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第4話 王子に嫌われる作戦は、だいたいうまくいきません

 教会から戻った翌日、エウフェミアは自室の机に向かい、真剣な面持ちで紙に向かっていた。


 七歳の公爵令嬢にしては、あまりにも切実な顔である。


 紙の上には、たどたどしくも整った字でこう書かれていた。


 婚約解消に向けた方策一覧


「お嬢様……?」


 背後からそっと覗き込んだセシルが、小首を傾げる。


 エウフェミアははっとして紙を伏せた。


「な、なんでもありませんの」


 いけない。さすがにこれは見せられない。


 婚約解消を目指す計画書など見られた日には、公爵家がひっくり返る。いや、まず自分の人生がひっくり返る。


 エウフェミアはこほんと咳払いして、改めて頭の中を整理した。


 今の問題は明確だ。


 教会での一件により、またしても周囲の好感度が上がってしまった。


 このままではまずい。


 断罪回避のために善良に振る舞っているだけなのに、その善良さが 「理想の婚約者」 「未来の王妃候補」 として解釈されてしまっている。


 つまり必要なのは、好感は損なわず、しかし 『婚約者としては微妙』 と思わせる絶妙な立ち位置だ。


 そこでエウフェミアは昨夜、布団の中で必死に考えた。


 結論。


 王子にだけ、少し距離を取る。


 あからさまに嫌うのは駄目だ。子どもの態度として不自然だし、王家に対しても失礼になる。


 だが、過剰に親しくならず、必要以上に目を合わせず、穏やかに、しかしはっきりと壁を作ればどうだろう。


 アルベルト第三王子が 「この婚約者は、あまり自分に懐いていないな」 「王妃として並び立つには距離があるな」 と思ってくれれば、将来的な婚約解消の布石になるかもしれない。


 行動経済学で言えば、関係形成の初期には接触頻度と感情の結びつきが大きい。ならば、情緒的な接続を最小限に抑えることが合理的である。


 よし。完璧だ。


 少なくとも理論上は。


 だがその日の午後、エウフェミアは早速その理論の脆さを思い知ることになる。


「本日、王城より使者が参りました」


 執事が恭しく告げた。


「第三王子殿下が、先日のご様子を案じておられまして。ご機嫌伺いにお越しになるとのことです」


「……はい?」


 エウフェミアは目を瞬かせた。


「本日?」


「はい」


「ご本人が?」


「はい」


「こちらに?」


「はい」


 嫌な予感しかしない。


 いや、嫌な予感というより、もう嫌である。


 婚約直後に倒れたのだから、王子側が様子を見るのは不自然ではない。むしろ礼儀としては当然だろう。


 だが、心の準備というものがある。


 まだこちらは 『王子にだけ距離を取る作戦』 を脳内で立ち上げたばかりなのだ。


 いきなり本番は聞いていない。


「お嬢様、お召し替えを」


 セシルがきびきびと動き出す。


「お髪も整えましょう。あまり華やかすぎず、ですが公爵家として失礼のないように……」


 その言葉に、エウフェミアはぴんと来た。


 あまり華やかすぎない。


 そう。それだ。


 ここで過度に飾り立てず、王子の訪問にも落ち着いた、やや地味なくらいの装いで臨めばよいのではないか。


 王子に好かれる気満々ではない。社交的な華やぎにも執着がない。そういう印象を与えられる。


「セシル」


「はい、お嬢様」


「できるだけ控えめにしてくださいな」


「まあ……なんて慎ましい……」


 違います。好かれたくないだけです。


 とはいえ、以前のエウフェミアならもっと宝石だのレースだのを求めただろうから、この変化もまた周囲には尊く映るらしい。


 着替えの結果、エウフェミアは淡い藤色のドレスを選んだ。上質ではあるが、派手さはない。髪飾りも小さな真珠だけ。公爵令嬢としての格は保ちつつ、七歳らしい清楚さを前に出した形だ。


 鏡を見たセシルが、うっとりと息をつく。


「なんてお可愛らしいのでしょう……飾り立てないほうが、かえってお嬢様のお美しさが際立ちます……」


 それ、駄目な方向ではなくて?


