断罪の舞踏会
王城の最も広大で豪奢な「太陽の間」は、数千個の魔法石が埋め込まれた巨大なシャンデリアの光に照らされ、文字通り白夜のような明るさに包まれていた。
壁一面に飾られた歴史あるタペストリー、床に敷き詰められた深紅の絨毯、そして王都の流行の最先端を行く煌びやかなドレスに身を包んだ貴族たち。
しかし今、その絢爛豪華な空間は、まるで時間が凍りついたかのような静寂に支配されていた。
誰もが息を呑み、広間の入り口に立つ私たち二人――『氷の公爵』ルードヴィヒ・フォン・グレンヴィルと、その腕に手を添える私、リアナ・フォン・オルコット――を凝視している。
ルードヴィヒがゆっくりと一歩を踏み出すと、モーセが紅海を割るかのように、人々が無言で左右に後ずさりし、私たちの前に真っ直ぐな道が作られていく。
彼の纏う圧倒的な威圧感は、物理的な重さとなって広間の空気を支配していた。室温が数度下がったかのような錯覚さえ覚える。
(さあ、大舞台よ。前世で、粉飾決算を繰り返していた取引先の社長に、決定的な証拠を突きつけたあの日の役員会議よりも、ずっとスリリングなステージね)
私は胸の奥で高鳴る心臓の音を、深い呼吸で静めた。
ミッドナイトブルーのドレスが絨毯の上を滑るたび、星屑のような銀糸の刺繍がシャンデリアの光を反射して煌めく。背筋を伸ばし、顎を引き、視線は前だけを見据える。マダム・セリーヌの厳しい特訓のおかげで、私の歩みは王族にも劣らない完璧な優雅さを体現していた。
私の視線の先にあるのは、群衆の中で完全に孤立し、石像のように固まっている二人の女。
義母カルメラと、義妹のセルリアだ。
カルメラは血を吐いたような深紅のドレスを身に纏い、首元にはオルコット家の財産を売り払って手に入れたであろう大粒のルビーを輝かせている。セルリアは春の妖精を気取ったような薄紅色のドレスだが、今の二人の顔色は、死後数日が経過した屍のように青白かった。
私が彼女たちに近づくにつれ、セルリアの足がガクガクと震え出し、カルメラは信じられないものを見るように、扇を持つ手を小刻みに震わせている。
「……ごきげんよう、お義母様、セルリア。今宵の建国記念の夜会、お招きいただきまして光栄ですわ」
私は彼女たちの目の前で立ち止まり、貴族の淑女として最も洗練された、そして最も冷ややかなカーテシー(挨拶の礼)を披露した。
鈴を転がすような私の声が静寂の広間に響き渡ると、カルメラはビクッと肩を跳ね上がらせた。
「り、リアナ……? ば、馬鹿な……お前は、死んだはずよ……!」
掠れた、空気の漏れるような声。
その言葉を聞いた瞬間、周囲の貴族たちの間に「死んだ?」というどよめきがさざ波のように広がった。
私はふっと、小首を傾げて微笑んだ。
「まあ、お義母様ったら。ご自分達が階段から突き落とした娘が、あの程度で死ぬとでもお思いでしたの? 確かに頭を強く打ち、三日三晩生死の境を彷徨いましたが……残念ながら、神は私をまだ天へお召しにはならなかったようですわ」
「つ、突き落としただと……!?」
「でたらめよ!!」
私の言葉に、セルリアが金切り声を上げて一歩前に出た。彼女の顔は恐怖と混乱で歪み、丹念に塗られた白粉が醜くひび割れているようだった。
「嘘よ、嘘よ! こんなの、お姉様のはずがないわ! あんな、薄汚くて、無能で、家畜のように這いつくばっていた女が……こんなに美しいはずがない! あんた、誰よ! 公爵閣下をたぶらかした偽物でしょう!」
セルリアの狂ったような叫び声が広間に響き渡る。
その瞬間だった。
「――私の婚約者を『家畜』と呼び、『偽物』と侮辱したな」
ルードヴィヒの低く、地を這うような声が落ちた。
