春がくる
夜になり、寝台にマティルデとエドアルドは並んで座っていた。
「何故彼女に会おうなどと?」
なんとなく、かつての恋人の名を妻の前で呼ぶのは憚られた。
「対決しようと思いましたの」
見た目の儚さとは異なり、マティルデはとても勝気だと言うことを、この数ヶ月の間にエドアルドは学んだ。
「対決?」
聞き返すと、そうです、と力強く頷く。
「エドとの関係性は存じておりました。ですが今更、エドを返せと言われても私、はいそうですかとは申せませんもの」
「……そう思ってくれるのか?」
「当然です。私はエドの妻です」
胸の内がくすぐったい、とエドアルドは思った。
「対決して、勝つつもりでおりました」
そもそもエレオノーラが勝つ要素はないのだが、マティルデはそうは思っていなかった。
失ったと思っていたものが戻ってきたならば、心が動くだろうと思っていた。
「今は負けていても、最後は勝ちます」
「最後?」
「そうです。今の私があの方に勝てるものは、出自と、妻であるということだけです。
大変お美しい方だと聞いておりますわ。皆は私の容姿を褒めてくれますが、王女の私に面と向かって謗る者などおりませんもの。どちらがより美しいのか私には分かりません」
マティルデとエレオノーラは違う系統の美人である。どちらがどうのと比較しても、マティルデならそうは思わないことが分かっていたし、自分がそれほど話上手ではないことをエドアルドは理解していた。
伝えたいのは、彼女より大切だ、ということではなく、あなたが大切なのだということだ。
エドアルドは手を伸ばし、マティルデの手を握った。
「比べる必要はない」
そんな必要はないのだと、伝えなくてはならない。
「俺はあなただから惹かれた」
マティルデの頰が赤く染まる。
「本当に?」
本当に、と答えてマティルデの手を己の両手で包む。
「神に感謝している。あなたを俺の元に授けてくれたことを」
「お義父様ではなく?」
「そうだった」と答えてエドアルドが笑う。
「父にも、感謝する」
見えずとも、空気で分かる。
夫は笑顔なのだろう、と。
「エド」
「ん?」
「私も感謝いたします。あなたの妻となれたことに」
マティルデの手からエドアルドの手が離れ、代わりに抱き締められた。
温かく、マティルデをすっぽりと包んでくれる腕。
幸せだと、感じた。
マティルデの目は永遠に何かをその瞳に映すことは出来ないが、彼女の耳は夫の声を聞き分け、間違えない。
エドアルドのぬくもりは、マティルデの心を温めて、妻の為にと付けた香りは、彼女の鼻と心をくすぐる。
見えずとも、エドアルドの声はマティルデに届き、その腕は最愛を抱きしめる。
雪の上を転がるように走る少女を、慌てて追いかける少年。少年のほうがいくつか年上のようだ。
「待てよ! そんなに走ったら滑って転ぶぞ!」
「なにをおっしゃってるの、お兄さま! お母様の元に赤ちゃんがいらしたのよ!」
私、お姉さまになるのよ! そう叫んで少女は城に向かって走る。
母親が子を産んだと聞いて、遊びを切り上げて戻ってきたのだ。
衣服についた雪を入り口で落とすのがもどかしい。
早く会いたい。
妹なのか、弟なのか……少女が階上を見上げたとき、泣き声が聞こえた。
「赤ちゃんの声!」
強引に外套を脱ぎ、侍女が止めるのも聞かずに階段を駆け上がる。
勢いよく扉を開けると、少女の父親が赤ん坊を抱き、あやしていた。
「お父さま!」
父親は唇の前で人差し指を立て、静かに、と興奮する少女を窘める。少女は慌てて両手で口を押さえた。
寝台では母親が眠っていた。
「お母さまを起こさないように、隣の部屋に行こうか」
追い付いた少年も、赤ん坊を見て声を上げそうになるのを我慢する。
温められた隣の部屋に親子で移動すると、少女と少年は父親に抱かれた赤子の顔を覗き込む。
「お父さま、妹? 弟?」
「弟だ」
少年が両手を上げて喜ぶ。
「じゃあ、次は妹ね!」
娘の言葉に父親は苦笑いを浮かべる。
「こればかりは授かり物だ」
乳母が部屋に入って来た。父親は赤ん坊を乳母に渡すと、妻の眠る寝室に戻った。
そっと寝台に腰掛けると、マティルデの目が開いた。
「すまない、起こしてしまったか」
いいえ、と答えてマティルデは微笑んだ。
「子供たちは?」
「乳母といる」
エドアルドはマティルデの頰を撫でた。心地よいのか、マティルデは目を細めた。
二人の間に生まれた子は健やかに育ち、病をもはね返すといわれる程であるし、目も、耳も聞こえる。
娘が生まれたときに、呪いなどなかったのだと言われるようになって、マティルデはエドアルドの腕の中で泣いた。これで父と母、姉や兄の心が楽になってくれるだろうかと。
妻を通した王家との文の遣り取りの中で、彼らがマティルデを心から愛していること、呪いなどというものは信じていないが、それ故に負担や、要らぬ苦労をさせたことに心を痛めていたことを知った。
エドアルドに対しても、先王の暴挙により始まった戦がなければ、そのような大怪我をさせることもなかったと、申し訳ないと何度となく謝罪の言葉が書かれていた。
隣国も代替わりし、血の気の多かった将軍が隠居したこともあって、この愚かな戦にも終止符が打たれようとしている。
マティルデの下の姉が次の春、隣国に輿入れをし、和平条約が調印されるという。
「もうすぐ春になる」
誰もが待ち望んだ春が。
エドアルドの言う春に、色んな意味が含まれていることにマティルデは気付き、頷いた。
「長き冬でしたわ」
頷くと、妻の手を優しく撫でた。
「春になったら、子を連れて丘に行こう。
花の甘やかな香りのする、美しい丘に」
「えぇ、楽しみにしています」
何度も春を共にした。次の春が待ち遠しい。
どの季節も好きだが、やはり春はマティルデにとって特別だった。
咲き誇る花から放たれる香りに包まれて、瞳にその美しさを映すことは叶わずとも、花を、春を感じることが出来るから。
戦が終わる。
長い冬が終わる。
わだかまりは残るだろう。
なにもかもなかったことには出来ない。
それでも、春はやってくる。
待ちに待った春が──。