 エウフェミアは嫌な汗をかいた。


 どうも最近、 『目立たないようにする』 が 『素材の良さが際立つ』 に変換される傾向がある。


 認知バイアスが強すぎる。


 そうこうするうちに、応接間の準備が整った。


 公爵夫妻も揃い、エウフェミアは両親の間に座る。背筋を伸ばし、膝の上で手を重ねる。大丈夫。落ち着いて。必要以上に親しくしなければいい。にこやかに、しかし控えめに。礼儀正しく、だが壁は残す。


 ほどなくして、扉が開いた。


「アルベルト・ルヴァンシュ第三王子殿下のご到着です」


 現れたのは、先日と変わらぬ金髪と蒼い瞳の少年だった。


 七歳とは思えぬほど整った立ち姿。柔らかく礼を尽くす所作。やはり、この年齢で既に完成度が高い。


 怖い。


 成長したら絶対に厄介なタイプである。


「本日は突然の訪問をお許しください、エヴァルディ公爵、公爵夫人」


「とんでもございません、殿下」


 父ヴィクトル公爵が応じ、母ロザリー夫人も優雅に微笑む。


 そしてアルベルトの視線が、エウフェミアに向いた。


「エウフェミア嬢。お加減はいかがですか」


「……もう問題ございませんわ。ご心配をおかけし、申し訳ございませんでした」


 ここまでは完璧だ。


 丁寧だが簡潔。余計な親しみはない。


 エウフェミアは密かに手応えを覚えた。


 だがアルベルトは、そんな彼女をじっと見つめたあと、ほんの少しだけ目を細めた。


「そうですか。それは何よりです」


 声音は穏やかだった。


 だが、なぜか探るようでもある。


 嫌だわ。この王子、目がよすぎる。


 お茶が運ばれ、当たり障りのない会話が始まる。体調のこと、最近の学びのこと、婚約に伴う今後の顔合わせのこと。


 その一つ一つに、エウフェミアは慎重に答えた。


 必要以上に笑わない。


 無礼にはならない。


 だが親しみも見せすぎない。


 そして何より、婚約者らしい浮ついた態度は取らない。


 順調だ。


 少なくとも本人はそう思った。


 ところが。


「先日、教会へ行かれたとうかがいました」


 アルベルトが何気ない調子で言った瞬間、エウフェミアの背筋が固まった。


 なぜご存じなのですか。


 いや、公爵家の令嬢が王子の婚約者になってすぐ教会へ行けば、王家に情報が入ってもおかしくはない。おかしくはないが、心臓に悪い。


「はい……婚約という大きな節目でしたので、お祈りを」


「立派なお心がけですね」


 そう言いながら、アルベルトは続けた。


「迷子の子どもにも優しく声をかけておられたとか」


 情報が細かい。


 どこまで見ているのかしら、この方は。


 エウフェミアは一瞬だけ言葉に詰まり、それから控えめに目を伏せた。


「大したことではありませんわ。たまたま近くにいただけですもの」


「ですが、近くにいても、皆がすぐに動けるわけではありません」


 アルベルトはそう言って、静かに微笑んだ。


「あなたはお優しいのですね」


 その瞬間、エウフェミアは理解した。


 これは駄目だ。


 距離を取る作戦どころか、観察対象としての興味を深めてしまっている。


 まずい。非常にまずい。


 ここで何か、婚約者向きではない要素を出さなければ。


 エウフェミアは咄嗟に考えた。


 そうだ。俗世への関心の薄さを見せればいい。


 王家の婚約者として華やかな未来に胸を躍らせていない、むしろ静かな場所を好む令嬢だと思わせれば――


「……わたくしは、その」


 エウフェミアは少し迷うように言葉を置いた。


「賑やかな場より、静かな場所のほうが落ち着きますの。教会のような場所は、心が整いますから」


 よし。これは良い。


 社交界や王宮の華やぎより、静謐を好む。婚約者としては少し物足りない性質に映るはずだ。


 だがアルベルトは、なぜか感心したように頷いた。


「それは素晴らしいことですね」


 どこが。


「浮ついた華やかさに流されず、自分の心を律する場を大切にできるのは、美徳だと思います」


 そちらに解釈されますの?


 エウフェミアは心の中で机に突っ伏した。


 この王子、全部前向きに読むのではなくて?


