第十五番歌:梓弓抄(二)
二
十三歳の誕生日をとうに過ぎても、私の名前は「安達太良まゆみ」のままだった。
安達太良の習わしに、父が終止符を打ったのだ。家の事には口を出さず、萬葉学者として生計を立ててきた父が、実母である当主にひと言申したのだ。
「因習は終わらせる、家の長はこの現代には要らない」
物言わずの子に、初めて逆らわれ、当主は心の臓を病んだ。十四歳の春、第六十三代安達太良ユミは、この世を去った。初七日の前夜に、二人の叔母、祖母を支持していた一部の親戚、祖母が直に雇っていた使用人が、次々と亡くなった。原因は、不明。ユミを失い、よりどころを無くし、生きることに絶望したのかもしれない。我が家を表面的にしか知らない人々は「息子が陰謀を企てたのではないか」といやらしく、面白おかしく、噂をしていた。父にそんな大それたこと、できるわけないのにね。御霊前を包むのだけは、ご立派なんだから。
主が「要らなくなった」安達太良家は、父と母、私と、父の乳母の四人になった。妹は、去年、母方の祖父母が住む離島へ渡った。祖母と叔母によるストレスで、喘息を患ったのだ。療養を兼ねて、当分養育されることになった。私は、あまり会っていないけれど、祖父は医者、祖母は元小学校教諭なのだそうだ。この二人になら、妹は健やかに育つだろう。
叔母達が、妹につらくあたっていた事実に、驚いた。私に対しては、おもちゃとお菓子をくれて、お風呂にも入れてくれた。大きい叔母は、山登りで遭難して助けられたものの、夫と子どもは帰らぬ人となった。小さい叔母は、病気のため妊娠できなくなったので三行半を突きつけられた。出戻った両者は、悲しみ嘆く様子はなく、けろりとしていた。本当は、痛みを無理して耐えていたのであろう、子どもにやつあたりするぐらいに。
「ねえねに、生まれたかった」
母と特急に乗る前に、妹が口惜しそうに言っていた。きょうだいが苦しんでいたというのに、私は『萬葉集』にかまけていた。自分は特別な存在、と酔いしれる暇があったのなら、妹を守る術を詠うべきだったのだ。ごめん、などではすまない。私は、何も声をかけられず、彼女を見送った。
「おまえは、おまえの望むようにやりなさい」
父が、憎かった。安達太良ユミへの矢を折った人が、偉そうな口をきく。火だるまにしてやろうか、かまいたちで八つ裂きにしてやろうか、花弁で喉をふさいでやろうか。実行しようと思えば、たやすく命を奪えたが、祖母に「家の者の命は、あやめてはなりません」とかたく約束されたので、こらえた。
「当主は、欠けても、絶える事はないわ。アヅサユミ、私が第六十四代ユミよ。安達太良弓弦に仕切らせて、たまるものですか」
【まゆみ……】
起きている限りは、『萬葉集』を読んだ。巻第一、二、三……細胞のひとつひとつにしみわたらせるように、歌を暗誦した。中学校の授業なんて、そっちのけだった。
【年の同じき者と、学ばぬか。いと疎かなり】
「テストで点を取っておけば、文句ないわ。わざわざ話の合わない人達と付き合う必要はないでしょ。ああー、もう、巻第十六だけが、なかなか覚えられないわ!」
呪いを行使できない人と、同じ心になれるものか。私は、安達太良を背負う役割があるのだ。社会の都合良い人材に仕立て上げられるのは、勘弁だわ。
「お祖母様が仰っていたわね……。巻第十六は、癖のある術が集まっている。解釈が揺れる、未し巻」
【しかし、秘めたる力ある巻なり】
「ひが事じゃないわよね?」
【我は、偽りせぬ】
腕組みして、アヅサユミはそっぽを向いた。
「はい、はい。信じるわよ。秘めたる力ねえ…………テストの答えが丸わかり、できそう?」
【をこ!】
領巾ではたかれた。先祖は、努力を怠る子孫には、厳しい。
「第三八二七番歌 一二の目 のみにはあらず 五六三 四さえありけり 双六の頭……まんまサイコロじゃないの。お猿でも作れるわ。きゃ!」
サイコロの滝が落ちてきた。
「アヅサユミい……!」
仕返しに袴を踏んづけようとしたものの、サイコロで滑ってみっともない姿をさらしてしまった。お家の中でも、重ね履きはしよう。
中学・高校と学問をおろそかにしていたのがたたり、大学浪人が決まった。周りはキャンパスライフに胸を弾ませて、桜吹雪に寿がれているだろう。灰色の十九歳、父を破れず五年が経った。
