ帝国には存在しない新たな商売!なんすよお腹も膨れて、楽しく、簡単、誰もが思いつくようで、思いつかなかった商売、その名もーー」
遠山の問いに、表情をからから変えて答えるビスエ。
河川敷の岸辺まで歩くと、そこにはある光景があった。
木で出来た筏が何個も連なり、足場を為して川のある程度のところまで歩けるような堀。
その筏の上に何個か、椅子が並べられている。
ついでに言うと、釣り竿もその椅子にくくりつけられていてーー
その光景を、遠山は知っていた。
「これ…… 釣り堀?」
「名付けて釣りぼり…… へ? な、なんでわかったンスか?」
遠山の呟きに、ビスエが目を白黒させる。ぽかんと空いた口は驚きによるものか。
「いや、なんでって。わざわざ河の中にあんな足場作ったり、生簀隔てたりしてるのはもう釣り堀しかねえでしょ」
「えー、なんすか。もうこの商売考えてる奴がいたンス? クッソー、自分が一番ノリだと思ってたンスけどねー」
ビスエの言う新しい商売とはどうやら、釣り堀のことだったらしい。
ほんとに帝国にはないのだろうか? 割と誰でも思いつきそうな……
「む? ナルヒトは知っているようだが、オレは知らん。少なくとも、つりぼりとやら、帝国ではまだ存在していない商いぞ。ここの店主、説明せよ、ここでは何をやるのだ?」
だが、ドラ子は知らないらしい。
筏をじっくり眺めながら、はっきりした口調でビスエに問いかける。
「おっと、やっぱそうっスよね! フフン、美しく聡明なお嬢様にご説明するとー、ここではなんと、冒険者都市アガトラ中央区を貫くナカ大河を利用した魚釣りをお楽しみいただけるッス! 大物を釣れた人には景品も用意してるんすよ!」
「ほう? 釣り、とな」
「ふっふっふ。そこのトオヤマさんのおかげでうちの商会の大元の商売は安定し始めましたからね。これからは多角的に事業を増やし、試行錯誤する段階に来たんス! 自分の商売勘的に、この治世の安定した帝国の世では商品より経験が売れるようになると思うんスよね!」
ビスエが鼻息荒く語る内容に、遠山が目を開く。
「コト消費? えらくアンタ、なんか、先を行ってるな」
商品より経験。それは物質的な欲求が満たされていた現代の世界でよく謳われていたことだ。
レジャーや旅行、豊かで安定した社会で求められる少し高次元な欲求に答える無形の商品。
この異世界ファンタジーな世界の中で、ビスエの言葉はかなり先端な表現で。
「いやー、トオヤマさん。アンタに言われたくねえっスよ。自分ら商会どころか、教会まで抱きこんでパン屋始めるアンタには」
遠山の言葉にビスエが真顔で答える。
遠山は、まあ確かに冷静に考えると中々めちゃくちゃなことをしているなと思いつつ、今更考えても仕方ないので気にしないことにした。
「でもよ、ここまで水に溢れた国と地域柄、釣りって商売になるほど人を呼び込めんのか? 経験を商売にするんなら真新しさとかいると思うけどよ」
遠山は思ったことをそのまま口にする。
釣り堀がそもそも存在しないのも、これだけ河や水に恵まれた国だ。
いまさら釣りというものに対して、帝国の民は金を払う価値を見出すのだろうか? 当たり前の疑問を遠山は抱いていた。
「いやー、それがっスね。自分も驚いたけど、帝国、釣りする人全然いねーんスよ。こんだけ水量豊富な土地なのに、自分の下調べだと南領の港町で少しする人間がいるだけ。割と海やら河に近い冒険都市だと釣りっていう概念知らない人もいるくらいなんすよねー」
帰ってきたのは意外な答えだ。
「そうなんか? ドラ子」
「ふむ、オレも詳しくは知らんが言われてみれば釣りという言葉は知っていてもやっているものを見たことはないな。だが、少し考えれば帝国で釣りが広まっていない理由はわかるぞ」
「んあ?」
ふふんと笑うドラ子に遠山が眉を顰める。
「簡単なことだ、ナルヒト。この帝国はそもそも釣りで魚を食糧として獲らなくても、肥沃な国土のおかげで食うには困らんのだろう、肉は牧畜、もしくは獣毛種を狩れば手に入る。パンに必要な天使粉の原料である小麦はよく育つ。貴様ら定命の者は必要ではないものにあまり興味を持つことはないではないか」
意外にも、ドラ子の言葉には理があった。
なるほど、帝国は牧畜や狩りで動物性タンパク質が採れる環境が整いすぎているのだ。
魚に食性があまり向かうことがなかった、ツッコミ所はいくつかあるが、理由としては成り立つのかも知れない。
「ほー、なるほど。ドラ子、お前なかなか賢いな」
「ふふん、もっと褒めろ。最近たくさん本を読んでいるのだ、結構面白いぞ、定命の者の歴史はな」
ふすーっと、腰に手を当てて鼻息を吐くドラゴン。機嫌が良いみたいで何よりだ。
