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第1話 静かな退職

チュンチュン


(もう朝か・・・)


パソコンに向かってキーボードをカタカタと叩きながら、ボソリと呟く。


不規則な生活のせいか、目の下にはいつもクマができており、眠そうな目をこすりながら、

ターンッとエンターキーを叩いて、記事の投稿を完了した。


彼は加納晶、フリーランスのライターである。

それもいくつかある彼の副業の一つでしか無いが、一応仕事として行なっている行為ではある。

これだけで食べていけるわけはないが、仮にとって文章を書くという事は、

本来の彼のやりたい事に繋がるメリットの多い仕事ではある。


彼のやりたい事とは小説家であり、クロノトープ研究家である。野生の小説家として様々な投稿サイトに小説を投稿してきた彼は、物語の構成に行き詰まった時にクロノトープに出会った。


クロノトープとは、ロシアの文学者・思想家であるミハイル・バフチン(1895–1975)が、1930年代の論文『小説における時間とクロノトープの形式』で文学理論として提唱したものである。


アインシュタインの「相対性理論(時間と空間は独立しておらず、不可分である)」からインスピレーションを得て、それを文学や芸術の世界に応用したものとされている。


彼はこのことを論文を読んだわけでも、大学で学んだわけでも、書籍を読んだわけでもない、AIに自分の疑問や質問をぶつけるうちに辿り着いたのだ。


ガチャ


台所に赴き、冷蔵庫を開ける


常備しているアイスコーヒーのペットボトルを取り出し、パキッとキャップを開けると、グビグビと直に飲み始めた。プハっと息をすると、乾いた身体に水分が染み込んでいくのを感じた。


何か食べるものは無いかと再び冷蔵を開け、朝飯がわりになりそうなものを探す。

常備しているヨーグルトとブルーベリーソースを取り出し、小皿に大きめのスプーンで2・3すくいソースを軽くかける。


ソースを混ぜずに、スプーンの上でいい塩梅になるようにすくって食べる。

あっという間になくなった。炭水化物がないと食べた気にはならない。

だが、まともな食べ物がない・・・。


食糧庫から、ポテチを取り出しビッと開けてパリパリと食べ出す。

テレビの電源を入れると同時に、YouTubeのボタンを押す。

地上波はほぼ見ない。


ニュースの配信を見る。

また熊が出たようだ。最近、非常に多い。

いつか自分も鉢合わせするのだろうかと思ったりするが、

噂によると九州には熊が出ないらしい。本当だろうか。


正直、コメンテーターのコメントなんぞ不要だ。

ニュースは純粋にニュースだけを流して欲しい。


モシャモシャとポテチを食べ、アイスコーヒーで流し込む。

あっという間になくなってしまったが、それなりに腹は落ち着いた。

我が家ではポテチは主食である。


(よし、出かけるか)


晶はパッと身支度を済ませ、クライアントのところへ向かう。


電車を乗り継ぎ、住宅街へと歩みを進め、向かった先には豪邸が佇んでいた。

邸宅をぐるりと城壁のように取り囲む煉瓦の壁、鉄の門にはインターフォンがあり、

チャイムをピンポーンと鳴らす。


「いらっしゃい」と聞き馴染みのある声がすると同時に門がギギギと開いていく。

いつ来ても気後れする大邸宅だ。


門の先には森のような庭があり、数分先に純和風の母屋が見える。

離れや蔵も奥に見えるが入った事はない。


玄関に辿りつくが、そのまま裏手に回り込むと砂利を敷き詰めた日本庭園ああり、

縁側に初老の男性が座ってお茶を啜っている。


「どうも」軽く会釈をし、帽子を脱ぐ。

こっちこっちと手招きをする。この人が彼のクライアントの渋沢豪である。

製造業では知らないものは居ないと言われる伝説のエンジニアであり経営者であった。

今は引退して、この豪邸で暇を持て余している。


「待ってたよ。今朝の記事も読んだ。まぁまぁだったよ。」

ニヤッと老人は意地悪な顔をする。


「そうですか。徹夜だったんですけどね。」

ポリポリと頬を掻きながら、勘弁してくれと言いたそうな顔だ。


「努力は認めるよ。私は表面的なニュースには興味ないが、君の考察や妄想は嫌いじゃないからね。君もオールドメディアは嫌いだろう。ポジショントークには飽き飽きさ。私は真実を知りたい。でも、真実なんてこの世には無いのかもしれないからね。そこで、君の出番さ。」

