72話 霧が溜まり、風が吹き、竜来たりて、すぷぷと咲う。
「ぐ、すーぅ、すー、ぅ」
寝息。
死臭満ちるキルゾーンに、キリの主人は全ての力を使い果たして眠る。
びゅおう。霧が、晴れていく。風が吹いた。木々の間に溜まった霧をアクでも掬い取るように、吹き上がってそれらを攫う。
ビュオオオオオオオオオオオオオオウ。
ひときわ、強い風が霧を吹き飛ばした。
「………彼のお守りが反応したからきたものの。さて、どうしたものか」
女が、いた。
霧を攫い、森を駆け巡る風に乗って、なんの前触れもなくその場に女が現れた。
彼女は風、世界を渡り、世界を動かす風と同じ。気の向くまま、風の吹くままにどこにでも現れる。
「まさか、こんなところで会うとはね。"竜殺し"…… キミとは奇縁でもあるのかな」
眠りこける遠山を見下ろす女。
銀色。腰まで伸びた長髪に、一房結ばれた三つ編み。
本物の銀を溶かし込み、梳いたような銀髪を持つ女だ。
「まあいいか。まずは……」
切長の瞳、銀色の虹彩にグリーン混じりの目を細める。
簡素な革鎧はしかし、"古代種"の素材で作られたこの世に一つしかない一品。羽織っているマントもまた同じく彼女が刈り取った古代種の素材から織られている。
しなやかな肉体。無駄なものが一つとしてない完成された肉体はしかし、胸部は女性的な膨らみがぱつんと張った革鎧から見て取れる。
黒いインナーに覆われた腹部と腰は、芸術品かとみまごうばかりにくびれていた。男なら誰しもその腰を掴むことが出来るのならば、命すら投げ出しても惜しくないほどの完璧な女体。
「ユト、ユト・ウエトラル? 聞こえるだろう? 助けに来た、まあ、もうその必要は無さそうだけど」
銀髪の女が、眠りこける遠山から視線を移し、近くに斃れている大蛇の黒焦げの死骸に声を掛けた。
ずぐ。ざぐ、くく。
黒こげの死骸、その一部が盛り上がる。そして、ぺりりと破けて
「っぶはあ!! 死ぬ! 死ぬかと思ったって、マジで!」
蛇の腹の中から、男が這い出てきた。化け物の腹から出てきた割には妙に小綺麗な姿だ。
ひゅるひゅるひゅる。男の服装の装飾品や服の裾が舞っている。彼の体には、つむじ風がまとわりついていた。
彼女が、愛弟子に施していた御守りは化け物の腹の中に収められた冒険者の身をきちんと守り切っていて。
「おお、生きてた。私の風に守られているとは言え、化け物に食われてなお健在とは。クク、やるじゃないか」
「師匠…… あー、そういうことか。アンタの風が発動したから……」
「そういうことさ、可愛い弟子の身に何かがあったときにすぐわかるようにしておいて正解だったよ、お守り、きちんと持っていてくれたようだね」
「はあ…… くそ、アンタからしたらまだ俺もガキ扱いってことっすね」
「いいよ、ユト。気にすることはない。塔級冒険者であれ、今回のモンスター、古代種は手に余る奴だった、それだけの話さ。さて、君の仲間たちも、助けないとね」
ふっ。
女が長い指を揃えて手のひらを差し出すように構える。それから唇を添えてふっと、息を吹きかけた。
ぱん、ぱん。
グズグズにやけ滅んだ蛇の死骸、そのいくつかの腹が破裂して裂けて行く。
「ぐえ」
「う、うう……」
風に包まれて、腹から取り出されるのは2人の冒険者。リバーとスモール。ユトの仲間たちだ。
「あー、師匠。マージで助かった。リバーとスモールにゃ悪いことしちまったな」
「くく、それでも頑丈な2人だ。きちんと息をしてるしね」
「……そうか、よかった、生きてるか」
「ユト、君らしくもない。生き残ることにかけては君はあの"不死"と見比べても見劣りしないものだと思ってはいたが……」
「はは、いや、マジで言い訳もないっすよ。師匠……って、うそ!? し、師匠、あそこで倒れてるのってまさか、竜殺し?!」
男、塔級冒険者、ユト・ウエトラルが目を剥く。
「知り合いかい?」
「昨日、市場で会ったんすよ。この森の異変に関係あるかもしれないってギルドの読みは大外れでしたけど。それに、アンタも奴のことを気にかけてたでしょ」
「ああ、まあね。私しか知らないことを知っていたから、問い詰めようとしただけ。竜に邪魔をされて有耶無耶にはなったけど」
「……細かくは、聞いたらダメな奴? 師匠」