「あー、それにあれなんすよ。王国だと釣りは、昔話によく出てくるんでみんな知ってるんスけど、帝国にはその昔話がなかったりとかっスかねー。"水竜の恩返し"っつー話なんスけど」
「ほう……? おばーー いや、水竜の昔話とな?」
ビスエの思い出したような話に、ドラ子が食いつく。
水竜、確か、天使教会でその名前を聞いたような、聞いてないような。
「あら、お嬢様もやはり知らないんスね。店長の国じゃあ有名な話スね。なんでも、大戦の古い時代、あるヒュームが村の日照りをなんとかするために水竜様へお願いしようとして、好物の魚を釣りに行く話なんスけど。ケッコー人気なんスよ、そのヒュームの男が昔話特有の盛りに盛られまくっためちゃくちゃな奴で」
ビスエが語るのは、この世界のおとぎはなし。
「めちゃくちゃなヒューム、とな?」
「ええ、最初は水竜様とお話しする為に魚を釣っていた筈なんすけど、途中からなんか水竜様自体を釣る話になっていくんすよ。気付いたら鬼を仲間にしてたり、樹海の創生樹を切り倒して竿にしたり、水竜様を釣ろうとするもんで怒った炎竜様を追い払ったり……」
「ああ、なるほど。あの話は王国ではそう伝わっておるのか」
「へ?」
ふふっと、笑うドラ子に、ビスエが首を傾げる。
「よい、気にするな、こちらの話だ。興味が出た。閑古鳥は鳴いておるが、まあ良い。釣り堀とやらの店主、2人分だ、案内せよ」
やはり割と機嫌の良いドラ子がビスエに案内を促す。遠山としても、異世界に来て純粋な余暇は久しぶりだ。
断る気もなかった。
「おっと! へへ! 毎度ありっすー、いやー、何処かの良家のお嬢様とお見受け致しましたが、楽しめることをお約束しますよー!」
揉み手しながら、ビスエが人好きのする笑顔を浮かべる。ドロモラとは違い、ドラ子の正体には気付かないようだ。
遠山が、2人から意識を逸らし、河をぼーっと眺める。綺麗な水面が、昼下がりの煌めきを反射して。
「ふん、貴様が約束、いや、"契約"と嘯くからには期待してやろう、ぞ」
「……………ありゃ、もしかして、バレてるッス?」
ぱちくり。
ビスエが、目を丸くした後、にいっと唇を吊り上げた。
「ふかか、当家には貴様と同じような変わり者がおる故にな。我が家の世話好きと、貴様は同じ香りがするよ」
「あはは、どうか、他の方にはご内密に。最も新しき竜よ」
「さて、どうしたものかな」
ビスエの言葉に、ドラ子が薄く笑う。
独特な、空気の静寂。
川に見惚れていた遠山は、2人、ドラ子とビスエの顰めた声によるやりとりを聞くことはなかった。
「ん、ビスエさんとドラ子は知り合いか? なんだよ、紹介の必要なかった感じ?」
何やら見つめ合うドラ子とビスエに気付いた遠山が声を掛ける。
ドラ子はほっておくとすぐ他人を威圧し始めるかも知れないから注意が必要だ。
「いやいやー、そんなことはないッスよ。てか、やっぱりこのお嬢様、竜様でしたか。いやー、トオヤマさんと一緒に歩いてるからもしやとは思ったんすけど…… まままま、ここは一つ縁起物ということで! トオヤマさんはうちの大事な取引相手にして我が商会の運命共同体! ドロモラフィッシュングリバーでのひと時をお楽しみくださいっす! あ、竿はあそこにあるの使ってくださいね」
「しゃ! 先行くぞ、ドラ子!」
けらけら笑うビスエに手をあげて、割とウキウキした様子で遠山が筏に飛び乗る。
流れがある割に、しっかりと川底に固定されているためきちんと足場となっている。びくともしない。
そんな遠山の背後で、竜と商人が静かに、互いに目を合わさず川を眺めて言葉を交わす。
「……貴様が契約もなしにタダとはな。いいのか?」
「古い友人の大切なお嬢様っすからね。それと自分のことを、内緒にしていただく代価ッスよ。……健闘を祈ります。トオヤマさんは少し、自分たちのような存在から見ても、危うい人ですから、お気をつけて。水竜殿のお孫様」
「貴様に言われずとも、奴のことはオレが一番よく知っておるわ」
「ありゃ、これは失礼をッス」
静かに交わされる2人の会話、ウキウキの遠山にはやはり届かない。
「ナルヒト、待て、オレもやるぞ。何、代金は心配するな。ビスエとやらと話はついておる」
ドラ子もまた軽い足取りで岸から筏に飛び乗る。水面に波紋一つ起こさない体重を感じさせない足取りに、ドラ子の武人としての完成度が見て取れる。
「いやー、代金無料か。悪いことしたな。気を遣ってもらっちまった。ドラ子、釣りはしたことあるのか?」
言葉の割にあまり気にした様子もなく、遠山が壺に入れられている竿を何本か取り出し、状態を確認する。
「ないな。お父さ…… 父がたまに手慰みにしているのを眺めていたことがある程度だ」
「あー、なるほどな。まあ、俺も知り合いがたまにやってたのに付き合ったりしてただけなんだけどよ。おお、すげえシンプルな竿」
