勇者から全てを奪い返す
渓谷に沿った細い道を、アメリは俯きながら歩いていた。
両手には冷たい手枷が嵌められている。鎖が鳴るたび、胸の奥が沈んだ。もう三時間は歩かされている。足の裏はじんじんと熱を持ち、喉はからからに乾いていた。
前を行くワタナベが、ようやく立ち止まる。
「この辺で昼にするか」
その声に、アメリは少しだけ顔を上げた。切り立った岩肌の下には浅い川が流れ、風が渓谷を抜けていく。景色は綺麗だった。けれど今のアメリには、何も見えていなかった。
お兄ちゃんはどうなったのだろう。
昨夜の光景が頭に浮かぶ。血まみれで倒れた兄の姿。骨の折れる音。壊されていく体。喉の奥が詰まった。
ワタナベとヨシダは、村から奪った食料を岩の上に広げていた。干し肉にチーズ、果物にパン。小さな村ではそうそう見られないほどのご馳走だ。二人は酒まで取り出して、上機嫌に笑っている。
「おい、シスター」
ワタナベがアメリを見た。
「お前にも飯をやるよ。ありがたく食え」
そう言って放り投げてきたのは、器に残っていた冷えた飯だった。地面に落ちた拍子に砂利が混じり、白い米粒が土にまみれる。
残飯を見つめるアメリを見て、ワタナベは嫌らしく口元を歪めた。
「手は使うなよ。這いつくばって、口だけで食べろ」
アメリは黙って、それを見つめた。昨日、湖で釣った魚を思い出す。二匹しか釣れなかったのに、お兄ちゃんは笑っていた。
『今焼いて食って、夜はどっか連れてってやるよ』
そう言ってくれた兄の顔が胸を刺す。
アメリは小さく首を振った。
「……あなたたちに貰ったものなんて、いりません」
空気が止まった。
「ふーん」
ワタナベが立ち上がる。
次の瞬間、アメリの腹に強烈な蹴りがめり込んだ。
「かはっ……!」
体がくの字に折れ、その場に膝をつく。胃の中のものがせり上がり、呼吸がうまくできない。
ワタナベはそんなアメリを見下ろして、面白がるように笑った。
「気が強いな。ご褒美に面白いことを教えてやるよ。……あの村はなぁ、今ごろ山賊に襲われてる。お前の大好きなお兄ちゃんも、もうこの世にいないかもな」
アメリの体がびくんと震えた。
その言葉が胸に刺さる。
「……うそ」
声が出なかった。喉が引きつくだけだった。
ワタナベはさらに笑みを深くした。
「嘘なもんか。後でごちゃごちゃ騒がれても面倒だからな。俺は後片付けはきちんとしてるんだ」
アメリはその場に崩れ落ちた。
嫌だ。そんなはずない。けれど、あの体で立ち上がれるはずがない。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが崩れた。
「あぁ……いやっ……ぅぁあああぁぁー!!」
渓谷に絶叫が響き、ぽろぽろと涙が落ちる。
「やっぱり弱い奴が絶望する顔は最高だぁぁ……」
ワタナベが涎を垂らしながら、恍惚とした表情で言った。
「興奮したら食事だけじゃ物足りなくなってきたな。そろそろこっちの世話もしてもらおうか」
虚ろな目をするアメリに、ヨシダが背後から抱きついた。
「勇者様、今度はすぐ壊さないでくださいよ。私もじっくり楽しみたい」
下卑た笑い声が耳にまとわりついた、その時だった。
――ゴッ。
鈍い音が響いた。
ヨシダの頭が横から弾け飛び、血と肉片を撒き散らしながら崩れ落ちる。
「……は?」
ワタナベが目を見開く。
アメリも何が起きたのか分からず、ただ呆然とした。渓谷の上から、小さな石がころりと転がり落ちてくる。
その先に、人影が立っていた。逆光を背にしたその姿がふっと跳ぶ。次の瞬間、目の前に影が落ちた。アメリは瞳を見開いた。
「……お兄、ちゃん……?」
息を整えながら、まっすぐアメリを見た。血に濡れた道の上、その声音だけが不思議なくらい穏やかだった。
「遅くなってごめんな」
唇が震える。夢じゃない。本当に、お兄ちゃんだ。アメリの目に、先程とは違う涙が滲んだ。
「お兄ちゃん……!」
ワタナベが叫んだ。
「な、なんで生きてる……!」
だが、すぐにその顔は怒りと嘲笑に染まる。
