第15話 ダンジョン最奥での静かな決戦
トラウマ。
みんなにはいくつくらいあるかな? 僕は……そうだね。まあ、それなりに。ある。うん、すごくある。いっぱいね。
……それでさ、その中でも未だに、消化できていないのが一つ。
もう小学6年頃の記憶で……本当にただただ僕がなさけないっていう話。
田舎の中でもさらに田舎。山中。そこに、父方の婆ちゃん家があったんだ。一軒家だけど、所々に年季が垣間見れるようなボロさがあった。僕の家族は夏休みとか年末とか長期休みになるとこの家に行くのがお決まりで、その日僕は初めてその家の風呂に一人で入ったんだ。
この家の風呂に入ることはそこまで多くなかった。温泉とか銭湯が有名なとこだったし。その前に入ったのは5年前とかになるだろう。
実家の風呂と比べたら不気味だ。古い木製の引き戸で、磨りガラスのはめられたそれ。閉じると隙間から見える電球の光がほのかに漏れ出す。それがなんとも言えない薄気味悪さを出しているように見えた。だけどもその当時の僕はそんなものに怖がるような年齢ではないわけで。
少々不気味だけど、まぁこんなもんかなんて思いながら体を洗い、頭を洗い、最後に湯船につかり終わり立ち上がった時、ふと水色タイル状の床に一点黒いものがあることに気がついた。
なんだこれと思いジッと見ると、それは一匹のゴキブリであった。本来驚きはないはずだった。田舎だし、それくらいいるだろうとは思う。だけども僕は驚き、恐れた。奴は扉の前に居座り、ここを通さんぞと言わんばかりである。閉鎖空間で逃げ出せない。裸だから無防備だとも感じていた。それに周囲には誰もいない。どうする。どうすればいい?
心の器に恐怖がたまります。あふれてきます。助けてくださいってなりまして僕は大声で助けを求める至った。この経験が、僕を虫嫌いへと変えるきっかけとなった。シャワーで流してしまえばそれで終わるのに。
そして今、空間の中央にそれよりも遥かに大きいゴキブリ、グロスがいる。デカい。キモい。
「前に出ろ、ラック」
ルナリアそう僕の背を押す。
「……前衛、僕?」
「お前しかいないだろ。僕はさっきやってぼろ負けだ。まぁ後ろから支援してやるからとりあえず前に出ろ」
「わかった……」
結局前に出るのは僕がふさわしいんだろう。目の前の恐怖に打ち勝たなければこの先冒険者とてやっていけないだろうし、勇気を持って前に出るしかないのだ。ここは異世界、いずれドラゴンみたいなデカいヤツとも戦う可能性が高いんだ。
だから行け!気持ちで負けるな!僕の力は運が良ければ最強にして無敵のラック様さ!
僕は右足から一歩踏み出し……左足をだし、それはどんどん交互に早く。そしてあのゴキブリもどきのもとへ走り、顔を合わせる。
「我が同胞たちを殺し....ここまで来るとはな。やはり無理をしてでも、仕留めておくべきだったか.....」
気持ち悪い怪物。前の僕なら失神してるだろう。でも今は違う。これを倒さねばグラスバードに平和はない。恐怖にも打ち勝ち、冷静にならなければいけない。その為には意識を集中させなくてはならない。全ての雑念を取り払う。まるで修行僧のように。
「さっきとは明らかに雰囲気が違うな……良い目をしている。だが……」
息を整えろ。雑念を消せ。目の前の敵を見つめろ。それを倒した未来を想像しろ。自分は無敵だ。自分は強い。自分は負けることはない。自分は必ず勝てる。大丈夫。大丈夫。大丈夫。
「まだ恐怖にとらわれてると見た!インセクト・コネチェビス!」
突如グロスは分身、一体どういう虫の特性を組み込んだ能力なのかさっぱりわからないが、グロスより少し小さいゴキブリの大群が僕へと襲いかかる。まずここで一回目だ。
「ポッカス・ボーガス!」
唱えると同時に、凄まじい追い風が吹く。ダンジョン内でこんな強風はありえない。危うく吹き飛ばされそうになったが、ルナリアのアース・ヴェスカルーンがそれを防いでくれた。だけど僕の後ろにいたルナリアも飛ばされたせいで、僕は壁と彼女の間にサンドウィッチ状態。
「く、苦しい....早くこれ止めろ!!」
「無理無理!それが制御できたらもう最強の魔法使いなんだよ!」
「驕るなクソが!」
耳元で怒鳴る彼女。グロスはというと分身体、本物のグロスどれもぶっ飛ばされて幹やら柱やら壁に次々とぶつかっている。30秒後、風は止んだ。後ろを振り向くとルナリアは不機嫌そうな顔をしながら髪を整えている。申し訳ない。
「こっちを見てる場合じゃないぞ、前を見ろ」
そう言われ前を向くと、グロスが物凄く小刻みなカサカサとした動きでこちらに近づいてくるのが分かった。
「インセクト・コネチェビス!」
「ポッカス・ボーガス!」
急いでスキルを詠唱、まず奴の頭部に前戦った時と同じようにクワガタの鎌のようなものが生えてきてそれが左右から迫る。
対して僕のポッカス・ボーガスの結果は....なんと自分の手と足がそれぞれ34本増えるっていう大変おもしろい結果となりましたとさ。なんで?どういうことなの?全くわからない。考えてもわかるわけないが、とにかく増えた分ステータスは上がっているのでなんとか攻撃を受け止めることが出来た。
「ええい!我でさえも気味悪さを感じるほど醜い姿だ……」
「じゃあこの攻撃を止めて……」
「承知した!インセクト・コネチェビス!」
グロスは再びスキルを発動。こんどは上下に2本、ヘラクレスオオカブトの角のようなものが生え、一本は僕の上、もう一本は股下をくぐり抜けるように下から突き上げてきた。これで挟まれたら死ぬ!まずい!