私は、予備校へ通わず「タクロー」をしていた。自宅浪人の略だ。決して、とある著名なバンドの首領ではない。予備校の代わりに、家庭教師がついた。父の弟子だ。文学よりも柔道で名を馳せそうな、熊のような男性だった。ちょっとやそっとの風で倒れやしない体をしているわりに、内面は繊細であった。身寄りが無いことが、彼を畏縮させていたのだ。好き放題評しているけれども、彼とは後に、生涯を共にする。私をとことん理解し、年ごとに形を変えつつも愛の焔を絶やさぬ、宇宙一の主人だ。
「英語と数学、習熟度が急上昇しましたね。古典は、私が指導する事項はありません」
術を行使しなくたって、曲がりなりにも問題を解いていけば、それなりの成果は得られるものだ。古典は、高校の先生と相性が良かったから、ぐんぐん伸びた。補講でサイコロの和歌を教えてくださった麻裳芳紀先生。空満大学のご出身だと伺った。
「お父様が、終わったらまゆみさんをお部屋に、と。協力してもらいたい事があるそうです」
「ええ……分かりましたわ」
父が私を頼ろうとしている? すっぽかすつもりだったけれど、お弟子さんまで叱られるかもしれなかった。父は、普段だんまりしておいて、かんしゃく持ちだ。
「お父様、まゆみです」
『国歌大観』を三冊開いて、原稿用紙のます目を埋めている最中だった。父は、手書きで論文、を貫いた。「キーボードを叩いた文字には、思考の跡が残らない」らしい。ただの機械音痴をごまかす口実だ。
「そこにかけなさい」
来客用のスツールを動かして、私は言うとおりにした。
「テーブルに胡桃があるだろう。凍らせてもらえるか」
当然、冷凍庫に持っていくのではない。術をかけろ、ということだ。
「凍詠・巻第十三・第三二八一番歌 わが背子は 待てど来まさず 雁が音も とよみて寒し ぬばたまの 夜も更けにけり さ夜更くと 嵐の吹けば 立ち待つに わが衣手に 置く霜も 氷にさえわたり 降る雪も 凍りわたりぬ 今更に 君来まさめや さなかづら 後も逢はむと 大舟の 思ひたのめど 現には 君には逢はず 夢にだに 逢ふとみえこそ 天の足り夜に」
胡桃は、乳白色の殻に覆われた。
「呪いの大学があれば、引っ張りだこだったろうに」
だまらっしゃい。父は、万年筆のふたをはめて、私の前に腰を落ち着けた。
「まゆみ、呪いを解く方法を知っているか」
「行使者の意思で解除するか、行使者の魂が尽きるか、の二通りですわ」
「正解。しかし、あくまで従来は、だ」
万年筆が、氷づけの胡桃を指す。
「さし鍋に 湯わかせ子ども 卓上の 白く凍れる 胡桃に浴むさむ」
胡桃から湯気がのぼり、りんごの皮がらせん状にむかれるように、氷が溶けていった。でも、テーブルは濡れていない。凍っていた事実が、無しにされたのだった。
「お父様も、詠唱を…………!?」
「私は、呪いを行使していない。萬葉の歌を下敷きに、凍詠を解いた」
父は、原稿用紙を押さえつけていた『補訂版 萬葉集 本文篇』を取り、ぱらぱらとめくった。へたにつまもうとすれば、ほろほろ破れそうである。
「巻第十六、第三八二四番を解法に当てはめたのだ」
「長忌寸意吉麻呂の歌ですわね。狐の声を詠んだという……。下の句を替えただけではありませんの。なぜ、私の術が……」
「巻第十五・十六は、付録として扱われている。とりわけ、巻十六は俗の要素が強い。即興のもの、宴の場で思い浮かんだもの、親しき人をからかうもの。これらの効果を用いて、呪いを『笑い事』とし、払い落とせるか。幾度も試し、成功した」
呪いを「笑い事」にして、かけられた効果を落とす。ですって……? そのようなものが完成したら、呪いが「無」になってしまうではないか。
「まゆみ。呪いは、祝ぐためにある。決して、鬼神、物事、人に厄をふりかけるために行使してはならぬ。解法は、誤った行使をした呪いを取り去る薬だ。私は、命あるうちに、解法を全きものにする」
父の考えは、憎らしくも、私の考えに限りなく近かった。お先に言葉で表現されて、悔しい。私は、父に負けていたのだ。
「解法が出来たら、おまえに託す。おまえは、呪いを正しく行使できる。災厄に苛まれる人々を、一人でも多く、心安くするのだ」
実の親らしいことをあまりしないで、いきなり重いものを渡して。安達太良弓弦は、自分本位な大人だ。腹立たしいはずなのに、私は、目をそらせなかった。父の瞳が、半分、別の世を見ていたのだ。あの頃から、父の魂はすり減っていたのだと思う。
