第十五番歌:梓弓抄(三)
三
大学の卒業式をひかえた、年の初め。食卓には、父、母、妹、私が席に着いていた。イトヨさんは、二年前に故郷へ下がった。老いのため、こなせたことができなくなってきたのだという。
母が薄皮をむいた数の子、妹が煮た黒豆(鉄釘は、祖父にゆずってもらったそうだ。ちゃっかりしている)と、私が炒った田作りが長方形の皿に均等に盛り付けられていた。紅白なますは妹が柚子をおろして華やかになった。お雑煮は、丸餅にすまし汁。父は関西、母は関東で生まれ育ったため、折衷案にしたのだ。
卯月には、私は大学院生、妹は内嶺県の私立中学校に通い、母は弓道場の師範を務める。めでたき事が重なったので、頃合いだ、と、父は自らの生い立ちを話した。
安達太良家は、この地にて、山の頂で見張り番を任されていたらしい(ここでは、先祖については片隅に置かれた)。山は、現在の村雲神社とお隣の鵯公園のあたりにそびえていた。この地の政を執っていた豪族が、弓の腕前と博識さを買ってくれたのだ。これは後で調べたのだけれど、豪族は、南―夏を司る方角を治めていたので「夏祭」と名乗るようになる。私の教え子のひとりに、その苗字の人がいる。顧問をしているサークルのムードメーカーだ。
見張り番は、ほとんど女性が担っていた。安達太良の男性および入ってきた婿は、あまり生きながらえなかったのだという。珍しく、女性が家を取り仕切る一族だった。現代になっても、まだ異色だといわれているようね。本朝は、男性が権力を握ってきた時期が永いから。
祖母は、たくさんいるきょうだいの、真ん中の子だった。父にも、母にも似ず、子を欲しがっている親戚へ養子に出される予定だったが、先代のユミが撤回した。詠唱のセンスがあったからだ。第六十二代ユミは、祖母を自身の戸籍に入らせ、『萬葉集』の手ほどきを受けた。
第六十二代ユミを看取ると同時に、祖母は新たなユミとなった。十代の娘に、大黒柱を任せられるのか? 疑念を抱いた者もいたが、ユミは詠唱で奇跡を見せて、屈服させた。夏に雪を降らせたか、昼と夜を逆転させたかしたそうだ。父は、半分作り話として聞いていた。
さて、第六十三代ユミは、二人の女児を産んだ。それなりに愛情をかけて育てたようだが、どちらも呪いを行使できなかった。女児達の父親は、先の大戦で神風となり、空に散った。祖母の時代は、ひとり親で暮らしを回すのはいみじく難かった。貧窮していた国のもと、仕える者を雇うお金をひねり出すことだって苦しい。世間の目も、きついものだった(妹と私の時代は、そこそこ生きやすい環境なのかもしれない)。祖母は、再婚した。数年後、長男が生まれる。名は、弓弦。
父親が違うせいか、弓弦は肩身の狭い思いをしていた。姉達は、何かしくじれば、出自のことをあげつらった。母親は、養育の一切をイトヨさんにさせて、関わりを持とうとしなかった。「娘ではない、術も使えない。私の恥なのです」真夜中に耳にしてしまった言葉が、弓弦の胸に杭を打った。父親は、家の重圧に耐えきれなくなり、乳児の弓弦をおいて失踪し、遺体となって、どこかの海岸で発見された。鼻緒をすげ替えるようにして、継父が来たけれども、ユミの三人目の夫というよりか奴隷だった。弓弦は、継父を「父さん」と呼ぶことはなかった。
「当家は、女が執りますゆえ、口出し無用」
実母とは、まともな会話が不可能であった。姉や近い親族、ここに古く仕えている者は、実母を盲信している。この家は、とても狭い。解放せねば。弓弦は、家を狭くさせているものの正体を知ろうと、アヅサユミを、呪いを、『萬葉集』を、究めはじめた。萬葉と縁ある内嶺の大学に身をおかせてもらっている現在も、やめていない。弓弦にとって『萬葉集』とは、安達太良にはびこる災厄であり、安達太良の因習を終わらせる鍵であり、家族を養う仕事道具であり、人々を救う薬である。
「私は、長く遠回りをした。その甲斐あって、おまえ達を幸せにできている。今年も、維持してゆきたい」