「ポッカス・ボーガス!」
「アース・ヴェスカルーン!」
こちら二人も早口で詠唱。すると僕の手足が消え、代わりに頭に何らかの被り物が。そしてルナリアによる土の盾がグロスの腹部を殴打。奴の体制が前のめりに崩れ下の角が俺の股下を責めることはなかったが、上の角は僕の頭部へと一直線だ!
「ちょ……!」
パキン。突然何かが割れる音がし、それと同時に奴の角が真っ二つに折れた。
「え……?」
「バカな....それはまさか……」
グロスも動揺している。それは僕も同じだ。薄暗い洞窟だというのに上からの光が視界にちらつく。眩しい。
「それは……それは伝説の兜?……なぜ貴様がそれを……」
被っていることを忘れる程に軽く、衝撃を一切感じないほどに吸収し完全に受け流してくれる素晴らしい性能を兼ね備えたこの水色の兜。これが……僕の頭に?滅茶苦茶いいものが出てきてるじゃないか。今まで一番役に立つ。
「だがそれだけでは我は倒せない……!」
「確かに!」
頭だけ完璧でも、他は変わらない。これはまだ、形勢不利だね。
「ならば別の手段だ……!インセクト・コネチェビス!」
その掛け声とともにグロスがまたスキルを発動したのが分かった。背中の羽が変化し、ブブブブブと不快な音を響かせる。あれはハエというよりかはハチだ。空中でホバリングし始めたのを見てわかった。
「さぁてラックよ。そろそろ決着をつけようではないか。だがその前に改めて問おう。なぜお前たち人間は虫を憎む?我々はかつてお前たちと肩を並べ、魔王率いる魔族と戦っていたしていた仲。だが戦争が終わり、時代が変わり人は力をつけ虫を劣等種族だと嘲笑うかのように冷遇し、迫害し、拒絶した。我らはそれを許せんのだ」
「そりゃあ町の人々をさらって自分たちの餌にするような輩は怖いし嫌われるのも当然では?あなた方って人間しか食べないってわけじゃないでしょう?」
「確かに……我々昆虫は人間以上に柔軟性のある食事をする。特に我は一番なんでも味わうことができる。だが、当然そうなると嗜好があるんだ……例えば憎き人間の内蔵を生きたまま食らうとか……つまり因果があるのだ。人間から迫害を受け、憎く思うからこそ食する時に味が出る。当たり前のことであろう?」
「......」
なんというか……結局は考え方の違いなんだろう。人間と虫の違い。人間からしたらグロスたちは見た目からして危険な存在に感じてしまったんだろう。一方彼ら虫側からしたら何もしていないのに人間は自分たちを迫害する悪。分かり合える道など最初からなかったんだ。
「それでもあなたのやっていることはこっちからしたら間違いだ。そうした間違いを平気な顔して繰り返すから共存できないんだ。」
「間違い.....?正解不正解はすべてお前たちが決めることか?領土の約束を不意にし、我々の同胞を奴隷のように働かせ、果てには……我々を迫害する……そうやって我々の生存権を奪っていったのだ。そう、不正解を選択しているのはお前たちなのだ。我々は常に虐げられている……だからこそ我は拒絶する……!」
「アース・ヴェスカルーン!」
ルナリアが詠唱。
グロスの腹部がハチの腹に一瞬で変わった。腹部を曲げてこちらに尻を向けている。針をだす気なんだ……そろそろ次の一手を刺さねばならない。
「お前らと同じようになぁ!」
グロスの怒号とともに、尾端から機関銃のごとく大量の針が放たれる。さっきルナリアが詠唱したスキルの能力で目の前に土の壁を展開。それによって毒針は防がれるはずだったが.....。
「ラック走れ!」
土の壁はすぐにドロドロと溶けていった。これは毒か?それもかなり強い。僕はすぐさま横へ駆け出した。多分直撃すれば即死。しかし奴も賢いようでそのまま僕を追うように針を放ってくる。ひたすら横方向に避ける僕。ルナリアは壁越しにアース・レジクを放ちたいところだがMPに余裕がないし向こうには対処の方法がいくつもある為無理な話。
「ポッカス・ボーガス!」
いつまでも走り続けるわけにはいかないので叫んだ。魔法陣がグロスの上に展開される。そこから放たれるのは……
「な……!」
気づいて驚くグロス。僕は立ち止まる。これから出てくるもの次第で勝敗が決まる気がする。
頼む、本当に頼む。出てきたのは......タライ。小さな金属製の皿状の容器である。それが真上から落っこちてきた。もちろんグロスの脳天にストライク!