しなる木を削り、表面を磨いて持ち手には縄をくくりつけたシンプルな竿。
糸は半透明、触ってみると意外なほど頑丈そうだ。何かのモンスターの素材だろうか。
壺の脇に置いてある餌箱を開いて、そこからパンクズを丸めて針につけていく。
「あいよ、ドラ子、お前のぶん。最初俺が投げるから真似してやってみ」
「うむ、くるしゅうない」
テキパキと遠山が2本分、竿の準備を終えて、ドラ子に一本渡した。
すっと、糸を持ちながらしたてにふわりと糸を放り投げる。
リールがないため遠投は出来ないが、しなやかな竿は思った以上に振りやすく、遠くへと糸を運ぶ。
「おお、しっかり釣り竿じゃん。てか、地味にこの地区はあれだな、水の都みてえ」
「む、ナルヒトは中央区に来ることは珍しいのか?」
どっこいしょと、遠山が竿を構えたまま筏に打ち付けられた椅子に腰掛ける。
ドラ子もそれに倣い、隣の椅子に音もなく座った。
「商業区とギルドの行き来がほとんどだったな。パン屋の下見とか市場調査とか」
ながら話を続けつつ、ぷかぷか浮く赤い木のウキを眺める。
「ふふふ、そなた意外に勤勉よな。む、ナルヒト、これはどう使うのだ?」
釣り竿を首を傾げながら眺めるドラ子。
「ああ、それはなーー」
遠山がそれを説明しようとドラ子のそばに身を乗り出して。
「ッ」
びくり。ドラ子が動きを止めた。
目を見開き、金の髪は僅かに逆立っている。
獣に似た姿の肉食の怪物種が似たような顔をたまにする、その感想を遠山は口には出さなかった。
「わり。近かった?」
「いや、違う。ナルヒト、むしろ少し近く寄れ」
表情を固めたまま、ドラ子が静かにつぶやく。その声に抑揚はない。
すっと、遠山の方へドラ子が身を寄せる。遠山の首元へ、小さな卵形の顔が埋まるほどに、近づいて。
「……人知竜の匂いがする」
平坦な声、ぼそり。
川の流れは止まらず、水の揺蕩う音に混じり、竜の小さな声が漏れた。
「あ、あの、ドラ子?」
すんすんすんすん。
首元で、静かに鼻を鳴らし続けるドラゴンに恐る恐る声を掛ける。
「……すまぬ。説明を続けてくれ」
遠山の声に、しぶしぶと言った様子でドラ子が離れる。
気を取り直し、釣り竿の仕組みや、持ち方、簡単な仕掛けの説明、そして餌であるパンクズを丸めたものなどを遠山がドラ子へ伝える。
ふむふむとドラ子は素直に頷いて。
「なるほど、これで待つのか。ふむ…… 定命の者め、よくぞこれでお婆様を釣り上げようなどと企むものだな」
「え? それさっきのおとぎはなし? 実話なのか?」
「ああ、古い話だ。お伽話に出てくる水竜と炎竜はオレの祖母と祖父さ。まあ、お婆さまはオレが生まれる前に亡くなっていたがな」
「へえ。なんかすげえな。自分の家族が昔話に出てくるとかスケールが違うわ」
さすがドラゴン。
家族のコミカルな話が、国規模の言い伝えになっているらしい。遠山が素直に感心する。
「ふふん。もっと驚いても良いのだぞ。ナルヒトが驚く姿はなかなかに興が湧く」
にいっと、笑うドラ子。
あまり教えてもいないのに、会話の合間にヒュッと完璧な動作で静かに釣り竿を操り、キャスティングを終えていた。
「微妙に性格悪い言葉に聞こえるな……」
ギザ歯を見せて笑う竜に遠山がため息をつく。
視線を川に戻し、自分のウキを見つめる。
しばらく、互いに無言。
川が流れる音と、土手の上、街のにぎやかな喧騒が薄く、遠山たちを包む。
「フフ、たのしいな」
遠山の耳を打つのは、竜の、子犬が跳ねるような呟き声だった。
「なんか言ったか?」
「いや、別に。……ナルヒト、全然釣れないのだが、ほんとにこれでいいのか?」
遠山の問いに、しれっと表情を消して首を振るドラ子。かと思えばじっとり顔を顰めてぷかぷか浮かぶウキを睨み始める。
せっかちドラゴンがイラつき始めたらしい。
「俺の知り合い曰く、釣りの楽しみのほとんどはこうして釣り糸を垂らしてぼーっとしている時間にあるらしいぞ」
ふと、昔のことを思った。
高校の頃、とある知人によく誘われて釣りに出かけていたのを思い出す。
釣れない癖に、何かあるたびに釣りに出掛けている、釣り人のふりをするのが好きな奴だった。
「知り合い、か。それは、冒険都市に来る前の、そなたの故郷での知り合いかな」
ふと、遠山がつぶやいた内容に、ドラ子の身体が僅かに震えた。目も、蒼く、しかしどこか影のあるものになって川を見つめている。
遠山はそれには気付かない。
「ーーああ、そうだな」
ふんわり、風が吹いた。
筏が僅かに音を立てて軋む。
竜と遠山は互いに揺蕩う大河に身を委ね、釣り糸の行く末を眺めたまま。
「そうか。……ナルヒト、オレは先程自分の家族の話を少しした。オレだけ話すのは不公平だと思わないか?」
竜がぽつりと口を開く。