「せっかく拾った命だ、大事にしなよ、ユト」
「おっおー、ガチなやつじゃん。……はあ、しんど。なあ、師匠……」
「なんだい?」
「世界は、広いな。塔級冒険者になって、大抵のことは出来るようになったと思ってた。上はたしかに存在するけど、それでも俺もかなり上澄みの方だと思ってた、けどよ。……はは、トオヤマナルヒト、マジかよ。……1人であの化け物を殺したわけか」
「……化け物の死骸の山の中に、傷だらけの冒険者が1人。ユト、キミの言う通り。竜殺しは塔級冒険者と一級冒険者を返り討ちにするモンスターをも、1人で斃したらしいよ」
「はは、すげえや」
「……さて、状況を整理したいものだけど、どうしたものかな、ユト、どこまで覚えてる?」
「……正直、わからねっす。でも、なんか、夢、夢を見てたような気がする。すげー可哀想な女の子がいて、その子をずっと、慰めてたような。……気付いたら辺りが蛇だらけになってて、それで……」
「続けて?」
「……霧、そうだ。霧…… 霧が出てきたんだ。霧と、笑い声が、女の子を攫って、どっかに連れて行って……」
その場に腰掛けたまま、ぼーっと言葉を手繰る男。まだ、夢見心地のようにも見える。
「へえ、なるほど。OK、だいたい見えてきた。おそらく君は、あの古代種の精神に感応する種類のスキル、もしくは秘蹟の影響下にあったわけだ。クク、やるじゃないか、化け物。ヒトの殺し方をよく熟知しているようで」
「すまねえ、師匠。まだ、頭がぼーっとしてるわ。……情けねえ話だ」
「いや、充分だ。だいたい状況は理解出来た。キミから聞く話はそれくらいで構わないさ」
「いや、今の話じゃ状況なんて、なにもーー」
「後は、風に聞くことにするよ」
それは、その生き物に元々備わっている機能だった。ヒトでも、化け物でもない、人間ではない存在。
まつろわぬ民、彼女の民族の中でもその歴史の中で数人しか現れぬ特異な存在。
「"渡れ"」
それは、才能でも、天使からの贈り物でもない、この世界で唯一無二の機能。
「"風"」
彼女は風を司る存在だ。この世界を吹き渡り、広がる風は全て彼女と繋がっている。
有機体でありながら、惑星の天体現象そのものと直結している存在。
「"集え"」
大陸をそのまま兵器に変換した"魔術学院"、天を突く喋るそら豆の木を王とした植物大国"百葉の国"、竜をすら獲物とする"狩人"の国、それと敵対していた竜を友とし、それらを制覇した"古い国"。
「"風"」
なんでもありの勢力が互いを滅ぼし合った地獄絵図、いつから始まったのかすら誰も知らない"大戦"の時代。
「"いぶき、吹け"」
"勇者・パーティ・射手"、ウェンフィルバーナはそれを終わらさせた者たちの1人だ。
風が吹く。集まってゆく、ウェンフィルバーナに向かって森を渡る風たちが収束していく。
風は世界を渡る、故に風は、全てを見て、知っている。
この森で起きたこと、ある1人の不運な女が力尽きたこと、追い詰められたモンスターとその女の特別な血が結びつき、古い怪物となって生まれ変わったこと。
風は全てを知っている、それをしっかりと風の主人に伝えるのだ。
ウェンフィルバーナの銀の髪が風に揺れる。銀の瞳が白く輝いていく。彼女に向けて吹く風はやがて徐々に消えていった。
「…………………へえ」
目を、見開き。
風が、止んだ。
しばらくの間、ウェンフィルバーナはピクリとも動かなかった。ただ、風が舞うのみ。彼女だけは動かない。
「師匠?」
ユトが、声をかける。それからようやく、ウェンフィルバーナは反応して。
ウェンフィルバーナの銀の瞳。この世のどんな宝飾品よりもヒトの心を虜にするだろうその輝きが、目の中でぐるぐる廻る。
「………なに、これ、く、クククク、なにかな、これ」
彼女の、白い肌。頬が紅く。瞳の銀色が揺れる。わかりやすく興奮していた。
「ハハ、ハハハハハハハハ!!」
風に混じるは、白銀の嗤い。天然の宝石の如き美貌が嗤いに歪む。
「保存、"魂の保存"だって?! おい、おいおいおいおいおいおいおいおい、嘘だろう? く、ククククク、ああ、なんて、なんてことだろう…… クク、本当に、人生、人生人生人生、生きるってやつはさァ……」
彼女が、両手で顔を覆い、ふらつきはじめる。何かに酔っているような足取りで、眠りこける遠山に近づいていく。
