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第四章/4

第四章/4



 俺は科学準備室にいた。十畳程度の狭い長方形の部屋で、壁を覆うようにしていくつものガラス戸の棚が並んでいる。中には実験器具や薬品がしまってあるのが見える。

 棚のむかい側には事務用デスクや実験室にあるのと同じ台が置いてあり、資料や参考書が積んである。実験器具もいくつか置いてあった。部屋の奥には外に面した窓や、実験室につながるドアなどがある。


 武山先生は主に科学を担当している。「いたずらに他の生徒の耳に入ってもよくないから」と、ここに招かれたのだ。

 最初は個人の事情だからと渋られてしまったが、今朝弥子からきいた内容を話すと、そこまで知っているなら仕方ないか、と了承してくれた。


「まあ、適当なところに座んなさい」


 いわれ、俺は近くにあった丸椅子を、事務用デスクのわきに持ってきて腰をおろした。


 武山先生は四十代後半の割には老け気味で恰幅のいい男性なのだが、それが白衣や眼鏡、実験室とよく合っていて、いかにも科学者といった貫禄がある。


 ふんふんと小さく鼻唄をうたいながら(機嫌が良いとかではなく一種の癖のようで先生はふだんからよくそうしている)、いくつかの実験器具を持って近場の実験台のまえに移動する。

 アルコールランプを取り出して台のうえに置くと、マッチを擦って火をつけた。そして三脚と金網をセットする。


 次に棚から茶色い瓶を取り出す。よく見るとそれは市販のインスタントコーヒーの瓶のようで、スプーンで中の粉末を取り出し、数杯、ビーカーの中に移した。

 さらにポットでお湯をそそいで、先程のアルコールランプのうえにセットする。


 ビーカーコーヒーの様子を見ながら、先生はおもむろに、

「昨年度の姫宮の件は、事情が深刻でな。当時のクラスメイトにも詳しい内容は話さなかったんだが……。お前と鳴河は、姫宮が教室に来られるように頑張ってくれているみたいだし、伝えておく。弥子にはお前の口から伝えておいてやれ」


 はい、と俺は頷く。ちなみに弥子は来週おこなわれる文化部発表会での演劇部の練習が大詰めで、放課後に時間をつくれないそうだ。同じ文化部でもとくに発表のない科学部とはえらい違いだ。


 先生は「多少、お前の知っている内容と話が前後するかもしれないが」と前置きして、語りだした。


「私が姫宮の担任になったのは去年――つまり二年生の頃からなんだが、昔の姫宮は目立つような生徒ではないものの、素直で落ち着きがあって成績も良い、いわゆる『いいこ』だったんだよ。すこし臆病だったり、自信なさげな部分はあったがね。

 ところが、昨年度の冬休み――正確には十二月二十七日の夕方頃だったらしい。姫宮の家で火災があった。原因ははっきりとはわからない。ただ警察の話では出火元は家の中だったらしく放火の線はうすい、事故だろうということだ。一軒家で隣家なんかもなかったから周囲に燃え移るということはなかったものの、姫宮の自宅は全焼した」


 ここまでは弥子からきいた話と同様だった。


「それだけでも、姫宮にとっては充分にショックで辛いことだったんだろうが――」


 武山先生はアルコールランプの火を消すと、棚から紙コップをふたつ取り出して台に並べ、ビーカーで温めたコーヒーを順に注いだ。


「まあ飲め。インスタントだが、これがけっこう美味いんだ」


 ひとつを俺のまえに置き、もうひとつはじぶんで口にする。ひと口飲んでから、思い出したように、

「このコーヒー、他の生徒や先生には口外しないようにな」


「ああ、はい。わかりました」

 そうこたえたきり、俺がコーヒーに手を出さずにいると、


「どうした、コーヒー用に使っている綺麗なビーカーだから大丈夫だぞ。リトマス溶液が混ざってたりなんかはしないから安心しろ」

 武山先生はくっくと笑う。


 そういうつもりではなく、あまり物を口にする気分ではなかっただけなものの、せっかく淹れてくれたものだしと俺はコーヒーを口にした。


 温かくてほろ苦い。ふつうのインスタントコーヒーだが、実験室のビーカーで淹れたという雰囲気の補正でなんとなく味わいがあるような気はした。


「それじゃあ余談だが、松木。リトマス溶液を染み込ませた試験紙を、アルカリ性の液体に浸したらどうなる?」


「え。……ええっと」


 突然の出題に俺は面食らって言いよどむ。


 俺は科学部に入ってはいるが、べつに科学好きでもなんでもなく、むしろ苦手な方だ。M中学は部活動強制加入だったので、なし崩し的に活動日数の少ない科学部を選んだだけなのである。