貴様も話せ、竜はそれを望んでいるらしい。
「ドラ子、一理あるな、確かに」
「だろう? こういうのはどうだ、魚が釣れるまで少し話をしようではないか。互いに互い、聞きたいことを問い、自分が相手に問うたことは相手にも答えねばならない。そんな、ルールだ」
「へー、なんか合コンとかでありそうだな、いいぞ、別に」
のんびりした釣り時間、竜との問答が始まる。
空を見上げて、ふと思う。釣りをしながら竜と語り合う、すごくファンタジーっぽくていいな。
どこまでも遠山は、呑気なままだ。
竜が、ドラ子が、アリス・ドラル・フレアテイルの声に影が差していたことに気付かない。
「そうこなくては。ならば、ナルヒト。そなた、故郷に家族はいるのか?」
「いねえ。親の顔知らねえんだ、俺。物心ついた時には施設にいた」
まだ幼い頃は不思議だった。テレビで見るこどもたちちには家族とやらがいて、一緒に暮らしていた。でも家族なんて存在、それはテレビだけの話だと、本気で信じていた。
「そうか。親に会いたいと思ったことはあるのか?」
「んー、昔、学生の頃は少し考えたこともあったな。まあ、なんか事情があったんだろ。今は別に、生んでくれてサンキューくらいだわ」
本心からの言葉。今となってはもう、血縁者がどんな人間であるかも気にならない。
思春期の頃に少し悩んだ、親がいない、家族がいないことへの不安や、自分という存在の不安定さはしかし、遠山鳴人が過ごした高校生活の3年間で全て解消した。
欲望のままに。
己のアイデンティティに気づくことのできたあの時間は、きっと尊いものだったのかも知れない。
自分がいて、生きている、そのチャンスをくれたことだけには感謝して、それ以外はもう、どうでもよかった。
「……強いな、ナルヒト」
ドラ子が、目を細めてつぶやく。その顔は、ドロモラのつけていた銀の指輪に向けていた表情とよく似ていた。
「そうか? 特別なことでもないような気がするけど、じゃあ、次はドラ子の番だな。でもお前、結構あれだよな。家族仲良さそうだ」
今度は遠山が問う番。ドラゴンの家庭環境を本人、本竜に聞ける日がくるとは思わなかった。
遠山はファンタジーイベントに、少しワクワクして。
「ふかか。竜は家族を大切にする生き物ゆえな。おか、いや、母も父も祖父も竜界におるよ。みな元気なのだ」
「へー、竜の家族か。どんな人たちなんだ?」
「……興味があるのか?」
「いや、そりゃ竜の家族とかどんなんか聞きたいだろ」
「ふかか。そうか。ふむ、そうだな。まずは、母。花竜、アロマ・ドラル・フレアテイル。優しいお方だ。子どもの頃のオレにたくさんのお話しを聞かせてくれた」
ドラ子の表情がほどける。
家族の話をする時に、そんな顔になれるのならそれはきっと良い家庭なのだろう。
「へえ。子供の頃のドラ子か。なーんか予想つくな。どんなガキだったのか」
今の少女の姿よりもっと幼いドラ子を想像する。だが、きっと話し方や振る舞いは今の傲岸不遜なままなのだろう。
「む。ナルヒト、その言い方ひっかかるぞ。まあ良い、お母様は話し上手でな。その美しさとその声色の清らかさ、それだけでこの世の美の半分を賄っておる感じだ」
「どんな感じだよ。父親の方は?」
「鉄竜、ボーン・ドラル・フレアテイル。強いお方だ。大戦の最も古き時代、お父様は恐るべき"狩人"達を幼竜にも関わらず何人も討ち果たした。お婆さまの水とお爺様の炎、その2つがその強き身体を産んだのだろうな」
「ドラ子とどっちが強いんだ?」
「む。あと100年すればわからんが、今の時点だとお父様の方がはるかに強いな。以前、オレの部屋に勝手に入っていた時に、焔で燃やしたのだが、びくりともせぬのだ」
「びくりともせぬのだ、じゃないんよ。デリカシーのない親父でも燃やしたらダメだろ」
ドラ子の焔でびくりとも、しない。
彼女の焔の力をよく知る遠山は呑気な返事をしつつ、静かに戦慄する。
この世界にはまだまだたくさんの自分にはどうにも出来ない化け物が潜んでいるようだ。
「む、だって、オレの部屋に置いてあるコレクションの鎧を自分で着ていたのだぞ。しかも、大戦期の女しかおらぬヒュームの国の鎧だ。こう、胸当てと腰部分しかないような奴だ」
「燃やしてよかったわ、その親父」
ぺしりと結論を出して、遠山が答える。ドラ子もうんうんと頷く。
流石に、どれだけ強くても親父が娘の部屋でビキニアーマー装着するのはダメだ。
「ふかか、だろう? 他にはお爺様、祖父がいるが…… 彼は寝たきりになっているのだ、とてもとても強いお方なのだがな」
「へえ、竜も歳にゃ勝てねえわけか」
ドラ子の声が静かに色を失ったのがわかった。遠山はそれ以上聞くことはない。
今までの話しから、おそらくその祖父とやらは炎の竜のことだろう。