「いや、そんなんじゃ勝てねーよ!」
ルナリアが憤慨する通り、そんなんじゃ勝てなかった。一瞬静寂が訪れたかと思えば、グロスは再び毒針の雨を降らせ始め、僕は避けきれず脚に一本。左膝の少し上あたりをかすって皮膚が裂けた。瞬間的な激痛が走り熱を持ち、すぐに左足は動かなくなり僕は地面に倒れてしまった。壁と同じように膝から先がドロドロに溶けており、血も流れ出し溜まりを広げだす。膝から下は地面に転がっていた。痛い。痛すぎる。一瞬で陥った危機を前にして今自分がどういう状況に置だれているのか理解が追いつかずただ本能的に恐怖を感じた。
「どうだ?なかなか良い痛みだろう。もっと苦しんで貰おうか」
グロスは地上に降り立ち、前足二本を再びカマキリの鎌のような鋭利なものに変え、僕に向かってゆっくりと近づいてきた。足の腐食が膝から徐々に太もも側へと迫る感覚が分かる。このままでは全身がこの足と同様にドロドロになり死んでしまうだろう。だけども僕はどうする気にもなれない。頭が真っ白だ。そんなところへルナリアが杖の先に岩を生成させながら飛び込んできた。
「ラック!安心しろ!今すぐ助けてやるからなぁ!待ってろぉ!!」
荒波に乗ったようにルナリアの叫びはとても頼もしく聞こえた。そんな彼女の突進を前にしてもグロスは淡々と甲虫の装甲を纏い自らの防御力を高める。果たしてルナリアのアース・ボッカノルクは奴の硬質化を突破できるのか。ルナリアが杖を振るう。その矛先は、僕の左大腿部。
「……うわぁあ!」
ぐしゃりと潰れ、想像以上の痛みが襲いかかり悲鳴をあげる僕。圧迫で出血と侵食は止まったかもしれないが、傷みと損傷は相当なものだ。
「今のでもう毒は回ってこないだろ。よかったなぁ~ラック。これで全身がドロドロに溶けて死ぬっていう最悪な死に方はしなくて済む」
「そりゃどうもありがとう……じゃねーよ!どちらにしろ殺されるんですけど!ていうかグロスが目の前にいるんですけど!」
「どうしようもない。僕はね……もう完全に諦めてるんだ。覚悟しろ……ラック」
「ほう、我に身をゆだねるのか。潔いな……いいだろう。まず心臓を外から抉り取ってくれる。そうすれば一気に楽になるであろう」
「いや……」
ルナリアは笑う。一体この状況で何を笑ってるんだろうと不思議に思っていると、僕は気づいた。グロスが甲虫の装甲を解くと同時に露になったのは、体の至る所に走る亀裂の数々。
「……諦めたのは真っ向勝負での勝ち筋で……僕は生還する道を見出してたんだよね」
その言葉とともに、グロスの右鎌がボロりと取れた。それを見たグロスは、慌てて後ろに飛退く。
「馬鹿な....なんということだ……」
「僕は70年、お前は200年。そりゃあ確かに僕ごときが及ばないし勝てないよ?でもね……お前の体はその年月の中徐々に劣化していってるんだ。スキルでそうやって体を酷使すればするほど、負担がかかる。きっとこれほどくらいついてくる敵は久々だったから気付かなかったんだな」
「……」
「お前はこれから自壊していく……。この世の生物にとって老いとは避けられないものなんだ。いずれは朽ちるんだよ。」
しかしグロスは諦めず再びこっちに接近してくる。甲虫の装甲を中途半端に身にまといながら、ゆっくりと近づいてくる。表情に感情は見えないが、怒りや焦りなどが動きから汲み取ることができる。
「……そんなもの!関係ない.....我が同胞が泣いている声が聞こえてる……お前たちを殺すまで......まだ私は死ねないのだ……死んではならないのだ……!」
「ルナリア、まだ何か策はあるの?」
「……もうMPがない。お前次第だ」
片足を潰された状態の僕にできることは限られている。相手も消耗はしていてもまだ戦えるっぽい。ともなれば本当にポッカス・ボーガス次第だ。現状打破に繋がるものが出る可能性も十分あるだろう。期待はしてる。
「ポッカ.....」
「グロス!!」
発動しようと詠唱を始めた瞬間、大木の幹にあるウロの中から、一人の少女が飛び出してきた。ゴキブリではなく、れっきとした人間だ。その女の子はそのままこちらへと駆けてくる。
「アリア!危ないからそこから出るんじゃないと言っていただろう」
その名を聞いて、僕らはとてつもない程に衝撃を受けた。この子が……お腹を大きくして妊婦と思わしきこの女の子が……。
「……もうやめて、やっぱり気のせいじゃなかった……これ以上戦ったら死んじゃうよ!」
3年前、初めてこの町で昆虫族にさらわれた伯爵の娘、アリアだったからだ。