 いや、違う。前向きに読んでいるのではない。彼の価値観では、それが本当に高評価なのだ。


 つまり戦略が噛み合っていない。


 こちらが 『王妃に向かない要素』 として出した札を、相手が 『王妃に必要な資質』 として回収している。


 非常に相性が悪い。


 会話は続いた。


 エウフェミアが控えめにしていれば 『慎み深い』  短く答えれば 『軽率に言葉を重ねない』  王子を見つめすぎなければ 『礼節を守って節度がある』


 なぜだ。


 どうしてそうなる。


 行動と評価のズレがひどい。


 しかも厄介なことに、両親まで嬉しそうなのだ。父は娘の慎ましさに満足げで、母は微笑みながら 「この子ったら本当に変わって」 という顔をしている。


 違うのです、お父様、お母様。


 これは婚約を壊しにいっているのです。


 ですがその叫びが届くことはない。


 やがて、子ども同士で庭を少し歩いてはどうか、という流れになった。


 エウフェミアは内心で青ざめた。


 それは困る。


 二人きりに近い状況は、距離が縮まる。非常に困る。


 だが王子の提案を露骨に断るわけにもいかない。公爵夫妻も穏やかに見守っている。ここで嫌がれば、かえって不自然だ。


「少しだけでしたら」


 エウフェミアは仕方なく頷いた。


 庭園は春の陽気に満ちていた。花壇には色とりどりの花が咲き、小道には若葉の影が揺れている。


 並んで歩くには十分すぎるほど美しい景色だ。


 最悪である。


「お加減が戻られたようで安心しました」


 アルベルトが言う。


「ありがとうございます」


「ですが、婚約の宣言の瞬間は、よほど驚かれたようでしたね」


 ひやりとした。


 核心に近い。


 エウフェミアは顔を上げず、慎重に答えた。


「……突然のことで、心の準備が追いつきませんでしたの」


 半分本当だ。


 婚約自体は知っていたかもしれないが、前世記憶の復活が突然だった。


「そうですか」


 アルベルトは短く答えた。


 だが、それだけでは終わらない。


「私との婚約が、お嫌でしたか?」


 直球だった。


 エウフェミアは危うく足を止めかけた。


 七歳でそんな聞き方をするの?


 普通、もう少し婉曲ではなくて?


 だが、この質問はある意味好機でもあった。


 ここで少しでも 『乗り気ではない』 と伝えられれば、将来の婚約解消に繋がるかもしれない。


 ただし、言い方を誤れば不敬だし、公爵家にも傷がつく。


 慎重に。慎重に。


「……嫌、というより」


 エウフェミアは小さく息を吸った。


「わたくしには、あまりにも重い役目に思えましたの」


 これも本音だ。


 そして、婚約者として自信がない、向いていない、と受け取られる余地がある。


 完璧である。


 だがアルベルトは、しばらく黙ったあと、意外なほど柔らかな声で言った。


「あなたは真面目なのですね」


「え」


「重いと感じるのは、それだけ真剣に受け止めているからでしょう」


 違う。断罪が怖いだけです。


「軽く考えるより、ずっと信頼できます」


 信頼しないでいただきたいのですが。


 エウフェミアはついに思った。


 この王子、攻略難易度が高いのではなく、そもそも判定基準が特殊なのではなくて?