あの日、遠山鳴人が蒐集竜の心臓を貫いたナイフも、炎竜の爪から切り出されたもののはず。
なかなかハードなことをしたな、遠山は少し懐かしく思う。
「そういうことだ。それでは次はナルヒト、貴様が答える番…… いや、だが、家族はいなかったな」
「だな。故郷では家族の代わりって言えるような人もいなかったし、友達も、多分少なかった、ていうかギリギリまで出来なかったていうか」
幼き日、もふもふの友は奪われた。
高校の頃のあの奇妙で、しかし、輝いていた時間での関係ははたして友情だったのか。
そして、探索者になってようやく、友か、仲間か。少なくとも命を懸けてもよい他人が出来た。
「しせつ、とやらで、貴様は育てられたのでは?」
「あー、まあ、うん。色々あってな。途中で追い出されたんだ。ああ、でも、ガキの頃、親身になってくれた人はいたな。変わった人だったけど」
遠山はふと、昔を振り返る。
タロウと別れたあと、自分の身体に奇妙なことが起き始め、それから施設を移された。
その時色々世話になった人のことを思い出す。
「ほう…… 女か?」
「あー? そう、だな…… キレーな人だったけど、あの人結局どっちだったんだ? なんかよくわからねー人だった。何年経っても見た目変わってなかったし」
男か、女か、それもよくわからない。いつも不織布のマスクをして会うたび髪型も変わっている人だ。
ただ、綺麗な人だったことは覚えている。男でも、女でも。
「……なるほど、面白いな。では、ナルヒト、オレからの質問だ。……故郷に、友、もしくはそれ以上の関係のヒトは、……いる、のか?」
ぽちゃん。
魚が、川の流れから飛び跳ねた。てらてらした鱗が一瞬、陽の光を反射して煌めく。
それからまた、水音を立てて川の中に消えていく。釣るべき獲物はきちんといるらしい。
その光景を眺めつつ、遠山が口を開く。
「んー、 鳩村や日下部は友達というより、仲間、チームメイトって感じだしな。友達かー、高校生の頃、頑張ってそれを作ろうとしてたんだけどな。なんか色々変な奴らと知り合えたけど、それが友達かどうかはわかんねー」
ああ、奇妙な3年間だった。今考えれば恥ずかしくなるようなことをしたし、言ったり。
遠山は知らず。自分の表情が、その3年間を想う表情がとても穏やかなものになっていることを。
それは少なくとも、竜の前では見せたことのない顔で。
「……続けよ」
ドラ子が、遠山の方をチラリとも見ずにつぶやく。
「いや、続けろって言ってもなー」
「聞かせてくれ、ナルヒト。貴様の、そなたの思い出に残る者の話を」
話を切り上げようとした遠山はしかし、あっ、と息を呑む。
こちらを見つめる竜の瞳に気付いたからだ。
むっ、と窄められた口に、傾いた眉。非難するようなら顔だが、何かを我慢している顔にも見える。
竜の機嫌を損ねるわけにもいかない、遠山は一つ息を吐いてから、川へ視線を戻した。
「……そうだな。印象に残ってる奴だと、ああ、アイツ。すぐ死にたがるバカとかいたな。そいつとさ、卒業までの3年で賭けをしたりしてたかな」
思い出すのは、そう、落書きされて読めなくなった教科書と、その落書きをしたバカどもを殴った拳の痛みと。
それを近くで眺める、クスクスという涼しい笑い方、気取った喋り方。……きんもくせいの匂い。
「賭けとは?」
「俺が卒業までに友達が出来るか、それともそいつが卒業までに自殺を成功させるかどうか。バカみたいな話だろ?」
遠山が語るのは、高校の3年間を過ごしたある人物の記憶。
恋人では決してない、友人でもないのだろう、知り合いというには過ごした時が濃すぎる。
ただ、セーラー服が異常に似合う、異常なそいつのことを思う。
「なんだ、それは?」
「いや、笑うんだけどよ、そいつ自殺願望あるくせに何しても死なないんだよ。飛び降りしようとしたら屋上に行くまでに怪我したりとか、電車に飛び込もうとしてもその一駅前で電車が故障して止まったりとか」
"とーやま、聞いておくれよー"
いつも、そんな間延びした声と、常に虫を潰し続けているようなドス黒い目をした奴だった。
人に好かれるような人ではないくせに、無駄に造形が良すぎるから、そいつは人をどうしようもなく惹きつけていた。
カリスマとは呪いに近いもの、そう言ってよく笑っていた。
「…………」
竜はただ、遠山の言葉に耳を傾ける。
「ほんと、変な奴だったな。普段は猫かぶってお淑やかにしてる癖に、つるんでるといつもめちゃくちゃな奴でさ。確実に死ねる自殺の方法探すために、みなみの島に行ったり、なんかペンションに殺人鬼と一緒に閉じ込められたりよー」
"とーやまとーやま、とーやま! 僕さあ! 南の島に旅行行って、そこで殺人事件に巻き込まれる予定なんだけど、夏休みの予定空いてるよね? 君も一緒に行こーぜー!"