「……竜殺し、竜殺し、なるほど、魂の蒐集……保存…… キリヤイバ…… 保存と使役と支配…… ハハハハ、それは、それはそれはそれはそれはそれは、さァ……」
風が伝えたこの森の出来事、風が見ていたある男の進化、そしてその力をウェンフィルバーナは一部始終見たのだ。
その力、竜をも殺し、キリの中にて全てを保存するその力を彼女は見た。
「竜殺し、あの時と言い、今回といい、君は何者だい?」
地面に四つん這いになり、ウェンフィルバーナは遠山鳴人の寝顔を覗き込む。
「なんて、こと、ああ、なんてことなんだ。クク、"魂喰らい"どころじゃない。魂を保存する力、なんだ、なんだいそれは」
今はもう、古い物語だ。誰も知らない物語は終わった。ウェンフィルバーナは、その物語の人物で、それが終わった後も生き残ってしまった存在だ。
「し、師匠?」
明らかに、様子のおかしいその女に向けてユトが困惑した声を向ける。
「ユト、悪いけど少し急用が出来た。君、1人で帰れるね? あそこの仲間も連れて行ってやりなよ。この森は未だ、モンスターの生息域だ」
たった今、自分が救い出した男からの呼びかけに彼女は答える。振り返りもしなかった。
「い、いやそれはいいけど、どしたんだよ、急に」
「……彼は、私が連れて帰ろう。ギルドでも手を焼いた森の異変を解決した功労者だ。私がきちんと届けるよ」
にこり。笑う。ウェンフィルバーナが今度は振り返って、ユトへ微笑みかけた。
ーーユトの顔が、歪む。驚愕、失望。
塔級冒険者、ユト・ウエトラルのスキルがその笑顔の正体を暴いてしまった。
「……師匠」
そして、ユトがゆっくり立ち上がる。
「うん? ああ、そうか。君のスキル、嘘を見抜く才能だったか。くくく、ユト、よしてくれ、見逃してくれよ。別に、彼と君は特に関係ない人間だろ?」
「師匠、よくねえぜ。それは、よくねえ顔だ。畜生の顔だぜ。なしにしようや、そういうのはよ」
すっと、音もなく。
塔級冒険者、ユト・ウエトラルが腰から大振りの刃物、鉈を引き抜く。かと思えば左手には腰に備えていた片手で扱える小型のボウガンを構えて。
「嘘、だね。アンタは嘘をついた。その男をギルドに無事に連れて帰るなんてのは、嘘だ。師匠、なんでそんな嘘をつく? ソイツを、どうするつもりだ」
戦闘態勢、鋭い目で、ユトがウェンフィルバーナに狙いをつけた。
「……やめておけよ、ユト。別に彼とはお友達でもなんでもないだろう?」
ウェンフィルバーナは顔を伏せたまま、背中をユトに晒したまま振り返ることはしない。
「ケッ、育ちがよくてな。仇には仇を、そして恩には恩を。竜殺しには借りがある。俺たちのヘマをきっちり片付けてくれた借りがな。冒険者なんて商売、その辺の線引きを引かないと俺らはモンスターと変わらないでしょうがよ」
「へえ? 言うね、ユト」
「師匠、その男は置いていけ、そいつは俺と仲間達の恩人だ。塔級冒険者の名に賭けて、俺達の仕事を完遂してくれた奴に余計なことはさせねえ」
「よしてよ、ユト。キミのこと、割と本気で気に入ってるんだ。でも、今、私は冷静じゃない。……数百年探して、見つからなくて、諦めた、諦めたと言い聞かせた存在が、目の前に、いるんだよ」
縋るような声だ。ウェンフィルバーナがユトに背中を向けたまま、肩を震わして言葉を漏らす。
でも、その視線はずっと、眠り続ける遠山に向けられている。
「知らねえ。師匠、アンタのことは大好きだし、尊敬してる。だが、今のアンタは信用ならねえ。俺の冒険者としてのルールには貸し借りをほったらかして見て見ぬフリするなんてモンはねえ」
「ユト、キミの言う借りってさ、キミの命より、重いのかな?」
風が、止んだ。
ユトは、ウェンフィルバーナを見つめる。
ウェンフィルバーナは、ただ、遠山を見つめる。
「それが、冒険者ってもんだろ」
両者の視線は決して交わることがなく。結論が出た。
「……ユト、キミと出会ってから、何年経つかな?」
「………12年だ。俺がガキの頃、野盗に攫われて変態どもに売られそうになったその時、アンタが来てくれた日を忘れたことはねえよ」
「うん、懐かしい。……いいや、早すぎるな。ほんとに。あれだけ小さく弱かった君は、瞬くような時間で気づけば立派に成長している。くく、誇らしいよ。ユト」