「はっ、そういうことか。また新しいペットを連れてきてくれたのか」
視線がシオンへ向く。白と青の法衣をまとった聖女は、一歩前に出て静かに告げた。
「教会の名において、あなたを討ちます。勇者ワタナベ」
ワタナベは鼻で笑って、舌なめずりをした。
「……聖女か、こっちもいい女だ。お兄ちゃん、ペットの礼だ。まずはお前を二人の前でぐちゃぐちゃに殺してやるよ」
シオンが手をかざす。金の髪が風に揺れ、澄んだ声が渓谷に響いた。
「蒼雷よ、罪ある者を穿て。天を裂きし裁きの槍――《ブルー・ボルト》」
青白い雷光が一直線に走る。
だがワタナベは、片手でそれを払い落とした。雷が弾け、火花となって散る。
「所詮お前らはこの程度だ」
その時、俺は一歩前に出た。
「シオン、下がってろ。こいつは俺がやる」
ワタナベが口元を吊り上げた。
「そう来ないとな。圧倒的な格の違いを知るといい」
勇者は剣を抜き、自分の体へ次々と魔力を巡らせる。
「《聖躯強化》」
「《剛力解放》」
「《神速加護》」
光がその体を包み、筋肉が膨らみ、足元の砂利が弾け飛ぶ。見せつけるような強化だった。
アメリが息を呑む。
ワタナベは大仰に剣を掲げた。
「喰らえ! 《神斬断剣》!!」
振り下ろされた剣から光の斬撃が放たれる。轟音と共に地面が裂け、土煙が高く吹き上がった。
「ヒャハハハ! Sランクの剣技だ。勘違い兄貴には勿体無かったかなぁ?」
だが、煙が晴れた時、ワタナベの顔色が変わった。
「……大層な名前だからどんなもんかと思ったが。お前と同じで、すごいのは肩書きだけか」
歪んだままの笑みが、僅かに引きつった。
「なに……? 小細工でもしたか!」
すぐに怒鳴り、再び剣を構える。
「なら次はこれだ! 勇者秘奥――」
馬鹿なやつだ。まだ俺が待つと思っているのか。
次の瞬間、俺は距離を詰めてガラ空きの腹に拳を捩じ込んだ。
「ごぶっ!?」
ワタナベは盛大に胃の中を吐き散らし、その場に膝をついた。すかさず髪を掴み、膝を顔面に叩き込む。
血と鼻水を撒き散らして、勇者が後ろに尻餅をついた。
「がっ……! あり得ない……! 俺は、勇者だぞ……!」
ふらつきながらも立ち上がり、剣を拾う。
だが遅い。
「《瞬動》!」
俺は先に踏み込み、剣を構える前に顔面を殴りつけた。ワタナベの頭が大きく揺れ、歯が飛ぶ。
「どうした? これが勇者か? さっき殺した野盗より歯応えがないな。強さも、中身もゴミ以下だ」
ワタナベの顔が怒りに染まる。
「ふざけるな! 俺を誰だと思ってる! こんな薄汚いガキ一人のために、俺に楯突いていいと思ってるのか!」
「……黙れ」
薄汚いガキ。憎悪が体の奥から湧き上がってくる。俺はワタナベが落とした剣を拾い上げると、そのままワタナベの左足に突き立てた。
ザシュッ。
「ぎゃああああっ!」
絶叫が渓谷に響く。
俺は感情を抑えたまま、静かに言った。
「勘違いするな。お前みたいなゴミに、俺の妹は触らせない」
そのまま右足を踏み砕く。
ゴキンッ、と乾いた音がした。
「ぁ、ああああああっ!!」
ワタナベは悲鳴を上げながらのたうち回った。ずっと他人を踏みつけて笑っていた男が、地面に這いつくばって涙と鼻水を垂らしている。
俺はその姿を一瞥し、静かに告げた。
「アメリに土下座して詫びろ」
ワタナベは歯を食いしばった。顔は茹でられたように赤くなり、噛んだ唇から血が滲んだ。
だがもう抵抗する力は残っていない。
ゆっくりと、這うようにアメリの方に進む。
「……す、すまなかった……」
「聞こえない」
ワタナベの肩が震える。
「アメリ……さん……! 許して、ください……!」
ついに額を地面へ擦りつけた。
アメリは目を見開いたまま、黙ってその姿を見つめていた。
もう見る価値もない。俺は身体を屈めると、剣をワタナベの前へ放り捨てた。
「一緒に帰ろう、アメリ」
その時だった。
「死ねえええっ!!」
土下座していたはずのワタナベが、転がっていた剣を拾い、背後から斬りかかってきた。アメリが悲鳴を上げる。
「本当に馬鹿なやつだ」
俺は振り返らなかった。