お屠蘇を皆でいただき、父は「今年の抱負」を聞いた。妹は「管理栄養士の勉強を始める」、私は「記紀歌謡の研究にも挑む」、母は「家族と道場の人達の健康に気を配る」と宣言した。酔ってご機嫌なのか、父はえびす様のお顔になっていたが、蒼白だった。
二十六歳の秋だった。父と夜食を食べにいった。空満本通りの「空満スタミナラーメン」はどうだ? と誘われたのだ。母と妹が熟睡しているうちに、街へ繰りだした。
「春彦君が、おまえを案じていた。梨の礫だと」
私達は、料理のできあがりを待っていた。「空満スタミナラーメン」略して「空スタ」は、昼は食券制、夜は口頭での注文しなければならなかった。好きな物を頼んでもよろしいとのことだったので、私は、スタミナラーメン特大とえび餃子にした。
「返事を怠っては失礼だろう」
「すみません、研究に我を忘れておりましたの……」
「次からは、気をつけなさい」
小さく「はい」と答えて、お水を飲んだ。もう、春彦さんたら! 父に報告しないでちょうだい! 師匠だからって、公にしなくても。ほら、仲を疑っているじゃないの。会いたくなったのは、院に入ってからよ。真弓先生だった頃は、別に、異性に抱くような感情なんて、まったく……。
「お待ち!」
食欲そそる朱のカウンターに、五目炒飯(小)と、私が頼んだ物が置かれた。
「お父様、具合が悪うございますか? いつもの、ではありませんでしたわ」
食べ盛りの時より足繁く通っていた父は、スタミナラーメン大・煮卵のせとチャーシュー丼を「いつもの」としていた。
「炒飯の気分だったのだ。ここのは、絶品だ」
五十の祝いを境に、父は、私と妹にごはんを分けるようになった。皆の三倍は召しあがっていたというのに。ひもじくしている私に、無理して付き合っているのか。いいえ、邪推してはダメよ。
『いただきます』
韮、白菜、玉ねぎ、にんじんなどの野菜が、ごま油で活気づいている。醤油ベースのスープに、アクセントのにんにく・唐辛子が、固めの麺にからまり、箸を加速させてゆく。合間に、一個につき一尾の芝エビがくるまれた餃子で、甘味を補う。
「美味しいか」
「はふ、はっ、はい」
「炒飯、食べさしだがあげよう。たらふく食べねば、軟弱な論文になる」
「ありがとうございます」
思いのほか多く残していて、やった、と若き私は幸せに浸っていた。不惑を迎えて、振り返る。父は五目炒飯に口を付けていなかったのではないか。食欲は、生命力に結びつく。父の魂は、相当削れていたのだ。
「おまえは、何色になれたか?」
スープをすする寸前に、父が訊ねた。喉に、骨が引っかかった感じがした。ああ、浪人の私に、そんな「呪い」をかけましたね。
おまえは、何色でもない、中途半端な人間だ。
「…………過去を蒸し返すとは、お父様らしくありませんわね」
「未だに、見えぬのだ。おまえの色が」
私の言っている事が、聞こえなかったようだ。目線は、天井にある。お父様、私はそこにいませんわ。
「生まれが、生まれだったものか、私には人の色が解った。当主は滅紫、姉達は江戸紫と京紫、千鶴は東雲色、なゆみは島に行くまでは鼠色だったが、進学して桔梗色に変わった」
父は首を右に動かした。疲れているのか、悲しいのか、乾いた瞳が私をとらえた。
「解らぬ。おまえの色が、まったく解らぬ……。おまえは、何者なのだ」
突っ伏したはずみに、コップが倒れ、父と私の間に水が流れた。店員が雑巾を持って駆けつける。もう一人の店員が、新しい水を運んできてくれたが遠慮した。
「眠くなったようです。失礼いたしますわ」
私の財布でお勘定を済ませ、のれんをさっとくぐった。
「まゆみ……おまえは……おまえは…………」
本通りを抜けても、「おまえは何者なのだ」「まゆみ」「おまえの色が解らぬ」をぼやいていた。詠唱で小人にしなくても、肩を貸してやって家まで送れた。父は、重さも減っていったのか。この世に踏みとどまる力が、残りわずかだったのだ。
十二年前の神無月、父は五十八歳でこの世を去った。身体に悪いところは見つからなかった。心を病み、衰弱していったのである。母は「たくさん話をしたので、大丈夫」と働きまわり、妹は父の床にしがみついて、犬のように泣きわめいた。
