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 古着屋の扉を開けた瞬間、干した布の匂いと、わずかな埃の気配が鼻をくすぐった。嫌な匂いではない。陽にさらされた布の、どこか温い匂いだ。


「まあ、マリサじゃないの。久しぶりねえ」


 店の奥から顔を出した女将に、姉は笑顔で手を振ると、私の背中を軽く押した。


「妹の服を探しに来たの」


「まあ……この子が?」


 女将の視線が私を捉えた瞬間、逃げ場はなくなった。


 気づけば棚から次々と服が引っ張り出され、私は試着室へと押し込まれていた。

 狩衣、ワンピース、チュニック。

 着替えて出るたびに、二人の声が弾む。


「ほら、動きやすそう」

「でもこの色、街でも映えるわね」

「せっかくだから、もう少し華やかにしなさいよ」


 耳が落ち着かない。尻尾も、言うことを聞かない。

 ――狩衣だけでいい。そう思っていたはずなのに。


 明るい青のワンピースを着て出ると、二人の目がそろって細くなった。


「……似合うじゃない」

「ええ。森の子って顔じゃなくなるわねえ」


 鏡の中の私は、知らない誰かみたいだった。

 狩人の私ではない、ただの女の子。

 胸の奥が、ちくりとする。


「男物の服、借りてるんでしょう?」


 姉が何気ない調子で言った瞬間、胸の奥を見透かされた気がした。


「返すだけじゃつまらないでしょ。

 少しくらい、“ちゃんとした姿”を見せてあげなさい」


 ちゃんとした姿、なんて。

 何を言い返せばいいのか分からず、私は視線を逸らした。


 結局、狩衣一式と、水色のワンピースが袋に収まった。

 支払いまで済まされてから抗議しても、もう遅い。


「たまには、姉らしいことさせなさい」


 そう言われると、何も言えなくなる。


 街路に出ると、視線が刺さる。

 狩衣のときより、ずっと露骨な視線。


 俯いて歩こうとした私の腕を、姉がそっと引いた。


「大丈夫よ。

 可愛いから見られるの。恥ずかしがることじゃない」


 その言葉に、胸の奥がわずかに軋んだ。

可愛い、なんて――森で生きてきた私に、縁のない言葉だ。


 食堂に戻ると、仕込み中の義兄が手を止めた。


「……リオナか?」


 その一言で、顔が熱くなる。


「ほら、似合ってるでしょ」


 姉の声は、からかうようで、でもどこか誇らしげだった。


 私は袋を胸に抱きしめる。

 狩衣の重みと、水色の布の柔らかさ。

 どちらも、今の私にはまだ少しだけ“居心地が悪い”。


 ――でも、いつまでも森の格好のままではいられない。

 それが“誰の隣に立つためなのか”を考えないまま、

 袋の中の水色の布を、私は指先でそっと撫でた。



**************




 商業ギルドを出たところで、青司は無意識にリュックの底を探った。

 指先に触れるのは、空の感触だけ。用意してきた薬は、一本残らず捌けた。


 代わりに、腰のポーチが重い。

 歩くたび、銀貨と銅貨が微かに鳴って存在を主張する。

 ――ちゃんと、稼げた。

 胸の奥に、小さな手応えが残った。


 石畳を進むと、黒猫の看板が夕暮れの光を弾いている。

 猫の影は、今にも動き出しそうに揺れていた。


 扉を押し開けた瞬間、木の匂いと煮込みの湯気が絡み合って鼻を打つ。

 奥では大柄な男が包丁を振るい、まな板に小気味よい音を刻んでいた。


「奥、空いてる」


 短い声。だが、追い払う響きではない。

 青司は頷いて席につく。


 ほどなく水と果物が置かれた。

 喉を潤した途端、身体の力が少し抜ける。

 ――と同時に、胸の奥に引っかかるものが残った。


 ……リオナが、いない。


 視線を巡らせる。

 猫人族の耳も、尻尾も見当たらない。

 この店は彼女の姉の店だと聞いていた。なら、なおさら不思議だ。


 果物をかじる。甘い。

 だが、噛み切る音だけがやけに大きく感じられた。


 ――遅れているだけだ。

 そう思おうとするのに、理由もなく胸がざわつく。


 ポーチの重みを、無意識に指で確かめる。

 今日、初めて“街で稼いだ金”。

 誰かに見せたくなるほどの成果なのに、

 見せたい相手が、ここにいない。


 青司は背もたれに寄りかかり、扉の方へ視線を戻した。

 外の喧噪が、遠くに聞こえる。


 ――早く来いよ、リオナ。

 今日は、ちゃんと胸を張れる土産話があるんだ。


 胸の内でそう呟きながら、彼はもう一口、果物を齧った。




**************



 久しぶりに、義妹のリオナが顔を出した。


 扉を開けた瞬間、マリサの耳がぴくりと動いた。

 次の瞬間には、目を潤ませて駆け寄っていく。

 ――まったく、どれだけ心配してたんだか。


 森で狩りをして暮らす妹だ。

 怪我をすることも、病に伏すこともある。

 顔を見せない週が続けば、不安になるのは無理もない。

 それでも、こうして無事に戻ってきたときのマリサの顔を見ると、

 こっちまで胸の奥がゆるむ。


 ……だが。


 抱き合った拍子に、俺はすぐに気づいた。

 リオナの服が、妙に大きい。


 肩が落ち、裾が余っている。

 布地も、縫い目の癖も、見覚えがない。

 狩衣でも、街の服でもない。

 ――男物だ。


 一瞬、胸の奥にざらりとしたものが残る。

 あいつ、誰かに世話になってるな。


 その違和感に、マリサも気づいたらしい。

 リオナを見下ろし、首を傾げる。

 次の瞬間には、耳をぴんと立てて目を輝かせた。


「この子の服、買いに行くわ。見てのとおり借り物みたいだし」


 有無を言わせぬ調子で言い切り、

 リオナの腕を掴んでさっさと外へ連れ出す。

 嵐みたいな二人の背中を見送りながら、俺は苦笑した。


 ……相変わらず、思い立ったら一直線だ。


 仕込みに戻った直後、扉の鈴が鳴った。

 入ってきたのは、見慣れない若い男。


 歩き方がぎこちない。

 視線が落ち着かず、店の中を一通りなぞるように見ている。

 胸元に光るのは――商業ギルドの証。


 外から来た商人、か。

 いや、商人にしては、ずいぶん頼りなさそうだ。


「奥、空いてる」


 そう告げると、素直に頷いて席についた。

 水とベリーを出すと、喉を潤しながらも、

 落ち着かない様子で扉の方を気にしている。


 ――誰か待ってるな。


 そのとき、男がこちらを見上げた。


「……ここは、猫人族の女性がやっている店なんですか?」


 一瞬、胸の奥がひくりと動いた。

 名指しはしていない。

 だが、“誰を探しているか”は、なんとなく察しがつく。


 ……なるほどな。

 あの借り物の服の主は、こいつか。


 俺は盆を持ったまま、男の顔をもう一度、じっと見た。

 まだ若い。

 だが、どこか必死な目をしている。


 ――面倒ごとの匂いがする。

 しかも、どうやら“うちの家族”を巻き込みそうな類だ。

 俺は内心で、深く息を吐いた

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