第32話(第2話):断絶の系譜、あるいは仕組まれた忘却の因果
放課後のサークル室。
ホワイトボードに書きつけられた『戦後教育というシステム』という文字の前に、佐藤は立っていた。
御剣怜が眼鏡の奥の瞳を冷徹に光らせ、手元の資料を一枚、指先で弾く。
「洗脳の構造を暴くと言っても、ただ『戦後教育が悪い』と抽象的な正論を叫ぶだけでは、有権者の胸には一ミリも刺さらないわよ。聴衆が自分の日常と地続きの危機として捉えられるだけの、生々しい因果関係の線が繋がっていなければ、ただの事実の羅列で終わるわ」
「ああ、分かっている。陳列すべきは点ではなく、一本の強固な因果の線だ。近藤さん、先ほどのおばあさんのお父様――戦後直後に『こんな嘘の教育はやってられん』と教師を辞められた方の言葉を、もう一度正確に反芻してくれ」
近藤さんが私服の袖を握りしめ、静かに、しかし確かな記憶を辿るように口を開いた。
「はい。その先生は亡くなる間際、『これから日本の民主主義は後退する。戦後教育が持ち込んだ偽物の民主主義がはびこり、日本人がその嘘に自力で気づくまでに、少なくとも六十年はかかるだろう』と、深い憂慮を遺されたそうです」
「その『六十年かかる』という予言の着弾点が、まさに俺たちの生きる現代であり、俺の十年来の元友人が放った『天皇陛下っていなくてもいいんじゃない?』というあの一言なんだよ」
佐藤の言葉に、サークル室の空気が一気に引き締まった。
先輩が腕を組み、ホワイトボードの文字を凝視する。
「……どういうことだ、佐藤。老教師の遺言と、お前の元友人の軽い一言が、どう繋がるんだ?」
「因果関係は完璧に繋がっている。あのおばあさんのお父様が命懸けで拒絶したのは、昨日まで『日本は素晴らしい』と教えていた教科書を、敗戦を機に一斉に黒塗りにさせられたあの狂気だ。歴史も、神話も、二千六百年の伝統もすべて『悪』だと教え込めと命じられた。その時、お父様は見抜いていたんだ。歴史という『國の背骨』を奪われたまま、借り物の『偽物の民主主義』だけで育てられた子供たちは、自分が何者であるかの誇りを失い、物事を損得や目先の利益だけでしか考えられない『空っぽの人間』になる、とね」
佐藤はホワイトボードに、戦後直後の黒塗り教科書から現代へと続く、一本の長い矢印を引き下ろした。
「その『空っぽの教育』を最初に脳髄に流し込まれた被害者が、今の団塊の世代であり、その親に育てられたのが俺たちの友人や家族だ。学校は二千六百年の法秩序の重みを教えず、メディアは目先の保身だけを煽る。その結果、何が起きたか。十年間も一緒にアニソンを歌い、趣味を共有してきた俺の友人が、ある日突然、何の見識も思想もなく『天皇陛下っていらなくない?』と口にした。彼は悪意で言ったんじゃない。戦後教育のプログラミング通り、伝統の価値を『何も教えられなかった』から、ただ純粋に、自分の日々の生活に損得関係がないものは消えても困らないという、おぞましいほど浅薄な『短期保身脳』に仕上がってしまっていたんだ」
そこまで一気に語り、佐藤はホワイトボードのペンを握ったまま、ふっと床を見つめて肩を落とした。
その横顔に、いつもの冷静沈着な鉄の仮面ではない、深い落胆と苦悩の色が滲む。
「……だけどな、何より俺が一番落ち込んだのは、そんなありえない言葉を真っ向からぶつけてきた元友人に対して、当時の俺には、それをその場で一から説明して論破できるだけの圧倒的な知識がなかったということだ。悔しかった。日本人としての誇りはうっすら持っていても、相手の無知を木端微塵に粉砕する武器が自分になかった。だから、あいつが去った後、俺は血の滲むような思いで必死に勉強した。そして今、もしあいつが目の前に立ったら、俺はこう問いかける」
佐藤は弾かれたように顔を上げ、劇的な光を宿した瞳を仲間に向けた。
「『じゃあ、お前がもし日本ではなく、隣の中国や、あの北朝鮮に生まれてそこの国民だったと仮定してみろ。国家権力という独裁者が国民を力でねじ伏せ、人権も命も紙切れのように扱われるその国に、もし日本のような“天皇陛下”という、あらゆる政治権力を超えた道徳の絶対的中心が存在していたとしたら、その国の秩序や、国民が世界から受ける敬意、そしてお前自身の生存の安全がどれほど劇的に違っていたと思う?』……とな。この問いを突きつけられたら、あいつは一言も返せない。自分が今この日本で最初から平和に、自由にいられる根源に天皇陛下という万世一系の防衛システムがあることを、何一つ想像すらしていないからだ。この、自分が体験した『一から説明できなかった悔しさ』と『中国や北朝鮮という国家の残酷な仮定』こそが、聴衆を沈黙させる本物の弾道になる」