手招きして隣に座るように促す。


「はぁ。今回の記事はどうでしたでしょうか。最近話題の”静かな退職”について、思いつく事は一通り調べて考察して物語にしてみたのですが、お気に召しませんでしたか。」

どっこいしょと腰を下ろし、顧客の隣に座る。


「いや、面白かったよ。これもよくある現代病の一種なのかもしれないけど、君の”日本弱体化計画”という切り口も悪くなかったよ。海外勢力と国内反発勢力がSNSを使って煽っているという考察なのか陰謀論なのかキワキワの物語は良かった。ただ好きじゃないかな。その側面が全くないとは思わないが、人間はそれほど単純でも無いと思いたいんだ。」


「私も会社を経営してきたからね。従業員の気持ちを、本音を知りたいと思って色々やってきたさ。労働組合の連中とはバチバチにやってきたし、共産主義にかぶれた社員も見てきた。そこに入知恵している勢力も確かに居るけど、我々のようなアナログの時代じゃないからね、なんというかそういった芯のある活動には見えないな」


「もちろんです。”日本弱体化計画”と仮につけましたけど、具体的に悪の親玉が居るという話では無いですし、ディープステートといったものを指しているわけでは無いんです。なんというか見えざる手というのか、世の中の流れとして、”ゆとり教育”だったり、”リーマンショック”だったり、意識的に弱さを植え付ける事で社会を揺さぶるという事を話にしてみたのですが」


「うん、わかるよ。見えざる手ね。でも、そういう表現はあまり好きじゃないな。だってそれは解らないって匙を投げたように聞こえるよ。私は真実を知りたい。存在しないかもしれないが、深掘りした先には何かそれらしいものが見えるかもしれないよ。頑張ってね。」


「はぁ。精進します。」


「私の考察はこうだ。みんなね賢くなりすぎたんじゃ無いかな。いや賢いというよりも、頭でっかち。私の時代にも秀才ってやつが居てね、とにかく本を読みまくって世界の全てを知っているってな感じのエリートがいたんだけどね。勉強しすぎると、全てにケチをつけ始めるんだ。やれ意味が無いとか、効率が悪いとかね。

正しいんだけど、意味が無いのさ。世界は正しさで回ってないからね。むしろ間違いだらけさ。間違っている世界を乗りこなさなきゃならない。でも今の人たちも正しさを考えすぎなんだと思う。ニュースもSNSも正しさの押し売りじゃないか。それで頭でっかちになってしまうと、自分にとって正しいことを追求しちゃうのかなって」


「確かに、”静かな退職”をしている人たちにインタビューを様々しましたが、達観してるというか、自分をわきまえているというか、夢に踊らされない人達だったりする印象はあります。賢いかと言われると、違う種類の賢さですかね。少し可哀想な気持ちにもなりましたけど」


「へぇ、それで誰かに操られているとか、時流に流されているといった陰謀論・・・。失礼、考察になったのかい。よくね、社会が悪い、時代が悪い、国が悪い、親が悪い、学校が悪い、会社が悪いっていうけど。そりゃそうだよ。常に何かが間違っているのがデフォルトなんだから。」


「間違っているのがデフォルトなんだとすると、”静かな退職”は仕方ないってことですか。僕は若干仕方ないかなと思う部分もあって、タイパとかコスパとかに振り回される時代なのも感じるというか。賢いというか狡く生き残る必要もあるんじゃ無いでしょうか。」


