第十六話 電車
私は小さくて色が白いので、マシュマロと呼ばれています。
今日は、市役所でもらった体験カードを使って、電車に乗りに行く日です。
わくわくしながらおうちのドアを開けると、玄関の前で見覚えのある黒いロングコートの男性が待っていました。市場で案内をしてくれた、背の高い夜警さんです。
「マシュマロちゃんにご万一の事があってはいけませんので、本日は私がお供いたしましょう」
夜警さんは、滑らかな頭を少し傾けて、灰色の目を優しく細めました。
「わあ、ありがとうございます。夜警さんと一緒なら安心です」
私がそう言うと、夜警さんは長い指を揃えて、丁寧に会釈をしてくれました。
私たちが並んで市役所へ向かって歩き出すと、夜警さんは少しだけ弾んだ声で教えてくれました。
「実はお恥ずかしながら、私もこのお電車にご乗車するのは初めてなのです。少し、楽しみにしておりました」
いつも静かで落ち着いている夜警さんが、珍しく期待していそうなので、なんだか私までとても幸せな気持ちになりました。
市役所に着いて、ポケットの体験カードを撫でながら電車の絵が描かれた扉の前に立ちます。
扉が開くと、オレンジ色の光に包まれた車内が広がっていました。
私たちが待っている間に手続きをしていたお兄さんやお姉さんたちも、大事そうにカバンや写真を抱きしめて乗り込んできます。
「よかった……これで……」
「帰れる……我が家に……」
みなさん、目を潤ませながら、互いに寄り添うように立っていました。
「みんな、大切なお荷物を抱えてる。旅行みたいで、なんだか楽しそう」
私はそう思いながら、夜警さんにエスコートされてふかふかのシートにちょこんと座りました。
ガタゴトと重くて心地よい金属音を立てて、電車が走り出します。
少し走ると線路が高くなり、大きな窓から街の景色が一面に見渡せました。
真ん中には、お店がぐるりと囲むにぎやかな噴水広場が見えます。
山には、どっしり佇む大きな「太ったおじさん像」が見えました。
今日も元気に動いているのでしょう。
少し離れた場所には、大きな文字盤を持つ時計塔と、その麓に広がる市場も見えました。
「あ、夜警さん見て。私たちが前に歩いた、時計塔と市場だよ」
「ええ。このお角度から見るのも、また違った趣がありますね」
夜警さんは窓の外を静かに眺め、穏やかな声で頷きました。
お散歩で行った場所が全部繋がって見えて、なんだか箱庭を眺めているみたいです。
しばらく景色を楽しんでいると、カタカタと音を立てて、販売員さんが小さなワゴンを押してやってきました。
白い制服を着たその人は、袖の内側から細くて長い腕が何本も伸びていて、それぞれが別々に動いて品物を支えていました。
顔は丸く、目がぱっちりしていて、とても親しみやすい印象です。
「車内限定の販売でございます。美味しいお菓子やお飲み物、記念のお土産はいかがですか」
乗客のみなさんは、ワゴンが近づくと、とてもお行儀よく背中を丸めて、遠慮するように静かに目を伏せていました。
夜警さんは、車内販売に目を輝かせる私を見つめてから、すっと細い手を挙げてワゴンを止めました。
「マシュマロちゃん、何かご記念になるものをプレゼントさせて下さいね」
夜警さんは微笑みながら販売員さんにお金を払い、自分用に黒い飲み物。私にはピンク色の温かい飲み物と、可愛らしいノートを渡してくれました。
ノートは、しっとりと手に吸い付くような柔らかいピンク色の表紙で、真ん中ににっこり笑顔の押し型が大きくついています。
「わあ……すべすべしてて、素敵な触り心地!夜警さん、ありがとうございます」
私が両手で大切に抱きしめていると、近くに座っていたお兄さんが、ノートの表紙をじーっと見つめてきました。
ふいに、目がまんまるになって、体を震わせながら、「え……それ……その顔……」と、涙を流しはじめます。
可愛いノートなので、羨ましくなったのかもしれません。
お兄さんが、何かとっても大切なことを思いついたみたいに、勢いよく立ち上がろうとします。
その瞬間、夜警さんが私の肩を優しく抱き寄せて、自分のコートの袖で視界をふわりと包んでくれました。
「マシュマロちゃん、あちらにもお可愛いお建物がありますよ、ほら」
「え、どこですか?」
私が首を伸ばして窓の外を見上げている間に、後ろで「こちっ」と小さな音がして、すぐに静かになります。
夜警さんが「もう大丈夫ですよ」と手を退けてくれると、お兄さんはシートに深く腰掛け、満足そうに目を閉じてお昼寝していました。
「疲れて、休んでるのね」
私は夜警さんが買ってくれたピンク色の飲み物を一口、含みました。とても甘くて、体の中がぽかぽかします。
やがて電車は、暗くて静かなトンネルへと入っていきました。