近藤さんがハッと息を呑み、スマートフォンを持つ手を震わせた。
「繋がった……。だから私の家族も、高校生が川で亡くなった痛ましいニュースを見ても、命を惜しむ私の心の叫びに共感できず、『プールでも人は死ぬ』というクイズの正誤判定みたいな屁理屈を返してきたんだわ。おばあさんのお父様が予言した『偽物の民主主義』の正体は、これなんだ。自分で深く思考する骨を抜かれ、他人の命の尊さも、國の歴史への敬意も、すべてを『損か得か』『自分が正しいか否か』という、幼児のような主権争いでしか捉えられない人間を大量生産するシステム。それが八十年経った今、この国に完全に完成してしまっているんだ……」
サークル室に、圧倒的な納得感とカタルシスが満ちていく。
御剣怜が眼鏡の位置を指で軽く直し、静かに佇まいを正した。
「この事実の線なら、どんな有権者であっても胸を突かれるはずだわ。お年寄りの遺言という遠い歴史の話と、私たちが本気で直面してきた『中国や北朝鮮のディストピアの現実』、そして身近にいる『話の通じない友人や家族の不気味さ』が、戦後教育という一本の毒の線で完全に結ばれたわね。私たちが日常の中で感じていたあの『まともな会話が成り立たない居心地の悪さ』の正体は、八十年前に仕組まれた忘却のプログラムの成果だったのよ」
「そうだ。点として散らばっていた身近な違和感が、一本の太い因果として結合した」
佐藤はホワイトボードのペンを置き、冷徹な視線を仲間に向けた。
「話の数は多くなくていい。この『老教師の遺言』から『友人の無知』、そして俺が味わった『落胆と、大陸の独裁国家を想定した逆転の問い』へと至る一本の強固な因果の弾道こそが、眠れる十万人の脳髄に『お前たちの脳は去勢されている』と気づかせる、最大にして唯一の衝撃波だ。無駄な引き延ばしは一切排する。この一本の確信を持って、俺たちは街頭へ打って出る」
佐藤の宣言とともに、サークル室の空気は、すべての日常の違和感を国家の病理へと昇華させた、一撃必殺の宣戦布告の場へと完全に切り替わった。
本作をここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
作中で佐藤が語る「歴史という背骨を奪われ、物事を損得や目先の利益だけでしか考えられない空っぽな人間になる」という戦後教育の病理。実は、これこそが私(作者)自身の幼少期からの考え方そのものであり、恥ずかしながら、かつての私自身の生々しい姿でもありました。
かつての私は、物事をすべて損得のデジタルでしか考えられず、そこにしか価値を見出せない人間でした。それが世界の「本質」だと思い込み、周囲からは愛情がないと嫌われ、孤独にのたうち回っていました。
高校の時、部活の女性の先輩から「このままでいいのかな」と恋の相談を受けたことがあります。同じ部活の男性の先輩と付き合っている彼女の切ない悩みに対し、当時の私は冷酷に「別れたらゼロ(損)でしょ。付き合っていれば維持(得)だ。付き合っている方がいいに決まっていますよ」とデジタルな計算式を吐き捨て、先輩をポカンとさせました。
何日か経った後、先輩から「あなたに相談して良かったわ」と言われました。私が「なんで?」と聞き返すと、先輩は本当の理由を言ったら私が傷つくと思ったのでしょう、答えに詰まってしまい、「……なんか忘れたけど、良かったわ」とだけ言ってごまかしたのです。
当時の私には、何のことだかさっぱり分かりませんでした。ですが、後々によーく考えて、ようやく気づいたのです。先輩は、私という「愛情の欠片もない冷たい人間」を目の当たりにしたことで、自分がどれほど相手に愛を持って接しているかという幸せを悟ったのだと。私はただの、寂しい反面教師でした。その時に味わった底知れない虚しさは、今でも胸に深く刻まれています。
学校でも親からも習わなかった日本の本当の歴史や法理を、15年という長い歳月をかけて一から必死に勉強し直し、自分の足りない脳を1ミリずつ再構築してきたのは、その「空っぽの地獄」から這い上がるためでした。
自分自身がデジタルな損得の檻に閉じ込められていたからこそ、目先の保身(短期保身脳)だけで国益を売り渡す現代のシステムや政治家どもの姿が、見ていられないほど恐ろしく、そして許せないのです。私が人生をかけて手繰り寄せた本物の執念の背骨を、これからも一文字ずつ本編へ注ぎ込んでまいります。この熱き因果の線を、ぜひ最後まで見届けていただければ幸いです。