父が編み出した解法は、数年後に形になり、私の恩師により「安達太良解法」と名付けられる。
父は、長年、安達太良の因習と闘ってきたのだ。朝早くに出勤して、教壇に立ち若人に萬葉・記紀歌謡・漢文を教え、研究活動にいそしみ、家族の中で最後に玄関をくぐり、零時まで書物を読む、を繰り返しながら、着々と鏃を研いでいたのだ。
「母さんの名前は、漢字でどのように書くか知っているか」
日曜日の午後、新聞をたたんで父が訊ねた。母はちょうど実家に帰っており不在だった。今ごろ妹とお菓子作りを楽しんでいるであろう。今月は、フルーツ白玉だったか。
「千の弦、で、ちづるでしょう」
名に「弦」を持つ者どうし、馬が合ったのでしょ。私は、鼻を鳴らしてさしあげた。
「残念。それは、当主が改めさせた字だ」
「お祖母様が? そんな」
「おまえは、手元だに暗いのだな」
なによ。わざと音をたてて台所へ行進し、牛乳をおかわりした。父の乳母が「私がお注ぎしますから……」と駆けつけたが、無視した。
「母さんは、婚姻前に『千の弦』と改名させられた。本当の字は、『千の鶴』。クレェン、鳥の鶴だ。当主は、弓と縁がある名でなければならぬというこだわりがあった」
「安達太良千鶴…………」
名前を一文字変えさせられて、母はどんな気持ちだっただろう。愛する人と添えるのなら、千弦として生き直して構わない、という心境に至るまで、道のりは長かったのではないか。
「来週、役場に届け出に行く。母さんは、弓の『のろい』がやうやく解けるのだ」
「良き事ですわね」
父は、乳母に扇風機の風量を弱めるよう命じた。
「さて、おまえの妹についてだ。『なゆみ』の由来は当主から聞いたか」
「全然、伺っておりません」
「どおりで、術が上達するわけだな」
言い方というものがあるでしょうが。父はさぞや職場で煙たがられているにちがいない。
「『那』の『弓』、当主は明言した。『那』は、多い・たくさんある、の意。この子は、数多ある弓のひと張りにすぎず、代わりが利く。と」
「え……………………」
孫に付ける名前じゃないわ、お祖母様。生まれたばかりの妹へ侮辱しているものよ。完璧な安達太良の長、のイメージが、虫に喰われてゆく。
「なゆみが、叔母さんから知らされて、食事を拒むようになった。私は由来を転換した。『那』は、ゆったりしている状態も指す。おまえは、ゆったりした弓、戦なき世の弓、何人も射ることなく、糸を鳴らして魔を払い、幸を祈る者……」
「お得意の解法のようですわ」
父は頬をかいた。恥ずかしい証だ。咳払いをし、冷やし飴で喉を湿らす。
「私は、千鶴、なゆみの厄を落としたつもりだ。あとひとり、まゆみを安達太良の呪縛より解いてやりたい」
風鈴が、乾いた音色を奏でた。
「詠唱は捨てなくとも良い。おまえがつかみ取った力だ。だが、おまえは安達太良に留まることは無いのだ」
「わっ……私は、次のユミに選ばれた人間です。もうこの際、お父様の跡継ぎでもよろしいですわ、私にも家を守らせてください」
目と口を閉じ、父は小さく横に首を振った。
「まゆみ。おまえは、いづちへも旅できる。この家は、狭い。外へ出よ」
「お父様!」
「おまえは、まだ、何者にもなれる」
そう残して、父は自室へ戻られた。
「お父様……お父様」
白き袖が、私の肩にかかった。
【心に任せて、生きてみよ。まゆみ―】
「何から始めれば、外へ出られるの……?」
アヅサユミの藤色の髪が、虹につやめいていた。
【たやすし。足を前にせよ、汝が心の足を】
「私の、心の足……」
【己がために。汝を思ふ人々がために。まゆみは、独りにあらじ】
ユミお祖母様、私にだけは「良き主」でいてくださった。次の主だから、大切にしてくださったのだろうけれど、私はあなたに感謝している。千鶴お母様、なゆみちゃん、修練ばかりで向き合わなくて、ごめんなさい。千の鶴、どんな病気もたちまちに治りそうですね。ゆったりした弓、本物の弓なんかよりも役に立つわ。叔母様がた、父の乳母・イトヨさん、真弓先生、私の人生に携わってくれて、嬉しい。
弓弦お父様、皆にかけられた呪いを解こうと奔走していらしたのですね。確かに、あなたは親でした。見直さざるをえません。
翌年、第一志望には手が届かなかったけれども、空満大学文学部日本文学国語学科に合格した。捨てる神あれば拾う神あり、先人は的を射たことわざを考えたものだ。