彼が冷酷な青い瞳でセルリアを射抜いた瞬間、セルリアは目に見えない巨大な手に首を絞められたかのように、ヒュッと息を呑んで後退りした。
ルードヴィヒから放たれる殺気は本物だった。彼が指先一つ動かせば、見えざる氷の刃がセルリアの首を刎ね飛ばすだろう。その圧倒的な力の差に、広間にいる全員が戦慄した。
「口を慎め、小娘。貴様が今、誰に向かって吠えているのか理解しているのか。この者は私、ルードヴィヒ・フォン・グレンヴィルが永遠の愛を誓い、生涯の伴侶として選んだリアナ・フォン・オルコット公爵夫人だ。彼女への侮辱は、当家への宣戦布告と見なす」
ルードヴィヒは私の腰に強く腕を回し、自分の胸へと引き寄せた。彼から伝わってくる確かな熱と力強さが、私に無敵の盾を与えてくれる。
『永遠の愛』という白々しい建前さえも、彼が口にすれば絶対の真実として人々の心に突き刺さるのだ。
カルメラは恐怖で歯の根を鳴らしながらも、必死に体面を保とうと前に出た。
「こ、公爵閣下……! そ、それは何かの間違いです! その娘は、我が家の恥晒し! 才能一つ持たぬ無能であり、男をたぶらかすことしか才のない悪女なのです! どうか、そのような偽物に騙されないでくださいませ!」
「あらあら、お義母様。今度は私を『悪女』と仰いますか」
私はルードヴィヒの腕の中で、クスクスと冷ややかに笑い声を上げた。
「ではお尋ねしますが、その『悪女』を、借金の一括返済と引き換えに、あの好色で悪名高いバルガス辺境伯へ金貨数百枚で売り飛ばそうとしていたのは、どこのどなたでしたかしら?」
私の言葉に、カルメラの顔色が一瞬にして灰色に変わった。
周囲の貴族たちが一斉にざわめき立つ。辺境伯の悪評は王都でも有名であり、正当な血を引く伯爵令嬢を金で売り飛ばすなど、貴族の倫理にもとる卑劣な行為だからだ。
「な、何を馬鹿な……っ! 証拠もないのに、公の場で私を陥れる気ですか!」
カルメラは扇を振り乱し、声を荒げた。
「証拠がない? ……そう。お前はまだ、自分が立っている場所がどこなのか理解していないようだな」
ルードヴィヒが、氷のように冷たく、残酷な笑みを浮かべた。
彼は軽く右手を挙げる。
それを合図に、大広間の複数の扉が同時に凄まじい音を立てて蹴り開けられた。
雪崩れ込んできたのは、銀色の甲冑に身を固めた王国軍の近衛騎士団だった。数十名の精鋭たちが、一糸乱れぬ足取りで大広間を包囲し、カルメラとセルリアを取り囲む。
突如として現れた武力に、広間はパニック寸前の悲鳴に包まれた。
「し、静まれ! これは軍務卿たる私の正式な権限による『監査』と『捕縛』である」
ルードヴィヒの声が、魔法によって広間全体に響き渡った。
彼は懐から、数枚の分厚い羊皮紙の束を取り出し、カルメラの足元へと無造作に投げ捨てた。
バサリと音を立てて散らばったのは、私が執務室から持ち出し、ルードヴィヒの財務官たちが徹夜で解析・裏付けを取った、あの裏台帳と詳細な告発状だった。
「カルメラ・フォン・オルコット。お前は長年にわたり、領地の魔物討伐予算を架空計上し、莫大な資金を横領した。さらに、その資金を王都の違法カジノの運営に充て、あろうことか、我が国と敵対するガレリア帝国の密偵への資金援助まで行っていたな。……横領、背任、違法薬物の売買、そして国家反逆罪。これらはすべて、我が国の法において死罪に値する重罪だ」
「な……っ」
カルメラの喉から、ヒューッという奇妙な音が漏れた。
足元に散らばった書類の束。そこには、彼女が絶対に誰にも見られないよう隠し通してきたはずの、すべての不正の記録が詳細に書き記されていたのだ。
「そんな……なぜ、これが……」
「不思議ですか、お義母様?」
私はカルメラを見下ろし、ゆっくりと告げた。