遠山が、ある夏の記憶を反芻する。
バイト代、南の島の別荘に旅行行くだけで貰えるそれ目当てにノコノコ着いていったのが懐かしい。
まさか本当に殺人事件に巻き込まれるとは思わなかった。
また、遠山は気付かない。文句を言いつつも、自分の顔が緩んでいることを。
川の流れを見つめるその目は、懐かしい思い出を見て、ただ優しく笑ってーー
「ナルヒト、そなた、そんな顔で笑うのだな」
竜が、ぽつりとつぶやく。
それは何故か、少し、寂しそうな声。
「あ? あ! ドラ子! それ、アタリだ! 合わせろ!」
その寂しさを問う前に、釣り、当たり来たる。
遠山が身を乗り出し、ドラ子の沈むウキに目を剥く。
「合わせる? ふむ」
遠山の言葉に僅かにドラ子が首を傾げたあと、
「こうか?」
ひゅぱ。
手首のスナップ素早く、ドラ子が釣り竿を巧みに操り、一瞬で魚を釣り上げた。
「おお、すげえ。釣り初めてなんだよな」
「ああ、初めてだ。ふむ、イキがいいな。ああ、なるほど、この生簀に放り込んでいたらいいのか。む、ぬるぬるしてるな……」
「器用かよ。なんでも出来るやつはすげーな」
釣り上げから、なんのよどみもない動作でドラ子が魚を生簀に放る。釣り歴何十年のベテランと言われても納得する小慣れた感じ。
「……生臭いな」
ドラ子が、魚を握った手を嗅いで、顔を顰めた。
「まあ、魚だしな。気になるなら手洗ってこいよ、えー、てか立派な魚だな。なんていう名前なんだろ」
「いや、洗うのはいい。それよりも、ナルヒト、聴かせよ。ーー賭け。貴様がその死にたがりの変わり者とした賭けはどうなったのだ?」
釣り上げられた魚にテンション上がっていた遠山とは違い、あまりドラ子は魚に興味がなさそうだ。
竜の興味は、遠山の過去の話へと未だ向けられていて。
「あー…… 悪い、秘密だ。言いたくねえ」
あの賭けの結末は、言えない。それはちっぽけな約束によるものだが、遠山は破るつもりはなかった。
「そうか」
ぽそり。
竜が無表情で、少し頷く。
「ナルヒト」
それから、一度川に目線を向けて、遠山の名を呼んだ。
「ほいよ」
呑気に答える遠山。まだ、魚は釣れない。
「そなたが先程してくれた話。家族の代わりに世話を焼いたと言う者、死にたがりの変わり者、……そなたの青春とやらの話だが」
「うん」
「メスか?」
その問いに、少し遠山が固まる。
「……………えーっと、そう、だな、メスっていう言い方はアレだけど、女、だな」
事実をそのまま。
死にたがりのバカは、セーラー服が異常に似合う、異常に、綺麗な女だった。
「そうか」
そう言って、ドラ子はふと魚を掴んだせいでぬるぬるになっている自分の手に視線を落とす。
ぢっと、手を見つめて。
「ナルヒト、近くに」
竜がやはり無表情のままぽつりと。
「え?」
「良い、オレが行く」
それは一瞬のことだ。
「うわぷ」
のしかかられ、抱きつかれる。
包み込まれるように、頭をぎゅっと。
「ふかか」
竜の甘い、柑橘のような香りに包まれる。
竜の甘い、満足そうな笑い声だけしか聞こえない。
「……げほ。ドラ子くん。お前、何してんの?」
努めて冷静に。柔らかくて甘くて怖くて強いに包まれるという異常事態に、遠山は気合いで耐えて言葉を返す。
「ナルヒト」
名前を呼ばれた瞬間、ドラ子の意外なほどに柔らかく、そして冷たくしっとりした手のひらに顔を挟まれる。
もちろん、先程魚を掴んだばかりの手はひどく、生臭くて。
「んげ。魚臭いんだけど」
「ふかか、一緒、だな」
にまーっと、笑う竜の微笑み。牙の覗くそれは、ひどく恐ろしくて、しかし、自己の独占欲を満たす女の美しさが同居していた。
「ナルヒト、貴様が雌の竜の匂いをつけたまま、他のメスの話をするのはオレの心身に良くない」
「あの、女に羽交い締めにされて魚の生臭いのをなすりつけられるのも俺の心身に良くないんだけど」
「嫌か?」
「異文化すぎて混乱の方が強いな。なんか微妙に俺も生臭いんだけど」
「良い、オレと同じ匂いだぞ」
「こわー、なんかそういう竜っぽいところ急に出してくるのやめろよ、魚臭いことをお揃いにしてこようとすな」
「ふふ、それでもそなたはオレを受け入れてくれるだろう? 友として。なぁ、竜殺し殿、一つ聞かせてくれまいか」
力が、強い。
少し振り解こうと反抗しようとすると、じっとりと優しく力を強められる。