「あれですよね、赤と青の二枚の紙で色の変化をチェックするやつ」


 リトマスという言葉の響きが印象的だったので授業で習ったことじたいは覚えている。酸性かアルカリ性かを判別する試験紙だ。だが……色の変化までは覚えていなかった。アルカリ性の場合は青だったか、赤だったか……考えれば考えるほど、こんがらかってきてどっちがどっちだかわからなくなってくる。


「赤! いや、青? あれ、赤……うーん」


 花びらが多すぎる植物で花占いをはじめてしまった女の子みたいに赤か青かで右往左往した挙句、けっきょく、わかりませんと答えた。先生は哀しそうに「はあー」と溜め息をついた。


「お前なあ、仮にも科学部だろう」


 ちなみに科学部の顧問は武山先生が担当している。俺のふがいなさで、さぞかしガッカリさせてしまっただろう。


「もう少し勉強しとけ。答えは自分で調べるか、鳴河にでも教えてもらうんだな」


「はい……」


 俺は泣く泣く頭をさげる。


「さて……。話を戻そうか」


 大きく息をつくと、武山先生は沈痛な面持ちで紙コップの液面を眺め、コーヒーをすする。うむ……と、いいあぐねているようだった。


 リトマス紙の問題も一種の時間稼ぎだったのだろう。先生の中でも事実を告げるタイミングを計りあぐねている、そんなふうに見えた。


 やがて、先生は口をひらいた。


「さっきもいったように、姫宮は火災で家を失った。だが失ったのはそれだけじゃない。姫宮のご両親がな、亡くなったんだよ。その火災で」


「…………」


 俺は無言で、ただ無意味に頷くことしかできなかった。でもそれは予想外の事実に言葉を失ったというわけでもなく、むしろ、なんとなく、本当になんとなくではあるが予感していたことではあったのだ。


 薄々、嫌な予感はしていて、でもそうであってほしくないという希望にすがりたくて見て見ぬふりをしていたが、やはり受け入れるしかないのだと正面から現実を突きつけられて何もいえなくなってしまった、そんな気分だった。


「姫宮はご両親との三人家族だったから、本人の負担も大きいだろうということで、葬儀は親族のみで慎ましやかに行われた。家族葬というやつだ。まあ、親戚もそれほど多くなく、本当にごく少数で行われたようだがね」


「……いまは、姫宮さんはどういう暮らしをしているんですか」


 姫宮さんの事情に俺がどこまで踏み込んでいいのか。もうこれ以上、姫宮さんのことを探るようなことはやめたほうがいいんじゃないか。そう思いながらも、止められなかった。


「親戚の管理しているアパートが学校に通える範囲内にあってな。そこで一人暮らししているようだ。中学を卒業するまでは、ずっとそうするつもりらしい」


「そうですか……」


 俺は下を向く。どこにぶつけていいのかわからない、やりきれない気持ちが溢れてきて、知らず知らずのうちに、ぐっと制服の裾を握っていた。


「おそらく――」


 武山先生は立ちあがると窓の方へと歩いていく。


「本人は何も話してくれないが、姫宮がとじこもるようになったのは火災と両親の死、それが大きく関わっているのは確かだろう。最初の数週間は学校にも来なくてな。顔を見せたのは二月になってからだった。そのとき姫宮は『第一音楽室に行かせてほしい、できればずっとそこにいたいんだ』と申し出た」


「そうだったんですか……」


「最初は悩んだし、どうして第一音楽室を選んだのかもわからなかった。だがね、火災の件もあって相当まいっているだろうから、学校に来てくれるというだけでも嬉しかった。もともと成績の良い子だったから、ちゃんと学力を維持できるように勉強することを条件に、特別に保健室登校扱いとして校長先生から許可を貰ったんだよ」


