第十五番歌:梓弓抄(転)
転
村雲神社の方角が、黒い雲に覆われていた。シラクモノミコトが何らかの動きをみせているのだろう。
「アヅサユミ、目覚めて。私は、戦わなければならないの」
弓のチャームを、掌が切れるまで握る。赤黒い滴が、手すりにこぼれ落ちた。
「とみの用は、済ませたやうやの」
貸し切りの時間に、おしまいが来てしまった。研究棟の屋上は、空に近くて、まゆみの心安まる場所だった。
「あらー、土御門先生。高い所は好かん、のではありませんでした?」
「ふん、水占いに従うたまでや」
あた(暑い)、あた、と土御門は扇であおぐ。「雅」と毛筆書きされたその道具は、呪いにも用いられる。土御門ほどのベテランなら、飛行の術を以てここまですいすい上れるというのに。
「そちには、大仕事をやってもらわんとならんのや。正義の味方も一緒にな」
「あいにくですが、先に片付けなければならない問題がありますの」
「シラクモノミコトかや」
まゆみは、唇の片端だけで笑った。
「小憎たらしい態度よの。そち、神さんと取り引きするつもりやろ。ずっと昔から通じとる神さん、そちの先祖や。寄りましにするんやのうて、心を明け渡すのとちがうか」
黙る教え子に、土御門は眉をゆがめた。教え子の切り揃えられた短髪が、風にさらさらなびいている。
「安達太良嬢や、己を犠牲にしてはなりませんぞ。考えることをやめて、事の解決を急いではならん。レポート、記述問題、卒論、紀要、学会、わたしはいろいろ見てきたが、お嬢は、いつも理を突き詰めてきとった」
土御門の脳裏に、日本文学国語学科に在籍していたまゆみが映った。喪服のように暗すぎるワンピースとお下げ髪、孤独に『萬葉集』を読むもろい背中、人と関わろうとしないようにみえて、実は、人とのつながりを求めていた。本を読んでいる時は、いきいきとしていた。同級生の顔と名前を覚えていて、誰かが欠席した日は、曇りがちな顔をさらに曇らせていた。内向的で、人付き合いが不器用であったが、頑張り屋で思いやりのある学生だった。我が子と同等に、いや、それ以上に、学生達に目をかけてきた彼は、特にまゆみには思い入れが強かった。
「独りで答えを出そうとせんでええのやで。わたしが手を貸したる。取り引きはやめなはれ! そちがのうなって悲しむ者がおるのですぞ!」
「―人は、何度でも変われる」
「……!?」
「人は、何度でも変われる。変われる機会を逃しさえしなければ。先生が、卒業式にて、仰った言葉ですわ」
まゆみの全身が、白銀に輝いていた。どんな表情なのか、視覚では分からないけれども、土御門には、ちゃんと感じていた。
「私の胸に、留まっていましたの。この今が、変われる機会。私が『安達太良まゆみ』ではなくなっても、『安達太良まゆみ』がしてきたことは、出会ってきた人達に残りますわ」
ペンダントから、藤色の雲が生まれる。へたりこむ翁の後ろに、時進主任が歩いてきた。近松と、エリスが護衛に同伴していた。
「何が、あったんですか……土御門隆彬先生」
「…………神さんを降ろしよったのや」
「そうですか」
時進がエリスに、預けていた巻子本をよこすよう命じる。
「寄物陳呪……」
「おやめくださいませ。もはや呪いでは、抑えられませんわ」
老眼鏡の奥で、穏やかだった瞳が冷めたものになった。時進は、迷いなく、抗わないという決断をしたのだ。
「安達太良さん、先ほどは…………」
「近松先生、私は傷ついていませんわ。憎んでもいません。むしろ、先生の隠しだてないお気持ちを最後に聞けて、嬉しうございましたわ」
近松の傍らで、エリスが敬礼をした。上司を許してくれたことに対して。また、別れの挨拶として。
「お嬢! 考えなおしなされ、人を超えてはならん!」
「すみません、もう、引き返せませんの………………!!」
潤んだ「引き返せない」が、土御門の、自身への怒りを募らせた。
白銀の光が、まゆみの髪を地につくまで長くし、スーツを弓道着に替えて、領巾をかけた。藤色に変わった髪は、ひとりでに持ち上がり、まとめられて檀の弓矢で留められた。ペンダントは、生き物のように首を外れて、額に巻きついた。
「そちが、アヅサユミかや」
足を整え、うずくまって土御門が訊ねた。
【さやう】
透けた領巾を冬の風に舞わせて、安達太良家の先祖は子孫と寸分違はぬ声で答へた。
「お嬢は、そこにおらなんだな」
【…………我は、まゆみが望みを叶へき】
土御門は、たたんだ扇を思いきり床へ叩きつけた。アヅサユミは、彼を一瞥して、空へ振り返った。
【シラクモノミコト、時凪ぎを使ひしか】
籠手で覆った手を、墨色の雲がある方ヘかざし、アヅサユミは目を見開いた。藤色のまばゆい気が、弓と文学の神を中心にして放出される。
「時進さん、私に!」
右腕でエリスを抱き寄せ、近松は左腕を主任へ差し出す。呪いの類いなら、近松に接していれば安全だ。
【武士よ、な恐れそ。此は呪いにあらず。我の威は、皆に及ぶ】
「なに」
気を浴びて、近松とエリス、時進が蝋で固められたかのように静止した。
「神威やな。わたしは免れとりますぞ」
土御門がネクタイを引っ張り、神に示した。亭主の好きな赤烏帽子ならぬ、赤ネクタイである。
【色詠、赤の赫舟か。まゆみは、優しき女なり】
魔除けの詠唱は、神にも効果があった。行使者の念が重かったのだろう。だが、彼を取り残すわけにはいかない。
【安達太良の法にて、色詠を解かむ】
土御門は、あぐらをかいて楽にした。
「どうぞ、お好きにやりなはれ。後でかけ直してもらえるのやったらな」
【まゆみに誓ひて、汝の望み、聞き届けむ】
領巾が翁の剃髪をなで、神威を与えた。
【疾く疾く、参る】
アヅサユミは浮くと、領巾を羽衣よろしく遊ばせて村雲神社へ飛び立った。
〈次回予告!〉
【アヅサユミ ガ コノ ヤシロ ヘ キタル】
「想定していたよりも早いのだ」
【カミホフリノヤ ヲ イヨ】
「やっと……やっと殺せるのか」
―次回、第十六番歌「アヅサユミ、引く」
「まゆみねえね、長い間ひとりぼっちにさせて、ごめん。もうすぐ帰れるから。僕がアヅサユミを消すから―!」