ああ、やはり、こいつは竜。今は加減しているだけでその身には遠山には及ばぬ力を宿しているのだと否応なくわからされた。
「離してくれたらなんでも話すよ」
「む、このまま話せ。……貴様がその手で殺した女は、オレが最初ではないのか?」
縋るような声。
遠山を抱きしめる力が、僅かに強くなり。
「ーーひひひ、初のキルスコアはお前だよ、鎧ヤロー」
遠山鳴人は欲望のままに、あの死にたがりの女を生かした。
遠山鳴人は、欲望のままに、金色の鎧に身を包んだ蒐集の竜を殺した。
それは全て、真実だ。
「! ふかか、なら良い。ああ、いいさ、オレは大人の竜だからな。別にそなたがオレと出会うまでどんなメスと過ごそうが、どんな思い出を残していようが関係ないのだ」
「関係ねーなら、ドラ子さんや。力がね、少しね、強くてなってるのなんとかならないかなあ」
「いやか?」
「痛いんですけど」
「ふむ…… ヒトに合わせるのは難しいな。くす、ああ、でも、やはり、ナルヒトは面白いな」
満足したのだろう。竜が遠山を解放する。
「ゲホ。竜パワーすげえ。何がだよ」
すごく力が強かった。感触は女の身体なのに、力が……
「そんなにもか弱いのに、そなたはオレの竜殺しとなったのだ。……ヒトは、いいな」
ドラ子は自分の手を、遠山を抱きしめていた手を眺めてぼそりとつぶやく。
「……何目線の話、いや、竜目線か」
「ナルヒト、もう少し話を聞かせておくれや」
「お前が俺より魚を釣れたらな」
「む、今の時点でナルヒトは1匹も釣れてないではないか」
「うっせ。これからだっつの」
「ふかか、ナルヒト。貴様以外にわかりやすいな。ん? 悔しいのか? 釣りを始めてするオレの方が1番に魚を釣ったから悔しいのかな?」
「あー、てめ、そんなふうに人を煽るわけねー、ふーん、OK OK。吠え面ドラゴンにしてやるよ」
「良い、定命のものよ、竜に挑むのを許す、ぞ」
人と竜。定命と永遠。
この世界では決して交わらぬ2人はしかし、白い羊雲がポカポカ泳ぐ青空の下、呑気に釣り糸を垂らす。
水が砕ける音、時折魚が跳ねる音。
そんな釣り堀の光景の中、人と竜の言葉は続く。
「ナルヒト、貴様の故郷の話だが帝国のどこ辺りなのだ? 黒髪だ、やはり東部の出か?」
「あー? まあ、そんなとこ。ドラ子は、竜界だったか? どこにあるんだ?」
「む? 知らぬのか? 帝国と王国を隔てるカドカ海。その中央、海のヘソの奥底だ。機会があれば、ナルヒトならば招待してやるぞ?」
「竜の住処かー、興味あるなー え? 海底にあんの?」
当たり前の友の会話。
ほんの少し、竜特有の支配欲から来る湿度は伴うが、その時間はとても穏やかなものだった。
「ナルヒト、そういえば貴様やけに教養が深い時があるな。古代ニホンにかなり詳しいものだ」
「あー…… 古代ニホンね。その辺すげー気にはなってんだよなー。……調べるのが怖くてあんま触れて無かったけど」
「む?」
これまで互いに知らなかったこと、話してなかったことを話す。
だが、遠山はその性質から自分の世界のことや、自分がなぜここにいるのかということはやはり話題にはしなかった。
「ドラ子、そういえば昔話にも竜が出るんだよな。なんかたまに聞く狩人ってのはどんな連中なんだ?」
「む。実はオレも狩人のことは本や話でしか聞いたことはないのだ。大戦末期の時代にはもうお伽話と化していた連中ゆえにな。だが、奴らは竜をその狩りの獲物にしていたらしいが」
「うへえ。どんな奴らだよ」
「どちらにせよ、あの時代は少しおかしくてな。大戦期から生き延びた竜はいるのだが、みんな記憶が定かではない。祖父もすでに言葉を失っておるしな。定命の者、ヒュームどもの記録も同じだと聞くぞ」
「記録?」
「歴史、というのか? 貴様らは文字を扱い書き残すことができる種族だろう? だが、それでもその記録は残っていないそうだ。大戦の歴史、最終的になぜ大戦は終わったのか。どのように終わったのか、そもそも世界を巻き込んだ大戦はどのようなものだったのか、何もはっきりしたことはわからないそうだな」
「……そういえば主教も似たようなこと言ってたな」
「この帝国の成り立ちもそうだ。オレの家、フレアテイルが帝国を庇護するのは古い約定によるものだが、最早その約定をなぜ結んだのかは祖父しか知らないしな。……帝国の前身とも言われる人類国家と竜の間で何かがあったということくらいか」
「え、そんなあやふやな感じなのか?」
