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リオナ視点
古着屋の扉を開けた瞬間、鼻をくすぐるのは干した布の香りと、少しの埃っぽさ。それでも嫌な匂いではなく、太陽と風にさらされた布地の温かみを感じさせる匂いだ。
店の奥から、丸みを帯びた体型の女将さんが顔を出す。
「あらまあ、マリサじゃないの。久しぶりねえ」
「女将さん、元気そうでよかったわ。今日は妹の服を探しに来たの」
そう言って、姉がぐいと私を前に押し出した。
「妹さん……? あら、可愛らしいじゃないの」
女将さんが目を細める。
その瞬間から、私の居場所はもう決まってしまった。
姉と女将は並んで店の棚を漁り、狩衣やらワンピースやらを次々と持ってくる。
「これは動きやすいわよ。森に出るならぴったり」
「でもこの色味なら、街でも悪くないと思うの」
「いやいや、せっかくだからもっと華やかなのも着せてみたいわね」
気づけば私は、半ば強制的に試着室へ押し込まれていた。
まず渡されたのは、落ち着いた色合いの狩衣。丈も袖も私に合っていて、動きやすい。――正直、これで十分だった。
だが、姉と女将は満足しない。
「ほら、次はこれ。明るい青のワンピース、絶対似合うから」
「ちょっと待って、狩人にワンピースなんて……」
「いいから!」
着替えて出ていくと、二人の目がきらきらと輝いた。
「ほら見て、やっぱり似合うじゃない」
「耳と尻尾の色に映えて、可愛らしさが増してるわよ」
耳が勝手にぴくぴく動き、尻尾が落ち着かない。視線を床に落としても、二人の熱は冷めない。
さらに淡い緑のチュニック、刺繍入りのベスト、腰に巻く布……次から次へと差し出され、私は着せ替え人形と化していった。
「ふふ、普段は森で野宿なんでしょ? たまにはこういう格好もしなさい」
「誰かに見せてやりたいくらいねえ」
女将と姉の笑い声が店に響く。
私はというと、頬を赤くしながら袖を直し、裾をつまみ、どうにも落ち着かない。
――でも、鏡に映る自分の姿を少しだけ見てしまった。
狩人としての私ではなく、ただの女の子みたいな姿。
胸の奥がむず痒くなるのを、必死に知らん顔でやり過ごした。
着せ替えが何巡目か分からなくなった頃、姉が腕を組みながら真剣な顔で私を眺めていた。
「……うん、やっぱり狩衣は必要よね。森で暮らすんだから動きやすさは大事だもの」
そう言って棚から落ち着いた灰緑色の狩衣を引き抜き、私に持たせる。――それで終わりだと思った。
けれど次の瞬間、姉の視線はさらに奥へと向かった。
「でもね、リオナ」
姉はにやりと笑い、鮮やかな布地を手に取る。
「男物の服を貸してくれた人に会うんでしょ? ただ返すだけじゃつまらないわ。ちょっとは可愛く見せてあげなきゃ」
「か、可愛くって……!」
耳がぴんと立ち、尻尾がぶわっと膨らむ。
「別にそんな必要……」
「必要あるのよ!」
姉がぴしゃりと断言する。
その勢いに押され、私は口をつぐむしかなかった。
そこに女将さんが口を挟む。
「でもねえ、この男物の服、一昔前のデザインだけど、いい生地を使ってるわよ。手触りもしっかりしてるし、大事にしてる人なんじゃないかしら」
私の頬が熱を帯びる。――セイジの顔が頭をよぎる。
「……だ、だからって……」
「じゃあ決まりね」
姉と女将は顔を見合わせ、にっこり笑った。
それからは嵐だった。
明るいベージュのスカートに淡い青のチュニック、腰を締める布飾り。試着室に入るたび、私はただの狩人から別人のように姿を変えさせられていく。
鏡に映る自分が、どう見ても“女の子”にしか見えない。耳も尻尾も落ち着かず、視線を合わせられない。
「ほら見て、女将さん。リオナって、こういう色も似合うでしょ」