 普通の王子なら、婚約者が自分との未来にあまり浮かれていなければ多少は引っかかるはずだ。


 だがアルベルトは、そこをむしろ誠実さとして読む。


 まずい。かなりまずい。


「エウフェミア嬢」


 不意にアルベルトが立ち止まり、こちらを見た。


 陽光の下、その蒼い瞳は驚くほど澄んでいた。


「あなたは、私を避けておられますか?」


 ぎくり、とした。


 やっぱり気づいている。


 気づいていて、なお距離を詰めてくる。


 恐ろしい子。


 だがここで取り繕えば、たぶん見抜かれる。少なくとも、この王子は簡単に誤魔化されない。


 ならば、完全な嘘ではなく、しかし本心も晒しすぎない答えが必要だ。


「……少し、怖かったのです」


 エウフェミアは小さく言った。


 それは本音だった。


 断罪する未来を知っているから怖い。けれど、そのままは言えない。


「殿下はとても立派で、落ち着いていらして……わたくしは、どう振る舞えばよいのか分からなくて」


 これなら、幼い婚約者として自然だろう。


 アルベルトはしばらく何も言わなかった。


 それから、ほんの少しだけ表情を和らげた。


「……なるほど」


 声音に、先ほどまでとは少し違う柔らかさが混じる。


「では、急がなくてよいです」


 エウフェミアは顔を上げた。


「私たちはまだ七歳です。すぐに何かを決める必要はありません。少しずつ慣れていけばいい」


 それは、優しい言葉だった。


 優しい。優しいのだけれど。


 婚約解消の余地を残すどころか、関係を丁寧に育てる前提の発言である。


 困る。非常に困る。


「……はい」


 としか返せなかった。


 その帰り道、アルベルトはそれ以上無理に距離を詰めようとはしなかった。ただ、一定の歩幅で隣を歩き、エウフェミアが花壇の段差で少しよろけかけた時だけ、自然に手を差し出した。


 その所作がまた腹立たしいほど洗練されている。


 七歳でしょう、あなた。


 なぜそんなに完成しているの。


 応接間へ戻ると、公爵夫妻は二人の様子を見て満足げだった。


 母ロザリー夫人など、うっすら微笑んでいる。父もどこかほっとした顔をしている。


 違います。


 進展しているように見えるかもしれませんが、わたくしは今、かなり追い詰められております。


 だが当然、そんな事情は伝わらない。


 王子が帰ったあと、セシルはほうっと熱っぽい息をついた。


「殿下、とてもお優しかったですね……それに、お嬢様も」


「わたくしも?」


「はい。少し距離はありましたけれど、それがまた初々しくて……」


 それは作戦です。


 ただし失敗気味の。


 エウフェミアは机に戻ると、伏せていた紙をそっと開いた。


 婚約解消に向けた方策一覧


 その下に、新たに一行書き足す。


 王子に距離を取る  →誠実さと慎み深さに変換され失敗


 しばらく考えて、さらに書き足した。


 静かな場所を好むと伝える  →内省的で高評価


 婚約を重いと言う  →真面目で信頼できると評価


 エウフェミアは静かに羽根ペンを置いた。


「……相性が悪すぎますわ」


 王子の解釈傾向と、自分の逃げの行動が、ことごとく噛み合わない。


 これは戦略を変える必要がある。


 王子にだけ距離を取る作戦は、むしろ興味を深める危険がある。


 ならば次は、別の方向から攻めなければ。


 必要なのは 『王妃には向かない』 を示す札だ。


 ただし、誠実さや優しさに変換されない形で。


 エウフェミアは真剣に考え込んだ。


 そして、ひとつの案が浮かぶ。


 社交である。


 王妃に必要なのは、政治だけではない。人前に立ち、多くの貴族と円滑に関係を結ぶ社交性もまた不可欠だ。


 ならば。


 社交の場で、あまりにも控えめすぎる様子を見せればどうだろう。


 華やかな会話が苦手。目立つのも苦手。前に出るより後ろに下がる。これなら 『良い子ではあるが、王妃向きではない』 という評価に繋がるかもしれない。


 よし。次はこれだ。


 少なくとも本人は、そう確信した。


 だが同じ頃、王城に戻ったアルベルトは、自室で静かに考えていた。


「避けられているのではなく、怖がられていた……」


 小さく呟き、窓辺に手を置く。


 婚約を喜んでいる様子はない。だが、拒絶しているわけでもない。


 むしろ真面目すぎるほど真面目に受け止め、その重さに怯えている。


 あの年齢で。


「面白い人ですね」


 アルベルトはそう言って、微かに口元を緩めた。


 婚約の場で見た、あの絶望したような顔。


 それが演技でないことはわかる。


 ならば本当に何かを恐れているのだろう。


 そして彼は、その恐れを隠しながら、礼を守り、品位を保ち、自分なりに懸命に立っている。


 アルベルトは静かに結論づけた。


「やはり、手放す理由がありませんね」


 その判断が、今後エウフェミアをどれほど困らせるか、本人はまだ知らない。

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