「その小さくて弱いガキに生き方を教えてくれたのはアンタだ。アンタにだって、俺は借りがあるんだぜ。なあ、師匠、マジでどうしたんだよ、アンタ、そんな顔する人じゃねえだろ」
「クク、君が知ってるのは、私という存在のほんの側面だけだった、という奴さ。そうか、12年か」
ウェンフィルバーナ、彼女が振り返る。ユトをしばらく、じっと見つめ続けて。
「薄い、時間だね」
それを切り捨てた。欲望とは恐ろしいものだ。ウェンフィルバーナ、彼女はとっくに忘れていた。ここにはそもそもユトを助けに来たのだということを。
だが、結局、ウェンフィルバーナは、ユト・ウエトラルを選ばなかった。それよりも優先すべきものを遠山鳴人の中に見つけた。
これは、それだけの話だ。
「ッッ!? ウェンフィルバーナ!!」
「本当に、残念だよ、ユト。ああ、きっと私はキミのことを後悔するだろう。でも、でもね、今、私は本当に冷静じゃないんだよ」
強、ゴウ、ごう。
風が、うねり、固まる。なんの法則にも従わず、世界に風が現れる。
それは圧倒的な質量を持ち、ユトの頭上に溜まっていて。
森が、それに吸い込まれるように葉を散らし、根を軋ませて悲鳴をあげていた。
「ーー"風や、廻りて"」
塔級冒険者と塔級冒険者。位階は同じ、されどその生き物としての格は絶望的。
伝説に語られる大戦の英雄。おとぎ話の人物の暴威が、冒険者に向けられて。
「うん、なんていうかさあ、キミ、ボクと喋り方、かぶってるよねえい」
風が、ねじ曲げられた。ユトに向かって吹き落ちようとしていた風はしかし、全く見当違いの方向に落ちて、木々を文字通り消し飛ばす。
「?!」
「ーーこの風の香り…… ああ、またか。蒐集竜といい、ほんとに君たちはいつもいいところで邪魔をするね」
ウェンフィルバーナが、表情を消した。獣が、外敵と向き合った時と同じように。
「すぷぷ」
外敵。
大戦、古い時代の英雄、ウェンフィルバーナ。この世全ての風の概念を司る伝説の生物。
それが、"外敵"として認定する者など、極小数に限られる。
ヒト、生命の枠を超えた超越者か、最初から世界の枠組みから外れた眷属か。
あるいは、この星の上位の生物ーー
「あ、アンタ、だ、誰?」
「すぷぷ、通りすがりのちょーかしこいドラゴンだよ、塔級冒険者さん」
女がいた、女が嗤った。森のどこかから、現れた女。
皮のブーツにダークブラウンのセーター、黒いロングスカートに、腰まで伸びた銀髪を翻して。
新雪よりも白い肌に、どこか病的な美を讃えて。
己で編んだ魔術式により、化け物と命懸けで戦う自分の推しの姿を鼻血垂らしながら眺め続けていたガチ勢が、空間も、距離も、そういうの全部無視して。
徒歩で、来た。
人知の竜が、やってきた。
「ーーは?」
伝説と竜。
それは互いに美しい銀髪を備えていた。
木々の合間から、まるで初めからそこにいたように現れた銀髪、黒服の女。そのいでたちから彼女の周りにだけ夜が来て、月の光が差しているような。
「冒険者君、キミは間違いなく、間違いのない選択をしたよ。よくぞ、彼を守ろうとしてくれたねえい。今、キミが生きているのは単にその選択の結果さ」
「あ、はい、どうも」
毒気を抜かれた、いや、本能でそれに反論してはならないことを理解したユトが押し黙る。
黒服銀髪の女がその様子に満足げに頷いた。
「……数百年前とは、ずいぶん印象が違うけど。そのおぞましい風の香りは変わらないね、全知竜」
「あー、違う、違うよ。射手さん。今のボクの名前は、全知竜じゃあないんだよ」
長い銀髪を揺らし、首を横に振る美竜。暗黒よりも昏く、光すら飲み込む真っ暗な目が、ウェンフィルバーナをどろりと見つめて。
「"人知竜"、今はそう呼んでもらえるかなあ? それでさあ、キミ」
銀髪の女が、銀髪の女を指さす。
指を指す、上位生物が、古い生き物へ。
「何かな、古き竜よ」
銀と、銀。
あいまみえる。
すぷぷ、咲う黒銀の女の目はしかし、全く笑っていなくて。
「キミ、トオヤマくんに近いんだけど? メス臭い匂いが移るから離れてくれないかなあ」
霧が溜まり、風が吹き、竜がやってきた。
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