「ええ、背がすらりとしてるから、少し大人っぽい服も映えるわねえ」
「ふ、ふたりで何を楽しんでるのよ……!」
声を上げても、ふたりはお構いなし。
最終的に、狩衣一式に加えて、控えめな刺繍の入った淡い水色のワンピースが選ばれた。落ち着いた色合いながら、私が着ると妙に柔らかい印象を与える。
「狩衣はもちろん買うけど、こういうステキな服も一着は持っておきなさい」
姉がにっこりと笑って言う。
私が言葉を探す間に、女将と姉は支払いまで済ませてしまっていた。
「ちょ、ちょっと! 私、自分で払うから……!」
「いいの。たまには姉らしいことさせなさい」
マリサの柔らかい笑顔に、胸の奥がぎゅっとなった。
袋を抱えた私は、耳を赤くしながら俯くしかなかった。
――まさか、こんなふうに振り回される日が来るなんて。
袋にしまった狩衣を片腕に抱え、私は街路を歩いていた。今日は――よりによって、水色のワンピース姿で。
……視線を感じる。背中に突き刺さるような、男たちの目。
狩衣のときですら、じろじろ見られて嫌な思いをすることがあったのに――今はもっと強く感じる。
耳がぴくりと震え、尻尾が落ち着かず揺れる。私は俯いて足早に歩こうとした。
「リオナ」
隣を歩く姉が、そっと腕を取って立ち止まらせた。
「大丈夫よ」
目を見て言われ、思わず瞬く。
「可愛いんだから、見られて当たり前。恥ずかしがることも、嫌がることもないの」
「……でも」
言いかけて、唇をかむ。
(可愛いなんて……からかわれてるだけだ……)
そう思うのに、姉の言葉は妙にあたたかく胸に残る。
「嫌な目を向ける人もいるわ。でもね、見てくれる人がみんなそうじゃない」
姉はそう言って、私の耳の根元を軽く撫でた。小さい頃からの癖だ。
「リオナは狩人のときもかっこいい。でも、こうして可愛らしくしてる姿も私は大好きよ」
胸がじんと熱くなる。言葉にできなくて、私はただ耳を伏せてうつむいた。
姉は何も言わず、私の腕を軽く引いて歩き出す。
やがて食堂に戻ると、仕込みに追われていた義兄がこちらを見て、思わず手を止めた。
「……リオナか?」
驚きの色を浮かべて、目を丸くする。
私は恥ずかしさのあまり姉の後ろに隠れた。
「もう……やっぱり似合わない」
「似合わなくなんてないわ。ねぇ?」
マリサが笑って義兄に同意を求める。
「ああ。よく似合ってる」
その言葉にさらに顔が赤くなり、耳が火照る。
「やめてよ……!」
尻尾がバタバタと地面を叩き、私は居心地悪くうつむいた。
それでも――隣の姉の手のぬくもりは、嫌じゃなかった。
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青司視点
商業ギルドの取引を終え、青司はリュックの重さを確認した。中身はすっかり空になり、用意してきた薬はすべて売れてしまった。代わりに腰に下げた小さなポーチがずっしりと重く感じられる。銀貨と銅貨が、確かな重みで存在を主張していた。
街の石畳を歩きながら、青司はふと黒猫の看板が目に入った。小さく描かれた猫の影に、夕暮れの光が反射している。
――ここだ、リオナと待ち合わせた店。
扉を押し開けると、店内には木の香りと料理の匂いが混ざった、どこか懐かしい雰囲気が漂っていた。奥では大柄な男が夕方の営業に向けて仕込みの真っ最中だ。包丁を握る手元に神経を集中させ、汗をかきながらも無駄のない動きで野菜や肉を切り分けている。
青司は少し緊張しながら入り口付近に立つと、男はちらりと顔を上げ、無言のまま青司を認めた。
「奥の席で、少し待っていてくれ」
言葉にはぶっきらぼうな響きがあったが、声の底にどこか温かさを感じた。青司は頷き、言われた通り奥へ進む。座ると、程なくして男は水と果物を運んできた。酒にはまだ早いだろう、と判断されたらしい。