「私が三年間、ただただ怯えて床を磨いていたとでもお思いですか? あなたが私をゴミのように扱い、視界から消している間、私はこの屋敷のすべてを見ていました。あなたがどこに鍵を隠し、誰と密会し、どこに台帳を隠しているか……すべてをね」
「お、お母様……これ、どういうこと……? 国家反逆って……私たち、どうなるの……?」
「黙りなさい、セルリア!」
カルメラは錯乱したように叫び、周囲の貴族たちに向かってすがりつくように手を伸ばした。
「ち、違います! これは罠です! この小娘が、公爵閣下をたぶらかして私を陥れようとしているのです! 誰か、誰か助けて……っ!」
しかし、誰一人として彼女に手を差し伸べる者はいなかった。
むしろ、これまで彼女の派閥に属し、甘い汁を吸っていた貴族たちは、自分たちに火の粉が降りかかるのを恐れ、蜘蛛の子を散らすように後ずさりしている。
絶対的な権力を持つルードヴィヒが明確な証拠を突きつけた以上、カルメラに味方することは、自らも国家反逆の共犯者として処刑台に上ることを意味するからだ。
「見苦しいな、カルメラ」
ルードヴィヒは冷酷な声で死刑宣告を下した。
「オルコット伯爵領は、本日この瞬間をもって国庫に接収される。お前たちの身柄は近衛騎士団が預かり、王城の地下牢にて徹底的な尋問が行われるだろう。……連行しろ!」
「はっ!」
近衛騎士たちが一斉に動き、カルメラとセルリアの腕を力強く拘束した。
「離して! 私は伯爵夫人よ! こんなこと、許されるはずが……っ!」
「嫌よ、やめて! 私は何も知らないわ! お母様が勝手にやったことよ、私を巻き込まないで!!」
華やかなドレスを引きちぎられんばかりに暴れ、醜く泣き叫びながら連行されていく二人。
セルリアが実の母親を罵倒し、カルメラが絶望の叫びを上げるその光景は、あまりにも滑稽で、あまりにも哀れだった。
私は、その姿を冷たい眼差しで見送った。
(これで、終わりよ。私の人生を奪い、踏みにじった代償。……せいぜい、冷たい地下牢の石の床で、私が味わったのと同じ絶望を噛み締めながら生きていくことね)
大広間の重厚な扉が閉まり、二人の叫び声が完全に途絶えた時。
広間には、再び重苦しい静寂が訪れた。
貴族たちは皆、恐怖に青ざめた顔で、舞台の中央に立つルードヴィヒと私を見つめている。誰一人として、声を上げることはできない。
「……見事な手際だったな、リアナ」
ルードヴィヒが、私の耳元で低く囁いた。
その声には、冷酷な軍務卿としての顔とは違う、確かな賞賛と微かな熱が帯びていた。
「すべては、閣下の完璧なサポートのおかげですわ」
私は彼を見上げ、心からの微笑みを浮かべた。
「これで、私の価値を証明できたでしょうか?」
「ああ。期待以上だ。……お前という極上の毒を一度味わってしまえば、もう他の女など単なる水にしか思えなくなる」
ルードヴィヒはそう言うと、私の腰に回していた腕の力を強め、ゆっくりと大広間の中央へと私をエスコートした。
そして、まだ呆然としている楽団に向かって、鋭い視線を送る。
「何を休んでいる。建国記念の夜会だぞ。……演奏を奏でろ」
弾かれたように楽団が楽器を構え、華やかで優美な夜会の旋律が広間に響き渡る。
ルードヴィヒは私の手を取り、もう片方の手を私の背中に添えた。
「踊るぞ、私の美しい公爵夫人。これは、お前の新たな人生の門出を祝う、最初の舞踏だ」
「ええ、喜んで。我が君」
私は彼の青い瞳を見つめ返し、ステップを踏み出した。
シャンデリアの光の下、私たちは誰よりも優雅に、誰よりも完璧に踊り続ける。
鳥籠を噛み砕き、自由な空へと羽ばたいた私の、これが第二の人生の、本当の幕開けだった。
前世の記憶と、この絶対的な権力者の腕の熱がある限り、私はもう二度と、誰にも頭を下げることはないだろう。