「サバイバルなのはその通りだけど、私は”静かな退職”を仕方ないとは諦めたく無いかな。間違っているのがデフォルトだと気づいていないから、頭でっかちに正しい行動をとった結果が、”静かな退職”だとするとゲームが変わったら詰んじゃわないかな。ほら最近は黒字リストラも増えたでしょ。最初にこのゲームに負けるのは誰かな。」


「”静かな退職”組は・・・。結局は会社にしがみつくのでは無いでしょうか。日本はアメリカのように簡単にリストラはできませんし。」


「果たしてそうかな。そもそもしがみつくというのがカッコ悪いというか、自分のオールを人に預けてしまっているとも言えるよね。日本に解雇規制がある、続くと思っているのは間違いじゃ無いかな。そんな事は忘れて、本質的には何のために働くのか、働く時間は人生の30%くらいあるんだから”静かに退職”してる場合なのかな。そこのところが知りたいねぇ。」


「あ、僕の記事の足りないところ・・・。行動に至る環境要因、それぞれの考え方や理屈は調べて考察してきましたけど、そもそも働く事との矛盾みたいなものの深掘りが足りなかったでしょうか。」

悔しいけど、顧客のニーズを満たせていなかったようだ。


「そうだね。現象は捉えられているし見えざる手ってのも面白い考察だけど、"静かな退職"で幸せなのかな。この先は明るいのかな。そんな妄想もあってもよかったね。でもありがとう。今日も面白かったよ。」

ポンポンと肩を叩いた。


「ありがとうございます。次は何の考察をしましょうか。」

脱いだ帽子を絞りながら次のオーダーを確認する。


「そうだね。次は"熊"が良いかな、怖いよね。だけど熊が可哀想とか、熊を駆除すべきとか賛否両論あるみたいだけど、この現象って何なんだろうね。詳しく知りたいなぁ。」


「熊ですか・・・。わかりました。今朝、Youtubeでもそのニュース見てきましたけど、深掘りしてみます。熊関連で一通り調べてきます。」


「ありがとう。妄想の翼を広げて、真実を探してきておくれ。君だけが頼りだ。」


晶は、すっと立ち上がり、ペコっと会釈をして立ち去る。

裏庭から玄関に差し掛かったところで振り返ると、渋沢さんはもう居ない。


今日のミッションもなんとか完了した。

こうしたやりとりが、もう2年も続いている。

週に1回から2回、オーダーに沿った調べ物と考察を記事としてクライアントにメールする。


メールをしたら、その日のうちに自宅に伺い感想を聞く、

指摘や次のオーダーをもらって帰宅する。


この不思議な副業は、ライター業としてそこそこ実入りも良い。

そして非常に勉強になる。


(だが、なぜ渋沢さんはこんな仕事を僕に振ってくるのだろうか)


そんな事を思いながら、帰りの電車では”熊”について調べ始めていた。


<熊は九州にいないというのは本当ですか?>


<野生のクマ(ツキノワグマ)について、九州では環境省によって2012年に「絶滅した」と判断・宣言されています。そのため、原則として九州には生息していないというのが公的な見解です。>


AIがずらっと教えてくれる。渋沢さんは、テレビもネットも新聞も見ていないらしい。

全て家族や友達との会話からテーマを決めているそうだ。


そして、なぜか物語風にまとめて欲しいという変わったリクエストをもらっている。

不思議な人だ・・・。どこか得体が知れない・・・。


彼にとっては重要なパトロンである。

いずれ、面白い小説を書いてこの恩に報いたいなどと考えながら家路についた。


いかがでしたでしょうか。


今回は、AIを全く使わず、即興で書くという実験的な小説です。


次回のテーマは”熊”とのことですが、作者もなぜこのテーマなのか、

どうなるのか全く検討がつきません。乞うご期待です!

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