ただ片手を上げ、迫る刃を止める。
刃は指先で止まり、それ以上ぴくりとも動かない。
「なっ……ち、力が入らない……」
ワタナベの顔が恐怖に引きつる。
今更気付いたのか。力に溺れたやつの末路だ。
その瞬間、シオンが一歩踏み出した。
「――裁きです」
白い閃光が走った。
ワタナベの胸を貫いた光は、背後の岩肌まで焼き焦がして消える。勇者の体がびくりと震え、剣が手から零れ落ちた。
「……ば、かな……俺は……勇者……」
そう言い残してワタナベは崩れ落ちた。
次の瞬間、その体から熱が流れ込んでくる。
「っ……!」
思わず息を呑んだ。
戦いの中で奪った力とは比べ物にならない。濁流みたいな力が全身へ流れ込み、骨の奥まで満たしていく。
だが、今はそれどころじゃない。
俺はすぐにアメリのもとへ駆け寄った。
「アメリ!」
シオンも隣に膝をつき、そっと手をかざす。
「癒しの光よ、安らぎを」
淡い光に包まれ、アメリのこわばっていた体から少しずつ力が抜けていく。虚ろだった瞳に、ようやく色が戻った。
「……お兄ちゃん」
次の瞬間、アメリは堰を切ったように泣き出し、俺にしがみついた。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん……! ほんとに……来てくれた……!」
「ああ……もう大丈夫だ。遅くなって悪かった」
強張っていた胸の奥が、ようやくほどける。間に合った。アメリの細い肩を抱きしめると、いつもの匂いがした。
そんな二人を見つめていたシオンが、静かに口を開く。
「やりましたね、アインさん。あなたの方がよほど勇者に見えましたよ」
顔を上げる。
「シオン、ありがとう。君は俺たちの恩人だ。なんて言葉を尽くせばいいのか分からないよ」
シオンが一瞬微笑んだ。だがすぐに俺の目を見返して、小さく首を振った。
「……ワタナベのような者は各地にいます。異世界から召喚され、強大な力を与えられた転移勇者たちです。全員が全員ではありませんが、中にはああして力を振りかざし、好き勝手をしている者もいる」
そして、倒れ伏すワタナベを一瞥した。
「ちなみに、彼はその中でも最弱に近い部類です」
「……まだ、いるのか」
俺は目を見開いた。最弱といっても、昨日はまるで歯が立たなかった。山賊とヤマダの力を簒奪していなかったら、かなり危なかったかもしれない。
シオンはうなずいた。
「だからお願いします、アインさん。これからも私と一緒に戦ってください」
俺はアメリを見た。シオンの気持ちにはもちろん応えたいが、今さっき危険な目に遭ったばかりの妹を置いてはいけない。だがこのまま見過ごせば、どこかでまた誰かが同じ目に遭う。
迷っている俺に、アメリが涙の跡を残したまま微笑んだ。
「……お兄ちゃん、行きたいんでしょ」
「アメリ」
「今度はボクがお兄ちゃんの背中を押す番です。でも、もう守られるだけは嫌です。ボクも一緒に行きます」
俺は目を丸くした。
「危ないんだぞ」
「分かってます。でも、お兄ちゃん一人で行かせる方が嫌です。言ったでしょ? お兄ちゃんのご飯は、ずっとボクが作るって」
そう言うと、またアメリが抱きついた。
「……分かった。ただ、俺の側を離れるなよ」
「えへへ。お兄ちゃん……大好き」
俺は頬を染めるアメリの頭を撫でた。
そしてシオンへ向き直る。
「シオン、改めてありがとう。そしてこれからも、よろしく頼む」
「礼には及びませんよ。これからは共に戦うのですから」
渓谷を抜ける風が、三人の髪と衣を揺らす。
妹は取り戻した。だが、これで終わりじゃない。もう二度と、あんな顔をする誰かを見たくなかった。
俺は勇者の剣を拾って、自分の腰に刺した。
「行こう」
アメリとシオンがうなずく。
そうして並んで歩き出した。次の勇者がいる場所へ向かって。
ここまでありがとうございました。
そして全国のワタナベさんとヨシダさんごめんなさい、実際の異世界ではきっと良い人達です。
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