車内スピーカーから、市役所と同じ優しい女性の声が流れてきます。
「本日もスマイル電車をご利用いただき、ありがとうございます。まもなく、みなさまのご自宅前に到着いたします。お忘れ物のないよう、準備をしてお待ちください」
乗客のみなさんは、喉の奥で小さな声を漏らしながら、互いに寄り添っていました。
トンネルを抜けると、急に視界が開けました。
暗い通路から一気に明るい光が差し込んで、まぶしいくらいです。
そこは大きな「スマイル中央物流センター」でした。
高くて白い壁に囲まれた、広くて整った建物の中に、線路がそのまま続いています。天井も高くて、空気が澄んでいるように感じました。
ホームには、青い制服を着た作業員さんたちが整列して、大きな笑顔で迎えてくれました。
みなさん、背の高さもお顔の形も、笑顔の角度まで、とても揃っています。
姿勢がまっすぐで、服の皺一つなく、なんだかビシッとしていてかっこいいのです。
「お降り口はこちらです。順番にお進みください」
声まで、よく似た調子で聞こえてきました。
乗客のみなさんは、案内されるまま「ご帰宅ゲート」と書かれた大きな白い部屋へ入っていきました。
入口のところで、作業員さんの一人が私たちに気づいて、丁寧に手を振って止めます。
「お客様はご帰宅ではありませんので、こちらでお待ちください」
私は素直に頷いて、夜警さんと一緒に少し離れた場所で立ち止まりました。
白い扉がしっかりと閉まり、中が見えなくなります。
しばらくすると、部屋の奥から「バコン!」「ガッコン!」という短く重い音が響いてきました。
元気な音だな、と思っていると、少し間があってから、反対側の扉が開きました。
ベルトコンベアの上に、ツヤツヤとした黒い小包が乗って、次々と流れてきます。
作業員さんたちが手際よく近寄り、「○○様ご自宅行き」と書かれたシールを、一つ一つ丁寧に貼っていました。
「わあ……。
荷物は別に送ってくれるんだ。
みんな、とても快適に帰れるのね」
私が目を細めて感心していると、夜警さんも静かにその様子を見つめていました。
「お市役所のお仕事は、行き届いていますね。
このようなお手順でお運ばれているのですね」
その声は、ちょっと嬉しそうでした。
夜警さんは少しだけ間を置いてから、私の目線に合わせてそっと屈み込んでくれました。
「マシュマロちゃん。もしよろしければ、お帰りもこのお電車でご一緒いたしませんか? もう他のお客様はいらっしゃいませんし、貸切の車内でゆっくりと、お茶会でもいたしましょう」
「わあ、本当ですか?」
「ええ。せっかくのご機会ですからね。今日はお疲れ様の特別です」
私が嬉しくて何度も頷くと、夜警さんは目を細めてくれました。
帰りの車内はとても静かで、やわらかなオレンジ色の光がゆったりと揺れています。
さっきまでいたお兄さんやお姉さんたちの姿はもうおらず、代わりに荷物室へ続くコンベアの上を、ツヤツヤとした黒い小包たちが整然と流れていくのが見えました。
夜警さんは再びやってきたワゴンを呼び止め、ピンク色のかわいらしいお菓子と、あつあつで甘い飲み物を買ってくれました。
「どうぞ、マシュマロちゃん。お好きなだけお召し上がりくださいね」
「すごい! こんなに素敵なお菓子、初めて見ました」
ふかふかのシートに深々と腰掛け、夜警さんと一緒に味わうお茶会は、胸の奥がぽかぽかするような特別な味がしました。
市役所に戻り、電車の扉をくぐると、私は夜警さんに向かってぺこりとお辞儀をしました。
「夜警さん、今日はいろいろありがとうございました! すっごく楽しかったです!」
「どういたしまして。またいつでもお声がけくださいね」
夜警さんは丁寧に腰を折り、暗がりの中へすっと滑るように消えていきました。
おうちに着いて、玄関を開けるとすぐにリビングへ向かいます。
「ただいま! 今日は電車に乗ってきたんだよ。景色がすごく綺麗で、お土産も買ってもらったの!」
天井からぽたりと雫が落ち、床下から「ぶーん……」と可愛い返事が聞こえてきました。
自分の部屋に戻った私は、夜警さんが買ってくれたにこにこノートを、棚の一番目立つ特等席に飾りました。
しっとりとしたピンク色の表紙を指でそっと撫でると、まだ夜警さんの手や車内の優しい温もりが残っている気がします。
「夜警さん、素敵なお土産をありがとうございました」
心の中でそっと呟いて、私はベッドへともぐり込みました。
ふかふかのおふとんを胸まで引き上げ、今日過ごした特別な時間を思い出しては、ふんわりと笑みを浮かべます。
「ふふ、明日も良い日になりますように」
手元に残った温もりに包まれながら、私はとびきり甘い夢の中へ落ちていきました。