「ふかか、ああ、だが、それで充分だ。竜は約束を守る、それがオレたちの誇り故な」
「はえー、かっこよ」
「ナルヒト、もう一つ質問するぞ」
「おう。てか、マジで釣れねえな」
「そなたの好きなものは、なんだ?」
「好きなもの?」
「ああ、なんでもいい。好きなものだ。聞いてみたい」
聞いてみたい、そう語る竜の瞳に遠山は一瞬、見惚れる。
蒼く深く、その瞳はただ、美しかった。
雄大な自然、飛び散る瀑布や、朝焼けの中の草原、そんな何か大いなるものを目にした気分。
畏敬。
遠山は竜の瞳にそれを見つける。
気付けば、釣り糸を垂らしたまま、あまりにも無防備に唇を開いていて。
「……プール」
思い出を、記憶を。
遠山の生きた光景の中で1番綺麗なものを竜へと。
「続けよ」
竜は、それを聞くことを望む。己の竜殺しの過去。自分が決して触れることはできないそれにせめて、近づきたい、そんな小さな願いを込めて。
「夏だ。高校ん時、体育のプールのあとにあった国語の授業。開かれた窓の向こうによ、すげえでかい入道雲が山の向こうにあるんだ。その入道雲が山の緑に影を落として、それがゆーっくり動いていくのを見てた」
間延びした教師の声、数人がこくり、こくりと船を漕いでいる授業の風景。
国語の授業、内容は確か、古文に関わるうんちく。
そう、夕方の話。
夕方のことを呼び指す名前、黄昏時とも呼ばれるその名前の語源、夕方はあの世とこの世が結ばれる時とかどうとか。
そんなゆっくり進む時間、僅かに香るカルキの匂いと、夏の風の香り。
「窓を開けてるから、風が吹くんだ。温い風なんだけど、プールの後だからやけにそれが涼しくてな。だれかの教科書のページが風にめくられてパラパラと鳴って…… うん、あれは、綺麗だった」
もう2度と、自分が体験することはないだろう時間をふと思い出す。
奇妙な賭け、厄介ごとだらけで敵の多い3年間だったが、たしかに遠山はその時間から大切なものを保存していた。
「なんか、そういう綺麗なもんは好きだな。自分にはない、綺麗で少し儚いもんとか」
「そうか」
きっと、竜は男が何を言っているのか半分も分かっていないだろう。
「それと、あれだな。ドラ子のその眼、こえーけど、綺麗だ」
「そうーー ンン?!」
「夏の真昼、お盆の時期の雲ひとつない空の奥の奥、向こう側の向こう側、そんな色だな。それ、綺麗だと思うぞ」
「ふか…………… そ、うか」
竜が、俯く。
金色の髪に僅かに覗く少しとがった耳は、真っ赤に染まっている。
だけど、それを遠山鳴人が目にすることはない。
「いや、ほんとそろそろ俺本気だすわ」
釣り竿を握り、未だ釣れない魚釣りに夢中だった。
昼下がり、太陽はどんどん傾いていく。夕方が、そろそろやってくる。
竜とのデートはあと、わずか。
TIPS 〜そして、ありし日のまどろみの中で 夏、プール、現代国語の授業にて〜
えーっ、皆さんプールの授業のあとでお疲れだと思うのでここは少し目覚ましになれるような話を一つ。
では、今日の授業内容にも関わりがあることを一つ。
夕方にはさまざまな呼び方があるのをご存知ですか?
有名なのは黄昏時、逢魔が時でしょうか?
この二つは同じ時間帯のことを呼びさしています。逢魔が時はその名前の通り、魔に逢いやすい時間というのが語源ですね。
では、黄昏は?
黄昏は、誰そ彼、という言葉遊びから名付けられたそんな話もあります。
誰そ彼」には元々「あなたは誰ですか?」という意味があるといいます。
また、その言葉が転じて「黄昏」という言葉になったと言われています。
薄く暗くなり始めた夕方時、今私の目の前にいるあなたは誰? 誰そ彼、というわけですね。
また、黄昏時は、「この世」と「あの世」が交わる時であるとも言われるのです。昼との夜の狭間。本来、昼であれば姿を隠しているものが気を抜いてその擬態をほどいてしまったり為る瞬間でしょうか?
「あの世」は彼岸という呼ばれ方もします。あちら側の岸辺。つまり今私たちがいるこちら側とは違う場所ですね。黄昏時はつまり、あちらとこちらが混じる瞬間でもあるわけです。
少しでも、あの世に、彼岸に触れ、魅入られたり、彼岸からなにかを持ち帰ったりした場合は、黄昏時に何か起きるのかもしれません。
彼岸を訪ねた者は、彼岸から何も持ち帰るべきではありません。
人には決して触れてはならない、たどり着いてはならない場所もあるということですね。