【弓弦よ……】
アヅサユミは、枕元に座って、寝かしつける真似をした。神様も、穢れに触れると良くないのだそうだ。
【遠き道のり、げにつらきものを】
「そうね、家族のために、耐え忍んで、闘ってきたの」
妹を別室に休ませて、私は父の顔をもう一度見た。
「あまり、安らかじゃないわね……」
望みをやり遂げられなくて、悔やんでいらっしゃるようだった。千、万の矢を受けて痛がっているようにもうかがえた。
【笑ひて、黄泉に行かせたし…………】
袖を濡らすアヅサユミ。白かったのに、うっすら赤く染まっていた。
「ねえ、アヅサユミ」
私は、服の内に隠していたペンダントを表に出した。
「これだったら、あなたの力を揮える?」
アヅサユミは、人間をいみじく信頼していた。ゆえに、人間の信仰心が力の源になった。昔は存分に使えたが、信仰心が薄くなってきた現代では、姿を現すだけで精いっぱいの状態だ。たとえるなら、飽きるほど食糧があって、元気いっぱいだったのが、食糧の確保がままならなくなって飢えている、ようなものだ。
私の信仰心で保っているアヅサユミに、私の宝物をたづきとして力を使えるようにする。父の想いがあり、弓矢の形をしているため、まさにおあつらえ向きである。
【汝は、弓弦を蘇らせむとするか】
「ええ。ペンダントじゃダメなら、私を寄りましにして」
【汝、咎を行うか。人を外れるか】
「禁じられていても、私は望むわ。手でも足でも、命だってあげる」
アヅサユミは説く。命を操ることは「人を外れた行い」である。アヅサユミが代わりに償ってやりたいのだが、私が望みを叶えると決めたため、咎を行った者は私のみ、となる。償いは、身体や命を失うことではない。人間ではなくなり、人間ではない存在にも至れない、間におかれて生きること。「殊なる力」を宿し、得体の知れないものとなって、果てしなく「在る」こと。魂がやつれても、自決はできない。この世を離れさせてほしいと、神や自然、人に乞うても、課せられた境遇と力を免除してもらえない。来るか来ないか分からぬ許しの時を待つほかなし。黄泉に旅立つよりも、生前の罪を贖うため責苦を受けるよりも、厳しいが、それでも父をこの世に戻すのか。
「良いわ。父は、長生きするべきなのよ。帰ってきたら、母と妹が喜ぶわ。だって、おかしいじゃないの。遠回りしてきた人は、その分、幸せになれないなんて。父は、これから幸せに生きるのよ。家のあらゆる枷を壊してきたんだから。私が、父の終焉を覆す!」
【しかと、聞きたり。我は、汝に力を貸す】
「ありがとう。さあ、望みを実現しましょ!」
アヅサユミは藤色の光球に変化し、弓矢のチャームに収まった。やや力を揮うのに心もとないというので、私の身体も貸した。
【百と四十四の年を経て、我は現に顕れたり!】
私とアヅサユミは、黄泉へ行った父の魂を、ここに眠る体に「引き」戻したのだ。
父が、息を吹き返した。顔色はよろしくないけれど、食べれば直るわ。「空満スタミナラーメン」の「いつもの」を出前で取りましょ。
「お父様! お帰りなさいませ!」
手を握ったものの、振り払われた。渾身の力を込めて、父は眉間にしわを寄せた。お怒りになっている……。私は姿勢を正した。
「……おまえは、人として行ってはならぬことをした」
父の声に、熱が入っていない。蘇って間もないためだろうか。叱るのなら、力強くなさ
って。
「一度、黄泉に旅立った者を、現世に引き戻してはならぬ……。命には遅かれ早かれ、終
わりがあり、それにはいかに力を尽くしても逆らえぬこと、おまえには度々教えてきたも
のだ。分かるな」
「はい……」
なゆみちゃんみたいに、遠慮なく泣きたかった。父が、再びこの世にいられるようになったのよ。だけれど、我慢しなければならないの。涙を流していたら、情けないと思われる。黙っていたら、涙に負けちゃう。それに「分かるな」とくれば「はい」なのよ。
「そうならば、なぜ」
「お父様がいなくなると、皆が寂しく、この家が真っ暗になるからですわ!」
分からずやな親だわ! 人間を辞めてまで、私は、私は!