冷たい水を口に含むと、喉を流れ落ちる感覚が心地よい。だが、その安堵と同時に、胸に小さな違和感が広がる。
――あれ、リオナはもう来ているはずなのに……
視線を店内に巡らせる。確か、この店は彼女の姉が営んでいると聞いていた。なのに、猫人族の姿は見当たらない。リオナも、姉も。
青司は深く息をつき、果物を一口かじった。瑞々しい甘みが舌に広がるが、不安の影は拭えなかった。
――リオナはどこにいるんだろう……
再度、席の並ぶ店内を見渡す。やはり見覚えのある姿はない。背もたれに寄りかかり、青司は落ち着かぬ思いを押し込めるように果物をもう一口かじった。厨房の奥で仕込みを続ける男の姿が、目の端に映る。
視線を正面の扉に戻しながら、青司は小さく息を吐いた。
――そのうち来るはずだ、リオナが。
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ベルド視点
久しぶりに義妹のリオナが顔を出した。
毎週のように顔を見せに来るあいつが、ここしばらく姿を見せなかったから、マリサはずっと気を揉んでいた。森で狩りを生業にしている以上、怪我や病気で戻れないことだってある。だから、扉を開けてリオナが立っていた時のマリサの表情――心底ほっとしたように目を潤ませて笑った顔は、俺の胸にも安堵をもたらした。
マリサがいつもリオナを気にかけているのは当然だ。森で獲物を追って暮らす妹のことが心配で仕方ないのだろう。まあ、それは俺だって同じだ。かわいい妻の妹なんだから、俺だってそれなりに可愛がっている。もちろん、顔を出せば飯は食わせるし、市場より少し高値で肉を買い取るくらいには、だが。
ところが、リオナの姿を見たマリサはふっと首を傾げた。俺もすぐにわかった。
――あの服、リオナのじゃないな。
少し大きすぎる。いや、大きすぎるどころじゃない。肩も裾もぶかぶかで、しかも見覚えのない布地。狩衣でも街で見かけるものでもない。間違いなく男物だ。
マリサの耳がぴくりと動き、目が輝いたかと思うと、次の瞬間にはリオナの腕を取っていた。
「この子の服を買いに行くのよ。見てのとおり、今は借り物みたいだから。ちょっとだけ、いい?」
そう言い放ち、二人は早々に出ていってしまった。まるで風に巻き込まれたみたいに、あっという間だ。
「はは、なるほど。じゃあ今日は姉妹で仲良く行っておいで。店は俺に任せなさい」
なんとか、そう答えるのが精一杯だった。
……まったく、思いついたらすぐに行動に移すあたり、猫人族らしいといえばらしい。夫婦の俺には甘え方だって遠慮がない。まあ、そういうところに惹かれて、俺はマリサと夫婦になったんだがな。
仕方なく、一人で夕方の仕込みを続けていると、扉が開く音がした。
入ってきたのは若い男。まだ二十歳にも届いていないように見える。胸元に光るピンバッジを一目で見て、俺は眉をひそめた。
――商業ギルドか。
腰には小さな革のポーチ、背には軽そうなリュック。歩き方もどこかぎこちなく、この店に入るのも初めてらしい。
「奥の席で、少し待っていてくれ」
そう告げると、大人しく頷いて奥へ向かった。
酒を出すには若すぎるし、汗をかいている様子もない。仕方なく、冷たい水と水気の多いベリーを盆にのせて持っていった。
だが、男は水を口にしながらも、やけに店内をキョロキョロと見回している。
――待ち合わせか?
そう思っていると、不意に顔を上げてきた。
「……ここは、猫人族の女性がやっている店なんですか?」
一瞬、手が止まった。
マリサの知り合いか?それともリオナを知っているのか?
いずれにせよ、初対面のはずだ。見覚えなんてまったくない。
――いったい、こいつは誰なんだ?