「…………」


「うむ……」


「…………」


 また、長い沈黙があった。


 先生はおもむろに「換気でもしようか」と窓をあけると、外を見ながら煙草を吸うように深呼吸した。きっと生徒の俺がいなければ、実際に煙草を吸っていたかもしれない。


「話がじゃっかん脱線するが――」


 先生はふだん授業をするときのような口調で、話を切り出した。


「私が卒業生のクラスを担当するときにはね、卒業式のあとの最後のホームルームで必ずする話というのがあるんだよ」


「話?」

 俺がオウム返しにきくと、先生は「ああ」と頷き、


「感動ものの映画を見たり、本を読んだとき、どうしてひとは泣くんだと思う? とね」


「それは、感動したから……ってそれじゃ答えになってないですよね」

 じぶんでいって苦笑した。リトマス試験紙について説明しろと問われてリトマスで試験する紙ですと答えるくらいに安直だ。


 先生は「ふふ」と小さく笑って、

「まあ、間違ってはいないぞ。ただ、もうすこし具体的に説明しないと……テストだったら厳しいな」


「それじゃあ……」

 俺は色々と考えながら、

「悲しい目にあってる登場人物を見て可哀そうと思って泣くとか、逆にハッピーエンドで救われて、嬉しいと思って泣くとか……」


「そうそう、そんな感じだ」


 先生は頷きながら、説明を付け加える。


「こういった『感動によって人が泣くメカニズム』っていうのは平たくいえば『その内容に共感できるかどうか』なんだよ。「このひとの気持ちわかるなあ」とか「この経験、自分にもあったなあ」もしくは「いま正に、自分はこれだ」みたいに、自分の心境と、その物語の内容がリンクしたとき、ひとは泣くんだ」


「なるほど……」

 たしかにそれはその通りかもしれない。俺はああと頷き、

「失恋したばかりの子が別れの曲を聴くとか、練習のきつい運動部に入っているひとが熱血スポーツものを見るとか、そういう感じですか」


「そうそう。他にも少女が一児の母になる物語を、若い女の子やもしくはすでに主婦となったひとが見るとかね。それらは全部、自分に重なる部分があるから。その内容と自分とを重ねて、自分のことを考えたり、思い出したりして泣くんだ。けっして映画の登場人物に同情しているんじゃない。どんなときも、ひとは自分のために泣くんだよ」


 先生はもう一度すーっと外の空気を吸うと、窓を閉めた。


「だからほら、もし好きなひとが泣いていたらもらい泣きしてしまうかもしれないが、嫌いなひとが同じ理由で泣いていたとしても涙は出てこないだろう。それは、自分を相手に重ねたいと思っていないからだ」


 そうかもしれない、と俺は先生の問いを再度、自問自答しながら頷いていた。


 先生は実験台のうえに置いたコーヒーを手にとって、ひと口すする。


「歳を取ると涙もろくなるというが、それは何も身体機能の衰えというわけでもなくてね、長く人生経験を積んだぶんだけ、他者に対して『共感できるもの』というのが増えていくんだよ。それはすなわち『自分が泣いてしまうポイント』というのが増えるということになる」


 俺は先生の動作につられるように、紙コップのコーヒーを飲んだ。先生は続けて、


「反対に子どもはよく「ぼくは全然泣かなかったもんね」なんて『泣かなかった強い自分』もしくは『みんなとは感覚の違う風変わりな自分』をアピールしたりするが、それは単純にまだ人生経験が乏しいから共感できるものが少ないというだけなんだ。

 たとえば梅干しの画像を見ただけで口の中に唾液が溢れてくるのは、梅干しの酸っぱさを知っているひとだけだろう? 梅干しを知らない外国人に梅干しの絵を見せても、唾液の分泌の反射は起こらない。それと似たようなものだ」


 俺は無言のまま、しかし真剣に耳を傾けて先生の言葉を聴いていた。


 先生はコーヒーがなくなったようで、紙コップをゴミ箱の中に捨てると、結論付けるようにいった。


「だから、きみたちは泣ける人間になりなさい。弱虫になれという意味じゃない。たくさんの経験を積んで、たくさんの苦労や喜びを知って、ひとの気持ちに共感できる大人になりなさい」


 先生は照れくさそうに笑うと、

「――そういう風にね、卒業生には話すことにしているんだ」

 ゆっくりとこちらへ歩いてくる。


「姫宮が教室へ来られるようになることは私も願っていることだ。この話を最後のホームルームで話すとき、その生徒たちの中に姫宮がいることを、私も望んでいる。だからお前と鳴河が姫宮のためにと働きかけてくれるのは担任としてとても嬉しい。頼もしい限りだよ」


 黙ったままでいる俺の肩にそっと手を置いた。


「ただね、姫宮をあの第一音楽室から引っ張り出して、教室に来たという見かけだけを繕っても問題は解決というわけじゃない」


 そして、ぽんと俺の背中を叩く。


「さあ、課外授業は終わりだ。良い成果を期待しているぞ」

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