「私は、お母様達の笑顔が続くように、お父様を蘇らせたのです! お父様だって、まだまだ長生きされるのを望まれていますわ。研究の道を、これからも進んでゆきたいと仰っていたではありませんの!?」
早い別れじゃないの……。『萬葉集』だって、惜しんでいるわ。私、お父様に見ていただきたいのよ、私の色。おどろおどろしくなっていなければ、ありがたいのだけれど。
「私は、私は、皆が幸せになれると思って…………!」
「……もう良い」
「お父様」
ほんの少しの間、お父様の目に、光があった。太陽は射していない。雪は時期が先だ。純粋な、白だった。
「おまえの気持ちは、ありがたかった。誇りに思う……。だが、いかねばならぬ。黄泉へ帰ろう」
夢の続きに潜るように、まぶたが閉じられる。やめて。お父様の帰る場所は、このお家よ!
「お父様! おやめください! いや、行かないで!」
握らせてくれた手が、ひんやりしていっている。ああ……脈が、止まって…………。
【黄泉へ、旅立ちき。口惜しきことなり】
「そうね……。いみじく口惜しいわ…………え?」
この声は? 誰なのか思い出すのに、数分かかった。
「アヅサユミ、だったわ。そばに、ついていたのね」
【まゆみ……】
「あなた、いっそう薄くなっていない? やだ、私ったら、眠れなかったせいで、目がかすんでいるのかしら」
【ひさしく力を使ひしゆゑ】
ほっとしては、ならなかった。若いと、楽天的に物事をとらえやすい。あの日、力を使わせたせいで、アヅサユミは「在ること」が危うくなっていたのだ。
【……口惜し。弓弦は、生く事を、拒みけり。汝、胸痛しや】
「ええ、できるなら、この咎を忘れてしまいたい。咎に至ったいきさつまでも」
私の行いは、消せない。けれど、閉ざしてしまえば、二度父を失った悲しみを、やわらげられる。
【さやうか】
「いつか、欠けを満たして。いい年になれば、どおんと構えられるわ」
引きずり回してごめんね。ご先祖様に伝わっていたのか、清らかなまなざしで私を見つめてくれた。
【いざ、汝がおもひで、うち払はむ】
当主の持ち物だった部屋に、白き布が降りてきた。私は、布を力いっぱいつかむ。意識が、家を突き抜け、雲を越えて、天へ。
「ありがとう、アヅサユミ」
二十八歳、私は父・弓弦を亡くした。心に太い矢が刺さり、穴が空けられた。母と妹にも、少なからずあると思う。私の穴は、なかなかふさがらなかった。「欠け」になっていたのだ。私は、欠けが怖くなり、何者なのか分からず、原稿用紙と自分を重ねて、文字で満たしていった。私を、助けて。私には、色が無いの。霍公鳥のごとく、血を混じらせて啼いて、物語を上梓した。『五色五人女』だ。十二年後、物語に似た女の子達に出会い、いい年になり、欠けを満たしてゆくのである―。




